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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/7アドベントU交換講壇:小島 聡牧師:愛弟子を救出しよう ヨハネ21:24〜25
☆聖書箇所     ヨハネ21:24〜25

 24これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
 25イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

☆小島 聡(こじま さとし)牧師のご挨拶

おはようございます。(おはようございます。)私がこの講壇から説教をさせていただくのは、今日で3回目になります。過去の2回はまだ牧師になる前で、あちらの席(司会者席)に座らせていただきました。今日は初めて牧師として、いつも藤本満先生が座っておられるこちらの席に座って、ほんとに身の引き締まる思いをしました。私は緊張すると唇が乾いてくるんです。そこに座ったとたんさぁ〜っと乾いてくるのを感じました(大笑)。

私がこの高津教会の信徒であった頃、2回ぐらい尺八の演奏をしたことがあったのですが、そのときはまだ緊張すると唇が渇くことを知らなくて、演奏しようといたら唇が乾いて全然音がでなくて困った(笑)、そういう経験もちょっとそこに座って思い出したことであります。

この懐かしい高津教会で、メッセージのご奉仕ができます事を心から喜んでおります。また感謝に思っております。 一言お祈りをして進めていきたいと思います。

――お祈りは省略、それも含めて、説教の前後をご覧になりたい方はIDとパスワードで聖日説教へ入ってください。最後には栄造先生からガウンの贈呈式もあります――T・Y

☆説教    

――以下は、小島先生ご本人から原稿を送っていただきましたので、大変労力が削減出来ました。感謝しつつ、お話された通りに編集し掲載させていただきます。――T・Y

きょうはアドベントの第U礼拝ですから、アドベントのメッセージを取り次ぐとともに、私自身の証しもなるべく多く含めたいと思っております。限られた時間内ですので、詳しい証しはできませんが、最後の方では私が与えられているビジョンについても話しますから、高津教会の皆さんにぜひお祈りに覚えていただきたいと願っています。

<小島先生の証し>
私がこの高津教会で洗礼を受けたのは、13年前の2001年のクリスマス礼拝においてでした。私が高津教会を初めて訪れたのが同じ年の2001年の8月ですから私はそれ以前のことを詳しくは知らないのですが、前年の2000年までは栄造先生が主任牧師を務めておられたということです。そうして21世紀に入った2001年に満先生が主任牧師になり、私はその年の10人目の受洗者ということでした。主任牧師が交代した年に二桁の受洗者が与えられたということで、教会の皆さんが喜んでおられたことを良く覚えています。

私がこの高津の地に住み始めたのは東京の大学に教員として採用された1995年のことです。勤務先の大学の通勤圏内ならどこに住んでも良かったのですから、この高津の地に住むことになったのは、全くの偶然です。この高津に住まなければ教会に導かれることもなく、牧師になることもなかったと思いますから、これは神様の導きだったのだと思っています。

さて1995年に東京で働き始めた時の私は36歳でしたが、その前に1年半の無職の期間がありました。そして、その1年半の無職の期間の前は4年間、名古屋の大学の工学部で材料の研究室の助手をしていました。材料というのは金属材料やセラミックス材料のことです。名古屋の大学を辞めたのは、研究室の教授に付いて行けなくなったからで、その時、もう材料の世界では生きて行けないだろうと思いましたから、いろいろ悩んだ末に日本語の教師になることにして日本語教師になるための勉強を始めました。そうして半年間、札幌の日本語学校で日本語教師になるための勉強をしましたが、すぐには日本語教師の口がありませんでしたから、結局、無職の期間が1年半続きました。この無職の1年半は私にとって暗い時代でしたから、幸運にも東京の大学の留学生センターに日本語教育の専任講師として採用された時には本当にうれしかったです。ですから、大学に辞表を出して辞めるようなことは二度としまい、大学の教員として一生勤め上げようとその時は心底から思っていました。しかし13年後の2008年、48歳の時に再び大学を辞めて、神学院に入学することになったのですから、人生とはわからないものです。

