題      名: イエスとの出会い(12)――パウロ 
氏      名: fujimoto
作成日時: 2005.09.28 - 23:33
イエスとの出会い(12)――パウロ     
        Tコリント15:1−

 パウロは、イエスさまの直接の弟子ではありませんでした。彼はガリラヤ育ちではありません。イエスさまが地上で働きをなさっておられるときには、直接の接触はなかったことでしょう。その彼が、自分を「使徒」と呼ぶには特別の理由がありました。
 それは、彼が復活されたイエスさまと直接であって、その主から派遣されたという強烈な意識に立っていたからです。復活の主と出会うという経験はあまりにも強烈で、使徒の働きの中で、それは記述として1回、彼の証言として他に2回、合計3回、全く同じ出来事がかなり詳しく記されています。
 今朝は、イエスさまと出会うパウロから学びます。

1)聖書にパウロがいちばん最初に登場するのが使徒の働きの7:58です。そこに「パウロという青年」が出てきます。ステパノが、殉教する場面に登場します。主イエスが十字架にかかって、しばらくの後、ステパノは「信仰と聖霊に満ち」「恵みと力とに満ちた」人として、教会に立てられました。その彼は、まもなくユダヤ教の議会に引きずり出され、そこでキリスト教会初めての殉教者となります。議場でステパノの言葉を聞いて、激怒した人びとが、彼を外に引きずり出して、石打の刑に処します。 
  人びとは、石を投げる前に、上着を脱いで、それを青年サウロの足元に預けました。サウロは、上着の番をしながら、処刑の様子を見ていたことでしょう。ゴツゴツした小振りに岩や硬い石が、一斉に投げられます。ステパノの額に当たり、胸に当たり、鈍い音がします。顔がつぶされ、血が流され、石打つ者の罵りと共に、ステパノの悲鳴が、うめきが聞こえてきます。おそらく、青年パウロにとって、死刑を見、それに立会い、実際にその残酷さにふれたのは初めてだったに違いありません。ステパノの血が彼の脳裏に焼き付きます。
 さらに深く彼の脳裏に焼き付いたのは、殉教するステパノの姿だったかも知れません。
 59ー60節「ステパノは主を呼んで、こういった。『主イエスよ。私の霊をお受けください』。そしてひざまずいて、大声で叫んでいった。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください』
 それは、イエス・キリストのような清らかさ、平安、愛でした。明らかに彼の無罪をたたえ、殺した側の醜さを浮き彫りにしていました。もしかしたら、この殺した者たちの残酷さ、ステパノの輝く顔と平安に満ちた祈りは、若いパウロの心に、なんとも言えない矛盾を作り上げたかもしれません。心がしっくり来ません。そして、彼は、処刑した者にも、その着物を預かっていた自分にも、人間の醜さを見たに違いないのです。
 彼は、その矛盾を、自分の内側にある自分に対する怒りをどうするでしょうか。外に向けます。パウロはクリスチャンを迫害する者となって、教会に押し入り、クリスチャンの家に押し入り、男女の区別なく、当然大人・子供の区別なく、手あたり次第引きずり出し、牢にいれ、鞭で打ちます。
 26:10「彼らが殺されるときには、それに賛成の     票を投じました。」
 よくわかりません。心理学の世界で言う、自己投影でしょうか。自分にわだかまりを感じ、自分に怒り、それを自分のなかで消化しないで、外にぶつけます。自分は絶対に正しい。自分は絶対に間違っていない。そう言いながら、彼は自分の矛盾を拡大して行く。はじめは、エルサレムで迫害し、その手を広げて、今では北のダマスコ一帯でも、クリスチャンを見つけ次第縛り上げていきます。

