題      名: タラントのたとえ
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.02.27 - 15:14
タラントのたとえ
           
マタイ25:14−31

14節「天の御国は……のようです」と始まります。神の国を生きる私たちの姿が描かれています。私たちそれぞれが神からタラントを託されています。タラントというのは、英語のタレントということばが、ここから派生するように、「神から授かった賜物」です。私たちはみな、このタラントを神から託されているというのが、このたとえ話の表現です。 
 あずけられたタラントの種類や量はそれぞれ違いますが、それを用いることが期待されているのです。そしてやがて、それがどのように用いられたかを、主人の前で、神の御前で問われるときが来ます。
 ここに登場するのは3人のしもべです。一人は5タラントあずられ、もう5タラント増やします。もう一人は2タラントあずけられて、もう2タラント増やします。ところが、1タラントをあずかったしもべは、その財産を地に埋めて、増やそうともしませんでした。今朝、私たちが注目するのは、このしもべです。このしもべの少々歪んだ生き方に心を留めます。それは、私たちに似ているからです。

                    ●自分を見る目

 まず歪んでいたのは、彼の自分を見る目だったのかもしれません。彼の自己評価です。1タラントというのは、6千デナリです。1デナリが日当にそうとするといわれていますから、仮に1万円と考えれば、なんと彼には6千万円もの大金が預けられたことになります。最初は有頂天だったに違いありません。相当信用を主人から得ていなければ、そんな大金預けられるはずがありません。
 ところが、向こうから歩いてきた仲間と話しているうちに、「えっ、君もか。いやー、ぼくも任されたよ。それで額は?」「うん、2タラント。1億2千万だよ」。
「えーっ、そんなにたくさんか?」
「いや、ぼくなんかたいしたことないよ。鈴木さんは5タラントだよ。3億だよ」
 1タラントをあずかったしもべは、なんだか気持ちが暗くなりました。「なんだ、平等じゃないんだ……」
 平等じゃないですよ。これは覚えておかなければなりません。先日の「ぶどう園の労働者」のたとえで勉強しました。朝6時に雇われた人にも、朝9時に、昼の12時に、午後の3時に、いや最後夕方5時に入った人にも、報酬は1デナリでした。その時申し上げました。神の愛に、1/12はないと。神の愛は等しく私たち注がれます。その意味で平等です。
 しかし、私たちには違いがあります。身体能力、音楽的完成、計算する力、記憶力、家柄、才能、教育。何一つとっても平等ではありません。そんなこと、重々承知しています。イエスさまはおっしゃいました。「主人は、おのおのその能力に応じて(能力にふさわしく)、タラントを託したのです。5タラント扱える人には5タラント、2タラント扱える人には2タラント。それは神さまの配慮であり、当然のことでした。
 しかし、1タラントを託されたしもべは、他のしもべと比較することで、不平等に憤り、自分の能力に卑屈になり、人生が急につまらないものに見えてきたのです。神が与えてくださった能力も、自分の特性も、そこに託された1タラントという賜物も、人と比較したとき、すべて色あせていったのです。
 教育について、こんな話があります。昔ある時、森の動物たちが集まって、動物社会向上のために学校を設立しました。学科は、走り方、登り方、泳ぎ方、飛び方の4科目です。学科運営を単純にするために、動物たち全員が4科目必修となりました。
 アヒルは、泳ぐことにはきわめて達者です。泳ぎは上手なので、泳ぎ方のクラスは免除され、放課後も含めて、走ることに集中することになりました。おかげで、ヒレ足は傷だらけとなり、泳ぎ方教室に戻ってみると、平均点しか獲得できません。走り方教室でトップだったのはうさぎです。でも、泳ぎ方 教室でいっこうに成績が伸びず、本人はノイローゼ気味です。登ることにかけて、りすの腕前はかなりのものでした。でも、飛ぶことが苦手です。彼も、せめて木の上からでしたら、ある程度は飛ぶ技術を学ぶことができたかも知れません。しかし、先生は地面から空へ飛べるように徹底指導したのです。問題児は、はげたかです。協調精神が全くありません。しょっちゅう学校をさぼり、さいごまで一人でいじけていました。
 話の趣旨はきわめて単純なことです。どんな動物も、それなりにすぐれたものを自然の賜物として与えられていて、規制の枠に無理矢理当てはめようとすることがそもそもの間違いだというのです。アヒルは池の上をすいすいと泳ぎますが、走るようには創造されていないのです。はげたかは、大空高く翼を広げて、登っていきますが、みんなでいっしょに、教室に入るタイプではないでしょう。神さまは私たちをみな同じようには創造されませんでした。一人一人個性を持った存在です。だれ一人、同じではありません。能力も違います。
 しかし、14節にあるように、私たちはみな「神のしもべ」です。そして、主は私たち一人一人にタラントを与えておられるのです。タラントの種類や量は違っても、主の信頼と期待は、同じなのです。3人にしもべに同じように信頼を寄せ、期待しておられるのです。それが見えなくなって、人と自分を比べてしまうと、私たちは卑屈になるのです。