ここで東京の大学を辞めることになった経緯も簡単に話しておきたいと思います。1995年に東京の大学の留学生センターで、外国人留学生に日本語を教える日本語教員として採用された時、私は材料の研究者であったことは忘れて、これからは日本語教育に一生を捧げようと本気で思っていました。しかし数年経ってから、勤務している大学の工学部に留学生と日本人が半分ずつの国際的な学科を新設することになりました。それで、その学科は留学生がたくさんいるということで留学生センターの私にも声が掛かって、私はその工学部の新しい学科の教員も兼任することになりました。そうして工学部との関係が深まって行き、何年か後には工学部に実験室も持たせてもらえることになり、再び大学で材料の研究をするようになりました。すると、私は元々が材料の研究者でしたから、材料の研究のほうが、がぜん面白くなってしまいました。そうして、留学生センターの仕事が、段々疎かになっていってしまい、遂には留学生センターを辞めることになってしまいました。私は留学生センターの教員として大学に採用されていましたから、留学生センターを辞めるということは大学を辞めるということです。

留学生センターでの日本語教育の仕事に一生を捧げるつもりで東京の大学で働き始めたのに、どうしてこんなことになってしまったのか、私は困惑しましたが、その時、今が牧師になるべき時なのかもしれないという思いが与えられました。その時より少し前に江藤博久先生が――先々週もこちらの講壇でメッセージを取り次がれたと聞いていますが――神学生としてこの高津教会に来ておられましたから、私は江藤先生を見ていて、もしかしたら私も将来、定年後に牧師になるかもしれないと思うことがありました。しかし、それは定年後ではなくて、今がその時なのかもしれないと思うようになりました。そして、それから間もなく召命のみことばをいただいて私は神様に召されているという確信を得て、聖宣神学院に入学することになりました。その召命のみことばについては、今日のメッセージの最後の方でまた証をさせていただきます。

さて聖宣神学院に入学した私は、かつて私が金属材料の研究者であったことや、外国人に日本語を教えていたことが、聖書を深く学ぶ上でとても役に立っていることを知りました。材料の研究者であった私は、電子顕微鏡を使って金属内部の細かい組織を丹念に観察することを毎日のようにしていました。それは研究としての観察ですから、新しい発見をするための観察です。新しい発見は、多くの場合、今まで見過ごされていたことの中にあります。ですから私は電子顕微鏡で金属内部のミクロの世界を覗く時、何か見過ごされている新しいことが隠れているのではないかという眼でいつも見ていました。そのことが、今、聖書を読む上でとても役に立っています。聖書の中にはあちこちに、これまで見過ごされていた新しい発見があると思います。

そして日本語教師の経験も、とても役に立っています。金属材料の研究では私は金属と向き合っていましたが、日本語教師になってからは、言葉と向き合うようになりました。金属は物体ですが、言葉は人間が読み、書き、聞き、話します。このように人間と密接な関係にある言葉と向き合うようになったことは、聖書のみことばと向き合う上で大きく役立っています。神様はこのように私の経歴を活かして今度は聖書の世界で私を用いようとなさっています。そのことを私は特にヨハネの福音書を読み解く上で強く感じています。

<小島先生による説教>     愛弟子を救出しよう

 前置きの証が長くなりましたが、これからヨハネの福音書を見て行きたいと思います。先ほど司会者に読んでいただいたのは、ヨハネの福音書の一番おしまいの2ヵ節です。
この箇所はもう少し後で見ることにして、まず冒頭の有名な1章1節を見てみたいと思います。

1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

この1章1節には、引照付きの聖書でしたら、星印(*)が付いていて、下に注があります。
注には、【「ことば」はキリストのこと。したがって、「初めに」はキリストの永遠的存在を意味する】、と書いてあります。ですから、この「ことば」とはキリストのことです。
そして14節には、この「ことば」は、「人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。
このことを私たちは毎年クリスマスにお祝いします。イエス・キリストは人として母のマリヤから生まれて、私たちの間に住んで下さいました。

 では、イエス・キリストは何のために人となってクリスマスの日に生まれ、私たちの間に住んで下さったのでしょうか。
それは、私たちを救うためですね。
イエスさまは「人(肉)」という目に見える形で私たちの間に住んで下さり、様々なしるしを通して御自身が神の御子であることを示して下さいました。
ですから、これらのことを信じるなら、私たちには聖霊が与えられて永遠のいのちを得ることができます。

 聖霊の恵みは素晴らしいものです。聖霊は私たちの内に入って罪をきよめて下さり、また様々なことを私たちの内側から教え、導いて下さいます。
また聖霊の働きは、二千年前の人々だけではなく、現代の私たちもまたイエスさまに霊的に出会うことを可能にします。
ですから、イエスさまが人としてこの世に来たのは、二千年前から現代に至る世界中の人々に聖霊の恵みを与えるためと言うこともできます。

