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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/14アドベントV:マリヤの信仰 ルカ1:26〜38
☆聖書箇所      ルカ1:26〜38

 26ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
28御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
30すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
31ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
32その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
37神にとって不可能なことは一つもありません。」
38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

☆説教      マリヤの信仰

先週は小島先生に来ていただいて講壇をいたしましたが、今日は前回の続き。前回はザカリヤを見ていただきましたので、マリヤの受胎告知を見ていただきたいと思います。

私たちは誰もが「クリスマスおめでとう」と言います。クリスマスを喜びの時、祝いの時として理解していますし、やっぱりクリスマスは幸せに味わいたい、おそらく誰もそう思っていると思います。
でもこの喜び、この「おめでとう」という言葉は単なるお祝い、単なる喜びではない。もっと深〜い意味を持った言葉であるということを今日は一緒に見ていただきたいと思います。

3つのポイントで短くお話しますが、第一番目に

1)それは普通の「おめでとう」とは喜びの次元が違っていたということはよくわかります。

1:28「おめでとう、恵まれた方。」――天使の挨拶ですね。
あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産みます――これが天使ガブリエルによる受胎告知と呼ばれている文章です。
天使でなくても誰でも、妊娠を知れば「おめでただね」「おめでとう、マリヤ」とこう言うだろうと思いますが、しかしマリヤは当時の習慣から言えば15歳ぐらい。
いきなり妊娠したと伝えられても、戸惑うばかりです。

天使がマリヤに現れる前に、天使は年老いた祭司ザカリヤに現れます。
そして同じように、聖霊の力によってあなたたちには子どもができると言われた時には、ま、ある意味、本当に「おめでとう」だったのだろうと思います。
申し上げましたように、高齢出産の危険はあったに違いない。
1章の13節で「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです」とあるように、ずっとその子どもがほしいということを願っていたのであれば、「あなたの妻エリサベツは男の子を産む。その名をヨハネと付けなさい」という告知は、まさに「おめでとう」でありました。
14節に、「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり」、おそらくその年齢になって子どもができたということは、ヨセフとエリサベツはまるで孫を可愛がるように、ヨハネを可愛がったんじゃないかなぁと思います。
誰が見てもお父さん、お母さんというよりは、おじいちゃん、おばあちゃんが、小さな子どもをあやしている、その様子というのはほのぼのとしたものがあったに違いないと思います。

でもマリヤに「おめでとう」と言うのは、難しいですね。それは事情が非常に複雑で、27節からよくわかります。
マリヤはヨセフのいいなずけ、つまり婚約者であった。まだ結婚していない。ともに住んではいない。
34節に、思わず天使の受胎告知に対して、マリヤは「どうしてそのようなことがありえましょう。私は男の人を知りませんのに」と言っているのは、マリヤにはない、身に覚えのない出来事です。
彼女の驚きは、自分が男の人を知らないのに、身ごもったということが不可能である。そんな出来事がどうして自分に起こったのだというだけのことではないです。

マリヤの驚きは、そんなことになったら大変だということですよね。
もしかしたら、この妊娠によって、私は婚約者に捨てられてしまう。
あるいはもっと先に行けば、姦淫の罪と断罪され、自分は死刑にさせられてしまう可能性もあるかも知れないという驚きです。

不可能なこと、予想外のことが起こったというのは、ザカリヤのケースですね。
ともに学びました。ザカリヤには、それなりの老後のプランもあり、自分の人生こんなものだろうなという所を神さまは全部ひっくり返して、あなたがたには子どもができると言う。

でもマリヤには、自分の予想、計画がひっくり返されたというそういう問題ではない。
とんでもない事態といいますか、いわば、とんでもない重荷を神さまから背負わされた。
不可能なことが起こったという驚きではないです。
いいなずけの段階でもし妊娠したら、それはヨセフにも疑いがかかるかも知れない。ヨセフは自分を疑うだろう。家族の者は自分をどういう風に見るんだろうかという、ものすごく厄介な荷物を、神さまは私の背中に載せたんだという、この驚きは私たちがマリヤの立場に自分を置いてみたら、よくわかると思います。
彼女は貧しいながらも平凡ながらも、幸せな家庭を夢に見ていた一人の乙女です。
それがこの知らせによって、絶望の淵に突き落とされることになる。

