題      名: 教職制――歴史的考察と諸問題
氏      名: fujimoto
作成日時: 2003.09.15 - 00:49
教職制――歴史的考察と諸問題(
 
                         
 
 われわれはカトリックでもなく、ルター派でもカルヴァン派でもない(無論、プロテスタントであり、ルターやカルヴァンを土台として共有し、その影響下にある)。またわれわれはメソジストの流れにあってもウェスレーのように英国国教会(聖公会)ではない。インマヌエル総合伝道団は、日本メソジスト教会やきよめ派の流れに歴史的に最も近く、その影響は多大であることを認めなければならない。だがそれでも、独自性をもって神が起こされた教団である。
 その意味で、われわれの職制は自ら判断する権利と義務があろう。しかし、その作業を後に展開するにあたり、職制について歴史的に考察しなければならない。教会が職制についてどのような問題と格闘してきたのか、またわれわれが時に無自覚である職制は、どのような神学的問題に起因し、何を根拠として論じられ、何が焦点となるのか、それらの点をまず概観する必要がある。下記の論考は、序としては少々長く、複雑な問題を論じるには大きく不足している。また職制論として系統立てて整理したものでもなく、その歴史を概観したに過ぎない。しかし職制を論じるときに考慮すべき諸点を紹介していることと信じる。
 
T. 初期キリスト教における職制
 A. 原始教会におけるさまざまな奉仕
 B. 職制の確立と発展――その光と陰
    陰(1)――教職権威主義
    陰(2)――祭司主義
U. 宗教改革の職制理解
 A. ルターの福音体験 
 B. 祭司から説教者へ
 C. 全信徒祭司主義と職制
 D. カルヴァン
 E. 敬虔主義による挑戦
V. ウェスレーの職制理解
 A. 敬虔主義的教会観と伝統的職制の融合
 B. メソジスト「職制理解」のその他の特色
  @宣教的教職観
  A職位の種類
  B教職の資格
W. 結語――方法論
 
 
 
T. 初期キリスト教における職制
 
A. 原始教会におけるさまざまな奉仕
 教職、あるいは職制を英語で表現する場合、一般的にministryという語をあてるが、もとになるギリシャ語はdiakoniaである。この言葉を使って、パウロは原始教会の中における「さまざまな奉仕」(新改訳/新共同訳では「務め」)を説明し(Tコリ12:4)、また自らを「新しい契約に仕える者」(Uコリ3:6)・「キリストの仕え人」(コロ1:7)と呼び、自らの働きを「和解の務め」(Uコリ5:18)と表現している。diakoniaとは「仕えることを意味する」。しばらくすると、この語は、「執事」という特定の職分を指すようになる(Tテモ3:8)。しかし、原意は「仕える」「仕え人」であり、特定の職分だけでなく、教会において個人が背負ういっさいの働きを総括していた(マコ10:43〜44)。
 パウロはTコリント12:28に次のように記している。
「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、異言を語る者などです」。
「第一に使徒」とあるように、使徒が原始教会の霊的指導者であったことは言うまでもない。使徒とは、そもそも使わされた者(使者)という意味であり、宣教師や巡回伝道者に対して用いられることもあるが(Uコリ8:23)、基本的には十二使徒を指し、それを越えてはイエスの兄弟ヤコブ、パウロなどを指すことはあるが、それ以降の教会指導者を指すことはなかった。コリント教会のリストの中で、預言者と教師がどのように区別されていたのかは、明確ではない。また、上のリストで、前三つの職が制度的なもので、後四つの職はカリスマを与えられた特殊な信徒を指すという区別もあるが、制度的職にも賜物が求められ、賜物による職も教会の建て上げのために機能していたことを考慮すると、賜物の職と切り離されて、制度的のみに依存するような職がこの段階で成立していたと決定することはできない。おそらく、リストに並んでいるように、同等の重みを持っていたことであろう。
 パウロは同じようなリストをエペソの教会にも考えている。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです」(4:11)。
興味深いことに、パウロはエペソ人への手紙で「御霊」について多くを語っているにもかかわらず、職の中にはコリントの教会に見られるような御霊の賜物による職が挙がっていない。歴史的にはコリントの教会よりも後に位置しているため、エペソの教会では、賜物による指導者よりも牧師・教師の職という制度的な指導者に、教会運営の全般を任されていたのであろうか。またエペソの教会と時をほぼ同じくして成長していったピリピの教会には「監督と執事」(1:1)が登場するが、ピリピの教会では教職の制度化がさらに進んでいたのであろうか。議論の余地はいくらでもあるが、それを尽くしたところでこれらの問題の実際は想像の域を出ない。それほど、聖書の資料には限界がある。
 しかし、原始教会の実際を見るとき、確かなことは、規範的な制度が先に存在したのではなく、地域教会それぞれが実状に応じた職制を設けていたことである。コリントの教会の職制がそのままエペソの教会やピリピの教会に求められていたわけではない。そして同じく確かなこととして、パウロを含めた原始教会は、こうした実情に応じた職制の発達が御霊の導きによるものであると理解していたことである。使徒の働き六章で、異邦人のやめものために食料を配給する仕事に「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい」七人が選ばれたときも、使徒の働き一三章で、バルナバとパウロがアンテオケの教会から宣教の任に送り出したときも、それが聖霊の導きであると原始教会は確信している。新しい職が定められていくとき、それは確かに必要に応じた展開であるが、同時に原始教会はそこに聖霊の導きを確信して行動している。それは、「神が任命され」(Tコリ12:28)、「キリストご自身がお立てになった」(エペソ4:11)ものであると理解されていた。
 とは言え、これらをもってして「教職者団」というには、早すぎるように思われる。果たして職制というものがいつ頃から、どのような過程を経て確立されていったのであろうか。
 
B. 職制の確立と発展――その光と陰
 教会の職の中で制度的に最初に確立を見たのは、長老(presbyteros)であったと考えられる。「長老」という職をパウロ書簡には見出すことができない。しかしペテロ第一の手紙では、「羊の群を牧する」者として、その職が説明されている(5:1〜3)。またヤコブは、「教会の長老」を、祈りをもって病む人を回復させる信仰の指導者として取り上げている(5:14〜15)。また黙示録は、終わりの時の幻を、神の御座の回りに「二四人の長老が座っていた」(4:4)という描写からはじめている。
 初代教会が教会運営を確立していくにあたり、「長老」という概念を用いて制度化していったことは、教会のユダヤ世界的背景を考えれば、当然の経緯である。新約聖書時代のユダヤ人コミュニティーは、長老が構成する議会(サンヘドリン)によって指導されていた。そして長老だけが叙任(按手礼)によって、その職に就く習慣にあった(祭司はレビ人という生まれによってその職に就く)。ユダヤ世界に深く根付いていた原始教会にあっては、彼らが慣れ親しみ、ユダヤ世界で一般的に実施されていた長老制が、採用されていたようだ。長老といっても、テトス1:5〜7や使徒の働き20:28にあるように「監督」とほぼ同義で使われるケースもある。すなわち、初代教会における「長老」は、後の教会に見られるような特定の職を指すのではなく、指導者層の総称としての趣が強い。その中からやがて、「監督」を中心とする教会運営が発展していった。
 新約の「監督」は一教会一人とは限らないし、制度として定められた形跡もない。しかし1世紀後半から各個教会の「監督」は次第に重要な役職となっていく。1世紀の終わり頃、ローマのクレメンスがコリント教会に当てて書いた『第一クレメンスの手紙』には、監督(episkopos)、長老(presbuterion)、執事(diakonos)と呼ばれる人々が登場する。長老の中から聖餐式を執行する務めを託す監督が選出され、その職に当たる人物は「聖霊によって吟味され確かめられたもので、全会衆からすでに信任を得ている」(42・4)ことが求められている。二世紀の初頭、アンテオケ教会の監督であったイグナチオスの『七つの手紙』では、さらに職制が確立されている。信徒の教職の区別は明確なものとされ、先の三層の教職制がいっそう上下関係が明確に説明されている。監督に洗礼と聖餐の執行権が与えられ、長老と執事は、監督を支え・助ける役目をになっていた。*1
 監督は単独で教会の全権を委ねられるようになり、その存在感は大きくなっていった。対外的には、キリスト教への迫害が激化するときには、監督は信者を励まし、過激な殉教志願者を抑え、棄教者が出るのを防ぎ、あるいは棄教した者をも見捨てず、教会を迫害に耐えさせるのに先頭に立った。また対内的には、監督は、他の教会の監督との交流を深め、互いに援助し、教会を揺るがす異端についての対応を協議し、広範囲で司教同志が集まり会議を開いていた。*2
 二世紀の地中海世界にキリスト教が伝搬していく中で、グノーシス、ドケティズム、モンタニズムなど初期キリスト教会の根底から揺るがすような異端の嵐を治めていった「監督」の存在意義は、決して過小評価することができない。二世紀の終わりにリヨン教会の監督であったエイレナイオスは『異端反駁論』三・3以下に、ローマ教会の歴代監督をペテロにさかのぼって表にまとめている。彼は異端との戦いの中で、教会が「正しい教え」「正しい信仰」をいかに曲げられず変質させずに継承していくかに関心を寄せた。
 それは、いわゆる使徒的信仰の尊重と継承の問題である。「正しい信仰」というものは、われわれが考え出すことのできるものではない。それは継承されるものである。神学的に正しい信仰は、神学者が考えだすものでもない。「正しい」という意味は、イエス・キリストが教えられた信仰こそ「正しい」という意味である。イエス・キリストから最初に正しく教えられたのが、使徒たちであり、したがって、使徒たちが信じたように信じるのが正しい信仰である。使徒たちが信じたように信じるためには、使徒たちの教えが次の世代の人々に誤りなく、歪みなく継承されねばならない。そういう意味での「正しさ」を初期キリスト教は、教会指導者であり神学者であった司教の存在を軸に守ることができた。このようにして使徒継承を軸にした教会観は、現代のカトリック教会にも脈々と引き継がれている。
教会のいしずえであった使徒たちの役割と権能は、司教たちによって継承されています。司教は、司祭と助祭たちに助けられて、それぞれの地域の教会を指導し、地域教会の交わりの中心となります。同時に、司教は他の地域の司教たちとの協力のうちに、全世界の教会との交わりを保ち、全教会の一致への責任を担います。*3
 このようにして、キリストの教会が地上で形成されていく中で、監督(司教)を中心とした職制が確立されていった。このような職制の発展なしに、教会は初期の激動期を乗り越えることはできなかった。それほど監督職の存在は教会にとって重要であった。しかし、これを職制の発展における「光り」とすると、「陰」の部分があったことも認めざるを得ない。
 
