☆聖書箇所 創世記24:1〜21
1アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。 2そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。 3私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。 4あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」 5しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」 6アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。 7私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。 8もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」 9それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。 10しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。 11彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。 12そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。 13ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。 14私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」 15こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。 16この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。 17しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」 18すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。 19彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。 20彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。 21この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
☆説教 アブラハムの生涯(20)主の取り計らい
創世記の24章は、アブラハムよりもアブラハムのしもべの話です。 読んでいただいたので、ストーリーは解ったと思いますが、物語の主人公は2節に出て来ます。
2そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。 3私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。 4あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
と言っているこのハブラハムは140歳です。 イサクは40歳ぐらいです。 お母さんのサラは亡くなりました。(***創世記23:1) アブラハムは自分の跡取りを見つけるという、ま、自分の息子の嫁を見つけるという、その大きな大きな仕事を最年長のしもべに託します。
(創世記)15章の2節には、まだイシュマエルもイサクも生まれていなかった頃に、神さまに向かってアブラハムは祈ります。15章の2節に、 「いったい私の将来はどうなるのでしょう。私の跡取りは、あのダマスコのエリエゼルになるのではないですか?」と。 ダマスコのエリエゼルというのは、アブラハムとずっとともに人生を歩んできた人物だろうと思いますが、 もし子どもがいないまま自分が死ぬのであれば、あのエリエゼルに全部任せることになると言うくらい、エリエゼルを信頼していたんだろうと思いますね。
その彼もかなりの年配者になりました。でもアブラハムよりは若かったんだろうと思います。 そこでアブラハムの故郷、ペルシャの方に行きまして、そして息子イサクのために嫁さんを見つけて来いと。 皆さんだったらどうします?私(藤本牧師)は、即答で断りますね(大笑)。 「とんでもない。そんなことはイサクが自分で行きゃいいじゃないですか?」と、「なぜ私がペルシャまで行って見つけて来なきゃならないんですか?」という思いに駆られますね。
