題 名: 10/12伝道礼拝:もし知っていたら ヨハネ4:1〜15 |
氏 名: T・Y |
作成日時: 2014.10.15 - 18:40 |
☆聖書箇所 ヨハネ4:1〜15 1イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、 2――イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが―― 3主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 4しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。 5それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。 7ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 9そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである―― 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 11彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 12あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 15女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 ☆説教 もし知っていたら 今日はペテロの手紙を一度離れてみようと思いまして、ヨハネの福音書のサマリヤの女とイエス・キリストの出会いに目を留めていただきたいと考えました。 人は様々な形でキリストと出会います。 どういう形で出会うかは、私たちそれぞれ違います。 またどういう風にして、その信仰が保たれてきたのかも違いますでしょう。 それをぜひ「信仰者の自己紹介」として(現在高津教会で集めている礼拝に集う方々の)証しで残していただきたいと思います。 もう天に召されましたけれども、日本のキリスト教文学の巨匠、三浦綾子さん(がいます)。 三浦綾子さんはキリスト教と出会ったのは1948年、昭和23年の秋であったと、ご本人が文章に残しています(***「聖書に見る人間の罪―暗黒に光を求めて」のまえがき)。 それは当時彼女が結核の療養中、Hという学生と結核の療養所で出会ったことに始まります。 この男性は、短歌を読み、詩を創り、小説を読むという、ま、当時のいわゆる文学青年だったと(言う)。 ある日三浦さんは、この青年の病室に入って並んでいた本をざっと見ますと、あ、三木清の著作があるなと。 色んな著作の中に、白いガーゼに包まれた分厚い本があった。 三浦さんの文章では―― ガーゼは純白であった。「それ、何の本?」いぶかしげに問うわたしに、彼はちょっとはにかんで、「聖書です」と言った。 その途端、わたしは戦慄に似たものを感じた。単なる文学青年と思っていた彼を見直す思いであった。白いガーゼに包まれていた聖書は、他の本とまったく違うことを示していた。彼は三木清に傾倒していたが、その「人生論ノート」は、ガーゼに包まれてはいなかった。彼の胸の中にしめる聖書の位置をわたしは知った。聖書を聖なる書物として、敬虔に扱っていた。その一言に脱帽した。 人間には、そういうものがあっていい。貴ぶべきものがあっていい。当時、わたしは懐疑的で虚無的な生活をしていた。何ものをも信ぜず、何ものをも拒否する姿勢で生きていた。そんなわたしではあったが、彼の、聖書を包んだ白さに心を打たれた。 彼の聖書を包んでいた白さに心を打たれた――こうして、懐疑的で虚無的に生きていた三浦さんは聖書と出会う、というよりは、キリストと出会うんですね。 ヨハネの福音書の4章に記されているのは、同じように懐疑的で虚無的であったに違いない、昼の12時に井戸に水を汲みに来る女性です。 井戸に水を汲みに来るというのはもちろん、朝早くするか、あるいは夕方するかですが、この女性は他の人たちと顔を合わたくなかった。 12時ごろ行ってみますと、なんとそこに人がいる。しかもその人は男性でありました。 男性と女性がそういう風に井戸端で顔を合わせることは絶対にない当時の社会にあって、 しかも彼女を見るなり、話しかけて来る。 「わたしに水を飲ませてください」 (彼女は)目を真ん丸にして答えます。 9節を見てください。 9そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである―― というのは、ものすごく時代的な背景を示しています。 ユダヤ人とサマリヤ人とどう違うのか?