題      名: イエスと出会った人々(9)――ニコデモ
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.07.09 - 12:13
イエスと出会った人々(9)――ニコデモ

 マルコ7:24に、イエスさまという方は、人々から「隠れていることはできなかった」と記されています。それが、イエスさまの根本的なお姿なのでしょう。また、これがご自身の使命でもあります。「隠れることはできません」、それはマタイの福音書5章にも出てくる表現です。「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません」。光は上にかかげれば隠れることができないのです。イエスさまは、「聞く耳あるものは聞きなさい」とおっしゃって、村から村、町から町へめぐって行かれました。わたしは光としてきました。隠れるために来たのではない、 という堂々とした宣言です。
 「隠れることはできません」−−だからといって、パレスチナの人々がすべてイエスさまのところに来たでしょうか。必ずしもそうとは言えません。北のガリラヤで伝道されていながら、南のユダヤ、ヨルダンの向こうと広範囲から人々はやってきます。数千人が一度にイエスさまの元に集まります。しかし、だれが真剣にイエスさまと出会っているでしょうか。その数は決して多くはありません。たとえばあのエリコの近くで、人々はイエスさまを一目見ようと、街道脇に群がって、人垣ができていました。しかし、現実にイエスさまを捕らえた人は、聖書に記されているもので判断すれば、ザーカイだけとなります。ほとんどの人々は、一目は見たものの、好奇心を満たしただけで、イエスさまの救いを体験することはありませんでした。
 これも一つの現実です。多くの人が聖書を読み、聖書に関連した言葉を学びます。教会は隠れることなく、「聞く耳あるものは聞いてください」とのろしを上げます。しかし、本当の意味でキリストと出会う人は少ないのです。しかし、ここにもう一つの現実があることを忘れてはなりません。それは、聖書の中で、真剣にイエスさまを求めて、神の救いと力を求めて、それを得ることに失敗した人は一人もいません。今日、みていただくニコデモもそうでした。

 イエス・キリストの所に夜中、人目を忍んで、こっそり会いに来たのは、ニコデモという人物、彼はユダヤ人の指導者、宗教家でした。彼は、イエスさまの行っている様々な働きを見て、神がイエスさまと共におられることを直感したのです(2節)。
  尋ねた質問は記されていませんが、3節を見るとわかります。それは、どうしたら、神の国を見ることができますか。どうしたら天国へ行けるのでしょうか。それだけではありません。どうしたら神の恵みを受けることができるか。どうしたら、孤独や苦しみ、矛盾や失敗、人の一生にかかわる様々な問題、最後には死を乗りこえて生きていけるか。
  宗教家として、人間の根本的な問題について質問を投げたに違いありません。ユダヤ教は、行いの宗教です。信仰の修行と善行の律法宗教です。彼は指導者として、それをきわめようとして、そこにまた矛盾を見いだしたのです。正しくあろうとすればするほど、正しくない自分を見いだし、愛そうとすればするほど、愛せない自分を見いだしたのです。

1)このとき、ニコデモの返答は、誠実な質問となって出てきます。 4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか」
  彼は、「どのようにして・・・・?」と尋ねたのであって、なぜ、そんなことが必要なんだ、とは言いませんでした。その必要があることを彼は知っていました。このままでは駄目だ、このままでは自分は天国に行くことができない・・・だから、彼はキリストのもとに来たのです。
 問題は、Whyでなくして、Howです。主よ、どうしたら、私は変わるのですか。今のままの自分でいいはずがありません。このままの一生で、かまわないはずがありません。どこかで私は変わりたい。どこかで私は神の国に入りたい。でも、どうやって?  どうやって、新たに生まれよと言うのです?
 イエスさまは、こう答えられました。14ー15節
 モーセが蛇を上げたという話しは、旧約聖書に出てくる、ニコデモもよく知っている出来事です。奴隷のエジプトからせっかく脱出できたイスラエルの人々は、荒野で神さまに不平を言います。彼らの罪の裁きに、神はヘビを送り、それにかまれて死ぬ者、苦しむ者がでました。人々は、自らが罪を犯したことを告白し、モーセに助けを求めます。モーセは神に助けを求め、そのとき神は、モーセに言いました。
  青銅でヘビを作りなさい。それを棒の先につけなさい。ヘビにかまれた人々が、信仰によってそのヘビを見上げるなら、その傷は癒される。青銅の蛇は彼らの罪の象徴でした。悔い改めの心をもって、人々は青銅の蛇を見上げたはずです。
 そのヘビが上げられたように、キリストも上げられるというのです。ヘビが棒の先につけられたように、キリストは十字架に付けられます。エデンの園で、悪魔はヘビに姿を変えて、人を罪にそそのかします。ヘビに姿を変えた悪魔は、私たちにとって呪いでありますが、キリストも私たちの罪の呪いとなって十字架にかかります。私たちが、十字架を見上げるとき、自分の罪の重さを悔いながら、十字架を見つめます。イスラエルの人々がヘビを仰いで癒されたように、私たちもまた、十字架のキリストを仰いで、その罪が癒されるとキリストは宣言されました。  
          
