07礼拝 畏れを欠いた信仰 2007.4.15 Uサムエル6:1−11
教会の祈祷会では、ここ1年をかけて、サムエル記第一から、そこに記されているサムエルの生涯、サウルの生涯、そしてダビデの生涯の前半期から、共に学んできました。私は、しばらくその学びを礼拝に移そうと考えています。一つは、祈祷会のメッセージを神学生の尾沢兄にしばらくお託しすることができること。今ひとつ、積極的な理由として、御言葉をじっくり読んで学ぶことを、礼拝のみなさんと共にしたいと願っているからです。これまでも連続的な講解説教を何度もしてきましたが、しばらくこの連続的な学びの期間を持とうではありませんか。 ちょうど良い区切りから始めることができません。祈祷会から引き継いだ流れは、この6章からです。簡単に背景を申し上げます。5:1で、イスラエルのすべての民が、ダビデを王とします。7節には、ダビデがシオンの要害、つまりエルサレムを攻め落として、国を固めます。それからイスラエルの宿敵ペリシテの制圧でした。 そうして今日の6章になります。今ここに、イスラエルの王国はダビデの元に正式に立ち上がろうとしているのです。国民の信頼を勝ち取り、都を定め、そこに王宮を置き、周囲の国々を制圧し、国ができあがっていこうとするとき、ダビデは、神さまのことを考えました。2節「ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとした」。神の箱に、ダビデはあらためて目を留めたのです。
1)ですから、まず考えたいのは、ダビデの信仰です。 2節に、神の箱は「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている」とあります。神の箱とは、モーセが神様から授かった、十戒を刻んだ石の板を収めた契約の箱です。それは、神が共におられることのしるしでした。この箱は、まだサムエルが預言者になる前、失われてしまいました。ペリシテとの戦いに負けそうになったイスラエルの長老たちは、相談して、契約の箱を戦場に担ぎ出してきたのです。 彼らが神さまを信頼していたわけではありません。聖書には、彼らが、「きっとこれが私たちを助けてくれる」と、契約の箱をお守りのように、特別な道具のように考えていたことがわかります。幼稚な信仰でした。民は戦いに敗れ、そして契約の箱は奪い去られていきます。 その後、サウルが王になりますが、彼は自分が王になることばかりに目を留めて、神の契約の箱などには関心がありませんでした。しかし、ダビデは違います。王となり、都を定め、敵を制圧し、まず彼が願ったことは、神の臨在を民の中に、生活の真ん中に呼び戻すことでした。 私たちは、サウルではなく、ダビデのようでありたいと思います。私はよく、教会員の方々の家や事務所が新しくなるときに、起工式や竣工式にお祈りを頼まれます。工事に携わる方の無事を祈ります。 以前、ケニアに宣教奉仕団にいきましたときに、みんなで幼稚園の校舎を造りました。切り出された石を、地元の建築家の指示に従って、積み上げて、セメントで固めていくのです。幼稚園は、山を切り開いた、かなりの面積に建てられていました。竿代先生がおっしゃっていました。ケニアで日本の大手建設会社が工事に取りかかるとき、地鎮祭が必要だったのです。日本の会社ですから。しかし神主さんがいるわけではない、まして地元の人なら、キリスト教です。そこで、竿代先生が行って、起工式のお祈りをしました。そのお礼として、大きなブルトーザーをもってきて、あっという間に山の一角を切り崩して、幼稚園の敷地を作ってくれたというのです。 工事の安全を祈ることは大切です。しかし、信仰の世界で起工式や竣工式は大切です。それは、ダビデが神の臨在を招いたように、私たちも生活のただ中に、主をお迎えするのです。5節を見てください。ダビデも民も、賛美を力一杯表現して、神の箱を迎えます。これがダビデの信仰でした。
2)しかし、そのすばらしい信仰は、神への畏れを欠いていました。 運び上る途中で事故があったのです。神の箱を載せた車を牛に引かせ、ウザとアフヨという兄弟がその傍らで車を御していました。ある所で牛がよろめき、車がたおれて神の箱がすべり落ちそうになったのです。ウザはとっさに手を伸ばして箱を押さえ、それが落ちるのを防ぎました。それは私たちの感覚からすれば、当然のことです。大切な神の箱が落ちて壊れたり、傷ついたりしてはならない。ところが、主なる神様はこのウザの行為に対して怒りを発し、彼はその場で神に打たれて死んだとあります。 ウザにはかわいそうなことでした。しかし、9節を見てください。ダビデは、ここで神の箱がいかに聖なるものであるかを見つめ直すのです。すべての責任はダビデにありました。ダビデは、なぜ神の箱を車に載せて、牛に引かせたのでしょうか。神の箱を運ぶ方法は、聖書に明確に記されています。T歴代誌15:1−2節には、後にダビデが取った正式な運び方が記されています。箱に棒を通して、担ぐのです。(15:7)聖なる神の臨在をいかに畏れるべきか、ダビデは忘れていました。 聖書の方式をやめて、ペリシテの人々がかつて扱ったように、荷車に乗せて牛に引かせたのです。17キロもの距離の移動を、なるべく簡単にすませようと思ったのです。そんなダビデは、Uサムエル6:9、「主の箱を、そんな私のところに連れ上ることはできない」。自分の世的な考え方を反省しました。彼は、ウザに申し訳ないことをしたと、心を痛めたことでしょう。畏れを欠いた自分の信仰の故に、ウザを犠牲にしたのです。
昨年、日本でも上映されました。「ナルニア国物語」(第一章/ライオンと魔女)をご覧になりましたでしょうか。「ロード・オブ・ザリング」、「ゲド戦記」とならぶ、世界三大ファンタジーという人もいます。原作は、英国の神学者C.S.ルイスです。全7作のシリーズで、これまで全世界で8500万部発行されています。 このナルニア国に子どもたちが迷い込み、さまざまな体験をするという児童文学です。ナルニア国の王は、アスランというライオンです。 物語の中で、こういう下りがあります。子どもたちがアスランにだんだん慣れてきます。その手でアスランのたてがみをなで、アスランの背中にまたがり、いっしょにいて、そのやさしさ、大きさに平安を得るのです。しかし、そのライオンが吠えると、子どもたちは一瞬にして恐怖に落とされます。その低い響きに、アスランの力強さを感じ取るのです。 子どもの一人が尋ねました。 「アスランは、安全なの?」 ――賢い答えが返ってきます。 「No. He is not safe, but He is good」 安全なわけないだろう。ネズミじゃない、おさるじゃない。吠えた蹴る声一つで、周囲が静まるのです。しかし、He is good(彼は、良いお方だ)。 神は憐れみ深く、怒るのに遅く、恵みに満ちておられるのです。私たちは信頼します。しかし、私たちは、この方に対する畏れを忘れてはなりません。この方は良い方です。しかし、聖なる方です。この方を侮ることはできません。この方の声に全身全霊をもって耳を傾けます。
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