題      名: キリストと最も小さき者たち
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.05.07 - 22:27
キリストと最も小さき者たち
   マタイ25:31−46

 ロシアの文豪トルストイの作品に『愛あるところに神もまたある』という話があります。通称、「靴屋のマルチン」と呼ばれている話です。ある町にマルチンという靴屋が住んでいました。窓が一つしかない地下室に住み、いつもその窓から、通りをすぎていく人々の足だけを眺めて生活してきました。まじめな実直な人物でしたが、妻に先立たれ、息子も失い、絶望の淵に落ちてしまいます。ある日、牧師が革の聖書を修理してほしいと聖書をおいていきます。それを暇に任せて読んでいくうちに、どんどん引き寄せられて、信仰を持つようになります。
 マルチンは聖書を読むうちに、イエス様に会いたいと思う気持ちがつのってきました。そんなある日の夜、夢の中に現れたイエス・キリストがマルチンにこう言います。
 「マルチン、明日、おまえのところに行くことにしてあるから、窓の外をよく見てご覧。」
 次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているお爺さんが。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それから、今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、その親子を家に迎え、ショールをあげました。
  まだかまだかと待っていながら、一日は終わっていきます。ああ、イエス様はとうとう来てくれなかった、やはりあれはただの夢だったのかなあと思いながら、仕事のあとかたずけをします。天井のランプをテーブルの上に移し、福音書を棚からとり出して机の上に置きました。
 福音書を読み始めようとしたとき、後ろで気配がします。
 「マルチン、わたしがわかりますか。」
  「わたし、わたしだよ。」――雪かきのお爺さんが姿をあらわしました。微笑んだかと思うと、消えてしまいました。
 「今度はわたし。」――赤子とその母親が現れ、二人ともにっこりして、消えました。
 マルチンは心が喜びで満たされました。十字を切り、福音書を読み始めました。そこで彼の目にとまった聖書の箇所が、35節です。
 「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、あなたは訪ねてくれました」
 「靴屋のマルチン」というトルストイの作品はイエスさまのたとえ以上に有名になってしまったのかもしれません。そして、この話は、たとえ話のエッセンスを上手に語っているます。しかし、イエスさまのたとえは、もう少し広く深いことを語っています。

1)イエスは何度もあなたの前に来られる。
 たとえば話は、31節「人の子がその栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴ってくるとき」――ここから始まります。キリストが再び来るのですから再臨です。クリスマスの日が、キリストが点からこの世に降りてこられた降臨であるとすれば、ここで描かれているのは再び来られる再臨のできごとです。
  しかし、主は、その間、何度も何度もあなたの前に来られる、とおっしゃっているのです。クリスマスと再臨の間に、イエスさまは「見よ、私は世の終わりまであなたがたと共にいます」とおっしゃいました。主は、いつもともに立ってくださり、歩んでくださり、私のようなもののうちに住んでくださいます。
 しかし、それだけではないのです。ここがこのたとえの重要な点です。イエスさまは、何度も何度もあなたの所に来られます。25節を見たらわかるように、主は飢え渇いた者とて、旅人として、裸の者として、病んでいる者として、労の中にいる者として、哀れな者、小さな者、虐げられている者の姿をとって、何度も何度もあなたの所に来られるのです。40節には「これらのものの最も小さな者」の姿を取って、主は来られるというのです。それをある人々は、知らずに食べさせ、飲ませ、着せ、看護し、慰めを与えます。それをある人々は、無関心に通り過ぎていきます。
 私たちは先日「良きサマリヤ人」のたとえを見ました。強盗に襲われて道ばたに倒れている人を、無関心に通り過ぎていく人、そしてかわいそうに思って近寄って介抱するサマリヤ人。そこで主が教えてくださったのは隣人愛でした。しかし、このたとえでは、さらに深い真理をイエスさまは教えておられます。「隣人ではない、そこであなたに出会ったのは、わたしだ」。「そこでわたしが、あなたを待っていた」。「わたしがあなたに出会うのは、教会だけではない、聖書のみことばを通してだけではない、この世の最も小さな者を通して、わたしはあなたの所に来る」。