2)しかし、26:13、「その途中」と始まります。
 自分の道を、今までどおり進んで行き、目的地であるダマスコのそばにようやくたどりついたとき、突然、復活の主が彼の行く手をふさぎます。人生の「突然」です。今まで、彼の人生には一度も声をかけたことのなかった主が、突然、彼の前方に現われた。今まで邪魔する以外は、自分とは無関係と思っていたキリストが、その日彼の前に立ちはだかったのです。
 私たちは、救われるとき、突然主の前に来るのではないでしょうか。誘われていたかも知れません。しかし、自分とは無関係な世界だと思ってきた。しかし、突然教会に足が向くのです。それは輝かしい出会いでした。13節の「光」です。主は、この殺意にあふれた男に光を当てられました。彼の暗い内側をめぐり照らした。
 そして、彼のたましいに語りかけられます。「サウロ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか。とげのついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」
 パウロの人生の誤った方向性を諭すように、その矛盾にもがく彼の心をいたわるように、主はおっしゃったのです。あなたの人生は、とげのついた棒を蹴るようなものだ。なんと多くの人が、自分のうちにくすぶる不安を、回りに八つ当りしながら、ごまかしていくでしょうか。なんと多くの人が、神を敵に回し、それでも勝っているつもりで、大手を振って行進して行きます。時々、パウロの良心も痛むのです。しかし、それを押しつぶすかのように彼は突っ走ってきました。
 ハリケーンの被害にあったアメリカのミッシッシッピー。南部の南部(湿地帯で、いたるところで川が蛇行)です。名産は、なまず(cat fish)。そこで、こんな話を聞きました。
 ある日の夕方、警官がパトカーで道を走っていると、近所の男の子二人が、釣り竿を背に道ばたを歩いているのが見えました。実話です。
 「おい、釣れたか」
 「釣れた。すごいよ」
 男の子は、ビクいっぱいの魚を見せました。
 「どこでこんなに釣れた」
 「あそこのポイント」
 「いや、おじさんもよく行くんだけど、こんなに釣れたことないよ。餌は何を使ったんだ」
 「これだよ」
  と見せてくれた手を見て、警官はあわてて男の子をパトカーに乗せて、病院へ直行しました。 
 見せてくれた手は、真っ青に腫れ上がって、そして男の子の小さな手が掴んでいたのは、毒へびのあかちゃん。この二人は、家の納屋の床から、ミミズのように小さな毒蛇のこどもを捕まえて、それを餌につりをしていた。餌を釣り針に引っかける度に、威勢のいい餌にちっくと噛まれる
 「いって、いってー」
   しかし、釣れるんです。おもしろいんです。そのおもしろさに比べれば、そのときのチックとした痛みは、大したことないのです。
 警官が病院に連れていった頃には、呼吸困難で、二人の男の子は、病院で亡くなりました。ほしいままに生きるのは、その時は満足でしょう。そのときは、自由に生きているように思えるでしょう。良心がちくりとしても、少々ちくりときても、楽しければそれでいい。しかし、大きな代償となって帰ってくるというのです。
 「神さまを否定して、自分の思いのままに生きる」――あなたが、これでいいと思った生き方、それはわたしを退け、わたしの愛を踏みにじり、あなたは、主であるわたしと戦っているのです。それは、絶対に勝てない戦いどころか、矛盾は拡大する一方だよ。不安は高まる一方だよ。とげのついた棒を蹴飛ばして、痛くはないのか。復活のイエスさまは、それをパウロに諭されました。

3)最後に、最初に開いていただきましたTコリント15:8−9節で、パウロはこのイエスさまとの出会いを説明しているのですが、ここから大切な言葉を取り出して、注目したいと思います。
 それが、8節「月足らずで生まれた者と同様な私にも……」ということばです。いつか、イエスさまと取税人ザーカイの出会いで学びました。イエスさまはあの嫌われ者のザーカイを、「この人もまた、アブラハムの子孫なのだから、神の子どもなどだから」とおっしゃいました。「この人もまた」、そしてパウロは「私にも……」
 この小さな表現の中に、キリストの愛がすべて込められていると言っても過言ではないでしょう。教会を迫害し、多くの人を死におとしめていた、この私にさえも、主は現れてくださった。その言葉には、申し訳なさが込められているでしょう。しかし、それ以上に、感動と感謝と喜びが込められているのです。そして、この言葉の中には、すべての人への希望があります。パウロに現れた主イエスは、あなたにも私にもまた現れてくださる。