陰(一)――教職権威主義
 その一つが監督(司教)権威の極端な上昇にある。先述のイグナチオスは、司教を神的権威をもつ教会の最高の地位に位置づけている。司教は信仰の模範であるばかりでなく、神の意志によって任命された、「神の座」にある者である。イグナチオスは、こうした教えは分裂を避けるためであると確認しながら、次のように述べている。
分裂を悪の始まりと思って避けなさい。あなたがたはみな、イエス・キリストが父なる神に従ったように司教に従い、長老には使徒のように従い、執事を神の命令のように敬いなさい。だれも司教を抜きにして、教会に関することがらを行ってはならない。(「スミルナ人への手紙8:1)
教会を統括し、神的・霊的権威を持つ単独の指導者としての司教像は、その後、様々な方法で発展を見る。たとえば、二世紀の後半、アレキサンドリヤのクレメンスは、以下のように述べている。
私の意見では、教会における監督・長老・執事は、天界の栄光の雛形である。使徒たちの足跡の後を福音にしたがい、義の完全の中を生きる者たちは、やがて天界に迎えられる。そこでは栄光のランクがある。雲の中に一気に引き上げられるとき、使徒が記しているように、まず執事として仕え、次に長老として格付けされ、栄光のうちに成長し(栄光にはレベルがある/Tコリ15:41)、やがて完全な人(エペソ4:3)に達する。(Stromata, vi, 13)*4
3世紀の中頃に殉教を遂げたカルタゴ教会の司教キプリアーヌスの理解によれば、「天国の鍵の権能」を授けられ、「あなたの上にわたしの教会を建てる」と約束されたペテロが、地上の教会におけるキリストの代理人(the Vicar of Christ)であり、第一の司教である。その後、ペテロから按手礼を受けた司教たちのうちに同じ権能が継承されるという。そうしてキプリアーヌスは、司教の中に教会の本質を見、司教団の一致の中に教会の一致を見ていたのである。*5
したがってあなたがたは、司教は教会のうちにあり、教会は司教のうちにあって、司教と一致しないものはだれでも教会のうちにないことを知らなければならない。(書簡、66:7)
さらに四世紀にシリアで成立したと言われるDidascalia Apostolorumの一節には、「司教は父であり、神であり、王である」という表現さえ表れてくる(IX)。ともかくこのような教職権威の上昇過程の中で、教職と信徒の区別はますます明確になり、教職団だけで教会の本質をとらえ、反面、神の民としての教会全体の権威は一気に下降していった。*6
 さて、宗教的権威の座を、教職団、特に司教による使徒継承の連続性の中に見ていったとき、当然、次の世代に権威を引き継ぐ役目をする叙任・按手は、重要性を増すことになる。教職は、いつしか終身が原則となった。しかし、使徒継承の問題が絡んで、教職按手に独特な色合いがつけらることになる。すなわち、按手礼を受けることによって、神秘的な仕方で、恵みの伝達が行われ、「消えざる印章」(charactor indelebilis)が刻印され、霊的権威が伝授されると考えられるようになった。「消えざる印章」の教理は、ドナチスト論争下のアウグスチヌスによって用いられるが、その歴史的背景と神学的意義をここで考察しておく必要がある。
 4世紀の前半、カルタゴ教会で一つの論争が生じる。それは、ディオクレティアーヌス帝の迫害下で、司教フェリークスが迫害に屈して聖書の写本を迫害者に渡したことがあった。この司教はカエキリアーヌスをカルタゴの司教に叙任していた。迫害者に写本を渡すことは背教行為にあたる。そのような経歴のある司教の手によるサクラメント・按手が果たして有効であろうか。ある司教たちはこれを無効とし、対立司教マヨリヌスを選任、その後継者がドナートウース、そして彼の名にちなんで分派ドナチストが勢力を増していく。さて、結論から述べれば、教会は、サクラメントの執行も教職の按手も、たとえそれが人格的に問題ある教職によって執行されようが、有効であるという主張をもってドナチストに反撃した。この論は、今日のプロテスタント教会にも生きていて、洗礼をだれから受けようが、それが三位一体の神の御名によるものであるなら、それを施す人物の霊的資質とは関係がないという。
 しかし、この教会の結論は、職制に独特な響きを持たせることになる。ドナチスト論争を抑えたのは、アウグスチヌスであった。反ドナチストの司教たちは、聖礼典が正しい意図と方法によって執行されている限り、洗礼の客観的な正統性は失われることはないと主張していた。アウグスチヌスは、その延長で以下のように主張した。
洗礼を受けた者が、たとえ自らを教会の和から引き離したとしても、それによって洗礼のサクラメントを失うことはないのと同じように、按手礼を受けた者は、たとえ教会の和から離れたとしても、洗礼を施す権威を授けるサクラメントの力(按手の権威)を失うわけではない。(De baptismo contra Donatistas, i, i, 2)
按手礼によって、あたかもコインの上に法的な刻印がなされるように、天的な権威が受按者に押されるわけである。*7
 この教理の問題はどこにあるのか。それは、ベイントンが指摘しているように、按手というものを、それを授けたところのコミュニティーから引き離し、「個人」の永久的な所有にしたところにある。*8この教理の故に、これまで400年の間だ、古カトリック教会の中にあった地域教会による共同体的ミニストリーという雰囲気が消えていくことになる。按手の時に、聖霊の力がその人物に及び、特別な賜物を持った教職と生まれ変わる。この「教職性」は、旧約の祭司の「祭司性」が生まれながらにして与えられ、決して消えることがないように、その時点から消えることがない。こうしてカトリック教会において、按手礼は、天から個人に与えられる、権威と賜物の恒久的な賦与とみなし、司教は実際の地域教会との関わりがなくとも、終身的に司教であると考えられた。
 