でもここで注目したいことがありますけれども、マリヤはそのような事態の中で、ちょっと46節〜48節を見ていただきますでしょうか?私が46を読みますので交替に読みましょう。
 
46マリヤは言った。
   「わがたましいは主をあがめ、
47  わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
   ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
   私をしあわせ者と思うでしょう。

という結論に彼女は達するんですね。少し、無理があるように思いますね。
単純に幸せなこと、楽しいことを喜んでいるのではないということはよくわかります。
クリスマスの喜びがその程度のものだとしたならば、一言で言えば、試練の中にいる人にとってクリスマスは無縁です。そうですよね?
幸せな家庭の中で、クリスマス・ケーキを囲み、そしてみんなでプレゼントを交換し、暖かにクリスマスを過ごしている人々にとって、それがクリスマスの喜びであるとしたならば、逆に試練の中にある人々にとってクリスマスは無縁にしか過ぎない。

しかし、マリヤのこの讃歌を見ると、クリスマスの喜びというのは、悲しみのどん底にいる人にとって意味が有る。
あるいは様々な出来事によって、神さまからものすごく余計な荷物を背負わされた人にとって意味が有る。
自分はこんな器なのに、神さまはものすごく大きな、岩のような重荷を押し付けてきた、(そういう)人にとって意味があります。

マリヤに降りかかった出来事からは喜びのかけらもない。しかしマリヤはその中で神さまを喜び讃えたんですね。

2)ではそれはどういう喜びだったのか。

考えますと、それは主によって用いられる喜びです。
それが48節に、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」ということばに出てまいります。
はしためという言葉は、奴隷という言葉です。使用人という言葉です。
はしため、<主のはしため>ということは、主に仕える女、神に仕える私という意味です。
1章の38節をちょっと見ていただきますと、同じ言葉が出てきますが、

38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」……

自分のことを、<主のはしため>とやっぱり呼んでいます。それは神に仕える自分を強烈にマリヤは意識しています。
<主のはしため>と言った時に、マリヤは必ずしも、自分は身分の低い、卑しい、取るに足りない者であると言っているだけではない。
こんな卑しい者にも、神さまが目を留めてくださって喜んでいるだけではない。
こんな卑しい者にも神さまは目を留めてくださり、神さまが用いてくださることに彼女は喜びを覚えているわけですね。

マリヤの喜びは自分に何か嬉しいことがあるという喜びではなくして、神に仕える者としての喜びでありました。
神さまは自分に目を留めてくださって――目を留めるというのはもともとの言葉では、じっと見つめるという意味です――どこにでもいそうな一人の女性に神さまはじっと目を留め、そして神さまはおおよそ普通の人が負うことができないほどの、重荷であり、祝福であり、特権であり、犠牲であり、ある人生の課題を彼女の肩に載せたんです。それを、49節では――

49力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。

その神さまの大いなるみわざって一体何か?それは繰り返し申し上げますけれども、彼女が男性を知らないのに、子どもを産むということではない。
それは天地を造り支配しておられる神さまが、人となり、一人の小さな赤ちゃんとしてこの地上に生まれて来る。
弱く、貧しく、罪深く、取るに足らない私たちのもとに、神さまは来てくださり、ともにいてくださり、そして最後に私たちの罪を背負って十字架の苦しみを引き受けてくださる。
それによって私たちの罪を赦し、神さまの祝福を受けて、神の子どもとしてくださるという、福音の全てのパッケージ――この神さまの偉大なみわざのために、神さまはマリヤを見つめ、マリヤに目を留め、「私はこのための一端としてあなたを用いる」と言われる。

