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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/11神に絶対的な信頼を寄せる者 創世記22:1〜14
☆聖書箇所      創世記22:1〜14

1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
 6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
 9ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

☆説教     神に絶対的な信頼を寄せる者

――お祈りにあったT姉を紹介する藤本牧師――
Tさん、ごめんなさいね。ちょっと立っていただいて、ご紹介したいと思います。タイから来てくださいました(拍手)。
Tさんがいらっしゃっている教会に、小林武男兄の写本聖書が行っているということを覚えますと、ほんとによく高津に来てくださいました。私たちはタイには行けない(笑)。でもTさんが来てくださるというのは、大変な恵みであります。

創世記をそのままにして置いていただいて、今年の聖句でありますロマ書を見てください。ロマ書の8章。割と私たちがみんなよく知っている聖句です。
でも元旦礼拝と初聖日で、この聖句が実は複雑な成り立ちを持っているということは、理解していただいたと思います。
8章の28節をもう一度一緒に読んでみたいと思います。

28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

一番よく分かっているのは、真ん中の部分で、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と。
元旦礼拝では、ごめんなさい。続けて是非この聖句の内容を理解されたいと願うならば、インターネットでご覧ください。

私たちの教会の最大の伝道の働きは実はインターネットです。普通の方が見ていただく「説教」の欄と、高津教会員だけが見ることが出来る、説教に牧会報告も祈祷も全部入った「聖日説教」の欄があります。
そちらから入っていただければUstreamで、たとえば(中国の)M兄とか、NZの兄弟姉妹ですとか、今日はもしかしたら(インフルエンザの為お休みの)Y兄とか、いろんな方が(動画を)観ていてくださいます。大体(動画を)ご覧になっている方は5−6名だという風に伺いました。で、ネット環境が遅い所は同時ではなくして、すでに録画されているものを、一週間ずれぐらいで観ておられますが。

説教の原稿は、私が日曜日の朝(説教を)しますと、火曜日の朝にはインターネットに上がります。これはT・Y姉の、ま、犠牲に依るのですけれども、大体1カ月で200ぐらいのアクセスがあります。それで3か月たつと、アクセスが500位になっています。それで、その内のかなりのアクセスは教会の先生方だと思います。と言うと、その先生を通してアクセスがなされていけば、ま、1500ぐらいの方々が見ておられる。

ま、それは私たちの教会にとってはとても大きな働きだということを覚えて、正直こんなことを言うと嫌味に聞こえてしょうがないのですが、一番見ていないのは高津の人だと思います(大笑)。これは強烈な嫌味だと思って(大笑)、すみませんけど、よろしくお願いしますよ(大笑)。いつでも前後のかかわりがある聖句は特によろしくお願いいたします。

元旦礼拝では、今お読みしました最後の「私たちは知っています」というこの言葉は、実は原語のギリシャ語では一番最初に出て来るという話をしました。
私たちは知っている、何を知っているのか、パウロの前後を見ますと、今の時の苦労を私たちは知っている。様々な次元の苦労を私たちは知っている。
でも聖霊の働きによって助けられていることも、私たちは知っている。
だとしたら、私たちは絶対に諦めてはいけない。
聖霊は私たちのうめきにご自身のうめきを重ねるかのように、私たちをとりなしてくださる。
だから聖霊に助けられて、私たちは祈り続けるんだという話をしました。

先週の聖日では、「共に働く」という言葉に注目をしました。
これは新改訳聖書には訳出されていません。
28節のこの中心の言葉、「すべてのことが相働きて益となる」というのには、実は主語がない。
そこにあるのは、3つの言葉――すべての、共に働く、益となる――これしかない。
文語訳聖書、あるいは新共同訳聖書では、主語が物事になっていて、「すべてのこと」になっていて、「すべてのことが相働きて益となる」。
でも新改訳聖書では、神を主語としています。
私はもちろん神を主語とする方がいいという風に考えていますが、でも、神を主語としたときに、じゃ、神はだれと「共に」働くのか、スン・エルゴーの「スン」が今の新改訳聖書では訳されていません。