陰(二)――祭司主義
 話を戻して、初期キリスト教における職制の発達は、もう一つの陰を教会に落とした。それは、教会の職制が限りなく旧約聖書の祭司職に近づいていったことにある。
 新約聖書に「祭司」(hiereus)という言葉は数多く登場するが、その言葉が向けられているのはユダヤ教の祭司であり、あるいは大祭司キリストに限られている。驚くことに、「祭司」という用語は、使徒たちにも、教師・預言者・長老・監督・執事、いかなる教職にも用いられていない。唯一キリスト者の働きが「祭司」のそれに類似するかのように語られている箇所は、Tペテロ2:9であるが、そこでは全コミュニティーが「王である祭司」と呼ばれているのであって、特定の教職の職務を指すのではない。「祭司」というとき、その基本概念は神と人との仲介である。そして新約聖書にそのような仲介者が存在するとすれば、唯一キリストである。聖書の記者たちは、意図的と思えるほど、神と人との仲介者であるキリストに限って「祭司」と呼んでいるいることがわかる。
 初期のキリスト教会が、その運営形態と教職制を確立していく段階で、長老というユダヤの制度を使ったことはすでに述べたが、しばらくすると「長老」はhiereus(祭司)と呼ばれるようになる。長老や監督は信徒を教え導き、牧会的な職務を遂行していたが、礼拝(レイトルギア)が形をなす過程で、礼拝式の司式者としての任務がその主要な職務となっていった。「形をなす過程」という表現を使ったが、われわれは当時の事情を想像してみる必要がある。初代教会が、信仰生活の中心・キリスト教コミュニティーの中心にある礼拝をどのような形式・内容で整えていったのか、その苦労のほどは容易に想像がつく。賛美や祈りやみことばは、当時のユダヤ教の会堂礼拝からその秩序を学ぶことができたが、キリストの十字架を覚えて「パンを裂く」、新しい契約として「聖餐」を行うという、主ご自身が制定された新たな要素を、どのように形にしていくか。それについては、パウロのコリント教会への手紙を見ても、混乱ぶりがうかがえる。
 紀元95年頃に記された、ローマのクレメンスによる「コリント人への手紙」の中で、彼は礼拝における秩序を強調するために、旧約聖書の世界における、大祭司・祭司・レビ人・一般信徒という区別を教会の職務の説明に用いて、それぞれの領分をわきまえるように説いている(40)。
 ユスチノス(165年殉教)の『第一弁証論』には、当時のローマ教会の礼拝の様子が詳しく記されている。
日曜と呼ばれる日には、町が村に住むすべての人々の集会があり、そこでは時間の許す限り、使徒の回想録や預言者の書いたものが読まれる。そして、朗読者がやめると司会者が語り、これらの立派な模範に倣うように戒め、勧める。その後、一斉に立ち上がって祈りをささげ、祈りが終わるとパンと水とぶどう酒が持ってこられ、司会者が同じように立ち上がって、力を込めて祈り、感謝をささげ、一同は「アーメン」をもって同意を表す。それから聖餐の食物が分けられ、一同がそれにあずかり、欠席者には執事の手で届けられる。(67)*9
ユスチノスは聖餐についてことさら詳しく説明を加えている。パンと水とぶどう酒は、執事の手によって、祝されるために司教の立つ中央のテーブルに運ばれる(the Offertory)。そして、司教の祈りによって祝されるとき、聖霊の力によって、それらは受肉されたキリストの肉と血となる(66)。
 3世紀初頭のヒュポリトスによる『使徒的伝承』には、一見すると現代とほぼ同じような聖餐式の式文規定がある。ここでも、聖餐の要素は厳粛に中央のテーブルに運ばれ、監督は長老たちとともにその上に手をおいて祝福の祈りを捧げる。われわれの式文においてもそうであるが、この瞬間は重要である。普通に飲食されるパンと水とぶどう酒(後者二つは混合されて飲まれる)が目の前におかれる。これをキリストの十字架の単なる象徴として受けるなら、それは受ける者が心の中でそのように記念して受けるだけで、特別な意義付けを要しない。だが、そのように考えたのは教会歴史の中では16世紀のツウィングリぐらいである。目の前に置かれたパンとぶどう酒を、聖霊の力によって変えられ、特別な祝福を伴うキリストのからだと血とみなし、霊的恵みを帯びたものとして受けるためには、キリストがかつてパンとぶどう酒を祝されたように、司式者がそれを祝す祈りが非常に重要なものとなる。いわば、この祈りによって聖霊が降る(エピクレーシス)のである。『使徒伝承』の式文には、祭司である監督が自らを次のように祈っている。
それゆえ、主の死と復活とを覚えて、私たちはこのパンと杯とをあなたに捧げ、あなたが私たちを御前に立つ祭司の務めを果たすのにふさわしき者と見なしてくださったことに感謝します。さらに私たちは、あなたの聖なる教会の聖餐にあなたご自身の聖霊を送ってくださることを、また聖餐にあずかるすべての聖徒の上に御霊を与え、彼らを一つとなし、聖霊を満たし、真理に対する信仰を確立してくださることをせつに祈ります。([、4)
 中世の教会にはさまざまなミサの形式・式文が存在するが、代表的なローマ・ミサの原型は、すでに5世紀の初めに誕生していた。その中で聖餐は独特な神秘をまとうようになる。9世紀には、いわゆる化体説が教義として登場する。祭司は祭壇において、火ならぬ聖霊を天から下し、そのときテーブルの上にあるパンとぶどう酒がキリストの身体の実質へと変化すると考えられるようになる。独特な祭服に身をまとった司祭が、庶民が理解できないラテン語で式文が読み、パンとぶどう酒に手をかざして祈る。そこに神が現れる(epiphania)という。
 この神聖な儀式は、だんだん会衆から遠く離れたところでなされるようになった。聖餐は会衆なし、聖職者の間でだけなされることも多かった。至聖所が会衆から隠されたように、聖餐のテーブルは細長い会堂の一番奥に置かれ、その次に聖職者たちの向かい合った椅子が長々と続き、会衆は遙か後ろに位置した。聖餐の恵みにあずかるというよりは、この神秘的なドラマを見るという感覚である。大切なのは、聖体拝受ではなく、パンとぶどう酒の実体的変化を見ることにある。こうして、聖餐に現れるキリストの現臨在は、会衆を含めた式全体を包むのではなく、パンとぶどう酒の要素に限られてしまった。キリストの身体の実質を受けたパンとぶどう酒が祭壇で捧げられるとき、カルバリの犠牲が繰り返し再現され、そこにおいて神と罪人(生きている人ばかりでなく死せる人)との和解が再びなされるという。聖餐は、旧約の祭司が祭壇において毎回、いけにえをささげるのと同じイメージで語られていた。*10
 宗教改革者たちは、この聖餐の概念に抵抗する。だが、結果的に1562年の第22期トリエント会議において、カトリック教会は従来の考えをかたくなに踏襲した。*11
 
U. 宗教改革の職制理解
 
A. ルターの福音体験 
 プロテスタントの職制を語るとき、宗教改革を押し出す原動力となったルターの「信仰義認」の体験に言及しなければならない。このプロテスタント第一原理を理解せずして、われわれは全信徒司祭主義も、プロテスタントの職制も捕らえることはできない。
 1505年、22才の夏の日、ルターは激しい雷雨に遭遇し、死の恐怖によって地面に打ち倒され、彼はこう叫んだ。「聖アンナよ。私をお助けください。私は修道士になります。」そして彼は、聖人になる憧れをもって、厳格な修練を課すアウグスチヌス修道会に入った。彼は、学業・霊の訓育ともに優秀な修道士であった。当時の自分を振り返って、ルターは次のように述べている。
私は善良な修道士だった。私の修道会の規則を実に厳格に守った。それだから、もしも修道士で、修道士生活によって天国に到達する者があれば、それは私だった。私を知っている修道院の兄弟たちがみなそれを証明するだろう。もしも私があれ以上続けていたなら、徹夜や祈りや朗読やその他の聖務で、自分自身を殺してしまったに相違ないのだ。*12
 やがて、ルターはヴィッテンベルグ大学で旧約学の教授に就任する。聖書を研究すればするほど、きよくなくてはならないという神の命令が彼の心を打つ。だがその発見とは裏腹に、自分の心と生活は、神の至高の命令から遠ざかって行くのを感じた。この悩みを、ルターは修道会の司教代理・神学者であったシュタウピッツに持ち込んだ。ルターは日に幾度となく懺悔し、時に数時間にも及ぶこともあった。たまりかねたシュタウピッツはこう述べる。
「おい君よ。神は君に怒ってはおられない。君が神に怒っているのだ。神が希望を持てと君に命じて折られるのを、知らないのか。」
「いいかね、もしもキリストに赦していただきたいと思うなら、そんないろんな微罪ではなくて、何か赦していただくもの――親殺しか、神を冒涜することか、姦淫――をもってきたまえ。」*13
 しかしルターが苦悩していたのは、あれやこれやの微罪の数々ではなく、その背後にある自分の堕落した罪の性質であった。ルターは、その結果として、怒りに満ちた神が水準に到達しない罪人を怒りと罰をもって待っているという意味での、神の義(justitia activa)に身を震わせていた。
 ルターは、中世神学の提供するすべての救いの方法を試みた。神秘主義に没頭し、道徳主義も試み、教会制度に頼ることもした。教会の教える教理を心から信じ、教会の提供する聖餐にも忠実に与った。しかしどんなに聖餐にあずかり、どんなに修道の規則を守り、告解したところで、良心の傷はいやされるどころか、苦悩が増していった。彼の苦悩はイスラエルの民のそれと同じである。
あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。
ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるのでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。(イザヤ64:5〜6)。
神は正しい者を喜んで迎えられても、自分のように汚れた者を救ってはくださらない、そんなはずはないと、ルターは絶望していた。
 絶望の中で、詩篇やローマ人への手紙を講義する中で、とうとう福音の意味が彼の心に響いた。問題は、神が私たちををどう見、どう思われるかである。答えはキリストの中にあった。神が人間からとおくに存在して、人間が努力して神に近付こうと、階段を昇っているというのではない。事実はその逆である。人間が、その罪故に神から遠ざかり、しかし神がキリストにあって、人間に近付くために天から降りてきてくださった。それが福音であるとルターは悟った。
 ルターはこの視点の大転換を、ローマ人への手紙の序文の中で次のように説明している。
「私はパウロのローマ人への手紙を理解したいと切望した。別に障害となるものもなかったが、ただ『神の義』という表現につまずいた。なぜなら私は、義を、それによって神は正しいものであるし、正しくない人間を罰するのに正しく処置される、という意味に解釈していたからだ。私の状態はこうだった。たとえ過誤のない修道士にせよ、私は良心で悩んでいる罪人として神の前に立ち、自分の功績が神をなだめるという確信なんか少しもなかった。それだから私は、正しい、怒っておられる神を愛せず、かえって憎み、神に不平を言っていた。……
日夜私は思索し、ついに神の義と『義人は信仰によって生きる』という言葉の結び目を理解した。それから私は、神の義というのが、それによって恵みと全くのあわれみから神が信仰を通して我らを義とされるところの正しさである、ということを理解した。そこで私は、自分が生まれ変わって開いている戸口からパラダイスへ入ったのを感じたのである。聖書全体が新しい意味を持つに至った。」*14
私たちの義は、私たちが勝ち取って神に捧げ、それによって義認を得るという「能動的な義」ではない。キリストが私たちのために勝ち取り、私たちはそれを主から受けるだけの「受動的な義」である。救いにとって必要なことは、すべてキリストが成し遂げられた。私たちはただ、単純な乞食の手のような信仰をもって主にすがり、神は私たちを受け入れてくださる。
 さて、少し長い説明となったが、これらすべては、ルターがみことばから聞いた「内的な」神の語りかけであった。つまり、教会制度・司祭の仲介を超えたところから、ルターのたましいに直接届いた神の語りかけであった。その語りかけを、彼はみことばから直接に受けたのである。この福音理解から、中世ローマ教会の仲介システムを軸とした教職理解が大きく正されることになる。
 