そして5節を見てください。そして仮に見つけたとしても―― 「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を(と言うのは、イサクさんの方が、と説明)、あなたの出身地へ連れ戻すということになるんじゃないですか?」と。 「そんな遠距離で国を跨いだところからお嫁さんを捜して来て、あわよくばこの人だと思ったところで、もしかしたら結婚する段階で、イサクが婿に行ってしまうという可能性だってあるんじゃないでしょうか?」という質問ですね。 アブラハムもよくそのことは解っていました。ですから、6節を見ていただきますと、
6アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
いやいや、問題はそもそもそういうことではないんだろうと思います。 このしもべには、先ほど申しましたように、大きな懸念がありました。 「大体どうやって、お嫁さんになってくれる女性を見つけて来るのか、私にはさっぱりわからない。 大体イサクがどんな男性なのかもわからなければ、そのお父さんのアブラハムがどういう人物かもわからなければ、その女性が結婚を決めることができるんですか? 私に特別に女性を見る目があるわけではありません。誰がイサクにとってベストのお嫁さんになることができるのか、私にそんなことがわかるんですか? 見つけたとしても、わざわざここまで嫁入りする女性はいるんでしょうか? 何を根拠に、その女性に話をすればいいのでしょうか?」
もうこのしもべに課された大任と言いますか、人の人生を左右するほどの大きな出来事を、誰が責任を取るのですか? もしうまく行かなければ、私が責任を取るのですか? と、もう今も昔も同じですよ。そう簡単に結婚が成立するわけではない。 しかもあなたの一人息子のことではありませんか?その大任をどうして私が背負うのでしょう?と。
私(藤本牧師)はこの4年間、教団の代表を務めて来ましたけれども、インマヌエルという教団は少し特殊でありまして、その代表の仕事というのは、普通の宗教法人とは少し違います。 それは、牧師の異動を命じる職だからです。 会社だってそうなんですが、会社の場合はまだ単身赴任がありますので、辞令をもらっていやである場合は、家族は今の場所に残ればいいんですね。 牧師は牧師館に住んでいますので、牧師が異動イコールほとんどの場合家族全員が異動していきます。 すると、せっかく友だちが沢山いて、上手に行っていた学校から子どもは転校しなければいけない。 その学校がどんな学校なのか、私たちには全くわかりません。 新しい牧師とその教会がうまく行くのか、その保証もありません。 そういう中で、ま、代表や人事委員会が牧師の人事を決定するという、この監督制という制度は、大変な、言うなれば矛盾を含んでいると言っても過言ではないですね。
でも逆もそうなんです。逆は、その対極にある制度を招聘制と言います。 招聘制というのは、教会が牧師を招きます。 「うちの教会の牧師が退職する」と分かりましたら、皆さんは様々なところに情報発信をして、「高津教会はいま牧師を、ま、来年度から、新たに迎えたいと思います」と言うところから始まります。 すると、教会の中に牧師招聘のための委員会が設けられます。 候補に何人か上がるでしょう。で、候補者を順番に、日曜日の講壇に迎えます。そして説教をしてもらいます。 お見合い説教と呼びます(笑)けれども、お見合い説教をしてもらうんです。 少なくとも一度は。多くて三度ぐらいしてもらいます。 そして、牧師の人柄、説教のスタイル、信仰の捉え方、牧会のあり方、様々なことをインタビューして、そして牧師も自分には家族が何人で、どれくらいの牧師給(級?休?)が必要でという話し合いを重ねて、牧師と教会の、ま、結婚が決まるわけです。
そちらの方も非常に難しいですけれども、少なくとも牧師と教会の決定ですから、いわば自己責任ですよね。 ま、見抜けなかった部分も(笑)あるに違いない。しかし自己責任として、それは全うしなければならない。 最初の契約期間が10年ということはあり得ないですね。 最初の契約期間は、ま、長くて二年でしょう。長くて二年様子を見て、ダメなのはダメなのかもしれない。
でもそこは頑張ってほしいと思いますが、監督制はそうではないですね。 一旦送り込んだらそれが10年になるか30年になるのかわかりません。 神さまの御心のままに精一杯やってください。
イサクの結婚相手を捜しに行く、このしもべの役割というのは、どれほどの重荷なんでしょう? 何にもわからない。どうやって女性と出会うかもわからない。 アブラハムは、自分の全財産の管理を任せているほどに信頼しているしもべを、わざわざ選んで送り出していく。