ま、簡単です。 ダビデの後に、3代目のソロモンの王の時代、イスラエルの国は非常に栄えていました。 でもソロモンは沢山の妻、そばめをかかえ、その妻、そばめたちが偶像を持ち込み、そしてやがてソロモンが死んだ後に、国は分裂します、北と南に。 北の十部族、それを北のイスラエルと呼びますし、南の二部族を、南のユダの国と呼びます。 南の二部族はありがたいことにエルサレムがありました。そこにダビデの神殿があります。 ところが北のイスラエルには神殿がなかった。 そこでクーデターを起こしたヤロブアムが、北の王国の一番上ダンと一番下ベエル・シェバ二つに神殿を造り、金の子牛を据えて独特な宗教を展開します。 北のイスラエルで活躍した預言者の中にはエリヤやエリシャもいました。 でもだんだん国は傾き、南のユダよりも早くアッシリヤによって滅ぼされていくのが、北の十部族です。 南はバビロンによって滅ぼされました。 アッシリヤの方策は、植民地のいろんな人々をこの北の王国に住まわせて雑婚させてしまう。 そして純粋にイスラエルとしての血を消してしまうという方策がアッシリヤの帝国の方策でありました。 一番最初はダンとベエル・シェバにそれなりの神殿があり、やがてオムリという王様の時代に、エルサレムに代わるサマリヤという山の上に都をつくります。 そこで北の王国はサマリヤに首都を持ち、なおかつ雑婚によってイスラエル十部族の血筋を失い、サマリヤ人と呼ばれるようになります。 そもそもは兄弟民族でありましたけれども、民族の純血性を保つユダヤ民族と、サマリヤ民族の間に大変大きな亀裂が生まれます。 そして全く交わりをしなくなる。 北に旅するときにはあえて迂回し、サマリヤを通らない。 それほどの犬猿の仲になってしまった中、イエスさまはサマリヤを訪れ、サマリヤの井戸端に座り、そしてサマリヤの女に水を飲ませてくれる、ということはいったいどういうことなんだ? 10節を見てください。この10節は一緒に読んでみたいと思います。 (ヨハネ)4章の10節です。 10イエスは答えて言われた「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。 もしあなたが知っていたなら、というのが2回出てきます。 私たちが大和先生を招いて特別な集会をしたいというのは、イエス・キリストを知らない限り、聖書を知らない限り、神の救いはその人に及ぶことはない、と私たちは考えているから、新たな人にも教会に気軽に来ていただくように、コンサートをし、講演会をし、また横田早紀江さんの本を渡すんですよね。 それはその人がキリストに出会う事が出来るように、キリストが与える賜物が何であるかを知る事が出来るように、もしあなたが知っていたら、あなたの人生は変わる。 簡単に3つのポイントで話をしますが、先ず第一に―― 1)誰もが知っていたことというのがある。 誰もが知っていたことというのは、16〜18節に書いてありますが、ちょっと私の方で読んでいきますね。 16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 18あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」 結婚に恵まれていなかったという問題ではちょっとないと思います。 三回ぐらいでやめとくと思います(笑)。それを五回というのは、ないと思います。 ま、歴史家が言うには、そういう商売をしていた女性であったのではないか、と一般的に考えていますが。 一言で言えば、この小さなスカルという町で彼女のことを知らない人は一人もいなかった。 昼間町を歩くにはかなりの苦痛が必要であった。 一言で言えば可哀想な人生の人、幸せの薄い人、あるいは人によっては軽蔑する人、ともかく誰もが彼女の人生のそういう部分を知っていた。 彼女の過去を知っていた。彼女の現在を知っていた。それがすべての人が知っている所です。 でも二番目に言うならば―― 2)この女性とイエスさまだけが知っていたことがあります。 それはこの女性にしてみれば、自分だけが知っていることで、まさかここにいるイエスという男性が知っているとは思いませんでした。 それはいったい何か?――それは自分の人生に満足していなかったということですね。 五回結婚して今六番目の男性と一緒にいる、この波乱万丈な人生は自分の生き方であって、それぞれの出会いにそれぞれの幸せがあって、自分は楽しく生きているんだとは、彼女はおおよそ思っていなかったでしょう。 物は持っていたかもしれない。お金は貢がせたかもしれない。 でもいつも不安で、恐れて、満足はなかった。 ちょっと27節を見ていただきたいと思うのですが―― 27このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。 