B. 祭司から説教者へ
 ルターにとっての神は、まさにDeus loquens(the speaking God)「語りかける神」である。神は、私たちが悩みの中で孤独に苦むとき、信仰をもって目を上げるなら、語りかけてくださる。「安心しなさい。わたしはあなたの罪を赦す」と。神は、この個人的な語りかけをするために「説教」という務めを設けられた。即座に、福音を語るということが、礼拝の中心に据えられた。これによって教職の概念が大きく修正された。もはや、中世のように、いけにえを捧げることによって常に人と神との間を取り持つものではなく、教職とはみことばに仕える者である。 キリストの福音を語る者である。Priestではなく、Preacherである。
 また、福音とは神の恵みと赦しを宣言するものであるから、礼拝は、sacrificiumでなくbeneficiumである。それは、私たちの側から捧げる犠牲でなくして、私たちが神から受ける恵みをいう。礼拝は、神の怒りをなだめるために人間の側が何かを天に送るというのでなくして、神が人間に天から贈る恵みのことばを意味する。聖餐の概念がここで大きく変化した。中世では、聖餐は我々の罪の為にキリストの体を繰り返し捧げるものと考えられていたが、宗教改革では、聖餐は一度にしてすべての必要を満たしたキリストの十字架の恵みを賜物として受けることである。ゆえに、聖餐もまた説教である。福音を見える形に表現したのが聖餐式であり、ここにおいてもまた「これはあなたのために流された血」という福音を神から聞くことができる。
 
C. 全信徒祭司主義と職制
 先に述べたように、ローマ教会が人を救いに導くために周到に組み立てた制度・方法を越えたところから、ルターは直接にみことばから神の語りかけを聞き、神のみが人を義とされることを悟った。この福音は、ローマ教会が教えるような使徒継承の中にあるのではない。すなわち、使徒から受け継がれた鍵の権能が叙任と按手を通じて司教・司祭に引き継がれ、そこから救いを受けるのではない。福音はみことばを通して、聖霊の権威のもとに与えられる。継承すべきは、教職を中心とした鍵の権能ではなく、福音の真理と信仰である。ここから、プロテスタント教会は福音の真理を継承するために、「信仰告白」(アウグスブルク信仰告白・シュマルカルト信条・ウェストミンスター信仰告白など)を明文化し、それを大切に継承することを心がけるのである。
 ルターは宗教的権威を独占していたローマ教会を糾弾し、みことばが語られ、それを信仰をもって受け止める会衆のレベルに、「権威」をおろしていった。そして、キリスト教的祭司権が、聖書が教えるように福音を受け入れた一人一人の肩に掛かっていることを説いた。
教皇、司教、司祭、修道士らは『霊的階級』と呼ばれ、他方、君主、諸侯、職人、農夫は『世俗階級』に属するという虚構が行われてきた。これは狡猾な嘘であり、偽善的な作り事である。……すべてのキリスト者は真に霊的階級に属するものであって、職務の相違を除いては彼らの間に何の差別もない。パウロが言うように(Tコリント12)、われわれはみな、おのおのの肢体は他のものに使えるために各自の働きをするけれども、本来、一つの身体なのである。これは、われわれが一つのバプテスマ、一つの福音、一つの信仰を持ち、みな等しくキリスト者である。……もし敬けんな平信徒のキリスト者の一団が捕虜となり、砂漠に連れて行かれ、司教によって聖別された司祭がそのなかにいないので彼ら自身の中から一人選ぶことに決め、……そうしてバプテスマを授け、ミサを祝い、赦罪を宣言し、説教したりすることをその人に命じたとしたら、その人物はあたかも全司教と全教皇が彼を聖別したのと同じような、真の司祭になるはずである。それ故、必要に迫られたときはだれでもバプテスマをほどこし、かつ赦罪をすることができる。」*15
 ルターを出発点として、プロテスタント教会は全信徒祭司主義を強調してきた。だが、それは全信徒祭司「制」ではない。洗礼を受けたすべての信仰者はみな基本的に祭司であっても、みなが職務の面で、牧師であるわけではない。主から教会に委ねられた祭司の務めを、「教会の委託」のもとには特定の人物を牧師として立てるのである。ルターは1523年に全信徒祭司主義からどのように教職を立てるかについて、二つの論文を記している。
・「キリスト者の集まり、すなわち個々の教会は、すべての教えを判断し、教師を招聘し、任命し、罷免する権利と力を持っている、ということ。その聖書による理由と根拠」
・「教職の任命について」
教職権は基本的には全信徒に属するものであるが、キリスト者全体の権利を正しく行使するために、投票によって選ばれた者に務めを委ねる権利をキリスト者は持っており、選ばれた人は神の召しと投票によって他の人に代わって、それを引き受けることができる、というのがルターの考えである。つまり選挙によって自らの祭司権をある人に委託するわけである。もちろん委託される者は、内的な神の召命を受けていなければならない。だがそれが自動的にそう認められるのではなく、ある人にその務めを委託するためには、公の意思決定(選挙)が必要であることをルターは強調した。
 そして、全信徒が祭司であるが故に、委託された者はこの権利を独占することはできない。神の召しと公の召しよって他の信徒に代わって務めを引き受けた人物は、常に教会と会衆全体に責任を負っている。つまり、もし牧師が神のことばに反するような教えを説いたり、行動したりするとき、会衆はそれを非難し、罷免する権利を持っているということである。
 プロテスタント教会でも、カトリック教会と同じように按手を生涯で一度限りのこととして重視してきた。しかし、ルターはカトリックの「消えざる印章」を全面的に否定している。
もし人がこれらの職務の一つに任命されながら、それを誤用したために辞職させられるようなことがあったならば、その人はただ以前の自分に戻るのである。したがって、司祭は、キリスト教界にあっては、権能上の身分以外のものであってはならない。彼がその職にある間は、彼は上位に立つが、その職を失うなら、他の人々と同じように農民あるいは一市民であるに過ぎない。であるから、司祭はその職を退いた後は、確かにもう司祭ではない。それなのに、いまや彼らは『消えざる印章』などというものを案出し、司祭は罷免された後も単なる平信徒とは異なるかのように見せかけている。*16
按手は、あるキリスト者を高い階位につかせる儀式ではなく、あくまで「職」に任じる儀式である。当然按手は、個人の所有物ではなく、教会・全信徒に属している。したがって、それは会衆の前で執行され、全会衆の承認と祈りを背景になされる。ルターはその祈りがむなしく終わることなく、按手礼において神が教職に必要な賜物を授けてくださることを信じるが、権威は「職を背景として」その人物に与えられるのであって、人物がその職を離れるなら、職の権威は喪失することになる。また、牧師が神のみことばに反して教えを説き、行動するなら、会衆はその人物を罷免する権利を持っている。このようにして、かつて教職権威が上昇し、按手が恒久的に個人のものとして考えられた過程で失われていった「教会の権威」(神の民の権威)は、プロテスタンティズムの中で復権された。
 しかし現実は、それほど会衆に力があったわけではなかった。当時の世界で教育を受けたことのあるのは、修道士だけである。改革初期のルターは、民衆がドイツ語の聖書を自ら読むことによって福音の真理を見分け、ローマ教会の誤謬を見破ることがでると期待していたが、それは現実的には叶わなかった。宗教改革が地域の君主を主体に進められていくとき、会衆が改革に主体的に参加するというよりは、上からの改革に従うかたちとなった。ルター派においては、それぞれの地域に監督(superintendent)が置かれ、管轄地域の教会を指導するようになる。結果的に、監督が教職を選び、審査するような体制となるが、それでも事前に教職候補者が会衆の前で、その適性を見定めるような配慮はなされていた。
 上からの改革の中で、プロテスタント教会の中にもカトリックと大差ない教職主義が確立されていくことも事実である。また「消えざる印章」の教理を退けても、教職者は聖霊による「上からの召し」を会衆による「下からの召し」に優って重視することによって、教職権を「消え去ることのない印章」であるかのように理解する傾向にあったことも事実である。しかしプロテスタンティズムは、次のことは常に明確にしてきた。@教職者は、信徒よりも上に位置するのではないこと、特に「鍵の権能」を含め宗教的権威は「神の民」である全信徒に与えられていること、A「職」としての教職概念、すなわち、その適性審査、また職務の執行を会衆の前に問われること。
 
