題      名: ヨナの祈り(2)――神の御思いに近づく
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.07.23 - 11:52
ヨナの祈り(2) 神の御思いに近づく
       ヨナ4章全

●方向がかみ合わない
 ヨナが向いている方向は、神が御顔を向けておられる方向とかみ合いませんでした。大国アッシリアの首都ニネベを罪と滅びから救い出すために、ニネベに行って預言をしなさい、と言われたとき、ヨナは逆のことを考えました。
 「とんでもない、あんな町で預言をしたら殺されるかもしれない。あんな町、滅んでしまえばいいんだ」
 ヨナは、ニネベと反対の方向に逃げていきます。ヨナの向いている方向と神が向いておられる方向がかみ合わないのです。
 こうして神の御顔を避けて逃亡を図ったヨナですが、神は彼をあきらめず、彼を追いかけ、大魚の腹という試練を用意して、彼の心を捕らえたのです。魚の腹という試練の中でヨナは祈りました。聖なる宮をもう一度仰ぎ見たい、と。その祈りに、主は憐れみをもって答えてくださり、彼は再び生かさ、ニネベに向かいます。
 ニネベについたヨナは、人々の罪深い生活に対して神の裁きが近づいていることを宣告します。四〇日もすれば、ニネベの町は滅ぼされてしまうという厳しい災いの到来を予告です。なんと、人々は、ヨナの預言に心を刺され、神を信じ、断食に入りました。
 「そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高いものから低い者まで荒布を着た」(三・五)
 ヨナの予測に反することだったに違いありません。王までが、荒布をまとい、灰の中に座って、神にその罪を悔いたのです。聖霊の働きです。神のことなど眼中にもない、繁栄と堕落を楽しんでいる大都会が、断食をして悔い改めるのです。こういう箇所を読むと、神はこの日本にもリバイバルを起こしてくださるという希望を私たちは抱くことができます。まったく異教の、罪深いニネベが、聖霊の力によってひっくり返されてしまうのです。
 その結果、「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になって、彼らに下そうとしておられた災いを思い直された」(三・一〇)。
 ヨナ書はこの三章で終わっていても不思議ではありません。ところが、ヨナ書には重要な四章が付加されています。その四章はこう始まります。
 「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた」
 神の向いている方向とヨナの向いている方向がまたもや逆なのです。一章と同じ問題がまたもや展開されます。
 ひとりの男が町に引っ越してきました。彼が近所を散歩していると、向こうに見えるのは、家の玄関で冷蔵庫を運び入れようと奮闘しているおじさんの姿です。近所の人と親しくなろうと思って、彼は走り寄って声を掛け、助けをかって出ました。
 おじさんは大喜びです。二人の男が大きな冷蔵を両脇から抱えて、玄関のところで動かそうと必死です。しばらく苦闘したのですが、一向にらちがあきません。どうにもならないと、汗をぬぐって、申し訳なさそうに男が言いました。
 「おじさん、ごめん。ぼくの力不足です。この冷蔵庫、このドアから入れるのは無理だと思います」
  びっくりした顔で、おじさんは彼に言いました。
 「えっ、君は冷蔵庫を家に入れようと思っていたの? 私は家から出そうとしているんだよ」
 向いている方向が違うのです。神は、ニネベの人々の罪深さに心を痛め、ヨナの口を借りて裁きを宣告することによって、なんとしても彼らを救いたいと願っておられ、ヨナを遣わしました。究極の目的は、彼らを救うことでした。ところがヨナは、むしろ彼らが滅んでしまうことを願っていました。そんなヨナは、ニネベの人々が救われたことで、かえってへそを曲げてしまいます。神の御心とかみ合わない、ヨナがここにいます。
 二節で「ヨブは怒って、主に祈った」と記されているように、神とは逆の方向を向いているヨナは「祈り」の中で、その心を探られます。この祈りの場面を二つの点から学んでみましょう。

●ヨナの問題
 まず祈りの中で、ヨナの預言者として、いや信仰者として、人間としての問題が表面化します。ニネベの人々が悔い改めたという事実は、ヨナを不愉快にさせました。
 「このことはヨナを非常に不愉快にさせた」(一節)。
 「非情に不愉快」とは、怒りを感じた、苛立ちを感じた、という露骨な感情の表れです。ヨナは「不機嫌」(六節)なのです。どのような心理状態なのでしょうか。神がここで滅びをとどめられたら、滅びを宣言した預言者の面子がつぶされる、という思いもありましたでしょう。いや、もう少し心の内側を察すると、彼は神の豊かな憐れみが気に入らないのです。二節の後半に、「私はあなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されること」がはじめからわかっていたから、悔い改めを説教することが嫌だった、と感情を神にぶつけます。神のあわれみ深さが気に入らないのです。いや、そのあわれみが自分に向いている分には良いのですが、ニネベに向けられていることが許せないのです。
 自分の思い通りに、願い通りに物事が進んでいかないときに、私たちは不機嫌になり、不愉快になります。それを露骨に表現しているのがヨナの祈りでした。その祈りの中で彼は訴えます。「生きているより死んだ方がましです」(三節)。このセリフは八節にも出てきます。「生きているより死んだ方がましだ」とは、私たちがよく聞くセリフ、よく言うセリフです。
 神は、ヨブの祈りの背後に隠れた、わがままで子どもじみた姿をとうごまを使って暴露されました。私は、とうごまを見たことがありません。キウイのように、葉っぱが大きく、あしたばのように、あっという間に育って、しかし茎が細いので、すぐに枯れてしまうそうです。吉田兄に教えて頂きましたが、とうごまから「ひまし油」ができて、それが戦争中、戦闘機のエンジンの潤滑油だったというのです。さて、神の与えられたとうごまを通した教訓を見てみましょう。