もう少し次元を変えて言いますと、例えば、自分の子どもが、行くべき中学を考える。 塾の先生と相談し、親と相談し、最終的にどっちにしようか、どっちを第一志望にしようかと言った時に、 おそらくお母さんは子どもと一緒に学校の文化祭に行く。学校を見に行くでしょう。 「割と遠かったね。地図で考えるよりも随分遠かったね。でも着ていたあの制服の感じは割と真面目そうだったね」――そんなの分からないですよ(笑)。 入ってみたらとんでもないかもしれませんもの。 でもとんでもない学年だなぁと思っていても、次の年は割と落ち着いた友だちに出会うかもしれませんよ。
私たちの人生の決断で学校を決めるにしろ、就職を決めるにしろ、結婚相手を決めるにしろ、おおよそ私たちでは負いきれない責任を自分は荷っているんだという場面がいくつもある。 そんな時に、私たちはどのように祈り、どのように支えらえていくのか、ということを、簡単にこの場面から見ていただきたいと思います。
1)先ず一番目――7節をご一緒に読んでいただきたいと思います。 (※自分の信仰の原点を忘れていないアブラハムは、この時も「主が御使いをあなたに遣わされる」と確信し、しもべを励まし送り出した。)
7私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」
7節はアブラハムの言葉です。 天の神、【主】というのが3行目に出て来ますが、その前に「天の神、【主】」というこの存在を、「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束してくださった」(***と言うフレーズが修飾している)天の神、【主】は、です。 これが信仰者の姿だ、ということを覚えておいてください。
アブラハムは自分の信仰の原点を忘れてない。 何十年も前の出来事です。そもそも自分がここまで信じて来た神はどういう神であったのか? いろいろありました。神さまとアブラハムの出来事というのは、十年に一度か二十年に一度の割合で聖書に記されてありますけれども、 しかしその間、アブラハムの人生がどれほど七転八倒だったのか、七転び八起きだったのか、私たちは知ることができないですね。
でも彼の頭の中には、自分の人生の中心に神がおられて、 その神さまというお方は、私を呼び出したお方、私を選んで、わたし(神)について来るように召し出してくださったお方。 その間、自分の人生に様々なことが起こり、つい最近の出来事は、一緒に出て来てくれた妻のサラが死んで、墓に葬った、という出来事を先々週に学びました。 アブラハムが神さまを語る時に、自分の信仰の原点は一生涯ついて回る。
皆さんが神さまを語る時に、その神さまという方をいったいどういう風に表現するのか? 私のようにクリスチャンホームで育ちますと、生まれた頃から神さまという存在がありますので、20や30の時に劇的な形で神と出会ったというものの言い方はしないと思います。 でも自分の人生を振り返った時に、ああ、この時もあの時も、神さまは私を助けてくださり、神さまによって支えられて来たんですね。 つまりアブラハムは「天の神、【主】が」と言いますが、その前に長〜い文章があるということを覚えておいてください。
私たちにとっても、「神さまが助けてくださる」と簡単に言いますけれども、その「神さま」というお方の前に長〜い文章がついている。 あの時もこの時も神さまはこのようにして計ってくださった。 その神さまは今この時、どうなのか?――「御使いをあなたの前に遣わされる」(***7節中ほど)。 御使いを(あなたの前に)遣わしてくださる。
仮にエリエゼルだとして、このしもべはもう大変な窮地に立っているわけですよね? 「おおよそペルシャなんかに行って、イサクさんのお嫁さんをどうやって私が見つけて来るんですか?」とさっぱりわからないですよ。 アブラハムは、「神はあなたの前に、御使いを遣わしてくださる」(という。) アブラハムだって不安なんですよ。自分もどうしたらいいかわからない。 しもべがその大任をアブラハムの代わりに背負って、遠くに旅しに行くわけですけれども、しかしアブラハムには確信がある―― 「もしあなたが女性を見つけたら、その女性がイサクを連れてペルシャに戻るということはない。 なぜなら神は、私と私の家族をペルシャから連れて来た。 だから必ずその女性はカナンの地に来る。 そしてあなたはどこでどう出会うか分からないかもしれないけれども、神が御使いを遣わして整えてくださる。 決断できない多くの出来事があるに違いありませんけれども、 しかし信仰の原点であるこの神は、私の人生これまで様々な形で助けを与えてくださった。 だから今回も必ず助けてくださる」 と言うんですね。