D. カルヴァン
 カルヴァンにおいても、ルターの全信徒祭司主義から始まる教職理解は同様に承認されている。彼の『キリスト教綱要』の中では、上述のAのポイントが尖鋭にされているので、それに触れておきたい。
 私は、教会の公の秩序に属する、厳粛で外的な召しのことを述べているのである。外的召しは、教職志願者が教会には知られていない心の中で、神の御前で感じている内的召しを審査するものである。この内的召しは、野心や悪意、またいかなる種類の不純な動機から生まれるものではなく、真実に神を恐れ、熱心に教会の建て上げを願う動機から生まれるもので、その職を受け入れるようにと心の中に与えられる正直な証しである。(W・3・11)
 神に仕える人の神のことばに従った正当な召しとは、会衆の賛成と承認と同意によって立てられ者を適格者と見ることにある。しかし、その場合、他の牧師たちが選挙を管理すべきである。それは会衆が、あるいは軽率にあるいは間違った悪しき熱心により、軽率に選挙をしてしまう過ちを犯すことがないためである。(W・3・15)
 このようにカルヴァンは、直接に教職志願者が神から受ける内的召命、そしてそれを審査して権威の委託をする教会側の外的召命、この二つのバランスを強調した。内的召命を受けた者は、必ず外的召命を通り、つまり教会によってその内的召命を審査された上で按手される。みことばの役者としての牧師には、祭司の職務以上の知的適性が求められることになった。カトリック信仰から劇的にシフトした当時のプロテスタント教会は、教職者たちがまず福音を聖書的・神学的に理解し、語ることが必須であることを痛感していた。のみならず、教職者の主要な職務が説教となったとき、彼らは聖書を正しく説き明かすために互いを切磋琢磨する必要を感じていた。またそれは、カルヴァンが強調したように、神の召命の厳粛さ(神と会衆に対する責任)を自覚してのことであった。
 ルター派においては、宗教改革が領邦で進む中、地域の監督が審査し、会衆を前にして按手を授けるようになる。後に教職者の審査は、監督の手から大学の神学教授陣に委ねられる。ツウィングリのチューリッヒでは、二人の教職、聖書に通じている市議会員二人、同様の信徒二人、合計六人で構成される委員会が教職候補者を審査していた。審査だけでなく、チューリッヒでは1528年以来、年に二回すべての教役者会議が開かれていた。その目的は、censura mutua、すなわち教職者同士が互いの説教や牧会を評価・批判し合い、教職者の水準を保つことにあった。カルヴァンのジュネーブでも同様の目的でConference des Ecritures(聖書会議)が開かれていた。
 
E. 敬虔主義による挑戦
 ルターやカルヴァンは、基本的に学者であった。また、彼らは宗教改革が混乱につながることを危惧し、教会の統一のために君主や市議会の力を借りた方策を採った。しかし、ツヴィッカウ預言者やアナバプテストなどの宗教改革「左派」の動きも、プロテスタント教会にそれなりのルーツを与えることになる。*17 彼らは、教会はキリストに純粋な信仰をもって従う者だけによって構成されるべきと考え、国教会や幼児洗礼を否定した。彼らによれば、教会は使徒継承の中に保たれているのではなく(ローマ教会)、また正しい信仰告白のなかに保たれているのでもなく(ルターやカルヴァン)、教会は個人の意識的な信仰体験のなかにあるという。この流れは、ピューリタン、メノナイト、バプテスト、クエーカー、モラビア派と多岐に及び、一六世紀後半から一七世紀にかけて広く敬虔主義運動を産み出していく。
 その特色の一つは、制度としての教会よりも常に個人の信仰と体験が優先することにある。その働きを担う者たちは、往々にして体制の外にあってカリスマをもった個人であった。この流れの中でより重視されたのは。「預言者」的な召しである。天からの召しが、その人物を教職者とするという主張である。こうした主張が制度に縛られた教会を生かしてきたのは事実であるが、それが極端に走ると、宗教改革者たちが保持しようとした「内的召し」と「外的召し」の健全なバランスが崩れ、結果的に神の民としての教会の権威も崩れ、職制が中世のように神と召された個人の問題になってしまう危険がある。
 また、当然予想されることだが、彼らの教職概念は、ときにルターやカルヴァンとは逆に、神学教育を軽視する傾向にあった。教育機関が国に属しており、按手に君主や市議会がかかわっていたのであるから、敬虔主義運動の牧師たちは、正規の神学教育を受けられない場合も多々あった。ピューリタンもメノナイトも、牧師を選び、訓練し、それぞれの教会で按手礼を執行してきた。しかし、個人主義的・体験主義的世界にあっては、個人が内的召しと伝道への重荷だけで説教をして回るようなケースがあった。ウェストミンスター神学者会議へのスコットランド代表であったロバート・ベイリーは「神からの召しもなく、人からの召しもないような者たちが、英国のあらゆる地域で活動している」と当時の信徒説教者を批判している。*18 会議は、1644年、45年、46年と3回続けて信徒説教の活動を禁止している。
 さて、この問題は賢察を要する。秩序を重んじることは、全信徒祭司主義の基本概念である。しかし、説教を受按者だけに限定することは、果たして御霊の主権を妨げることになりはしないだろうか。この疑問を信徒説教者たち(女性説教者も当時存在している)は追求しているのである。全信徒祭司主義では、既述の通り、教職者の選定に全信徒の厳粛な目が注がれるている。よって、ひとりよがりの「自称」説教者は、かえって全信徒祭司主義を欺くことになる。だがそれでも、職制という枠を越えて働くことのできる御霊に、われわれは目をつぶるわけにはいかない。信徒説教者の問題は、教会史を通じて常に存在してきたと言える。既成教会の外で生まれ、あるいは中に生まれながらもそれを改革しようとした運動は、ほとんどと言っていいほど、教職按手を受けていない説教者を抱えてきた。だが、その数は決して多くはなかった。職制の枠を越えた御霊の働きが大きく注目されるのは、英国ではメソジスト運動、あるいは国家教会の職制から脱皮し、自分の教会は自分で選び、自分で建てることを主眼として発達したアメリカの教会(denomination)を待たなければならない。*19
 