弟子たちは一旦はスカルの町に入りますが、改めて戻って来た時に愕然として、明らかに特殊な職業の女性ではないか、なぜイエスさまは、何のためにこの女と話しているのだろうかと(思ったはずです)。 弟子たちには心の中を見ることはできないですね。 しかし人間というのは、姿恰好でわかるわけはない。 この派手な洋服と外れた人生の下に、どんな寂しさがあるのか? 以前五人の男性を渡り歩いて、しかも今は六人目でそれでも満たされない人生の渇き、寂しさ、不満、不幸、その空っぽの器を満たす水があるんだ、ということをイエスさまは仰ったんですね。 もしもこんな水があることを知っていたなら、もしもその水を与えてくださるお方がそこに立っているキリストだということを知っていたなら、自分から飛びついてそれを願ったに違いない、とイエスさまは仰る。 でも彼女は知らない。知らないですね。 この女性がイエスさまが知っていたことにたどり着くためには、この女性自身が知らなければならないことがあるんですが、先ず第一番目に―― @いったいイエスさまが誰なのかを知らなければならない もう一回10節に戻ってください。10節に―― 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、…… この方が誰であるのかを知っていたならば、あなたの人生は変わるというのは、私たちの生涯的な課題です。 教会に来て初めてかもしれない、1年目かもしれない、30年間イエスさまとともに歩いていたと思うかもしれない。 でもいつでも私たちは、新たに、新鮮な思いでイエス・キリストを知る。 自分の人生の課題にぶつかる度に、ああ、この方がいったい誰であるのかを知っていたならば、私の不安は消えるのに、私はいまだにこの方がいったい誰であるのか、このお方の愛の深さ、広さが私にはわからない。 井戸端での出来事です。 でもこの場でさえ、イエスさまは徐々にこの女性を正しい方向に、話を向けて行かれます。 この女性の理解を深めていかれる姿は、私(藤本牧師)は大変興味深いと思います。 つまり、最初の出会いは出発点、でも出発点だけではなく……(マイナス評価から始まる出発点と仰りたいのでしょうか?T・Y) ちょっとごめんなさい、9節から見ていきたいと思いますが―― 9そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に…… という時にはもちろんサマリヤの彼女からすれば、偏見を込めた言い方ですよね――あなたはユダヤ人なのにと。 それは私たちもよく言いますよね――イエスさまって何者? ユダヤ人。あ、ユダヤ人なんだ。 ま、日本人は割とユダヤ人と関係はいいと思いますが、国によっては軽蔑されて呼ばれる所もありますよね。 でも11節を見て――彼女は言った「先生。」ですよ。 ほんの数分前には、あなたはただのユダヤ人の男だったのが、これ、先生というのは、ラビですよね。ユダヤ教のラビ(先生)ですね。 すると、この方が非常に宗教的な存在なのだということに理解が深まりますよね。 言うなれば、マイナス10の評価から0の評価に戻った。 そして19節を見てください――彼女は言った。「先生。あなたは預言者だと思う」 これはプラス50です(笑)。 マイナス10から先生になって、それから預言者、ずっと後ろを見ていただいて、29節―― 29「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」 メシヤ・救い主なのでしょうか? 更に42節を見てください。42節、彼女がスカルの町に行ってイエスさまのことを話すんですけれども―― 42そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」 ここまで行くんですよ、わずか一日の間に。 ですから私たちはね、人生の様々な出来事が出てくる度に、あたかもイエス・キリストに今日初めて会ったかのように出会う、ということが多々ある。 忙しさの中で、不安の中で、自分の頑固さの中で、いつまでたってもまだわからないのか。 そりゃ解らないことは沢山ありますね。 わかってても、わかってないこともありますし、(??イエスさまの御心や与えてくださる賜物やご計画のような神さまが啓示されることによってしか知ることのできない真理を仰っているのでしょうか?T・Y) だけどイエスさまは必ず導いて下さる。 マイナス10から先生となり、やがてメシヤとなり、やがて本当に世の救い主となる、という所までこの女性の理解は進んでいくんですよ。 だいたい軽蔑から始まるでしょう、イエス・キリストを紹介すれば。 でもその壁を越えて、マイナス10をせめて0に戻すように、私たちは教会でコンサートを開いて、教会ってマイナス10じゃないですよ、皆さんの頭の中でせめてプラス30位の存在になれるんじゃないですかって、クリスマスのときにはキャンドルサービスに来ていただいてと、いろ〜んな機会で私たちはこの方を知っていただきたい。 