そう考えますと、先週申し上げましたように、口語訳聖書が一番すぐれているんじゃないかという風に申し上げました。
「神は、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださる」ことを、私たちは知っている。
神は――これは聖霊はと訳してもいいんですが――神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださる。

そして、私たちはアブラハムを見ました。
アブラハムは神さまが与えてくださった土地を自分のものにしようと、東西南北歩き回り、気持ちよく努力し、そして与えられた場所で神を礼拝していく。
土地を与えてくださったのは神さまです。この土地を相続せよと、約束してくださったのは神さまです。
でもそれを自分のものにしようと、具体的に自分のものにしようと東西歩き回り、その土地で礼拝を捧げたのはアブラハムでありました。

■今朝は一番最初に日本語で出て来ます「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たち」に注目します。特に「神を愛する者たち」に注目します。

パウロがローマ人への手紙8章で語っているのは、神がどれほど私たちを愛していてくださっているかです。
ちょっともう一回、ローマ人(への手紙8章を)見ますか?長いですけれども、35節から最後の39節までを交読いたします。
ここに描かれているのは、私たちが神を愛するかではない。神がどれほど私たちを愛しておられるかが記されています。35〜39を交替に読んでいきます。

35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 「あなたの為に、私たちは一日中、
  死に定められている。
  私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

これはわかりますでしょう。圧倒的に迫ってくるのは、私たちが神さまを愛する愛ではない。神さまが私たちを愛してくださる神の愛です。
その愛は32節にこういう風に凝縮されています。

32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

■御子をも惜しまず、神さまの愛は私たちにそそがれたと。だとしたら、私たちは絶対的に神さまのことを信頼できる――これがテーマですね。

様々な試練や苦悩の中で、神さまの愛は私たちから離れない。死をもってしても離れない。御子を与えてくださった神は、御子と共にすべてのものを恵んでくださる、ということは絶対的に信頼できる、というのがパウロの確信です。
つまり、先ほどの「神を愛する者のためには」とか、「神は、神を愛する者と共に働いて……」(***ロマ8:28)の「神を愛する」というのはだれのことか?
それは神に絶対的に愛されている者が絶対的に神を信頼している姿ですね。

私(藤本牧師)はここでアブラハムをまた見てみたいと思います。来週もアブラハムから話してみたいと思います。

■神に絶対的な信頼を寄せるアブラハム、その彼は、試練の中でも、(繰り返して強調されて)試練の中でもすべてを益としてくださる神を知ることになります。
物語を少し追って行きたいと思いますので、創世記の22章にお戻りくださり。

創世紀の22章1節で、こう始まります。

1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。

「これらの出来事の後」――割と順調だった。しかし神はアブラハムを試練に会わせられた、というみことばは、あまりいい気持ちはしません。
でも試みられているのは、聖書の中にはアブラハムだけではない。ヨブであろうが、イサクであろうが、ヤコブであろうが、私たちみ〜んな試みられます。

私たちというのは、下手をすると、神さまを試みるような者です。
神さまを試す。神さまを試みるというような、人間の傲慢さというのは、私たちの心の中に沢山抱えています。
でも聖書が語っているのは、神があなたを試みられる。
あなたを愛すれば愛するほど、神はあなたを試みられる。

それでアブラハムは大変大きな試みを受けます。2節に、

2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

とんでもない指令、命令、指示を出すのです。3節ご覧ください。

3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。

彼は神さまの命令に従います。――2節に、モリヤの地に行け。3節に、そのまんま連れて出かけて出て行った。4節に、三日目とありますよね。
伝説によれば、モリヤの山というのはエルサレムのことです。
すると、ベエル・シェバからエルサレムまでは約80キロですから、三日ぐらいかかった。重い足取りの3日間。
5節をご覧ください。

5それで、アブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。

何にも言わずに、ふたりの若い者をそこに残します。何も言えずにそこに残されます。
アブラハムとイサクだけが山を登ります。
6節、ご覧ください。

6アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

「ふたりはいっしょに進んで行った」という言葉は8節の終りにも書いてあります――「こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。」

