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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/28年末礼拝:わたしの恵みは、あなたに十分である Uコリント12:1〜10
☆聖書箇所     Uコリント12:1〜10

1無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、――第三の天にまで引き上げられました。
3私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、――
4バラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
5このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
6たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
9しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。

☆説教    わたしの恵みは、あなたに十分である

今朝は第二コリントの12章を見ていただきました。今朝は音楽のチームにK姉がピアノで入ってくださいました。初めて入ってくださいました。心から感謝いたします。

12章の9節、このみことばに心を向けるだけで、私は十分かなぁと思っています。

9しかし、主は、(というのはイエス・キリストは)「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

もう一回一行目、キリストはパウロにこう仰います。「わたしの恵みは、あなたに十分である」と。

初代のキリスト者の中で、新約聖書に出て来るキリスト者の中で、最も大きな働きをした人物はパウロです。
明晰な頭脳、不屈の信仰、そして指導者としての力、キリストに選ばれ、神に祝福された人物でありました。
にもかかわらず、彼は自分の人生は苦難に満ちていたと言います。
この12章で特に、彼は3つの種類の苦難を挙げていますが、11章の23節〜27節をちょっと見てください。私の方で読んでいきます。

23彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

23〜27節まで記されているのは、パウロが語る外からの苦難です。
外からの苦難で、彼が挙げているのは、勿論のことながら、当時のキリスト教会を襲っていた迫害です。
ユダヤ人から迫害され、ローマ帝国から迫害され、自分は振り返ると様々な患難に遭って来たということをパウロは挙げます。

そして28節の後半にありますように、「日々私に押しかかるすべての教会への心づかい」と。ま、心づかいというのは、丁寧なものの言い方です。
どういうことがこの心づかいに含まれているのかはよくわかりません。
伝道への思いがあったのかもしれません。教会の経済的な重荷があったのかもしれません。異端の嵐から教会を守る大変さがあった、あるいは人間関係のごたごたもあったに違いありません。
それが、日々のことだと記されています。――それらのことは毎日自分の頭の中にあり、自分の心から離れない重荷だった。

常葉姉と先日話していたときに、――ご主人の常葉先生はギデオンの会員でもいらっしゃいました。九州では大変に有名な働きをなさいまして――本当に奥様の目から見て、ご主人はよくやったと思うのは、九州の山奥の教会をことごとく訪ねて、聖書のアピールをして、そこで奉仕をされた、行かない教会はなかった、と仰っていました。
私たちの教会ではO兄やまたTa兄がそうですが、押しつぶされるような心づかいもあるでしょう。

知らない教会を訪ねて、そして聖書頒布のために様々な証しをし、アピールをし、奥様の表現ですと、「地方の教会の痛み・苦しみをことごとく知っています、良く知っています」という表現でした。
都会の教会は都会の教会の苦しみがあるとは思いますが、若い人を育てて、地方は、その若い人が大学で都会に出て来て、都会で就職をし、そして私たちの教会にも沢山のそういう方々がいらっしゃいますが、地方の教会の苦労というのは、簡単に私のような者が語ることはできないですね。

パウロがいったいどういう苦難・苦悩を味わっていたのか?教会に対するものなのか、人間に対するものなのか、イエス・キリストに対するものなのか?
キリストを伝道するということで、外から迫害を受け、キリストの身体である教会を担うという使命を与えられたがゆえに、様々に心づかいに尽き果ててしまうこともあり、

そしてなおかつ、彼は12章の今度は7節から見てください。
彼は肉体の一つのとげという話をします。12章の7節に――

7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
8このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

その後に、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である』」(9節)ということばをパウロに語りかけるのですね。

ここで書かれている苦悩というのは、1番目の苦悩は外から来るものでした。
2番目の苦悩は、教会に対する日々の重荷でした。
そして3番目の苦悩というのは、彼が背負ったところの肉体のとげ、病気です。持病です。

小さなとげが私たちの指先に刺さることがあります。
そしてやがてそこが化膿して、周りが赤くなります。
その小さなとげが抜けるまで、私たちがどんなに痛み苦しみますかと考えますと、ある一つの病気のために自分は自由を奪われ、痛みを抱え、そしてやがてその病に呑まれることもあるわけですね。

12月の頭に北九州教会の松村先生の奥様が天に召されました。
糖尿病から人工透析で、今年の3月にとうとう牧師職を引退されました。
おそらく、アドベントの第2週、礼拝の奏楽が終わった後、床に就いた後に低血糖を起こされて、そして寝てる間にそのまま天に召されたと思います。
人工透析、どのぐらいの回数だったんですかと伺いましたら、週に3回と仰ってました。
週に3回透析が入りますと、もう旅行もお出かけもお泊りも無理ですね。
透析の時間、じっと一日過ごさなければいけませんし、自分の自由は奪われますし、身体はしんどいですし、