V. ウェスレーの職制理解
 
 1725年、オックスフォードで学者の道を志していたウェスレーが聖職を志し始めたとき、父サムエルは、厳粛な警告を送っている。
主要な動機は……神の栄光、そして隣人を建て上げ救うことにおいて神の教会に仕えることでなければならない。他の卑しい動機をもって、これほど神聖な働きにはいるとしたら、その人物は呪われるべきである。*20
その年、ウェスレーはトマス・アケンピスやジェレミー・テイラーを読んで霊的に目覚め、生涯をかけて召命の厳粛さを追求した。ウェスレーの描く牧師像は、17世紀のカトリック修道士、ディ・レンティやグレゴリー・ロペズらの影響もあるが、何と言ってもピューリタンの影響が強い。無論、ピューリタンの牧師像の背景にはカルヴァンがある。カルヴァンが牧師の職務として強調した、みことばの説き明かしと訓戒(discipline)を、ピューリタンは英国で受け継いで敬けんな思いで深めていった。ウェスレーがメソジスト伝道者の研修に用いた「牧師像」の教科書は、ピューリタンのR・バックスターが記したReformed Pastor(インマヌエル訳では『神の人の襟度』)であった。牧師は「神の人」として霊的器であるべきこと、牧師はみことばを平易に講解し、たましいを貫くように説教すること、牧師は日常の細部にわたる牧会的指導を加えること――これらはみなピューリタンとメソジストに共通する課題となる。*21牧師像としてはピューリタン、しかし職制観の領域でウェスレーに大きなインパクトを与えたのは、モラビア派であった。以下に、英国国教会人として伝統的職制を保持しつつ、そこに敬虔主義的要素、また信徒運動の幅を融合させていったウェスレーの職制観を考察する。
 
A. 敬虔主義的教会観と伝統的職制の融合
 ウェスレーはアングリカンの高教会主義の家庭に育った。幼い頃から、初代教会の伝統の継承としての国教会、その荘重な典礼と聖餐を中心とした礼拝を尊んできた。それは、「若いときには私は単に国教会の会員であったばかりか、それに頑固に夢中であった。なんと、国教会の会員でなければ救われていない」(Works, xiii,272)と告白するほどである。ウェスレーは、ジョージア宣教時代、モラビア派の牧師ボルトツイウスを聖餐式にあずからせなかったことがある。理由は、彼に洗礼を授けた牧師が司教によって按手されていなかったことにあった。それほど彼が使徒継承を重要視していたということである。
 しかし、モラビア派との交わりを通して、制度を中心とした高教会主義の教会観は大きな壁に突き当たった。モラビア派はドイツ敬虔主義の信徒運動の代表である。彼らは使徒継承の枠外にいる、教職不在の会衆である。しかし、制度としての教会に固執している自分よりはるかに質の高いキリスト教を彼らが体験していることを、ウェスレーは認めざるを得なかった。彼らこそは、使徒継承(apostolic succession)の外にいても使徒体験(apostolic experinece)を有しているキリスト者であった。
 やがてウェスレーがモラビア派の助けによりアルダスゲイトにおいてる信仰義認を体験すると、彼の教会観は敬虔主義的ダイナミズムをうちに宿すようになる。教会の本質は、ローマ教会や英国の高教会主義が主張するように、使徒継承によって守られているのではない。また彼はルターと同じ信仰義認を体験するが、16世紀宗教改革のような教理的こだわりとしての信仰告白・信仰箇条には関心を持っていなかった。むしろウェスレーの教会の本質についての理解は、彼の敬虔主義的福音体験から導き出された。「キリスト教とは、一連の意見や教理の体系を意味しているのではなく、人々の心と生活に関することがらのことである」(説教4「聖書的キリスト教」序・5)。キリスト教の現実は、使徒継承にあるのでもなく、信仰箇条の継承にあるのでもなく、キリスト体験の中に、信仰それ自体の中に、すなわち、生活の中でキリストを体験し、キリストのいのちによってわれわれが形づくられていくことにあるという。*22 そしてウェスレーは、このキリスト体験を「聖書的キリスト教」と銘打って、それが「個人に始まり、一人から他の人へと広がっていき、やがて地を覆おう」性質があることを説いている(説教4)。教会とは、この「聖書的キリスト教」の広がりと交わりの中で形成されるものである。
 ウェスレーにとって教会の本質は、使徒継承と職制を通じて今に伝わるキリストの権威にあるのではなく、正しい信仰告白を通して今に伝わる教理でもなく、生けるキリストを通して使徒の時代と何ら変わりなく今に与えられる救いの体験にあるという。これが先に述べた敬虔主義的ダイナミズムである。
 そうであっても、ウェスレーは国教会に対する一徹な愛と忠誠をはばかることなく口にした保守的な教会人であった。
私にとって、国教会との縁を切ることはあり得ない選択である。牧師として、その教理を教え、教権を執行し、教会規則に従い、そのことで非難を受けるなら、それをも喜んで受けよう。一個人としても、教理に違わず、祈り、説教を聞き、聖餐にあずかることで、その教権に参加する。*23
教会というものは、歴史的な「教会」の信仰を持っており、それは教職によって守られ、救いは教会から全く離れたところで与えられるのではなく、教会の信仰に「あずかる」ところに与えられるのである。ウェスレーは、そのような伝統的な教会観を失ったわけではない。伝統的な教会観の中に「敬虔主義的なダイナミズム」が宿ったと考えるべきである。ウェスレー没後、メソジスト諸派は、この二つの教会観の間に様々に揺れ動く。自らを歴史的教会の中に常に位置づけ、職制を確立し、伝統的な礼拝形式を守り、聖餐コミュニティーの形成につとめる群もあれば、歴史的教会を批判し、そこから離れた自らの独自性と純粋性を「聖書的」と誇り、個人の救いと霊的体験だけで教会が成り立っていると解する群もある。神の民としての教会の権威を重視しつつ召命を考える群もあれば、召命を単純に個人的な問題ととらえる群もある。そのどちらかの極端に傾くとき、われわれはウェスレーの見出した健全性から遠のいていく。
 さて、上述のことから明白であるが、ウェスレーは伝統的職制を壊して、メソジスト伝道者だけで独自の群を立て上げることなど全く考えていない。国教会の教職は、いわば旧約の祭司であって、一カ所に留まり、そこで聖餐コミュニティーを形成する通常の(ordinary)教職である。それに対して、メソジスト伝道者は、旧約の預言者のようであって、巡回しながら、説教を通しての伝道に専念するという特別の(extraordinary)職である(説教121「預言者と祭司」)。いうまでもなく、通常が基本である。しかし、この時代に特別な使命を果たすために、神はメソジストを起こされたというのが彼の理解であった。しかし、国教会の司教は誰一人彼の考えに賛同する者はなく、実際に二重の図式は対立構造となって、ウェスレーの没後は、メソジストが独自の職制を確立して、進発せざるを得ない状況となる。
 しかし、この二重の図式はメソジスト教会の中で、何らかの形で生かされてきた。メソジスト諸派によって現実は異なるが、そこには按手礼を受けずに説教だけに携わる説教者、按手礼を受けていても教会を牧会せずに巡回だけに専念する教職など、賜物や事情にしたがって柔軟な職位を教会内に認めてきた(しかし、教職と呼ばれるのは按手礼を受けた者だけである)。
 それだけでなく、ソサエティーのリーダー、組会のリーダー、礼拝所の管理人と、社会階層や性別に関係なく、多くの信徒によって運動が支えられてきた。こうした背景から、メソジスト諸派は伝道・牧会のためにさまざまな職を設けることに積極的であったし、教団や教会運営にあたって信徒に主体的参加が求められてきた。また女性の按手に積極的であったのもメソジストである。
 