                 ●神を見る目

 このしもべの神を見る目が歪んでいました。
 24節「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。」
 この男の心にあったことは何でしょう。怠慢だったのではありません。むしろ彼はまじめで、それが故に、冒険をしないで、無難に持ちこたえることを考えたのです。それはそれで賞賛されることでしょう。しかし、彼は主人を信頼していませんでした。
 イエスさまがここで描いているのは、当時の律法学者パリサイ人の生き方に違いないのです。落ち度なく律法を守り、まじめに生きることをします。人から批判されないように気をつけます。神さまからあずかったタラントを大事に埋めて守ります。しかし、そこには神への信頼はありません。彼らが抱いていた神のイメージは、失敗や間違いを厳しく追及する、怖い厳しい神です。そんな厳しい神におびえて、恐れの中に住んでいたのです。
 お年寄りの修道士が、こんな告白をなさっています。
 「私は若い頃、自分のなす過ちに責め苦ばかりを感じて、神の御前に姿勢を正していました。しかし、年齢と共にこの方のおおらかな愛に目覚めるようになりました。小さい頃、家の戸棚の上にあるクッキーの間から、母親の目を盗んで、こっそりクッキーを一枚食べて、心を痛めて神に祈りました。でも今振り返ると、神が目を細めておっしゃるような気がします。『1枚といわず、どうして2枚取らなかったんだ』と」
 イエスさまは、御自身からおっしゃいました。
 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく遜っているから……。」

                    ●神のパートナーとして

 この方の優しさ、この方の愛、この方の配慮に守られて、私たちは、神さまによって任されたタラントをこの手で、この人生で、何倍にも増やすことができたら感謝です。主はそのことを期待して、私たちに才能を託し、人間関係をもたらし、時や財を与えてくださいました。
 そして任せられたしもべたちは、しもべというよりは、神の国のパートナーではありませんか。神さまは、私たちを用いて、その働きを勧めるとまかせてくださるのです。
 ストラディバリウスというバイオリンの名器があります。名匠アントニオ・ストラディバリウスによってつくられたバイオリンで、いまから250年ぐらい前の作品です。今では、何億という値段が付けられます。詩人ジョージ・エリオットは、「ストラディバリウス」という詩を書いていますが、その中で、詩人は、ストラディバリウスをして、こう語らせています。「神は、アントニオ・ストラディバリウスなしには、ストラディバリウスのバイオリンをつくることはお出来にならない。」
  勿論、神さまは、全能な御方ですから、アントニオなしに、バイオリンをつくることができるでしょう。しかし、神さまは、あのすばらしい音色の出るバイオリンを、他ならぬ、アントニオ・ストラディバリウスの手を使って、おつくりになることを意図された、というのです。
 非常に誇り高き発言ですが、同時に、神によって選ばれることの尊さを、素直に表現しています。私たちは、アントニオ・ストラディバリウスではありません。しかし、同じことは、誰の人生にもいえるのです。神さまは、神の国の進展に、私たちの手を用いることを選ばれたのです。みな、神の僕として、それぞれの能力に応じて、この世のいのちが与えられています。
 「炉端の婦人」という物語の中に、以下のような文章があります。「主は、私たちの手を御心のままに用いられる。神は時には牧師の手を取って、それを幼子の頭に置き、その子を祝福される。主は、医者の手を用いて苦痛をやわらげ、母親の手を用いて子どもを導かれる。また時には、私のような老人の手を用いて、隣人にいくらかの慰めを与えさせなさる。しかし、これらは聖名、御霊によって触れられた手である。御霊は至る所で、用いるべき手を探し求めておられる。」

イエスさまはおっしゃいます。
 「さあ、あなたの手に、この人をあずける。この仕事を託す。思う存分やってごらん。わたしは厳しくはない。わたしが一緒にいる。わたしが、あなたのその手を使うのだ。」