マリヤの心は激しく揺れたに違いないです。
でも自分は神に仕える女だ。神に仕えたいという彼女の思いのゆえに、「おことばどおりこの身になりますように」とマリヤは答えます。
そのために、いろんな苦しみを受けなければならない。そのために、普通の女性としての喜びを失う事になるかも知れない――そういうことを全部ひっくるめて、マリヤは神さまに自分の身を捧げた。
そこにマリヤの幸せと喜びがあったわけですね。

私たちにとっての本当の幸いは、その意味で考えますと、神さまに信頼してこの身を捧げることです。神さまに用いていただく。
神さまが私のような者に目を留めて用いてくださるとしたならば、それによって、たとえ私がものすごく大きな重荷を背負い、普通の生活を諦めることになったとしても、それは私にとって大変大きな幸いだと受け止めて、マリヤは喜びを味わったんですね。

3)そうしてクリスマスの喜び、神を崇める時に心しなければいけないことがあるのですが、それが46節のこの言葉です。

もう一回読みますね。

46マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、」

主をあがめというのは、英語ではmagnifyマグニファイですね。
ラテン語では、マグニフィカート。
それでこの「マリヤの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれているわけですけれども、マリヤは主を崇める、つまり、神さまをマグニファイするというのは、神さまを大きくするという意味です。
神さまを大きくすると言っても、私たちが神さまの大きさをどうこうするわけではないです。

もう少し上手な物の言い方をすれば、私たちの心と生活の中で、神さまの場所をより大きくするということですね。
神さまを賛美するというのは、そういう意味ですよ。
そのためには自分の生涯の中で、自分の場所をより小さくしなければいけない。

宿屋にヨセフとマリヤの居場所がなかったので、ヨセフとマリヤは、宿屋の主人が貸してくれた家畜小屋で子どもを産み、そして幼子イエス・キリストは飼い葉桶に寝かせられるわけですよね。
居場所がない。片隅に。家畜小屋に。最後幼子キリストは飼い葉桶の中に――という迎え方しか、私たちはクリスマスのキリストに許さないとしたら、それは神を崇めたことにはなっていないです。

私たちの人生が余りにも忙しく、私たちの人生にしたいことが沢山あり、またおおよそ神の御子という存在と自分の人生との関わりがわからないがゆえに、このクリスマスもまた私の心の中にはイエス・キリストの居場所がなく、あるとしたならば、私の心の隅の家畜小屋の飼い葉桶の中にイエス・キリストを寝かせるということであるならば、それは神を崇めたことにもならないし、神を大きくしたことにはならないですよね。

すると、神さまを大きくする、神さまを崇めるってどういうことか、何となく感覚としてわかってくると思いますが、それは自分の思いや計画や願いが占領している範囲を小さくしていく。これは難しいですよ。
自分の思いや計画や願いが占領している範囲を小さくしていく。そしてより多くの心の体積、面積の部分を神さまに明け渡す。
そして神さまのみこころが支配する範囲が自分の人生の大半を占めていった時に、私たちは神を崇めると言えるでしょうね。

高津教会には、神さまを崇めておられる兄弟姉妹が沢山おられることを、神さまはよく知っておられますよ。
自分は小さくなる――それは体力的なことかもしれない。財的なことかもしれない。自分の計画の問題なのかもしれない。その分、自分の喜びもまた小さくなるかもしれない。あるいは失われるかもしれない――でもそれによって、神さまが大きくなり、そのみわざが実現し、そのために自分が用いられるのであれば、それで良しとするどころではなく、それが私の喜びだ、と言っているのが「マリヤの讃歌」であり、それが故にマリヤは自分は<主のはしため>だと言っているのですよね。

クリスマスの子どもの劇で、以前高津教会でも(CS教師だった)渡辺美恵子姉がなさったんじゃないかと思いますが、「三本の木」というのがあります。

三本の木――エルサレムを臨む高台の丘に三本の木が並んでいました。一本が檜で、一本が樫の木で、一本が杉の木で。檜は非常に大きく成長してある日切り出されていくのですが、この三本の木はいつもエルサレムを眺めながら、一体自分たちはどれほど大きく成長し、神さまによってどういう風に用いられるんだろうかと想像しながら、燦々と輝く日を受けながら成長していったんですね。

