題      名: 聖餐式 ユダも招かれ
氏      名: fujimoto
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作成日時: 2005.10.13 - 22:44
聖餐式 ユダも招かれ          
   マタイ26:17−25

 今日、私たちがあずかろうとしている聖餐の恵みは、いうまでもなく、イエスさまが十字架にかかられる前の晩、弟子たちと共に食された、最後の晩餐の食事なのです。それは、当時のユダヤの暦では、過越の祭りの食事に該当します。(17節)
 最後の晩餐が、過越の食事であったことに、聖餐の恵みがよく現れています。イスラエルの民が奴隷とされ苦しめられていたエジプトから、モーセに率いられて脱出した時に、なかなか行かせようとしないエジプトに対して、神さまはついに死の裁きを与えます。神の御使いが、エジプト人の家の全ての初子、即ち長男を、人も家畜もすべてのいのちを奪われます。そのとき、イスラエルの民の家では、小羊が犠牲として殺され、その血が戸口に塗られた、その血が目印となって、神の使いはその家を何もせずに通り過ぎた、過ぎ越したのです。
 過越の祭りは、まさにこの恵みを記念として祝う祭りです。その祭りのメインイベントは、食事です。過越の小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られ、その肉を家族みんなで食べる過越の食事が行われるのです。
 17節には「種なしパンの祝い」」とあります。これも過越の祭りと一緒に祝われるもので、過越の食事において、酵母を入れないで焼いたパンを食べるということです。イスラエルがエジプトを出た日に、急いで出発しなければならなかったために、パン生地に酵母を入れて発酵させている暇がなかったからです。そのことを記念して、過越祭においては、酵母を除いたパンを食べる「種なしパンの祝い」も共に祝われるのです。私たちも食べます、「ピタパン」は、まさにイスラエルの酵母菌の入っていないパンです。
 さて、この最後の晩餐の出来事ですが、それはさまざまな聖画に描かれています。フィクション「ダビンチコード」で有名になりました、ダビンチの「最後の晩餐」が一番有名でしょうか。画家によって描き方は様々です。食事の喜びと、ゆったりとした雰囲気が描いたもの。またダビンチのように、何とも言えない緊張の場面を描いたもの。画家によって描き方が様々なのは、まず4つの福音書によって描き方が様々だからです。ルカの福音書は、食事の喜び。ヨハネの福音書は、残していく弟子たちを愛し抜くイエスさまの姿。そしてマタイの福音書が、独特な緊張です。
 なぜなら、マタイの福音書は、ユダの裏切りを最後の晩餐の真ん中に持ってくるからです。最後の晩餐の大半が、「裏切りの予告」でしめられています。21〜25節。そして、今朝は、このテーマにそって、マタイの独特な表現に注目して3つの点からみたいと思います。

1)「一二弟子の一人」(14節)
 マタイはこの表現にこだわります。47節にも出てきます。何を読み取ることができるでしょうか。ユダが十二人の弟子の一人だったのに、その彼が裏切った、それだけに彼の罪はだけに彼の罪は重い、ということを語るためだ、ということもできるでしょう。
 しかし、角度を変えればそうではありません。20、21節を読んでみます。「夕方になって、イエスは一二弟子といっしょに食卓につかれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。『まことにあなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりがわたしを裏切ります」。
  あなたがたのうちひとりが、というとき、それはユダに対して語られたのではなく、12人全員に対しておっしゃいました。「あなたがたのうちの一人」は、彼らの中の誰でもあり得るのです。ですから、それを聞いた弟子たちは22節、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言ったのです。
  みんな動揺しました。そして、「まさかわたしのことでは」、これは、否定の答えを期待して語られる問いです。「主よ、それはまさか私のことではないですよね。そうではないと言って下さい」、そういう思いを弟子たちの誰もが抱いたのです。いいですか。このとき誰も、ユダを指差して、「先生を裏切るとしたら、こいつですね」と言った人はいなかったのです。つまりユダは弟子たちの中で問題児だったわけではありません。また他の11人とて、人ごととして聞き流していないのです。
 聖書が、ユダを「十二人の一人」と言っているのは、「それはあなたのことかもしれない」と語っているように思えてきます。