御使いは彼の前に遣わされて、彼がこれからしようとしていることを整えてくださり、御使いは彼のために道を開いてくださる。 アブラハムは自分のしもべに、いわば言っているわけですね。 「あなただけで道を切り開いて、責任を負うわけではない。 あなたが新しい学校に、全く知らない職場に行くのではない。 あなたを召してくださった神さまは、天の使いをあなたの前に遣わし、整えててくださる」
私(藤本牧師)は、小学校、中学校と地元の学校に行き、そして高校が東京の高校でした。 父(藤本栄造名誉牧師)が入学式に来ると言って、入学式に来たんですね。 その年、東京都は一斉に制服が私服になりました。 制服が私服になったのは、その年が初めてで、制服が私服になったということは、制服を着て行っちゃいけないんだろうなと思いますよね? ですから父は私をヨーカ堂に連れて行って、紺のブレザーを買ったんです。 紺のブレザーってなくて、青のブレザーだったんですね(笑)。
私(藤本牧師)は、シャツを着て、ブレザーを着て学校の入学式に行ったら、全員制服だったんですよ。 全員というのは、300人ぐらいいたと思いますね、入学式で一学年。 私ひとり、真っ青な上着を着ているんですよ(大笑)。 どういうことか、私は後にわかるんですけれども、私だけ沿線が違う。 しかも非常な受験校でしたから、みんな塾の情報とか何とかあるわけですが、私だけ全然違うところから行っているのです。 で、みんな安全策を取るわけです。ず〜っと今まで制服だったのだから、とりあえずそのまんま、中学校の制服で行くことが安全なのだろうと。
私はその日に、もうすぐに入学式が終わったら、その学校の不良がみんな私のところに集まって来ましたよ(大笑)。「おまえはすごい」と(大笑)。 全員制服なのに、おまえだけ真っ青なブレザーを着て、おまえは一体どこのどいつだ?みたいな話になりまして、私は不良に囲まれ、不良のお友だちにしていただく(大笑)わけですよね。 父はそれを見て、非常に不安でしたね(笑)。
帰り、一緒に電車に乗って、無言でそのまま電車に乗り、そして溝の口で「何が食べたい?」と言うから、「焼き肉が食べたい」と。 で、ふたりで溝の口で焼き肉を食べて帰って来たのを思い出しますけれども、父がその時、祈った祈りを忘れられないですね。 「神さま、あなたが選んでくださった学校ですから、これから高校の三年間、どうか祝福してください」 正確には覚えていないんですけれども、「神さま、あなたが選んでくださった学校ですから」と。 そりゃ、私(藤本牧師)も不安ですよ。私不良じゃないですから(大笑い)、こんな奴らに囲まれて、明日からどうやって学校に行こうかと真剣に思いますもの。 とりあえず、明日は学ランで行くんだなと思いますもの。
せっかく努力して、一流の受験校と考えられる学校にようやく入って、いきなり不良に囲まれ、その世界に乗り込んで行ったら、私の高校生活はどうなるんだと(***親子共々不安で一杯でしたでしょう。T・Y) でも、「神さま、あなたが選んでくださった学校ですから」(***と主に委ねて祈る父親牧師の祈りに当時の藤本青年は励まされたことが、40年以上経った今でも忘れられないのでしょうか。T・Y)
アブラハムも不安。そのしもべも不安なんです。でもアブラハムはしもべに言うんですね。 「天の神、【主】は、あなたの前に御使いを遣わし(***7節)、必ず道を開いてくださる。 だからこの大任は神から来るものだとして、神さまに責任があるわけだから、ここは一つ安心してあなたを送り出そう」
2)二番目に12節を見ていただきたいと思います。 (※しもべの祈りは二重。何重もの人間の信仰を自分が抱き込んで祈ってよい。)
10節から12節を交読いたします。
10しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。 11彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。 12そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
しもべの祈りが出て来ますね。 10節には彼が「らくだを十頭取った」とあります。 長〜い旅路ですし、このらくだがもしかしたら、贈り物になるのかもしれないですね。 「貴重な品々」というのは、お嫁さんをもらうわけですから、お嫁さんの両親に渡す、あるいはお嫁さんに渡す品々でしょう。 そしてペルシャ地方の町に入ります。
夕暮時、11節に「彼は夕暮れ時、」とりあえず女性が集まる井戸の回りに彼は腰かけた。らくだはそこに伏させたと。 場所がわかりませんもの。町のどこに宿屋があるのかもわからないし、 とりあえず、下調べか何かわかりませんけれども、夕暮れ時にその女性が集まる所に、彼は座った。 座った途端、彼は祈ります。12節「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。」 いいですか、大切なのは、お祈りは二重です。二重。