 イエス・キリストは人としてベツレヘムでお生まれになり、約30年間の地上生涯の中で御自身が神の御子であることのしるしを示して、その目撃証言が福音書に書かれました。
そうしてその証言を読んでイエス・キリストが神の子であると信じた者には聖霊が与えられます。
この聖霊の恵みは二千年前のペンテコステの日に始まって現代の私たちに至るまで与えられ続けており、どの時代にあっても同じ聖霊の恵みがいただけますから、聖霊には時間の壁を取り払う働きもあることがわかります。
イエス・キリストを信じるクリスチャンが十字架の出来事をとても身近な出来事として感じるのは、聖霊にこのような時間の壁を取り払う働きがあるからですね。
イエスさまを信じない人にとっては二千年前の十字架の出来事は大昔の出来事ですが、イエスさまを信じるなら、十字架の出来事は「今」の出来事となります。

 この聖霊の働きについては、私はとても不思議な体験をしたことがありますから、今度はその証をさせていただきます。
それは2011年の6月、私がインターンの実習生として姫路教会に滞在していた時のことです。
その日の早朝、私はいつものようにお祈りをしてから聖書の通読を始めました。
その日の箇所は、旧約聖書のレビ記の1章でした。
皆さんの中には、まだレビ記をよく知らない方がいらっしゃるかもしれませんので、レビ記1章の始めの方だけ、ご一緒に見てみたいと思います。
レビ記1章は旧約聖書の第3版はp.170、第2版はp.156にあります。1章の1節から3節までを、私のほうでお読みします。

1【主】はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。
 もし、あなたがたが【主】にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
 3もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が【主】の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。

 今ここまで読んだだけでも、「〜しなければならない」という表現が3回も出て来ますね。
レビ記というのは、このように「〜しなければならない」が延々と続く、言ってみれば退屈でつまらないとも言える書です(笑)。

 私は高津教会の一般信徒であった時に聖書通読に何回か挑戦したのですが、最初の2回はこのレビ記で挫折した経験を持っています。
創世記の1章1節から読み始めて、出エジプト記の20章までは物語風ですから、面白く読めます。
しかし、出エジプト記の20章から、この「〜しなければならない」と始まるんですね。
そうすると退屈に感じ始めて、25章から幕屋の造り方の細かい説明に入ると、ここでも細かいことでいちいち「〜しなければならない」とありますから、ここで嫌になります(大笑)。
それでも何とか我慢して出エジプト記を読み終え、「あ〜、やっと終わった。さあ、新しい書だ」と思ってレビ記を読み始めると、またしても「〜しなければならない」がたくさん出て来るので、ここですっかり読む気が萎えてやめてしまう、ということが2回続きました。
それで、また何カ月後かに3度目に挑戦した時は、レビ記を真面目に読むのはやめて、ページの上で目を泳がせるだけにして何とかやり過ごして(大笑)、次の民数記に進み、ようやく通読に成功しました(大笑)。
その後、神学院ではレビ記の授業を受けましたから、レビ記の重要性を理解できるようにはなりました。
しかし「〜しなければならない」が延々と続く退屈な書であるという感想はそのまま持ち続けていました。

 私にとってのレビ記とは、そのような(退屈な)書でした。
ところが2011年の6月の早朝、姫路教会の会堂でレビ記1章を読み始めて間もなく、私の目から涙がボロボロと出て来ました。
レビ記1章の記事から、神さまが信仰の幼いイスラエルの民を深く愛している様子がひしひしと伝わって来たからです。
それはまるで父親が幼稚園に通う我が子に、世の中のルールをやさしく言い聞かせているようです。
それは例えば「横断歩道を渡る時には手を挙げて渡るんだよ」と優しく教えているような感じです。
私はその天の父の深い愛に感動するとともに、それまで私がその父の深い愛を理解していなかったことへの申し訳なさや、私自身が幼子であった時に私の父が優しくしてくれた時のことなどを思い出して、涙がボロボロと流れ出て止まらなくなったのでした。

  このような天の父の深い愛を私に教えたのが聖霊であることは間違いありません。
私にとっては退屈な筈のレビ記を読んで涙を流すなどという、常識では考えられないことが起きたのですから、これが聖霊の働きによることは確実なことです。

 こうして聖霊の働きによって私は、モーセの律法には神の愛がたっぷりと含まれていることを知り、律法は恵みであることを知りました。そして、この時以来、私はヨハネの福音書のことが俄然、良くわかるようになりました。