肉体のとげを与えられるというのは、一体どういうことなのかなぁと思います。
もしそのとげがなかったら、私たちはどれほど自由に動き回るかなぁとも思います。
皆さんの中には、そのとげが心臓に関わるものであったり、あるいは膝や腰に関わるものであったり、一つの問題が私たちに降りかかったがゆえに、私たちの身体も疲れ、心も疲れてしまう、弱い人間であります。

パウロは一生懸命祈った。3度願ったと書いてありますが、これは単純に3回願ったという意味なのか、何度も願ったという意味なのか、それは私にもわかりません。
恐らく何度も願ったんだろうと思いますね。持病の苦しみを取り去ってくださいと。
それがなければ、彼は伝道旅行をもっと活発にできたに違いありませんし、
ある時は断食したでしょう。このことだけのために祈って集中したでしょう。
でもそれは取り去られなかった、という失望感も含まれているように思います。

さて、外からの重荷、教会の重荷、そして自分の肉体的な重荷と考えますと、私たちの人生で言うならば、人間関係の重荷、仕事場の重荷、家族の重荷、そして自分の健康の重荷と、やっぱり私たちもパウロのように様々な重荷を担っているものです。
そしてそれが軽ければ軽いほど、私たちは恵み豊かな人生を送ることができると思うんですけれども、
しかし9節に、イエス・キリストはそんなパウロに言われました――「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と。
パウロは言います――「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」。

年末最後の礼拝で、簡単に2つのポイントでお話をしたいと思います。
先ず第一番目に、「わたしの恵みは」とキリストが仰った時に、何と仰ったのか?

1)わたしの恵みは、十分である

「十分である」というのは、不足することがないという意味です。あらゆる状況に間に合うという意味です。
たとえば福音書で一万人以上の人々を、その空腹を、イエスさまはわずかな二匹の魚と五つのパンで、その空腹を満たしておられる奇蹟が出てまいります。(***マタイ14:13〜21、マルコ6:30〜44、ルカ9:10〜17)
手にあったのは、二匹の魚と五つのパンです。でもそれが十分に祝された時に、一万人以上の人々の空腹を満たすことができる。

パウロはローマ人への手紙の8章で、「すべてのことを相働かせて益としてくださる神の恵み」という表現を使っています。
「すべてのことを相働かせて益とする」というのは、私たちにとって、外から来るマイナス、病というマイナス、自分が内に抱えているマイナス、それらすべてもパズルを合わせるかのように、相働かせて益としてくださるというと、それは十分な力を持っているんですね。
十分な恵みというのは、それはあらゆる必要に間に合う、あらゆる力を発揮する、あらゆる側面を覆うことの恵みです。
それは知恵のない者には知恵を与え、迷う者には導きを与え、そしていつでも私たちを圧倒的な勝利へと導いてくださる全能の神を現す恵みです。
それらはあなたに不足することはなかった、わたしの恵みは、あなたに十分である。

しかもその恵みは、9節の中盤から見ていただきたいと思うのですが、

9……ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私を「おおう」という言葉は、旧約聖書やいろんなところでは、「天幕を張る」という動詞の代わりに使われています。
天幕を張る――神さまの恵みが私たちの上に降りて来られ、私たちをすっぽりその状況ごとくるむように、弱い私の上に天幕を張って、私のうちに住んでいてくださった。

「神がともにいてくださる」ということは、様々な表現の仕方がされています。
「神が傍らに立って、私を励ましてくださる」というのは、パウロの一つの物の言い方です。
しかし同時に、「イエス・キリストは私のうちに住んでいてくださる」というのも、パウロの表現です。
でもここでは、「キリストは私の上に天幕を張って、私を守っていてくださる。その力をもって、私を覆っていてくださる」ということをパウロは証ししているんですね。

私が弱ったとき、私が何もできなかったとき、私が無力だったとき、キリストの力が私の上に降りて来て、天幕を張って、私を覆ってくださった。
肉体のとげは、そのままでありました。そのまま。しかし、キリストの力は完全に現れていた。

あの有名な、あまりにも有名な、ニューヨーク大学のリハビリテーション病棟の壁に書かれている「苦しんできた人々のための信条」というのがありますね。
A Creed For Those Who Have Suffered  ――sufferしてきた人々のためのクリード(***つまり「悩める人々への銘」 とか「病者の祈り」とか題がついています)。
                         
Author Unknown(作者不詳)                  
※英語の原文も参考までに載せました――T・Y

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...
大事を為そうと力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...
より偉大なことができるように健康を求めたのに、 よりよきことができるようにと、病弱を与えられた。