B. メソジスト「職制理解」のその他の特色
 @宣教的教職観
 ウェスレーが信徒伝道者を福音宣証のための「特別な職」(extraordinary)として理解していたことは、既述の通りである。しかし、これは信徒伝道者に限るものではなく、彼はそもそも伝道を目的とした職制理解を教会全体に適用している。
一体、すべての教会制度は何のために存在しているのだろうか。それらは魂をサタンの力から神のもとへと救い出し、魂を神への畏敬と愛のうちに建て上げるためではないのか。それなら、制度はそうした目的に合致してはじめて価値のあるものとなる。……[神に対する知識と愛とが]ないところでは,最も使徒的な制度も無意味で無価値なものであろう。*24
ウェスレーによれば、教職制とは、救霊と救われたたましいを愛のうちに建てあげるために存在する制度であるという理解である。
 ウェスレー自身が按手礼を受けたとき、彼は教職の使命と権能は特定の会衆に制限されるものではなく、公同の教会と世界全体を対象としているという自覚に立っていた。彼はそのとき特定の教会に派遣されたわけではなく、オックスフォードの神学研究員としてキャンパスに籍を置いていた。その彼がジョージア宣教に出かけ広い世界を体験し、やがてアルダスゲイト後の彼を喜んで迎えたのは、特定の地域教会ではなく、野外の大会衆であった。このようにして、ウェスレーの頭の中には、地域教会を越えた広い世界に向けての伝道職務が初めから形づくられていた。以下の有名な言葉は、ブリストルでのリバイバル直後に彼が記したものであるが、そこには明確な教職按手の方向性を読みとることができる。
私は世界を自分の教区と考えている。すなわち、その世界のどこにいようが、救いの良き知らせを喜んで聞いてくれるすべての人々に宣べ伝える。それが私に課せられた責務である。これこそが神が私を召してくださった仕事であり、そこに主の祝福があることを確信している。*25
ウェスレーはこのときすでに、教区という枠を越えて説教することを批判されるが、彼の弁明は、@自分はオックスフォードの研究員として地域教会に縛られることなく広く説教することが許されている事実、Aすべての司祭は、教職按手礼の権能の故に、いかなる会衆にも、そこの定住司祭の要請があれば、説教できることは普遍的に認められているという事実、を挙げている。*26
 この点は、非常に重要である。教職按手礼というものは、これまで見てきたように多彩な歴史的意義を帯びている。たとえば、迫害と異端を耐えた初期キリスト教会で、監督を中心とする教職按手礼は、教会に求心力を与え、教会の正統性を守る役割を果たした。宗教改革にあっては、全信徒祭司主義に基づく神の民としての教会権威の回復に基づいて、教会(会衆)と教職との関係が注目を受け、また改革を押し進めるために正しい教えを聖書から紐解くという責務が強調された。しかし、ウェスレーにあっては、広い世界を相手にした伝道という使命を抜きにして、職制を語ることができない。教職者は特定の教団・教派にあって按手礼を受けていても、それは「世界を教区」として公同の教会に召され、救霊とたましいの建て上げという職務を神から受けているという。メソジストの伝道者は、こうした理由もあって、定住教会を持たず、巡回区に派遣され、ウェスレー自身も生涯巡回することを使命と感じた。やがて、メソジストの伝道者が教会の牧師になっていったとき、「通常の」(ordinary)職務観・教会観がより重要になってくることは言うまでもない。しかし、メソジスト派の中には、世界に向けての伝道を意識した「特別な」(extraordinary)職務観・召命観が根付いていることは確かである。
A職位の種類
 英国国教会は、司教(bishop)・司祭(priest)・司祭補(deacon)の三階職制によって成り立っている。ウェスレー自身、22才で司祭補、25才で司祭の按手礼を受けている。ウェスレーは、1746年にPeter Kingの『原始教会に関して』という本を読み、原始教会において、司教(主教)は長老/司祭と本質的には一つであるという結論を得た。すなわち、司教は、司祭と職階(order)においては同一のものであり、その違いは職位の問題ではなく、あくまで機能(function, office)における違いである。ウェスレーが1784年にアメリカのメソジストを統率するためにトーマス・コークをbishop(司教)、Superintendent(監督)という名称で按手しているのは、まさにそうした理解の反映であった。コークはしばらくして英国に戻っているが、その時には当然、「監督職」から降りて、以前の司祭に戻っている。
 同じ1784年にウェスレーはワットコート(Richard Whatcoat)とベイシー(Thomas Vasey)を長老(elder)に按手した。やがて英国メソジスト教会は、前段階としてのdiaconos、正規の伝道者としてのpresbyterosという英国国教会の区別を廃止することになる。それはもともと、信徒伝道者が教職扱いになるとき、段階は一つであったからである。
 信徒伝道者は、通常、社会的な職に就き、余裕のある時に説教をするような初歩の段階から始まっている。中には一時期職を離れ、伝道に没頭する者ものいた。そして、これらの中から、フルタイムに伝道の働きに従事する者が上がってきた。ウェスレーは彼らを「アシスタント」「ヘルパー」と名付けている。彼らは、試験期間(period of probation)を経て、地域の責任者から推薦を受け、その人格・神学的見解・賜物を年会で審議される。ふさわしいと認められれば、祈りをもって聖別され、"full connexion"、すなわちメソジストのコネクションの働きすべてにかかわる伝道者として就任し、同時に年会での決議権を与えれる。*27もちろん、国教会の枠内でのメソジストの働きであるので、彼らに聖礼典の執行は許されていないが、メソジストの中ではこれが「事実上の按手礼」に当たり、ウェスレー没後のメソジスト教会にあっては、同じプロセスで教職が按手を受けることになる。すなわち、そこには司祭補・司祭という2階職は存在せず、教職按手礼は一つとなる。*28
 
 B教職の資格
 では、ウェスレーは信徒伝道者に(事実上、後のメソジスト教職)どのような資格を求めていたのであろうか。国教会の神学教育機関はオックスフォードとケンブリッジだけという時代である。メソジスト信徒説教者たちがそこで教育を受ける時間はなかった。だからといって、内なる召命さえあれば、誰でも伝道職につけた訳でもない。ある時、「信徒でも説教できる、最も無知無学な者でも・・・・もし彼らが御霊の内なる召命さえ持っているなら」というのがメソジストのいい加減さだ、と批判されたことがある。その時ウェスレーは、上述の批判の前半部分は間違っていない、だが後半部分は不当な批判であるとやり返し、次のような伝道者の実質的な資格を要求している。
内的召命があるというだけで、その「最も無知な者」とあなたが批判している人々が、説教をすることを許されているわけではない。以下のような人々は、メソジストの説教者の仲間入りすることはできない。(1)真実に神に生き、神と全人類とを愛する“愛によって働く信仰”を体験していない者、 (2)神の言葉と人間の魂の内に働かれる神の業とに関する十分な知識のない者、 (3)罪人を誤った道から回心させることによって、内なる召命の確かさを証明できない者。そして、これらの資格を持っているかどうかを見るために、メソジスト伝道者は、一年ないしそれ以上は、試験期間におかれている。*29
 
W. 結語――方法論
    
 われわれが神学的な課題に取り組むとき、どのような方法論を用いるべきであろうかという問題は、こうした論説の冒頭に来るべきであろう。しかし、序文を終えて、本論に入る前に、あえてここでそれを踏まえておきたい。
 すでにウェスレーを学ぶ世界では市民権を得ていると考えるが、Wesleyan Quadrilateral(ウェスレー神学の四辺形)という表現に言われるように、ウェスレーは、神学的に物事を考えるときに「聖書・伝統・理性・経験」の4つの視点を大切にしてきた。*30 「四辺形」という用語をウェスレーが用いた例はないが、たとえば長編論文『原罪――聖書・理性・経験に照らして』の題名にあるように、彼は神学的な問題を多角的に分析することが常であった。もちろん、この4つはウェスレーにとって同列ではなく、常に聖書が第一の原則である。
 しかし、聖書でさえ、「伝統・理性・経験」という視点なくしては健全に解釈できないのである。いや、そもそも「聖書・伝統・理性・経験」という四辺形は、ウェスレーにとって聖書釈義の原則でもあったと考えることもできる。聖書は聖書をもって釈義する。これは、たとえば、信仰義認を強く主張するガラテヤ人への手紙は、行いを重視するヤコブの手紙を用いて解釈することで、正しく釈義することができるという意味である。また聖書は教会によるこれまで釈義の歴史、伝統的解釈を踏まえて解釈すべきであり、理性と経験に照らして解釈すべきだというのである。ウェスレーは聖書だけを読み込むことで、神学的な問題に決着を見ようとするナイーブな聖書主義者ではなかった。
 われわれが職制を理解しようとするとき、聖書に描かれている原始キリスト教の規範だけで論じることはできない。歴史を越えて存続し、発展し、時にゆがめられ、時に改革されてきた二千年の教会歴史とみずからを照らし合わせ、みずからを公同教会の一部であることを受け止め、その上でみずからの独自性を理解する必要がある。そのように史的公同の教会と照らしてみたとき、われわれが今まで無意識に了解してきたことに正統的・神学的な意味づけを加える必要があると感じる場合もあるし、またある事情に応じて派生した制度を本質論に戻って変更する場合もあろう。ともかく、公同教会の一部として、インマヌエルの職制を「聖書・伝統・理性・経験」に照らして再考することは、創設50年を経たいま、求められているように思う。
 IGMは、「聖と宣」を使命に伝道団体という名称を意識して使ってきた。その教会論は既成概念に縛られることなく、どちらかと言えば、自由で独創的なダイナミックスを含んでいたように思う。だがその反面、教団憲法から職制、式文から賛美歌に至るまで、「伝道団」ではなく正統的な「教会」として自らを確立し、歴史的公同教会の中で自らを位置づけることを決して軽んじることはなかった。ウェスレーはそもそも、教会論において自由で独創的な発想を持っていた人物である。しかし、同時に彼が健全な教会論を保ち得たのは、彼自身、初代教会から英国教会にわたる「伝統」に深く根ざしていたからである。それに倣う意味でも、職制をまず、歴史的に概観し、その諸問題を理解して、本論を読んでいただきたい。
 
 
参考文献
 The Ministry in Historical Perspectives, ed. by H. Richard Niebuhr and Daniel D. Williams (Harper & Brothers, 1956)
 