 ヨハネの福音書の1章に戻りたいと思います。1章16節をお読みします。

16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

 律法が恵みであることを聖霊によって教えられた私は、この16節の後半の「恵みの上にさらに恵みを受けたのである」とは律法の恵みの上に聖霊の恵みを受けたのだということを理解しました。
こうして「旧約聖書の時代」、「福音書の時代」、「使徒の働きの時代」を重ね合わせた重厚な恵みが時間を越えて現代の私たちにも聖霊の働きによって、たっぷりと注がれていることを、ヨハネの福音書が教えてくれていることがわかるようになりました。

 さて、ここで一気にこの福音書の最後に飛びたいと思います。
限られた時間内であまり多くの話はできませんので、(ヨハネの福音書の)最後の21章24節と25節に飛びます。司会者に読んでいただいた箇所です。

 24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
 25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 聖霊には時間の壁を取り払う働きがあり、「旧約聖書の時代」、「福音書の時代」、「使徒の働きの時代」を重ねた重厚な恵みが時間を越えて現代の私たちにも注がれている、という話を、ここまでしました。
すると、この24節にあるイエスさまの証をした弟子とは、実は私たちのことである、ということになります。
この弟子は、少し前の20節にも出て来る「イエスが愛された弟子」、いわゆる「愛弟子」です。
この「愛弟子」は1世紀にもいて、2世紀にも3世紀にもいて、そして現代の21世紀にもいます。それは、この福音書の読者の私たちが「愛弟子」だからです。
聖霊の恵みを教えるヨハネの福音書は読者の私たちに「愛弟子」の恵みをも与えてくれています。
この「愛弟子」は13章の「最後の晩餐」の場面ではイエスさまの隣という特等席にいます。
つまりヨハネはこの特等席に私たちを置き、イエスさまの話を隣で聞く素晴らしい恵みを与えてくれました。
そしてこの「愛弟子」は19章では、十字架に付けられたイエスさまをすぐそばで見上げています。
それゆえ私たちはイエスさまの十字架をとても身近な出来事として感じることができます。

 ヨハネはヨハネの手紙第一で次のように書いています(Tヨハネ4:9〜11)。

9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 皆さん、神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、イエスが愛された弟子、すなわち「愛弟子」も私たちのことであると考えるべきです。
しかし、そういう説明を私はまだ読んだり聞いたりしたことがありません。
この「愛弟子」とは伝統的にはゼベダイの息子の使徒ヨハネと考えられていますが、その他にも使徒ヨハネではなくて長老のヨハネであるとか、イエスが愛していたラザロのことではないかと考える聖書学者もいます。
つまり、この「愛弟子」は1世紀に閉じ込められています。この「愛弟子」を私たちは1世紀から21世紀に救い出さなければなりません。

 イエスさまはヨハネの福音書の20章で弟子たちに三度も、「平安があなたがたにあるように」(19,21,26節)と言っておられます。
この「平安があなたがたにあるように」は、新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳しています。
このようにイエスさまが三度も弟子たちに「平和があるように」と仰っているのに、人類は絶えず戦争を繰り返し、私たちにはいまだに平和がありません。
それは、私たちが「愛弟子」を1世紀に閉じ込めてしまっているからではないでしょうか。
私たちは平和を実現するためにも、この「愛弟子」を1世紀から救出しなければなりません。
それが、きょうの説教のタイトルの「愛弟子を救出しよう」ということです。

 きょうの前半の証では言いませんでしたが、私が牧師として召し出された時の召命のみことばはイザヤ書のみことばです。

       「良い知らせを伝える者の足は
        山々の上にあって、なんと美しいことよ。
        平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
        救いを告げ知らせ、
        『あなたの神が王となる』と
        シオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

 私はこのみことばにある「平和を告げ知らせる」ために召し出されたのだと確信しています。
私はこの高津教会の信徒だった2005年から2007年に掛けて、何度も広島の平和公園に足を運び、原爆資料館には数え切れないくらい何度も行き、神様に「私を平和のために用いて下さい」と広島で祈っていました。
当時の私は信徒として平和のために用いられたいと願っており、牧師として用いられたいと願っていたわけではありません。
しかし、大学を辞めなければならなくなり、どうしてこんなことになってしまったのかと思いつつも、牧師として召されていることを感じながら過ごしていた時、先ほどのイザヤ書のみことばの「平和を告げ知らせ」が目に留まり、「そうか、神様は私の祈りに応えて下さったのだ」と気付きました。
私の祈りに対する神様の応答は、私を信徒としてではなく牧師として平和のために用いることなのだと気付きました。
そうして神様は私を召し出し、レビ記で涙するという劇的な聖霊体験を与えて下さり、それをきっかけにしてヨハネの福音書を深く理解できるようにして下さり、ヨハネの福音書を宣べ伝えることで平和のために働くようにとおっしゃって下さっているのだと私は理解しています。