I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...
幸せになろうとして富を求めたのに、 賢明であるようにと貧困を授かった。

I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...
世の人々の称賛を得ようとして権力を求めたのに 、神の御前にひざまずくようにと弱さを授かった。

I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...
人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにいのちを授かった。

I got nothing that I asked for―but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて 聞き遂げられた。
神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。 
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。

これは誰が書いたかわからない文章なのですね。
感動的だなぁと思うのは、このタイトルにCREED、クリード(とあること)。
クリードというのは信仰信条です。キリスト教で使う言葉です。
心から信じている自分の信仰を、公に向かって告白するのがラテン語でクレドーですね。

パウロも私たちも、この世の日常の中で、苦しみ格闘している人々すべてのために、自分の心から信じている信仰信条を告白します。
いったい私の心から信じている信仰信条って何なのだろうか?
そりゃもちろん、聖書の中の好きな言葉というのもあるでしょう。
だけど、私(藤本牧師)が心から信じている信仰信条は年末、どんなみことばとして与えられているかを思うと、やはりイエス・キリストがパウロに仰った「わたしの恵みは、あなたに十分である。」

文語訳の聖書では「わが恵み、汝に足れり」ですね。
「足れり」というのは、不足することがない。
あなたに十分与えられていて、それはすべての必要に間に合い、すべての問題課題を圧倒していくほど、わたしの恵みはあなたに十分である。
いやむしろ、あなたが弱い時に、私の力は完全に現れると。

二番目に注目していただきたいことがありますが、

2)いったい、ではパウロは改めてこの語りかけをいつ聞いたんだろうか?

私たちはイエス・キリストの愛溢れることばをいつ聞くんだろうか?
一つ対比として見ていただきたいのがあるんですが、それが12章2節です。

2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、――第三の天にまで引き上げられました。
4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

話はあたかもそれが自分ではないかのように展開しますが、7節を見てください。

7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。

その啓示を受けたのが実は自分だったと、7節始まります。
                   
7……そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

この肉体のとげを与えられたのは、そもそも自分がすばらしい啓示を神から受けた時であったと(言っているパウロです)。

そうしますと、「わたしの恵みは、あなたに十分である」という何とも言えない、力強い言葉を、パウロは第三の天で聞いたのではないです。
パラダイスですから、天国に引き上げられ、イエス・キリストを目のあたりにし、普通の人が見ることが出来ない啓示を見た彼が、イエス・キリストから「わたしの恵みは、十分である」と聞いたのではないです。

むしろ、その啓示の時が終わり、そのすばらしい時が終わり、この世の日常的な苦悩の中に戻り、逆に戻って来た時に病が与えられ、なんとかしてこの病を私から取り去ってくださいと三度も願い、しかしそれが叶えられずに悶々としていたときに、「わたしの恵みは、あなたに十分である」という声をパウロは聞いたんです。

私たちの仕事が非常に順調ですべてのことが相整い、やはり神さまは私を祝福してくださったという場面で、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と聞いたのではない。
むしろ自分の仕事がうまくいかず、自分の人生がますます困難を極め、祈っても祈ってもそれが叶えられないという場面で、「わたしの恵みは、あなたに十分である」という声を、パウロは聞いたんですね。

私たちで言うならば、病院の待合室で緊張していたときに聞いたんです。
私たちで言うならば、自分の失敗故に人に迷惑をかけて、そして「覆水盆に返らず」という現実で頭を悩ましているときに聞いたんです。
私たちで言うならば、子どもたちやあるいは自分の兄弟や親が様々な苦悩に遭いながら、この人生の苦闘を過ぎ行く中で、「わたしの恵みは、あなたに十分である」という声を聞いたんですね。

今年の秋に姉(To姉)が黒部で滑落しまして、そして皆さんに祈っていただきました。To兄は仕事の合間を縫って何度も黒部にいらっしゃいました。
私(藤本牧師)は、ああいう時は、入院している本人はあまり自分の現状はわからないのかなぁと思いますけれども、私も一度黒部市民病院に行きました。

黒部の駅ってなんでこんなに何にもないの(大笑)っていうぐらい、何にもないです。
駅前で一番物が手に入るのがコンビニ。そのコンビニもつい二年前にできた。
でもTo兄が言うには、あのコンビニよりも病院の中の売店の方が、もしかしたら物が沢山手に入るかもしれないというぐらい、何にもないです。