私のために、どうか段取ってください。うまく行くようにどうかよろしくお願いいたします。 英語では「どうか成功させてください」――これからすることに、よき判断を与えて、私のすることに間違いがないように、私を助けてください。 何の手がかりも、何のきっかけもありません。彼はひたすら祈ります。 「助けてください。何かのきっかけを与えてください。そして最善の女性に導いてください」 祈るように、井戸を見つめているのではない。 いいですか、祈るように、井戸に水を汲みに来る女性を見ているのではない。 彼は、文字通り、祈っているのです、自分のために。女性を捜す以前に、彼は祈っている。 そして祈りはアブラハムのために、つまり、家族のために祈ります。 「私がうまく行きますように、取り計らってください。いや、あなたの愛するアブラハム、私の主人アブラハムに恵みを施してください」 よくわかりますね――自分に対する祈りは、愛する者、自分の周囲のための祈りでもある。
皆さんが自分の親のために祈る時に、それは自分のためにもなる。 私たちが教会のために祈る時に、それは自分のためにもなる。 自分のために祈る時に、それは家族のためにもなる。 私たちが健康であれば、家族は幸せですよ。 私が新しく行く学校で楽しく過ごすことができれば、家族も幸せですよ。 私が新しく就職する会社でうまく行けば、家族も幸せです。 祈りっていうのは、そのようにして、自分一人で自分のために祈るのは祈りではない。 祈りは、何重ものその人間に神の恵みは及び、何重もの人間の信仰を自分が抱き込む。
「神さま、私は信仰の浅いものです。どうか、おばあちゃんの信仰のゆえに私を助けてください」 どこが悪い?まさにそういう祈りでしょう。 「神さま、私はあなたのことがよくわかりません。でも私の妻はしょっちゅうあなたに祈っています。 どうか、妻の信仰に答えて、私を助けてください。 私を助けることは、あなたにしょっちゅう祈りを為している妻のためにもなります」 自分一人の信仰だけではなく、自分のおばあちゃんや、自分の子どもや、自分の孫、全部入れて祈る。 そしてその中には教会家族も全部引き込んで祈る。 神さまは二重、三重、四重、五重に憐れんでくださる。
私たちはよく考えますね――私のような者の祈りを、神さまは聞いてくださるだろうか? そしたら、教会の中で、いかにも神さまが祈りを聞いてくださりそうな人の顔を思い起こし(大笑)、ね、その人の名前も使って(笑)、そして最後はイエス・キリストの御名によってと、もうありとあらゆる自分の知っている信仰者の名前を挙げて、祈ったらいいですよ。 祈りというのは、そういうものなんだと(考えていいです)。
このしもべにとって、「どうか私が今からやろうとすることが、うまくいきますように取り計らってください」 それだけじゃない。 「私がうまく行くかどうかは、アブラハムの幸せにもかかっている。 アブラハム家、イサク、全部かかっている。 神さま、どうか死んだサラのことも覚えて、この出来事がうまくいくように為してください」
3)三番目に神さまの憐れみが記されています。 (※結果は祈りとともにやって来る。しかし、その時神の御心かどうか見極めようとする。)
15こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。……
こんなに早く結果が出る――そううまくはいかないですよ(笑)。そううまくはいかないですね(笑)。 でも言えることは、「結果は祈りとともにやって来る」 いつも頭に覚えておいた方がいいですね――「結果は祈りとともにやって来る」 神さまは彼の祈りをないがしろにはなさらなかった、という意味で。 祈り終わると、事が始まる。事はゆっくりです。 リベカが来ただけの話で、これからまだまだ話は続きます。 だから事はゆっくりなんです。でも祈り終わると事は始まって行った。
リベカについていろいろ書いてあります。例えば美しい女性であったとか、独身の女性であったとか。 一番大きく長く書いてあることは、彼女の親切さですね。 17節から読んでいきますが――
17しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
「水がめから、少しだけ私に飲ませてください」とお願いすると、彼女はその500倍ぐらい、(与えるのです。)
18すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。 19彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。
