題      名: アドベント2 イエスの系図
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.12.06 - 11:53
アドベント2 イエスの系図   
    マタイ1:1−18

 世の中に、私たちの想像をはるかに越えて、驚きに圧倒されるようなこと、というのはたくさんありますでしょう。マニラの一角に、パヤタスというスラム地区があります。通称、スモ−キーマウンテン。市内から運ばれてくるゴミが30mうずたかく積まれて、煙を発している。周辺に18,000人が、中には大家族が寄り添って住んでいます。ゴミ拾いをすることにより日々の糧を得ています。大人だけでなく、中には毎日12時間も炎天下の中でゴミ拾いをして働き、家計を助けなければいけない子どもたちも大勢います。度肝を抜かれるほど、驚くに違いありません。
 しかし、そこにもう一つ驚くべき光景があります。それは、多く宣教師たちが、中にはそのスラムに拠点を構えて、奉仕をしているということです。母国のゆったりとした、豊かな世界に別れを告げて、またフィリピンの中でも安全な世界に住むことをせず、あえてスラムに居を構える。その姿を見ていたら、おそらく、スラムの光景以上に、私は驚くのではないかと思うのです。
 しかし、そのようにして豊かな世界からどん底へと降ってきた宣教師に驚くとしたら、私たちは、さらに大きな驚きと感動をクリスマスに覚えて当然なのです。なぜなら、主キリストは神であられるのに、神のあり方を捨てることはできないとは考えないで、仕える者の姿を取り、この世界に来られ、しかも人として生まれて、貧しい馬小屋で誕生されたからです。
 聖なる、栄光に輝く、永遠の世界から、限りある、病める、罪深い、争いに満ちた、この世界へと主は降りてこられました。それが、この系図が伝えていることです。2つのことに目を留めたいと思います。

1)こん系図は、人間の罪と嘆きの系図です。
 この系図は、イエス・キリストの由緒正しい家系を示しているのでしょうか。どこの馬の骨かわからない、大工のせがれではなく、たどっていけば、ダビデの家に、アブラハムに行き着くことを教えているのでしょうか。もちろん、それもあります。しかし、それだけではありません。系図に塗られているのは、人の欲望と罪の悲しみです。
 3節に出てくるタマルは、創世記38章を見ますと、彼女の夫は、若くして死んでいます。未亡人となり、夫の弟と結婚しますが、その弟も死んでしまいます。そのまた弟の妻となりますが、彼はタマルを妻として迎えようとしません。タマルは、遊女になりすまして、その弟と行きずりの形で結ばれていきます。タマルは、幸せとは縁のない女性でした。あまり私たちが目にしたくない聖書の箇所です。古来の風習とともに、人生の悲哀がにじみ出ています。
 5節に出てきますラハブの職業は遊女です。ヨシュア率いるイスラエルの人々がエリコの城を落とそうとして、拙攻隊二人を遣わします。彼女は、二人を匿い、契約を結びます。そして彼女は、イスラエルの人々と運命を共にするようになります。しかし言えることは、ラハブはアブラハムの子孫ではありません。そして遊女です。しかし、彼女は神を信じ、やがてボアズを産みます。
 そのボアズと結婚したのが、5節のルツです。イエスラエルの人びとから嫌われたモアブの女です。夫に先立たれ、人生の苦労を背負って、ボアズの畑で落ち穂を拾ってボアズの家に嫁ぐのです。苦労に次ぐ苦労です。
 6節には、ダビデとウリヤの妻と記されています。バテシバと呼ばれずに、ウリヤの妻です。この呼び方の中に、ダビデの罪が描かれています。ダビデは、軍隊を遠い国に送り、自分はエルサレムでのんびり暮らし、ある夕暮れ時、王宮の屋上から一人の女性に目を奪われ、自分のところにつれてきます。その女性に子どもができたことがわかると、夫を戦場から引き戻し、家で妻とゆっくりするように勧めます。しかしウリヤは立派な部下でした。「王様、あなたのために、みんな命をかけています。私だけが家で妻とのんびするわけにはいきません」。ウリヤは、家に戻りませんでした。ダビデは、翌日、彼を戦いの最前線に送り込み殺します。
 9節に「アハズ」が出てきます。ユダの王でありながら、偶像崇拝におぼれ、燃える炎の中を子どもをくぐらせ、国中にほこらを作り、アッシリアの礼拝をまねて、エルサレムの神殿を事実上崩壊させる人物です。
 どういう系図なのでしょう。それは人間の系図です。欲望があり、悲しみがあり、労苦があり、汚れがあり、神に背く系図なのです。主イエス・キリストは、その中にご自身を埋めるように、その中に潜り込むように、この世界に誕生されました。イエスさまは、夫に先だたれ、路頭に迷うタマルと共に立ってくださる。遊女という職業を選択せざるを得なかった、しかしそこからでも神を仰ごうとするラハブを励ましてくださる。
 イエスさまは、ルツを励まして、ボアズの畑に導き、ダビデを見放さず、自分の罪深さに絶望しているダビデの手を引き、不信仰におぼれるアハズの血筋から生まれてくださる。ですから、この方は、23節にあるように「インマヌエル」(神、我らとともにいます)と呼ばれるようになるのです。