かつて自分もイエス・キリストを知らなかった。でも今はイエス・キリストと出会って、今度はイエス・キリストを知らせたいという思いでいっぱいですよね。 10節にもう一つ、こういう言葉が出てまいります。 A神の賜物を知る 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り……なら、……」 もう一つ知るべきことは、イエスさまが何を与えようとしているのか、ですね。 これはこういう風に考えたらわかりますね。 彼女は六人の男性と出会って、いったい何を求めていたのか?――人並みの幸せだろうと思いますよ。 あるいは少しそこから度が過ぎて、お金持ちであれば、いい家に住み、沢山のしもべを雇い、という少し豪勢な生活を考えていたのかもしれない。 だけど彼女は基本、自分の幸せはこの世界から来る、この世のものから来る。 もしかしたら彼女は愛を求めていたのかもしれない。 でも求める度にいつもその愛には何か紐がくっついていた。そして純粋な愛というものを彼女は味わったことがない。 と言えば、ここにいる女性は私たちと何ら変わりがないですね。 もしあなたが神が与える賜物を知るなら、せめてあなたがこの地上を去るその日に至るまでに知る事ができたならば、不安の中に死を迎えることはない。 でももっと前にあなたがイエス・キリストと出会ったならば――旧約聖書の伝道者の書に―― 伝道者の書12:1 1あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。 あなたの青春の日々にあなたの創造主を覚えよ。その後が興味深いですね。 もう自分に残りの日がわずかだと言う前に。 年老いて救われるのもいいことですし、最後病床で洗礼を受けて救いにあずかることもいいことですし、でもそれはあくまで天国への切符を手にするだけでしょう。 でも(あなたが若い日に創造者を覚えたなら、) あなたが地上に於いて与えられている人生は神から与えられたもので、 もっと生きることの喜びを存分に感じながら、 神の愛と祝福を手にしてこの世を生き抜くことができるのに、 神によって守られて生きることができるのに、 神によって力を授けられ試練を超えていく事が出来るのに、 ああ、年老いて自分に残された日がわずかだと言う前に、あなたの創造主を知る事が出来たならどんなにすばらしいことか、と伝道者の書は言うわけです。 自分の仕事の成功失敗に振り回されている私も、 もし私がそんな成績にかかわらず私を愛してくださる神の愛を知っていたら、 私の人生は変わるんです。 いま突き当たっている壁の先が全く見えない。そして不安に翻弄されている私が、 もし、私に先立って山を崩し、道を開いて行かれる神の力が、愛のゆえに保障されているということを知っていたなら、 私の明日を見る目は変わるんです。 すると、私たちはそういう局面に立たされるたびに、私たちは本当にイエス・キリストを知っているんだろうか?――知っているんですよ。 そしてもしイエスさまに心を開くなら、イエスさまはマイナス30からでもプラス100へと私たちの理解を必ず持っていってくださる。 そうしますとね、最初に話したことは、ポイントの最初は―― 1)この女性とイエスさまだけでなく、町のみんなが知っていることがある――この女性が罪深い人生を送って来たということですね。 2)この女性にしてみれば、自分だけが知っている。でもイエスさまも知っていたことがある――この女性が自分の人生に満足していない。いつでも何かを求めては渇いている。 3)この女性は知らない、でもイエスさまだけが知っているということがある――それが3番目で―― わたしがあなたに生ける水を与えたならば、あなたはそこから汲めど汲めど尽きぬ生ける水を汲み上げることができる。 その試練を乗り越え、その壁を突き抜け、その不甲斐なさを支えてくださる神の愛を知る事ができる。 地上の生涯がどんなに矛盾に満ちていても、どんなにうまくいかなくても、それが神の御手の中にあり、あなたは必ず神の御国にたどり着くということを、その賜物をイエスさまはあなたに与えることができる、というのはイエスさましか知らない。 彼女はそんな思いでイエスさまに近づいてないですね。 神が与えてくださる可能性というのは、実は神しか知らないんです。 私たちはそれを真じるだけ。 信じなければ、神さまが私たちのために与えてくださる明日はわからない。 でも必ず神さまは私たちに、力ある明日を与えてくださる、神さまの賜物を信じるならば、私たちは明日にまた踏み出すことができるんです。 明日がどんな明日であるかはイエスさましか知らない。 