 「ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。
 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ」(五〜八節)。

 ヨナの心理に私たちの注意をもう一度向けましょう。
 一、自分の願ったとおりに物事が展開しないと、途端にへそを曲げる。
 二、自分の頭の上に影ができて、涼しくなっただけで、単純に喜ぶ。
 三、そして、とうごまが枯れてしまえば、嘆き、不機嫌に戻る。
  信仰が情けないほど幼稚です。利己的な範囲でしか神を捕らることができず、自分の気持ちがいつも前に出て、祈りが展開されています。自分の思い通りに物事が進めば、恵まれて喜び、その通りに行かなければ、ふてくされて、信仰もしおれてしまうのです。それを、ヨナは「当然のこと」として不満をぶつけています。利己的な祈りは、信仰の幼稚さをあらわにします。試練の中で信仰の幼稚さが暴露されたと言っても良いでしょう。

●神はヨナを変えられる
 さて、ここからが今日の大切なメッセージです。六節に「神である主は、一本のとうごまを備え」と記されています。この言葉を見たとき、先の物語を思い出します。それは、神に逆らい、御顔を避けて逃げ回っていたヨブを捕らえるために、神は「大きな魚を備えた」(一・一七)のです。神は大魚という試練をヨブに備え、聖なる宮を再び仰ぐように、導いてくださいました。大魚の腹の中で自分の歩みを考えて、試練の中で悔い改めて、ヨブは信仰を取り戻したのです。神は私たちにも大魚と呼べるような試練を備えて、私たちの信仰を回復させてくださいます。
 では今回、「とうごま」を備えた神は、ヨブに何を教えようとされているのでしょうか。とうごまが成長すると喜び、とうごまが枯れるとふて腐れ、出来事に振り回されて一喜一憂しているヨブです。神の御心を考えることもなく、神の側に立つこともなく、わがままに生きているヨブに、神はとうごまの試練を与えて、何を教えようとされているのでしょうか。
 「ヨブよ。成長しなさい。この試練を通して、幼稚な信仰から脱却して、もう少し成長しなさい。きよめられなさい」ということではないでしょうか。「今回あなたのために備えた『とうごま』という試練は、あなたが自分を見つめ直し、あなたの信仰がきよめられるためにあるのです」という神の声が聞こえてこないでしょうか。

 ある女の子がお父さんに悩みを相談しました。
 「お父さん、私の人生がどんなになっているか知っているでしょう。ろくな友だちはいないし、問題ばっかり。学校でも、家でも、遊びに行っても、いやなことばっかり。もう私、こんな人生、うんざり」
 お父さんは、シェフです。料理を仕事にしています。お父さんは娘を台所に連れて行って、鍋も三つ取って、その中に水を入れて火にかけました。水が沸騰すると、彼は一つの鍋にはジャガイモ、もう一つにはたまご、そして最後の鍋には、粗挽きのコーヒー豆を入れました。
 女の子は腕組みをして、壁により掛かって、ふて腐れて見ています。
 「ねえ、いつまで待たせるのよ」
 「まあ、いいから一五分待っててくれよ」
 それからお父さんは、ゆであがったジャガイモを皿にのせ、同じようにゆでたたまごを皿にのせ、コーヒーをカップに注いで、言いました。
 「なんだかわかるか?」
 「ジャガイモとゆでたまごとコーヒーでしょう?」
 「もうちょっと観察してよ。ジャガイモさわってみてよ」
 女の子は反応しました。
 「うん、やわらかい……」
  それから、殻をわって、きれいなゆでたまごをとりだし、香ばしいコーヒーをカップに注ぎました。
 お父さんは言いました。
 「なあ、おまえ。じゃがいももたまごもコーヒー豆も、熱いお湯の中に入れられて、大変だったんだよ。ねっ。それからそれぞれ違う反応に出たんだ。
 固くてがっしりしたジャガイモは、ホクホクになっただろう。
 薄い殻に包まれ、中身はどろっとしたたまごは、熱いお湯の中でしっかりと固まったんだ。
 それから、コーヒーね。これはちょっと変わっているんだ。自分の中の成分を外に出して、いつの間にか水の色も香りも変えてしまったんだ」
 そして、きょとんとしている娘に言いました。
 「それで、おまえはどれだ? ジャガイモ? たまご? コーヒー豆?」
 「まあ、どれでもいいだろう。でも煮えたお湯の中に通されて、ジャガイモもたまごもコーヒー豆も姿をかえたぞ。
 人生だっていろんな事が起こるだろう。いろんな変化が押し寄せるだろう。でも大切なのは外側のことではないんだぞ。大切なのは、そうした変化を通して、自分の内側がどう変わるかだよ」
 
 とうごまという試練を通して、ヨブの内側が変わっていきました。
 「主は仰せられた。『あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか』」(一〇〜一一節)。
 対照されているのは、一〇節の「あなた」と一一節の「わたし」です。小さな自分の世界だけで喜んだり悲しんだりしているヨナと、大都会ニネベを、そこに含まれる家畜さえも大切に思っておられる神とのギャップがどれほど大きいかがわかります。神の御心を求める努力をせずに、自分の願いだけ祈り、そしてその結果だけで、不機嫌になったり、喜んだり、不愉快になったりしていたヨブ。そのヨブは、とうごまの試練を通して、教訓を学びました――自分は変わらなければいけない、自分は変えられなければならない。
 ヨブは祈ったはずです。この自己中心な思いをきよめてください。主よ、この罪深い世界に対してあなたが抱いておられる愛が、あなたの悲しみが、あなたのみこころをがわかるような信仰者に、私を成長させてください。