2)十字架のキリストを仰いで、人はそこに何を見るのでしょう。自分の罪深さだけではありません。
   続く3:16が、そのことを物語っています。そこに見るのは、キリストの十字架に描き出された神のお姿です。
 「世を愛された」――神は、愛される方です。世ということばは、大きな言葉。その中には、病める者も、罪人も、小さき者も、貧しい者も、最低の者も、弱き者も、その中に、私も入っているのです。
 「与えるほど」――神は、与える方です。御子イエスキリストを与えられました。そして、ロマ人への手紙には、こうあります。「私たちのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちにくださらないことがありましょう。」
 「救うためである」――そのようにして、神は私たちを救われる方です。神は、あなたを愛し、あなたに与え、あなたを救ってくださる−−これが聖書の教える神です。十字架を見上げるとき、私たちは自分の罪深さだけでなく、愛にあふれ、御子を与え、すべての必要なものを与えて、救ってくださる神を見るのです。

3)では、私たちは、どのように描かれているでしょうか。
   一貫して、一つ、信じる者−−キリストを信じる者です。15節「信じる者がみな……」。16節「御子を信じる者が……」。神の御子、イエスキリストを信じる、その十字架が私の罪のためであったことを信じるのが私たちです。この十字架に、すべての力、すべての恵み、すべてのいやし、すべてのおおもとがあることを信じるのが私たちです。
 イエスさまが、ニコデモに話したとき、その口調は少々挑戦的でした。
 10節「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうこと がわからないのですか」
 ニコデモがわからないのなら、私にわかるはずがない、と思います。しかし、イエスさまのこの挑戦的な言い方は、チャレンジなのです。私にかけてみろ、私にチャレンジして見ろ、といわんばかりに私たちに迫ってきます。

 マックス・ルケードという牧師が、こんな話を記しています。
 彼は、以前ブラジルの宣教師で、宣教師仲間からこんな話を聞きました。アマゾンジャングルの中にすむ部族。彼らは、大きな川のそばに集落を構えていました。集団感染を起こし、毎日のように人が死んでいきます。病院は、川岸の向こう、数キロのところにあるのですが、彼らはその川に悪霊が住むと恐れて、わたろうとしません。川にはいるくらいなら、病気で死んだ方がましだというのです。
 宣教師は、何とか彼らを説き伏せます。川岸に連れて行って、宣教師みずから、手を突っ込んで、顔を洗って、ほら、大丈夫だ、と。それから、水の中に腰まで使って、顔を水の中につっこんで、ほら、大丈夫だと。それでも彼らは信用しません。
 とうとう宣教師は、川を泳いで、しばらくすると潜って、潜水して、向こう岸近くで、彼は再び自ら姿を現します。思いっきり、拳を高く上げて、勝利のポーズで、姿を現します。そうして、部族の男たちは、信じてわたってきたというのです。 
 イエスさまは、永遠のいのちを教えられました。それだけではありません、死んでいた少女に呼びかけて、生き返らせます。「私はよみがえりです。いのちです。私を信じるものは死んでも生きるのです」と教えられました。それだけなく、死んで4日たっていたラザロに呼びかけて、ラザロは墓から出てきます。
 それでも、不十分でした。とうとう、ご自身が死の川に飛び込み、もぐって死の向こう岸へとたどり着きます。よみがえられた主は、疑うトマスにおっしゃいました。「信じないものにならないで、信じるものとなりなさい」。それはトマスにおっしゃっただけではありません。主は、ニコデモにもおっしゃっているのです。私にもおっしゃっているのです。
   「あなたが十字架の上にあげられたわたしを信じるなら、
  あなたは罪赦され、神の国に新たに生まれるのです」