2)しかし、主はただ罪と悲しみに染まるこの世界に降りてこられ、共に立ってくださるだけではないのです。18節「聖霊によって……」とあります。イエスさまは、この肉による系図をひっさげて、お生まれになりました。しかし、その誕生は聖霊によるものでした。無から有を作り出し、死者をも生かす聖霊の力です。罪を悟らせ、神の真理へと私たちを導いてくださる聖霊の力です。不安と恐れに満ちたこの世界にあって、平安を与えてくださる聖霊の力です。
 主は21節「ご自分の民をその罪から救ってくださる」とあります。私たちクリスチャンも、肉の家系をひっさげ、肉の家系の中に生き、しかし聖霊による誕生を与えらます。肉の家系に身を浸しつつも、聖霊の力によってこの世界に誕生されたキリストは、私たちをその罪から救ってくださる――それがクリスマスのメッセージです。それは、信仰による、神の言葉を信じる信仰によるのです。
 
 アウグスチヌスという有名な古代のクリスチャンがいます。彼は自分が信仰を持った経緯を「告白」に記しました。そのなかに、こう書かれています。
 「私は、カルタゴにきた。すると私の周り至る所に、はずべき情事の大釜がふつふつと音をたてていた」
  「大釜」とは、「サルタゴ」です。カルタゴという都会は、サルタゴ(大釜)だ、しかも中で煮えくりかえっているのは、悪です。アウグスチヌスが求めたもの――その大釜の中で、恋愛、都会の楽しみ、世俗の楽しみ、学業の業績でした。そしてどんなに教育を受けても、彼のたましいは目覚めることはありませんでした。教育では目覚めることのないたましいです。
 その彼は、キリスト教信仰の正しさを知っていました。お母さんは熱心なクリスチャンでした。しかし、それを信じることを躊躇します。どうしたら信じられるのか――苦悩します。ある意味で、私たちもみな同じ苦悩を背負います。初めて教会に来た人も、クリスチャンホームで育った人も、この世界に神がいらっしゃり、その神は世界を創造されただけでなく、私を創造され、私を愛しておられ、私を救うためにこの世に来られた、とどのように信じることができるのでしょう。 
 イタリアのミラノに滞在していた彼は、ある家で回心の経験をしました。彼は苦悩のまま、庭に座っていました。そのとき、子どもたちが「取れ、読め」と歌う声が聞こえました。そこで彼は読みかけていた聖書の箇所を読んで、イエスさまを信じたのです。
 アウグスチヌスは、こう「告白」のなかで記しています。
  「その声は、私の耳に流れ込み、あなたの真理は私の心に染み渡った。私はこれらのことばを外に読み、内に認めて叫んだ。主よ、ごらんの通り、私の耳はあなたの御前にある。その耳を開いて、『わたしはおまえの救いである』と語ってください。
 それが聖霊によるクリスマスです。私たちは、肉による人間としての、罪深さ、限界、負い目、悩みを持っています。しかし、私たちは聖霊によって新たに生まれるのです。主よ、私に語りかけてください。「わたしはおまえの救いである」と語ってください。悩みのときに、弱いときに、迷いのときに、私に語ってください。御霊によって、私のたましいをあなたに目覚めさせてください。