でも、イエスさまはその明日を生きる力を必ず私たちに与えてくださる。 人間というのは、幸福になるために何でもするもんですよ。 志望校一つ決めたら、その志望校に向けてこんなに子どもって勉強するのかなぁって、ま、勉強しない子どももいると思いますけれども(笑)。 でも、この学校に行きたいがために、自分のもてる時間と能力をあれだけ注ぎ込むんでしょう? 不思議ですよね。その会社に入りたいがために延々と会社回りをして頭を下げ、そして取り組むんでしょう? 人は何かを手にしたいがために、あれほどの努力をする。 それなのに、手にしたものがそんなに空しかったら、一体何のために努力をするのかということを、あなたはやがて人生の終わりになって、ふと思うかもしれないよ。 若い日にあなたの創造主を覚え、そして、自分を造られた方は自分を愛しておられ、自分を罪から贖ってくださり、死の縄目から解き放ってくださり、私とともに歩み、私をすべての危険から守り、私に試練を突破する力を与えてくださる。 私を練って、練って、私をご自身の御心に適う姿に変えてくださる、その神の賜物を信じなさい。 三浦綾子さんは、先ほどの文章の後半でこういう風に書いています。それを読んで終わりにします。 (「道ありき」――自分がイエスさまを信じた道のりを小説にしている。) わたしは、人間はそう簡単に過去の自分と縁を切ることのできない存在だと、つくづく思った。たとえ自分では一切の過去を断ち切ったと思うことはできても、自分が生きて為してきたすべての行動は、決して消すことのできないもののように、あらためてわたしは感じた。 ――サマリヤの女もそうですよね、消す事が出来ない、と藤本牧師―― (たとえ、私が死んでも、私がしたことだけは、私のでたらめな生き方だけは、この世にとどまっているのではないだろうか) そしてわたしは、ベットの上にすわり聖書を開いた。病室は三人部屋で、わたしのベットは一番廊下側にあった。他の二人は、もう静かに眠っていた。聖書を開くと、次の言葉が目に入った。 「天地は過ぎゆかん。されどわが言葉は過ぎゆくことなし」 ――先ほどのイザヤ書(40:8)、マタイの福音書(24:35)にも出てきますねと藤本牧師―― 偶然の一致であろうか。わたしはいま自分が考えていたことと、余りにも共通している言葉に驚いた。この世のすべてが過ぎゆき、そして亡び去ったとしても、イエス・キリストの言葉は永遠に亡びないと、ここに聖書は言っている。 (イエスの言葉が亡びないということは、いったいどういうことだろう) わたしの細い指は、その聖句の上にとどまってじっと離れなかった。わたしは思った。つまり、イエスの言葉が亡びないということは、その言葉が世にある限り、わたしのみにくさもまた、そこにとどまっているように思われた。イエスが許すと言えば、わたしの罪は許されるであろう。しかし、もし、許さないと言われるならば、わたしの罪も永遠にそこに消えることはないであろう。 「天地は過ぎゆかん。されどわが言葉は過ぎゆくことなし」 わたしはくり返しつぶやいた。 やがて三浦さんは、自分がしたことをすべて神の御前に忘れ去っていただくために、イエス・キリストの十字架を信じるんですね。 そして全く新しい人生を踏み出していく。 そして自分の生きていくことの目的を、神の栄光を現すためにという一つの焦点に凝縮していくんです。 私たちはその道を右に左にいくらでもそれます。それて様々な成功も修めます。 でも、また、どこかでもう一度一つの焦点にもどる。 そして自分の人生を振り返ったときに、あんなこともこんなこともあった。 でも「すべてが神の栄光を現すために、主が私を用いてくださったんだ」という思いに行きつきたい。 そのようにして、複雑で悲しみも喜びも沢山あった自分の人生を閉じたい、と願っているんですよ。 だから礼拝に来るんですね。 イエスさまがサマリヤの女に、(ご自身の存在を)「単なるユダヤ人」からやがて町の人々が「もうあなたの証言は要らない。私たち自身がわかった。この方こそ、この世界の永遠の救い主だ、本当の救い主だ」と(告白するのを聞くほどに、知らせてくださいました)。 そう私自身が告白する事が出来るように、主よ、あなたの存在をもっと私に教えてください。それが私たちの祈りですね。 ☆お祈り もしあなたが神の賜物を知り、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、(ヨハネ4:10) イエスさま、教えてください。私の罪深さを。 イエスさま、教えてください。あなたの十字架の愛の大きさを。 イエスさま、教えてください。私の能力の小ささを、愚かさを。 イエスさま、教えてください。あなたの力の大きさを、あなたの愛の大きさを。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。 |