らくだってどれくらい飲むか知っていらっしゃいます? らくだって風呂おけ一杯飲むんですよ。ま、60リットル、100リットル飲むんですね。 それが十頭います。 しかも19節の半ばに、「それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」というのは、十頭のらくだが長〜い旅をして、らくだのタンクが空になっている。その十頭分のらくだのタンクがいっぱいになるまで、私は水を汲んで来ます。
しもべが頼んだのは、コップ一杯の水です。返って来たのは、その500倍の水。500倍もの水が返って来るんですね。 しもべはリベカが美しいということを喜んだに違いない。独身の女性であったということに喜んだに違いない。 しもべが感動して、もしかしたらこれがイサクの嫁さんになるかもしれないと思ったのは、この女性の何とも言えない親切心ですね。 献身的によく働く女性であった――それはそうですよ。らくだ十頭分の水を汲み上げるというのは、半端な体力じゃないですから、ま、丈夫だったんでしょうね(笑)。 これだったら、ね、ペルシャから旅してカナンの地まで、行けるかもしれないという(笑)、それくらいの体力があった、体育会系の女性であった(大笑)というのは何となくわかるでしょう。 だけど、親切ですよ。親切。ああ、きっとこの人に違いない。
ところが、21節をちょっと一緒に読んでみましょう。
21この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
しもべはこの感激の事態において、飛びつかない。非常に慎重ですね。 黙って見ている。黙って何を見ているのか? それは神さまの取り計らいがこの女性なのか?先に遣わしてくださった御使いが用意してくださっている解決が、この女性なのか? つまり、しもべは神さまの御心を見極めようとしているのです。
私たちは何か祈る。祈ると結果がきっとついてくる。 でもそれを見極めもせずに、もしかしたら、サタンの餌に飛びつく場合もある。 結果がすぐについて来たら、こんなに嬉しいことはないです。 でも本当にこれが神さまの御心なのか、しもべは黙って見ている、この姿。
今日はこのしもべの信仰姿勢を見て、来週はまたその続きを見てみたいと思いますけれども。 以下、今回の説教の要点をまとめて語られる藤本牧師)
とんでもない測り知れない大任を任され、時に私たちは押し付けられ、時にその判断不能、きっかけも何もない世界に私たちは飛び込んでいきます。 でも大丈夫――あなたを神の子どもとして生まれ変わらせ、罪を赦し、神の御前に立たせる、キリストの十字架の恵みにあずかることを許してくださった神は、 神は、必ず御使いをあなたの前に遣わす。
その時あなたはまず祈りなさいと。 祈りながら、行動するのではない。祈りながら井戸端を見つめるのでもない。 見なくてもいい。井戸端で伏して、ひたすら祈りなさい。 その時に、自分のために、家族のために、何重の祝福を求めて、自分に信仰が薄ければ、家族の信仰を招いて、何人もの人の信仰を引用しながら、ひたすら主に祝福を求めなさい。 主はあなたの祈りをないがしろになさらない。必ず結果は始まる。
でもその時に、主の御心を見極めようと、じっと状況を見なさい。 焦らず、物事に飛びつかず、自分の判断を優先するのではなく、主の御心をひたすら見極めようとしなさい。 神さま、これでいいんですね、あなたの御心はここにあるんですね、と。 そうやって、私たちもこのしもべのように生かされて来たんだということを、今日は感謝しようではありませんか。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、暑い一週間、あなたは私たちを支えて、今日礼拝に導いてくださいましたことを感謝いたします。
私たち自身が、私たちの子どもが、孫が、友人が、私たちの周囲の者たちが、全く訳の分からない世界に飛び込んでいくその姿。どんなに不安だろうか?私たちも不安な人生の曲がり角をいくつも曲がって来ました。
でもいつもあなたは真実に、私たちの前に御使いを遣わしてくださいました。私たちの祈りは不十分であったかもしれません。しかし、私たちの代わりに、私たちのために、愛する者たちが祈っていてくださいました。だから、私たちはこのようにして助けられて来ました。今度は誰かのために祈ることができますように。
そしていつでも、迷いの場面にあって、あなたの御心がどこにあるのか?御使いの取り計らいがどうなっているのか?見極めたいというような慎重さを、私たちのうちにも与えて、何かに飛びつくことをせず、先ず御心を重んじることができますようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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