2)34節「人の子を裏切るような人間は呪われます。そういう人は生まれなかった方が良かったのです」
 新共同訳聖書では、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と訳されています。厳しい言葉です。イエスさまがおっしゃった最も厳しい、厳粛な言葉です。だから、キリスト教会が考える罪の中で、最も深刻な者は「背教の罪」だと言われるのです。
 私たちも、しばしば、主イエスを裏切るような、もういらないと引き渡してしまうような罪を犯すと申しました。現実にそうです。しかし、その私たちの罪は、決して、大したことのない、どうでもよい罪ではないのです。何故ならばそれは、神様が私たちのために遣わし与えて下さった独り子を、その愛といのちをいらないと言って捨ててしまうことだからです。
 この「呪われる」とか「不幸だ」という言い方は、この福音書の11章、18章、23章にもありました。それらの箇所では、「ああ」とか「おお」と訳されています。11:20「ああコラジン、ああベッサイダ」。嘆き悲しみを現す言葉です。
 イエスさまは、ここで、ご自分を裏切る者のことを呪っておられるのではなくて、むしろその人のことを嘆いておられる、悲しんでおられるのです。せっかく神様が与えて下さった命、最大の賜物をいらないと言って引き渡してしまう、主イエスと結ばれていた手を離してしまう――それはなんと悲しいことか、その人にとって不幸なことか、ということです。
 主イエスの、イスカリオテのユダを見つめるまなざしは、そのような悲しみのまなざしなのです。そしてそれは、主イエスが私たち一人一人を見つめておられるまなざしでもあります。ユダがイエスさまを裏切る結果となったのは、主が自分の思い描ている、思い通りの行動を取らなかったからです。
 彼は、イエスさまにローマ帝国の植民地支配から解放してくれる革命家を期待していたのです。ところが、イエスさまはローマ帝国を相手にされず、もっぱらエルサレムの神殿、宗教家を批判されます。失望です。だから、イエスさまなど、いらないのです。
 私たちも、ユダと同じように、自分の思い通りにならないなら主イエスなどもういらないと言って、引き渡してしまう、手を離してしまう心を持っているとしたら、そういう私たちを主イエスは、悲しみと嘆きをもって見つめておられます。
 そして大事なことは、主イエスがそのようなまなざしでユダを見つめつつ、彼をどこまでも「十二人の一人」として、過越の食事に招き、彼と共に食卓に着いておられるということです。
 この後で、ユダは聖餐にあずかります。それは、主イエスが、ユダを、そして私たちを罪をかかえていても、決して見捨てることなく待っていて下さる、招いていて下さるというでしょう。

3)25節「ユダが答えていった。『先生、まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ』と言われた」
 最後のところは訳すのが難しいです。文字通りに訳せば「あなたは言う」と訳すしかない言葉です。しかしここでの主イエスのお気持ちは分かるような気がします。「あなたが私を裏切って引き渡すのか、そうでないのか、それは、私が言うことではない、あなたが言うことだ」ということです。つまり、それはあなたが自分で決めることだ。あなたはどうするのか。
 自分の思いや期待とは違うというつまずきを乗り越えて、私に従って来るのか、それとも、イエスなどもういらないと私を捨て、引き渡すのか。あなたはそれを自分で決めなければならない。そして私は、今でもあなたを弟子の一人として、信仰者として招いている、待っている」。
 私は、聖餐式が厳粛なのは、こういうところではないかと思うのです。それは、招かれる、祝される、と同時に、問いかけられるということです。主イエスはこのように、今、私たちにも語りかけておられるのです。そして聖餐に望むとき、私たちの答えは明確です。
 それは、あのペテロの告白です。
 ヨハネ6:67−68「そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』
 6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
 6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」――最後の69節は、私たちの言葉で置き換えます。
 「私たちは、主よ、あなたが私を愛し、私のためにご自身のいのちを捨ててくださったことを信じ、また知っています」――ですから、どうか、私をあなたの食卓に侍らせてください。地上においても、天においても。