一番最初に切られたのは、檜でありました。大きく成長して太くなった木は、切り出されてテーブルになります。机になります。一枚板の大きな食卓になります。
そしてそのテーブルはイエスさまがそこに座り、パンを裂き、そしてイエスさまが神の国の不思議を語るという、そのテーブルとして用いられます。

次に切られたのは樫の木で、隣りの彼もある日切られる運命になるわけですけれども、深〜く深〜く彫られてボートになって、そして漁師を載せガリラヤの湖に漕ぎ出し、イエスさまを載せ、そこでイエスさまは説教までされる、イエスさまの働きに後に用いられる。

ところが最後に残った、三本の木のうちの一本、やせ細った小さな杉の木。誰にも切られず、目も向けられることなく、何の役にも立たない杉の木。
しかしある日、男がその杉の木を切りにやって来るわけですね。一気に切り落とし、そして何の細工もされず、枝をバッサバッサと落とされ、丸太ん棒になり、やがて自分は二つに切られ、荒縄でつぎ合わされて、そして誰かの肩に担がれ、どくろの丘に登っていく彼の木、杉の木。
世界中の木の中で最も栄誉となる木となって、そこに神の子キリストが磔になるという木があるじゃないですか。それが「三本の木」という話ですよね。

檜も樫の木も、ある意味で立派にイエスさまの役に立ちました。
しかし細〜い価値のない杉の木も、やがて主の役に立つという、子どもたちのためのお話なのです。

私たちは杉の木でいいんだと思います。私たちは別に檜になろうとは思っていない。杉の木でいいんです。
でも私たちはいつも、樫の木と檜と肩を並べながら、エルサレムを見つめ、この世界と神の国を見つめ、どこかで必ず主のお役に立ちたいとこの町を見つめている、祈っている木でなければ、神さまは目を留めてくださらない。
そして神さまが一旦目を留められたら、おそらく私たちはバッサバッサと枝を倒され、そして無残に二つに切り込まれ、でもそれが神さまのご用に立つ十字架へと変えられていく。

マリヤの家族たち、マリヤの周辺の友人はマリヤに「おめでとう」と言えたのか?言えなかったでしょうね。
そしてマリヤは故郷を離れますね。エジプトに、ヨセフとともに幼子イエスを連れて逃げますよね。
やがて、どこかで故郷のナザレに帰って来るんですけれども、故郷のナザレの人々は素直に彼らを受け入れたんだろうかと思いますね。
「あなたがたは、今までどこで何をして暮らしていたんだろうか。いつの間にか、子どもまで出来て」と、どこか白い目で見られながらも、普通の幸せを失いつつも、神さまはマリアとヨセフを用いられる。
それは一本の杉の木であったかもしれない。でもいつでも檜や樫の木と肩を並べながら、「主よ、どうかいつの日か、私を用いてください」とエルサレムを眺めていた彼らに、神さまは目を留め、そして想像もしない形で用いてくださる。

私たちは主に仕えることができると信じています。
どんな立場であれ、何をしていても、誰と接していても、必ず主は私を使ってくださると、私たちは信じています。
だからこそ、私たちは主を、このクリスマス、賛美をする。
そして賛美をする時に、私たちは主を心に迎える。迎える時に、できるだけ多くの面積をイエスさまに捧げる。
決して「馬小屋と飼い葉桶だけで、神さま、勘弁してください」というような態度は取らずに、私たちは主に心を広げて、「どうか私の中にどっかりと座ってください」「ここにともに住んでください」と、主に心を明け渡した時に、「ほんとうにおめでとうだね」と、天の賛美が聴こえてくるに違いないです。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、心を広げることを教えてください。自分の持てる物を捨てることを教えてください。心からあなたを賛美することを教えてください。
そして何よりも、エルサレムを眺めつつ、いつの日か、あるいは今日も、あなたによって用いられるという思いを持つことができるように、私たちの信仰を祝福してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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