「悲しみの人で病を知っていた」(アドベント-1) イザヤ書53:1-6
★11月28日は、交換講壇でした。高津教会の藤本満先生が桂町教会でメッセージされ、桂町教会の矢木良雄先生が高津教会でメッセージされた日曜日でした。
★要旨 (しっかりとメモをとっているつもりでも聞き逃しや勘違いもあります。しかし、主がとらして下さったメモであることを信じて要旨として掲載します。)
◎イザヤ書の構造
1章-39章:厳しい審判、叱責がある。さばきのメッセージが込められている。(バビロンの手に落ちる)
40章-50章(66章):神の民が彼らの地に帰る、救い主がおいでになる、という神の約束がある。⇒明るい希望。
52章12節−53章 しもべの第四の歌:がらっとかわる。
さあ、国に帰ろうと希望を持っていたところから、一転して雲が太陽を隠してしまうような雰囲気になる。
(54章2節「あなたの天幕の場所を広げ、」⇒教会の拡大。祖国への希望にあふれる。)
ここから分かるように、53章だけは違う空気が漂っている。
この聖書の個所を引用している部分が、使徒の働き8章に記されている。 エチオピアの高官がイザヤ書の53章を読んでいたところにピリポがやってくる。
そして、使徒の働き8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それともだれかほかの人についてですか。」
宦官には、とまどいがあった。「だれのこと・・・。教えて?なぜこんな不吉な予感が?」
それはまさに、 クリスマス祝会に来ていて楽しんでいる子どもたちに対してお母さんが「あなた、宿題はどうしたの?」と言う感覚。 そして、なんでこんな時にお母さんはこんなことを言うのだろうか!と思う子どものよう。 (宿題が不吉かどうかは分かりませんが・・・笑)
そして、それが53章。=アドベント待降節 (不安かもしれないが、その中で待つ恵み。)
クリスマスまで心備えをする。
★アドベントス=到来、アドベントール=客 アドベントのラテン語での意味
○エリコの町にきたイエスを見ようとしたのはザアカイ。 「今日はお前の家に泊まることにしている。」=客となられた。アドベントとして。 →これがザアカイのクリスマス。
○マタイもイエス様の訪問を受ける。そして主についてゆく決意をする。 →これがマタイのクリスマス。
アドベント⇔アドベンチャー = 冒険 ○イエス様にとってアドベントは冒険の旅だった。 人としての性質をもってあらわれた。 ⇔ 受肉=十字架に直結
イザヤ書53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。
心にとめていてくださった。
なぜ、がらっと変わる・・・・?
(矢木先生談) 夏休みに奥さんと休みを少しとられて旅行していた時、藤本先生から電話。 翌週の葬儀を頼まれた。 先生は忙しい中、引き受けられた。 面識のない方だったとおっしゃっていたが、最終的にはひきうけて良かったなと思われた。 わずか数日だったのに親しい感じにまでなった。
エレミヤ書31:20 エフラエムはわたしの大事な子なのだろうか。 それとも、喜びの子なのだろうか。 わたしは彼のことを語るたびに いつも必ず彼のことを思い出す。 それゆえ、わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない。 ―主の御告げ―
はらわたがわななく ⇔ 内臓が恐怖、緊張などで震える
アドベントは痛みを知ってくださる神の誕生
(矢木先生談) 先生は、6人兄弟の末っ子でいらっしゃる。 お父様の会社の倒産でつらい思いを経験された。 そんな中で、上の兄弟たちは遠足には行ったことがなかったが、先生は末っ子ということもあり、遠足に行けることになった。 それに備えて、お母様が新しい運動靴を買ってくださった。 しかし、先生は鬱憤をはらそうと靴を叩きつけ、「こんな靴では遠足なんか行けない!」と怒ってしまい布団の中に入ってしまった。 お母様は、明日行ってちょうだいと何度も悲しそうにおっしゃっていたそうだが、先生は絶対に行かないと言いながら布団の中で笑みを浮かべていたそう。 母親の精いっぱいをぐちゃぐちゃにした。
★神の苦しみがこれである。★ 私たちは神様からもらったものをいらないと言い、神様の恵みや賜物をぐちゃぐちゃにしている。 それでいて平然としている。 それが私たちに人間である。そして、それが罪である。
この世の中は生きにくい。 虐待もある。(先生の教会にも虐待を受けていると思われる子どもさんがいらしたことがある。) もっていきようのない中、悲しさで自分を傷つけている。
○クリスマス。このような世界、生活のまっただなかに入ってきてくださる。 私たちの神は痛みを知っているだけではなく、私たちの咎のために砕かれてくださった。
53章は闇の中で終わりではなかった。
イザヤ書53:5
しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
イエス様のことです。 平安をもたらし、癒しを与えるお方。
インマヌエル:神とともにいる。(わが一人 生きるのではなく 神がともにいる。)
病気の中でも神様が共にいてくださる。 だから、顔をあげることができる。 (北九州市の新しい教会の献堂式のお話の中で・・・・)
53章は一見ミスマッチ。 でも、決して暗いのではない。 私たちも共に帰ることができる。 復活の希望がある。
イザヤ書52:11 去れよ。去れよ。そこを出よ。 汚れたものに触れてはならない。 その中から出て、身をきよめよ。 主の器をになう者たち。
顔をあげることができる。私たちの痛みを担ってくれる。味わってくれる。 前に立って下さる。
クリスマス:主とともに歩むことができるように。希望がわかるように。
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LAST UPDATE: 2011.03.27 - 21:59 |
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