2)主の到来を見過ごす私たち
 飢えた子ども、拠り所のない旅人のような難民、着る者さえない貧しい人々、病人、牢にいる人。相手にしないのは、なぜなのでしょう? 自分のことで精一杯という自己中心、小さき者たちに価値を見ようとしないこの世の考え方、そして彼らの中に主がおられるという霊的洞察の欠如が原因でしょう。
 以前にも話しました「逃亡者」という話ほど、私たちの霊的洞察の欠如を痛感させるものはない。ある日の、戦争の国の出来事です。若き兵士、敵の手に捕らえられて、収容所を脱走して、小さな村に逃げ込みました。村の人々は親切でした。彼に食べ物を与え、泊まる場所も与えました。しかし、そこに逃亡した兵士を捜しに、軍隊がやってきた。
 「逃亡者がでた。おまえたちかくまっているんだろう」
 村人は、一転して恐怖のどん底にたたき込まれました。軍隊は脅した
 「逃亡者を出してもらう。さもないと、村に火を放つ」
 村人は困って、牧師のところに相談に来ました。牧師は、心が引き裂かれました。逃亡者を敵の手に渡してしまおうか。彼を見捨てようか。しかし、かくまったままで村人に被害がでたら、大変なことになる。困惑した牧師は、書斎に引きこもり、聖書を読んで、神さまの御心を求めたのです。そして、彼の目は一つの聖句にとまりました。
 「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びない方が、あなたがたにとって得策だと言うことを考えに入れてください」(ヨハネ11:50)
 これは、大祭司カヤパの言葉です。イエスさまを殺そう。生かしておくと、イスラエルの国全体が危険だ。
 牧師は聖書を閉じて、それから軍隊を呼び寄せて、彼らに青年が隠れている場所を教えた。軍隊は逃亡者を殺しました。村人はみんなで祝いました。村は救われたのです。しかし、その祝いの食事に牧師は参加できませんでした。彼は胸が痛みました。そして、自分の部屋に引きこもっていました。
 その晩、天使が彼に現れ、言いました。
 「おまえは、なんということをしたんだ。」
 「私は、逃亡者を敵の手に渡しました」
 すると天使は言いました。
 「なんということをしたのか。おまえは、救い主を手渡したということがわからなかったのか?」
  「そんなこと、私にわかるわけがないじゃないです」――牧師は頭を抱えて言いました。
 「いや、おまえにはわかったはずだ。もしおまえが聖書を読む代わりに、あの青年に一度でも会いに行っていれば、そして彼の目を見れば、おまえにはわかったはずだ」
 救い主イエスさまを聖書に探します。聖書の中で主に出会うことができます。しかし、それだけではありません。主は実際にあなたの所に来られます。小さき者、おびえた者、飢えた者の姿をとって。それが、あなたにわからなかったのか?
 イラクに人質になった3人は、死んでも仕方がないというのは、まさにカヤパの論理です。自衛隊派遣という国益のために、自己責任で死んでも仕方がない。逆に、アジアやイラクの子どもたちにできる限りのことをしたい、救出された後も、日本での騒ぎを知らずに、できたらもう一度イラクに戻りたい、といったあの女性のコメントは、イエスさまの論理です。
 人質になった3人、それを救出しようと一生懸命な家族の実体を暴いて、批判するのは、自分の罪をよそに、姦淫の女を暴き出して、石打にしようとよってたかって非難する人々と同じです。

3)さて、これが最も厳粛なポイントです。それは、この場面が、最後の審判のときだということです。
 31節で「人の子がその栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴ってくるとき」。主が来られるのは、人を裁くためです。神の国にふさわしいものとそうでないものとを、より分けることです。ですから、このたとえの最後は、こうなっています。
 46節「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」。
 マタイの福音書では、天国に入れない人々の悲劇が、いくつか記されています。
 一、山上の垂訓の最後で、みことばを聞くだけで実行しない人々、「主よ、主よ」と呼んでも、主との交わりにない人。
 二、道ばたで拾われるように、婚礼に招待されて、やってきたのはいいのですが、婚礼の礼服を着ていない人、すなわち、招かれた特権を気にもかけず、感謝もせず、漫然と生きている人。
 三、先週学びました、10人のおとめ。そのうちの5人は、天国にはいるはずが、また入るために待ちこがれていたにもかかわらず、油断して、心が主から離れていた人たち。
 これらをまとめると、どういうことになるのでしょうか
 ・口だけの信仰にならないように。信仰を生きるように。
 ・救いは特権です。賜物です。感謝して受け取りなさい。
 ・目を覚まして祈り続けなさい。自分は大丈夫と思うときに、あなたは足をすくわれるのです。人は弱い者だということを覚えて起きなさい。
 そして、ここに出てくるのは第四番目です。わたしは、小さき者、最も小さい者、牢につながれた者、飢えた者、病める者の兄弟です。彼らを慰め、助ける愛は、(このように申し上げて差し障りないと思います)、わたしの十字架を信じる信仰と同じく決定的に大切なのです。トルストイの原題「愛のあるところに、神もまたあるのです」の逆もまた真理で、「愛のないところに、神もまたおられないのです」と私たちは考えるべきです。
 主は何故、そこまで小さき者たち、虐げられた者たちの味方なのでしょうか。そこには決定的な理由があります。それは、主の十字架とは、まさにそのようにこの世で最も虐げられ、最も卑しめられたものだったからです。主だけが、彼らの心を知っておられるからです。