そしてその黒部の駅から電車に乗って、越後湯沢の駅にまで行って新幹線に乗るんですけれど、ま、圭子が何度か行ってましたが、言っていましたね。「あの電車は指定席を取る意味がない」(大笑)と。
電車の中にほんとに数えるほどしか乗っていないんですね。
寒〜い秋のひと時、To兄が祈祷会で何度かお証ししておられましたけれども、やっぱり兄弟ならではの味わいというのは、「わたしの恵みは、あなたに十分である」という声を、そういう電車の中で聞くことなんだろうと思いますね。

全部順調で、今年も一年守られ、そして家族の者も上手にうまくいき、という人この中に沢山おられると思いますが、でもそれは表面的にそう見えているだけで、実はその人の心の中にも、いろいろな課題や日々格闘している様々なプレッシャーというのがあって、それを何とか支えられて一年間やって来たんですよ。

人前であまり表に出るような問題はないかもしれませんけれども、一旦職場へ帰ったら、沢山の事柄を抱えていて苦労して、いや今年はうまくいったけれども、しかし自分は数年前のあの出来事の傷をいまだに背負い、これからも一生背負っていくという、そういう傷だってあるわけですよね。

パウロはいったいどこで、こ〜んなに味わい深い、恵み深い神のことばを聞いたのか?
「わたしの恵みは、あなたに十分である」ということばを、第三の天で聞いてない。
彼は第三の天の啓示というのを一切語らないですよね。
むしろ日常生活の苦労の連続の中で、キリストが声を掛けてくださった、弱さの中で力が全うされていく、という味わいを私たちに告白していることばです。

八年ぐらい前まで、年末礼拝の担当は父(藤本栄造牧師)でした。
七年ぐらい前から年末も私(藤本満牧師)になったのですが、年末礼拝って、牧師にとってはしんどくて、クリスマスで全〜部終わったという……
私(藤本牧師)は神学生の頃に、アメリカの牧師の年末礼拝によく雇われて行きました。
アメリカの先生方は、アメリカは元旦がありませんので、ほとんど。
ですからクリスマスが終わった途端に休暇を取られるんですね。
それを埋めに神学生が雇われて行くんですけれども……
ああ、日本は厳しいなぁと、これで年末やって、元旦やって、初聖日か(大笑)と思うだけで、そんなことを言ったら皆さんに申し訳ないんですが(笑)、よく父が「じゃ年末だけは代わろうかねぇ」と八年ぐらい前までやってくれたんですね。

父が年末礼拝を引き受けると必ず引用していた祈りがありますので、それを引用して終わりにいたします。
それはナチス・ドイツの収容所で殉教を遂げた、ドイツの牧師ボンへファーの「主の善き力に守られて」という祈りです。
「主の善き力に守られて」――収容所で新年を迎えるにあたって、自分と仲間のために祈ったボンへファーの祈りですね。

主の善き力に、確かに静かに取り囲まれ、不思議にも守られ、慰められて、
私はここでの日々を君たちと共に生き、君たちと共に新年を迎えようとしています。
神さま、あなたがもし私たちに、苦い杯を、苦汁に溢れる杯を、なみなみと注いで差し出されるなら、私たちはそれをも恐れず、感謝して、慈しみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。
(収容所ですからね、とその背景を念を押される藤本牧師)
しかし、もしあなたが私たちにもう一度喜びを、この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら……
(で、ず〜っと詩は続きます。そして最後に、と藤本牧師)
主の善き力に不思議にも守られ、私たちは来たるべきものを安らかに待ち受けます。
神は朝に夕に私たちの傍におられます。
そして私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず私たちとともにおられます。

私たちが苦悩の日々を通過するとしたら、その私たちの上に降りて来てくださり、その十分な、不足することのない恵みの天幕を私たちの上に張ってくださり、私たちを守ってくださる。
ボンへファーのナチス・ドイツ政権下の苦々しい年々の祈りですが、主の善き力が、十分な恵みが、自分を確かに、静かに、取り囲んでいることを信じて祈った祈りに、私たちも今年をまた重ねて新しい年を迎えたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、パウロがキリストのことばを直に聞いたように、私たちは今朝、あなたの恵みに溢れることばをいただきました。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(Uコリント12:9)
「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで弱さを誇る」(同)とパウロが言うことができたように、私たちの弱さ、私たちの苦悩、私たちの格闘、私たちの悩み、私たちが背負っている様々なハンディ、もしそれらがなければどれほど自由かと、もっと力強く動くことができるのにと思う出来事の只中で、あなたはそれらを圧倒するところの恵みを私たちに注いでくださり、私たちを豊かにしていてくださるというお約束を心から感謝いたします。

この恵みに、確かに静かに取り囲まれて、新しい年へと踏み出そうとしている私たちを支え、同時に今年支えられてきたことを心から感謝することができるように、感謝の思いを私たちの内側に満たしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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