題      名: 勇敢でありなさい
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.01.20 - 09:55
勇敢でありなさい 
       ヨハネ16:25−33

 昨日、みぞれ交じりの中を、センター試験を受ける学生をニュースで見ました。東京は雪になりませんでした。しかし、地方には深い雪の会場もありましたのでしょう。50万人の学生が受験するのです。ひと言、「勇敢だなあ」と思いましたし、彼らの後ろ姿を見ながら、思わず一人一人に「がんばれ。勇気を出しなさい」と声をかけたくなってしまうのは、私だけではないでしょう。

●勇気を出しなさい

 勇気を振り絞って向かっていく人びとは、冒険家でも、スポーツ選手でも、受験生でも、病人でも、あこがれるのはなぜでしょう。それは、私たちみな、勇気を必要としているからです。若者に勇気が必要ですが、高齢者にも勇気が必要です。家族のことで悩んでいる人、病気の人、失業中の人、受験する人、就職活動をしている人、みな勇気が必要です。先行き不透明な世界で、災害の犠牲になっている世界で、愛する者を失った家庭で、不安に負けない、悪に屈服しない勇気が必要です。昨日の失敗を振り払うために、今日の課題に立ち向かうために、明日の不安を克服するために、勇気が 必要です。どんな辛いときにも、自分を失わずに、自分自身であり続ける勇気、誘惑に打ち勝つ勇気、です。
 「勇敢でありなさい」とイエスさまが、おっしゃる前に、「しかし」という言葉があります。しかし、と言わなければならない、私たちの現実をイエスさまはよくご存じなのです。「あなたがたは、世にあって患難があります」。そして、私たちがその患難に対して決して強くないことを、イエスさまは知っておられるのです。世にあっての患難とはなんでしょう。人間関係、社会情勢、災害、病、人類の苦難です。そうしたことに信仰者も教会もあずからなければなりません。この世界から逃げ出すことはできません。イエスさまは、その苦難を避けないさいとはおっしゃいませんでした。むしろ、厳しい現実を受け止めるように、「患難があります」とその現実を示しておられます。

●勝利者キリスト

 その現実に対して、「しかし」なのです。しかし、勇敢であれ、とおっしゃる根拠はなんでしょう。「わたしはすでに世に勝ったのです」。そこにあるのは、「わたし」とあるように、主イエス・キリストの勝利です。私たちの罪を背負って十字架にかかり、罪と悪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、よみがえられ、天の御座についておられる御方の勝利がすでにあるのです。だから、勇敢でありなさいとおっしゃるのです。つまり、勇敢であるとは、主の勝利にあずかることです。
 主の勝利にどのようにあずかることができるのでしょうか? 私は、2001年の元旦礼拝で、勝利者キリストと題して説教しました。そのとき、Uコリント2:14を開きました。世にあって患難にありながら、主の勝利にあずかると言うことは、患難に満ちたこの世界にあって、主の勝利の凱旋に加わることを言います。私は、その説教の中で、大江健三郎の書いた「チャンピオンの定義」という文章を引用しました。覚えていらっしゃいますか。
 大江さんは、高校一年の頃、お兄さんからコンサイス・オックスフォード・ディクショナリーを買ってもらったそうです。大江さんは、夕食に家族が集まる時間になっても、買ってもらった辞書を読みふけったようです。みんなを待たせて、遅れて食卓にやってきた弟を、兄さんがとりなして言いました。
 「何か面白い言葉を見つけたか」「新しい言葉というのではなく、言葉の説明が面白いやつだ」
  そのとき、大江さんが上げたのが、この辞書による「チャンピオン」ということばの定義でした。
  「ある人のために代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人」
   彼はこう記しています。
 「ぼくはこれまで、チャンピオンという言葉から、大切なことを他の人の代わりにやる役目を思いついたことはなかった。しかし、この説明に何かしっくりするものを感じた。」
 それから40年、兄弟はこのことについて、一言も話したことはなかったそうです。やがて、そのお兄さんが亡くなって、ある人から電話で知らされました。亡くなる直前に、ガンで死の床についているお兄さんに、来世のこと、たましいの救いについて気構えができているか尋ねた人がいるというのです。その時、お兄さんは言いました。「それは弟に聞いてください。あれが私のチャンピオンですから」。あの40年前のチャンピオンの定義を兄さんは、忘れずにずっと覚えていたというのです。代わって戦ってくれる人。代わって論じてくれる人。
 世の患難にもまれながら、私たちには、私たちに代わって罪と戦ってくださった方、私たちに代わって死と戦ってくださったチャンピオンがおられる。私たちの代表戦士、それはイエス・キリスト。キリストこそ勝利者です。私たちのための勝利者です。主が代わって戦い、勝利されました。闇の力から救い出してくださったのです。主は、おっしゃいます。「わたしについて来なさい。わたしを信頼して、わたしについて来なさい。わたしがチャンピオンだ。あなたのために勝利をもぎ取った、いやこれからももぎ取る、チャンピオンだ」。
 勝利者を先頭にして、それに続くということは、主イエスを信じ、その勝利に信頼し、その中に身を置いていることです。

●その日には

 ヨハネの福音書に戻ってください。
 「あなたがたはこの世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい」と教えておられる前に、26節「その日には」と記されています。まさにそういう日です。何をするのでしょうか?
 「わたしの名によって求めるのです」。キリストの名によって、祈るのです。主イエスを信じ、信頼して寄りかかるのです。主は、あなたのチャンピオンです。「勇敢でありなさい」という言葉を、「安心しなさい」と訳している聖書もありますが、恐れることはない、安心しなさい、と主はおっしゃっているのです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし安心しなさい、わたしはすでに世に勝ったのです。
 チャールズ・ディケンズの『二都物語」という、フランス革命の話があります。毎日、革命で処刑される人びとがパリの町を引き回されます。投獄されていた一人の男、シドニー・カートンは、勇敢な男でした。かつて、無法者の生活をし、しかしキリストに立ち返り、たましいの救いを得て、友人のために命を捨てるのです。
 引き回しのとき、彼の隣に少女が立ちました。投獄されたときに知り合いました。少女は、彼の勇気と優しさに気がつきました。少女は言います。「ご一緒させていただけませんか。手を握ってよろしいですか。恐くはありません。でも、私は小さくて弱いのです。勇気を与えてください」。
 そこで二人は、行動を共にします。処刑場に近づいたとき、少女の目からは恐れは消えていました。そして少女は、しっかりとした男の顔を見上げて言います。
 「ありがとう。神さまは、私に力を与えるために、あなたを私のもとに送ってくださったのだと思います」
 主よ、あなたは、私のチャンピオンです。世にあって患難を背負う私に、勇気と勝利を与えてくださる御方です。私は弱くて、小さいのです。あなたの手を握らせてください。