聖餐式:記念して行いなさい 出エジプト12:1−14
●記念する日が暦の基準となる
私たちは、だれでも「記念日」というものを持っています。誕生日が記念日であり、出会いの記念日があり、何かを完成した記念日があり、召天の記念日があり……。高津教会には献堂記念の聖日があり、教団の創立記念の聖日があります。ウェスレーの回心記念日は5月24日、宗教改革記念日は10月の終わりです。 旧約聖書の民イスラエルにも多くの記念日、多くの祭りがありましたが、その第一の記念日が、ここ出エジプト12章に記されています。 14節「この日は、あなたがたにとって記念すべき日である」 この日が、これがどれほど大きな記念日となるのかと言えば、それはこの日がある月が、2節に「これをあなたがたの年の最初の月とせよ」とあることからもわかります。この月が暦の基準になるのです。しかもこの月の中でも、この日が「記念すべき日」なのです。 出エジプト記の12章は、新約聖書のキリストの最後の晩餐と直接に結びついています。そして、最後の晩餐のただ中でイエスさまは言われました。パンを与え、杯を与えて、おっしゃいました。 「わたしを記念してこれを行いなさい」 最後の晩餐、そしてそれと同じ事を繰り返している聖餐式は、記念日なのです。私たちクリスチャンにとって、それは記念日の中の記念日、これが人生の基準なのです。
1)いったい、出エジプト記の12章は、新約聖書の最後の晩餐と共に、何を記念しているのでしょうか。それは、過越し(passover)の恵みです。 出エジプト12章の背景を簡単に説明します。イスラエルの人々は、エジプトで奴隷とされ、ピラミッドの建設にこき使われていました。神は、モーセという指導者を立てて、人々を連れだそうとします。しかし、そう簡単にエジプトの王が奴隷のイスラエルを手放すはずがありません。神は、モーセを通して10の奇跡を行なって、その力を現わし、エジプトの王を説得する。しかし、頑固な王は、最後の最後まで、神の力を侮ります。そして、現わされた最後のしるしは、神の裁きだったのです。 「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。」(11:4ー6) 真夜中ごろ、神がエジプトの中へ出て行かれる――この死の裁きが、過越ていくのです。 「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない」(12:13)。 彼らが記念しているのは、神の裁きが自分たちの上を過ぎ越していったことです。 モーセから、約1500年経過した過ぎ越しの祭りの晩、イエスは、弟子たちと一緒に食事をとられました。明日十字架にかかることを、意識された主は、過越の祭りの食事に出されたぶどう酒とパンを弟子たちに渡されました。このぶどう酒は、私の血だ。このパンは、私の肉体だ。 主はおっしゃったのです。「誰でも罪を犯すものは、罪の奴隷です」。そして「死体に、必ず禿げたかが集まるように、神の裁きは罪の上に訪れる」と。しかし、この食事をする者の上を、死の裁きは過ぎ越していきます。必ず過越していく。それが新しい契約でした。
2)血潮の故に 何故、死の裁きは過越していくのでしょう。それは、血の故です。出エジプト12:13にあるように、神がイスラエルの人々の家の門柱に塗られた血を見たとき、死の裁きは過ぎ越していきます。文語訳聖書では「我、血を見るとき、汝らを過ぎ越すべし」と記されています。その血は、5節「傷のない小羊」のものでした。 血――それは何でしょうか?高等な生物の体内を循環している、いのちの液体。体内の細胞に栄養を運び、酸素を運びます。体の外からの侵入者を撃退します。体内の老廃物を、運び出します。赤という色が問題ではありません。成人の体には、3リットルの血液があり、1分間に、2度体内を循環するそうです。1ミリ四方に、550万の細胞があり、それぞれの血液細胞の寿命は、110-120日で、毎秒、200万の細胞をつくりだしているといいます。血液について、医学的な解明がされるようになったのは、現代です。 しかし血の意味には、旧約聖書にすでに明らかにされていました。血とは何か? レビ17:11「いのちは血の中にある」とあるように、いのちそのものが血の中にあります。 いのちそのものである血が、私たちのいのちを贖なうというのです。動物の羊の血では不十分でしょう(ヘブル書が強調することです)。神の御子イエス・キリストの血が、そのいのちが私たちを贖います。 「贖なう」とは、どういうことでしょうか。代価を払って買い戻すという意味です。一般の世界では、奴隷・捕虜から買い戻されます。宗教的には、罪の故の死・滅び・裁きから買い戻される、救われる、解放されるのです。「贖なう」という概念には、もう一つ大切なことが含まれています。それは、自分で自分はあがなえない、奴隷は自分で自分を救えない、ということです。詩篇49篇「人は、自分の身代金を神に払うことはできない。魂の贖いしろは、高価であり、永久に諦めなくてはならない。」払いきれない代価――その代価がキリストのいのちなのです。 自分では、どんなに努力して、どんなに気をつけて、どんなに犠牲を払っても、自分の魂を買い戻すことはできません。それが私たちの人生です。喜びもあり、悲しみもあり、失望もあり、成功もあり、失敗もあります。でも、最も基本的なことは、果して、人生の門柱にキリストの十字架の血潮が塗られているかどうか、です。ですから、この聖餐式が、私たちの生涯で最も大切な救いの記念日となるのです。それがなければ、どんなに長生きして、どんなにため込んでも、無駄です。 過ぎ越しの真夜中、神は、裁くために出てこられました。しかし、門柱に塗られた小羊の血を見たとき、死はその上を過越して行きました。やがて1500年後、その上に、ご自分の十字架を重ねて、最後の晩餐でイエス様はおっしゃいました。 「みな、この杯から飲みなさい。これは、私の契約の血です。罪を赦すために、多くの人のために流されるのです。」
3)それから2000年たった、現在はどうなのでしょうか。ヘブル人への手紙12:24を引用して終わりにします。 「新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています」。 「語る血」という表現です。二千年たった今でも、血は語っています。十字架の血潮は、いまなお語っているというのです。 ここにアベルの血が出てきます。アベルは、嫉妬された兄に野原に呼び出されて、殺されました。神は、カインにおっしゃいました。 「あなたの弟の血が、その地面からわたしに叫んでいる。」 死んだアベルの体はちりに返ります。しかし、流された血は、いまだに語るというのです。アベルの血は、叫びました。「神よ、どうか私に代わってカインを裁いてください」。アベルの血は、裁きを訴えていました。 では、キリストの血は、何を叫んでいるのでしょう。「神よ、どうかわたしに代わって、その人を救ってください」。「滅びを過ぎ越させ、救ってください」。キリストの血は、救いを訴えているのです。 そして、今朝私たちは、25節を心に留めます 「語っておられる方を、拒まないように注意しなさい」 聖餐式の日、主は語られます。罪深い私たちのためにとりなして、父なる神に語りかけます。しかし、同時に私たちに語られます。 「聖餐式をあなたの記念日としなさい」。 記念日にしなさいとは、そこを基準にしなさい、ということです。救いこそ、贖われたことこそ、あなたの人生の最大の記念日、あなたの人生の基準としなさい。 私たちは今朝、小羊イエスの血に対する絶対的な信頼を置いて聖餐にあずかります。過越しです。死と裁きが過越していきます。私たちの資格の故でも、私たちの能力の故でもありません。裁きが過越していくのは、ただ十字架の血潮の力によるのです。主の真実な約束によるのです。 そして私たちは、この救いを人生の基準とします。聖餐にあずかるごとに、キリストの十字架の血を人生の門柱に塗った事実を尊んで、キリストの血によって贖われた者として生きることを決意します。主よ、どうか私たちに力を与えてください。
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