 広島・長崎に原爆が投下されてから来年の2015年で70年になります。
被爆者の多くは既に亡くなられ、これからは戦争を知らない世代が被爆体験そして戦争体験を継承して行かなければなりません。
果たしてそれは上手くいくのでしょうか。
私はヨハネの福音書の「愛弟子」のことを考えると、非常に心配になります。
ヨハネの福音書が書かれたのは紀元90年代であるという説が有力ですから、それはイエス・キリストの十字架から60年から70年が経った時のことです。
ですから戦後70年になる現代の私たちの時期と同じような時期です。
ヨハネはやがてイエス・キリストの目撃者がいなくなる時に備えて、この福音書の読者が「愛弟子」としてイエスさまの霊的な目撃者となり、目撃証言を継承して行くべきなのだと考えたのでしょう。

 ヨハネ21章の24節と25節を、もう一度今度は皆さんと交替で読みたいと思います。私が24節を読みますから、皆さんで25節を読んで下さい。

 24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。
 25イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 私たちの一人一人がイエスさまの「愛弟子」であり、私たち一人一人の皆がイエスさまと霊的に出会った証をいちいち書き記すなら、確かに世界も書かれた書物を入れることはできないでしょう。
しかし、残念ながら人類はこの「愛弟子」を紀元1世紀に閉じ込めてしまっています。

 広島・長崎の被爆体験、そして戦争体験についてはどうでしょうか。
今はかろうじて21世紀にまで受け継がれていますが、21世紀の後半には被爆体験が20世紀に後戻りして20世紀に閉じ込められてしまうかもしれません。
それはゴムのようなものと言えるかもしれません。
今は21世紀を生きる私たちが一生懸命20世紀の被爆体験・戦争体験のゴムを21世紀まで引っ張って来ていますが、引っ張り役の私たちを継承する者がいなくなったらゴムは20世紀に戻ってしまうでしょう。
同様にイエスさまの目撃証言も2世紀の初め頃までは1世紀から引っ張って来ることができていただろうと思います。
しかし2世紀の後半には引っ張り役がいなくなって1世紀に戻ってしまい、そのまま1世紀に閉じ込められてしまったのではないでしょうか。
それゆえイエスさまが「あなたがたに平和があるように」と三度も言って下さったのに、私たちには平和がいまだにありません。
それ故このままでは21世紀の今世紀中に、広島・長崎の悲劇が再び繰り返されることにもなるでしょう。

 ですから私たちは、広島・長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、「愛弟子」を1世紀から救い出して、私たちに平和が与えられるようにしなければなりません。
この働きをどうやって進めて行ったら良いのか、私一人では出来ない大きな働きですから、高津教会の皆さんにも、是非お祈りに覚えていただけたらと思います。

☆お祈り<小島牧師>

恵み深い天の父なる神さま、みことばをありがとうございました。イエスさまが人となって、私たちの間に住んでくださったこと、心からありがとうございます。
イエスさまは私たちに聖霊を与えてくださり、私たちがイエスさまの証人になるように、使徒の働き1章8節にあるようにも仰ってくださっています。私たちはその働きをしたいと願っています。どうか、私たちを聖霊で満たしてくださり、この働きを豊かにすることができますように、イエスさまの霊的な目撃者としてイエスさまのことを、この高津の地の人々に、神奈川の人々に、日本の人々に、世界中の人々に、伝えていくことができますように、私たちを用いてください。
もし私たちが愛弟子を1世紀に閉じ込めているのでしたら、私たちがその愛弟子を21世紀に迎えて、世界中の皆がイエスさまの愛弟子としてイエスさまの福音を伝えることができる者としての、その働きをますます祝福してくださいますように、よろしくお願いいたします。イエスさまのお名前を通して、感謝してお祈りいたします。アーメン。

※参考までに――お祈りにあったみことば
使徒の働き1章8節
 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

(注***このみことばはインマヌエル綜合伝道団の教報にも毎号必ず第一面トップに出ている、いわゆる私たちの教団の標語とでも言うべきみことばです。T・Y)

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