 Thomas C. Oden, Pastoral Theology--Essentials of Ministry (Harper & Row, 1982)
 
 山口隆康、「聖餐論の乱れと教職論」に関する一考察――日本基督教団兵庫地区における「未按手者の礼典執行」決議の問題、『宗教改革の世界史的影響』(新教出版、一九九八)、三二八〜三五一頁

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*1この時点で、監督(司教)がいわゆる「司教区」をもって広域を指導していたというような形跡はないが、たとえばアンテオケ教会のように地域の主要都市であった場合、その影響力は次第に地域一帯に及ぶようになったことは容易に想像できる。
*2 特に、初期キリスト教における司教像について、松本宣郎「初期キリスト教における司教」、土戸清・近藤勝彦編『宗教改革とその世界史的影響』、p.241〜256。
 
*3 『カトリックとプロテスタント――どこか同じで、どこがちがうか』徳善義和・百瀬文晃編、教文館、p.146)
*4 アレキサンドリア教会は、エルサレム、ローマ、アンテオケと並ぶ四大教会の一つであった。教会には、12人構成の長老会があり、その中で一人の監督(司教)を選出し、歴代の司教から按手を受けるというかたちで、教職制が確立されていた。クレメンスは、その長老の一人であった。
*5 『カトリック教会の一致について』4〜6。
*6 313年、ローマ帝国は公式にキリスト教を公認し、次第にローマ国教となっていく。ローマ皇帝テオドシウスが390、テサロニケ市民の暴動事件に怒りに駆られ、市民多数の殺戮を命じたことがあったが、時のミラノの司教アンブロシウスは皇帝を糾弾し、皇帝は司教の前で悔い改めている。後の皇帝アルカディウスは、アンテオケ教会で人望のあつかった司教クリュソストモスを、後期ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス教会の司教として招聘している。このように司教の影響力は帝国に広がっていった。皇帝は帝国の中で巨大な影響力を持っていたことは事実であるが、市民と日常的にふれあう存在ではなかった。しかし司教たちは、それぞれの都市にあって、幅広い階層にある市民のたましいを導き、死を看取り、死後の救いを約束するのであるから、その崇敬の念がいっそう司教に集まったことは言うまでもない。この段階ではまだ、主要都市の司教たちの優劣は認められないが、590年、グレゴリウス一世がローマ教会の司教に就任し、一挙に権力をローマ教会に集中させ、ここから教皇を頂点とする中世独特の教会観が形成されていった。
*7 時代的にアウグスチヌスより少し前に活躍した東方の教父ニュッサのグレゴリオスは、按手によって特別な賜物が受按者に与えられ、教職とされることは、聖霊によって聖餐のパンとぶどう酒が特別な恵みを帯びた存在に変化するのと同じであると、サクラメンタルなレベルで聖餐と按手の共通性を考えている(『キリストのバプテスマについて』、NPNF, vol.46, col.581)。だがグレゴリオスは、こうして与えられる変化が「消えざる」ものとは理解していない。『使徒伝承』の中でも、按手礼の際の祈りに、受按者から聖霊が決して取り去られることがないようにと式文にあるが(viii, 28, 46)、「消えざる」ものとしては考えられていない。アウグスチヌスからしばらくして開かれるカルケドン教会会議(451)においても、東方教父たちは依然として、問題のあった司教が、そのランクを落とされるのか、教職から除名され信徒に戻るのかを論議している(canon 29)。しかし、カルケドン会議で東方と西方のキリスト教はたもとを分かつことになるが、西方ではアウグスチヌス以来の「消えざる印章」の教理が確立されていく。
*8
*9 ユスチノスは、この説明を秘密儀式として疑われていた礼拝を弁護する意味で、なるべく一般の人にわかりやすい言葉を用いて書いている。ここで「司会者」とあるのは司教のことである。
*10 詳細は、Bard Thompson, Liturties of the Western Church, Fortress Press, 1961, pp.27〜51。
*11「だれでも、ミサにおいて正真正銘の犠牲が捧げられていないと言う者は、呪われる。……
 だれでも、ミサの犠牲がなだめの供え物ではなくして、単なる賛美と感謝であるというなら、あるいは十字架上で全うされた犠牲の記念であると言うものは、呪われる。だれでも、ミサの犠牲がそれを受ける人物だけを益するという者は、すなわちそれが生ける人と死せる人との罪のために、その処罰のためになされると主張しない者は、呪われる」(canons 1, 3)。
*12 ローランド・ベイントン『我ここに立つ』(聖文舎)、p.34。
*13 前掲書、p.47。
*14 前掲書、p.63。
*15「ドイツ貴族への言葉」(1521)、ヘンリー・ベッテソン『キリスト教文書資料集』(聖書図書刊行会)、p.279-280。「全信徒祭司」については、同じような説明は初期キリスト教でもテルトリアヌスの見解に見られる。「われわれ信徒もまた祭司ではないか。「彼はわれらを神とイエスの父の御国、祭司となしたもうた」と書かれているのである。聖職者と民との相違は、教会の権威と、聖職に特別の座を備えて彼らの地位を聖別したことに基づいている。したがって、聖職者の席のないところでは、あなたがたがささげたものをし、バプテスマを授け、自分たちが唯一の祭司となるのである。三人の人がいれば、たとえ彼らが信徒であっても、そこに教会がある」(「純潔の勧め、7)。
*16 前掲書、p, 281。
*17 「左派」という名称は、彼らが国家と教会とを分離するという考え、すなわち、上からの宗教改革を反対し、また時に権力に反して独自の改革を押し進めたことに由来している。
*18 Richard L. Greaves, "The Ordination Controversy and the Spirit of Reform in Puritan England, " Journal of Ecclesiastical History(1970), p.225。
*19 日本の教会観は、言うまでもなくアメリカのデノミネーショナリズムに強い影響を受けている。しかし、それもまた幅広く、そこから職制を論じることは多難であるので、ここでの考察はウェスレーに留める。
*20 手紙、1725.1.25; Bicentennial Edition of John Wesley's Works, vol.25, p.60.
*21 加えてウェスレーは、『聖職者への一言』にあるように、牧師に緊密な理詰めをする能力、生き生きとした発想の転換、優れた記憶力、幅広い知識、原語による聖書研究、歴史・科学・哲学・キリスト教歴史・現代社会に関するを求めている。兄弟たち。これがわれわれの召されたところではなかろうか。……それなら、その目標からはるか離れた状態に甘んじる理由があろうか。召されたところよりはるかに低い次元にとどまっている必要があろうか。……愛に燃えて、ホーリネスに輝きたいと望んでいるのがわれわれではないだろうか。そうであろう。これらが最大の祝福として与えられることも重々わかっているではないか。……それなら、主が生きておられるのだから達成できるように(Works, x, p.500)。
*22 『ウェスレーの神学』、p.105。
*23 「メソジストの原則の詳細」(Principles of a Methodist Further Explained), Works, [, 444。
*24 手紙,to John Smith, 1746.6.25, §10。
*25 手紙,to James Hervey, 1739.3.20。
*26 Works, [, 117-118, 440。
*27 Works, V, 20。またp.35を参照。
*28 だが、1783年に自らの死後に活動する年会制度を定めるが、その時、年会運営を100人に絞って認定する。すでにこれまで年会に招かれていた信徒説教者の数は192名である。したがって、"full connexion"に認められた伝道者のうち、正規の年会員となる100名と、そうではない伝道者の区別が生じる。しかし、これはあくまでも年会運営の機能上の問題で、職位の差ではないことは明記しておく。
*29 手紙、to George L。Fluery、1771.5.18,§16; 手紙、to John Topping, 1752.6.11。また説教38「頑迷に対する警告」三・9には以下のようにある。「どういう方法で調べるのでしょうか。ギリシャ語の文章の解釈をさせるのでしょうか。そうしてごく当たり前の二、三の質問をするのでしょうか。こんなことでキリストの奉仕にふさわしい根拠となるのでしょうか。いいえ。明確ではっきりした試験をするのです(ヨーロッパの多くのプロテスタント教会で依然として行われている方法ですが)。彼らの生活が聖く、責められるべきものがないかどうかを調べます。キリストの教会を建てあげるために、絶対的に、どうしても必要な賜物を与えられているかを調べる必要があります。」
*30 Albert Outler, "The Wesleyan Quadrilateral in Wesley," Wesleyan Theological Journal 20(1985).1:7-18; William James Abraham, "The Wesleyan Quadrilateral, " Wesleyan Theology Today(1985), ed. by Theodore H. Runyon, p.119-26; Donald Thorsen, The Wesleyan Quadrilateral (Zondervan, 1990)Rnady Maddox, Responsible Grace (Kingswood Books, 1994).