エルサレムへの登り坂を見上げるように、ふたりは押し黙って黙々と登って行きます。
息子イサクは不安を感じ始めました。すべてが変だと。
――いけにえを捧げに行くと言ったけれども、いけにえは普通携えて行く。でもいけにえがない。たきぎはある。火も用意してある。刀もある。しかし肝心のいけにえがない。
そこで7節に――

7……「お父さん。」……「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」

アブラハムは8節でこう答えます。

8……「イサク。神ご自身が、全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」

イサクのところに*がついていますが、脚注に「わが子よ」――愛情のある表現ですよね。
神が備えてくださる。神のみが知る。誰も解らない。
神のみが知る、という言葉は普通は諦めの答えです――神のみが知ると言ったときにもう誰も解らないのですから、あきらめる以外にない。
でもその諦める、一体この先どうなるのか私にはわからないと言いながら、アブラハムの心の中には、心の底からの神に対する信頼がある――つまり神さまは何とかしてくださる。
現実的には何とも言えない時間ですよね?――アブラハムの現実はイサクを捧げるとなると、イサクを失う。イサクを失わなければいけない、その道を進んでいるんです。
しかし、心のどこかで――いや神さまは必ず逃れの道を備えてくださる――信頼があります。

よくわからない、読めば読むほどわからない聖書の箇所ですね。
なぜ神さまはこれほどまでの試練を人に与えたのだ?しかもアブラハムに与えたのか?
そしてアブラハムはこれほどの試練の中にあって、従順に神さまに従います。
古今東西、哲学者が最も好む聖書の箇所というのがあります。
古今東西、どんな哲学者も最も好む聖書の箇所というのは、ヨブ記、それから伝道者の書――「空の空、すべては空だ」という伝道者の書、そしてこの「ひとり子を捧げよ」と仰った神さま――それに従うアブラハム、この3つの記事というのは、古今東西どんな哲学者もこれと取り組むんですね。

気持ちはわかります。そこに人生の不条理さ、頭ではわからない人生の矛盾、そこを突き抜けていく信仰。
私たちの、アブラハムの、神さまに対する理解はあったのですね――この方は愛なるお方だ。この方は契約に真実なお方だと。
ところが、降ってわいた人生の出来事というのは、自分が理解していた神さまとは全く違う、非常に厳しい現実を突きつけられた時に、アブラハムの信仰がその理解を突き抜けて、神さまへの信頼に変わって行く場面ですね。
それをどう説明するのかは、私(藤本牧師)の言葉でも説明し切る事はやっぱりできないと思います。

12節を見てください。アブラハムが手を下そうとしたその瞬間です。

12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。(アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。)

これが出来事の最後の方ですね。
神さまが必ず何とかしてくださる。どうされるかはわからないけれども、神さまは必ず何とかしてくださるという信仰。
つまり、すべてのことを相働かせて益としてくださる神さまが、この自分の人生にはまり切れない、はまり得ない、この試練というパズルを私に与えてくださった時に、どう考えても、今までの自分の信仰感、今までの自分の信仰人生の中には、これだけは入らない。

J・B・フィリップスというイギリスの新約学の先生がいます。
この人は非常に有名で、人生の後半に新約聖書を単独で翻訳します。
その後で彼は旧約聖書も単独で翻訳します。
それはもう100年も前の出来事ですけれども、フィリップスの聖書訳というのは、いまだにどんな牧師もその一冊を持っている位、有名でこなれた訳なのですね。

彼は晩年、うつ病になります。彼は自伝を書いていて、一番最後の頃にうつ病になった自分の事を書くんですけれども、
「人生おおよそのことは、最終的にはつじつまが合って、自分の益となったということに納得がいくんだろうと思う。しかし、自分が受けたこのうつだけは、何の益になるのか、さっぱりわからない。」
と書いてありますね。

有名な聖書学者で、世界中の牧師が、英語ができなかったとしても、フィリップスの聖書訳はみんな一冊は持っているほどの人物ですよ。
彼は非常に信仰的な人物ですけれども、自分が受けたこのうつという病気だけは、どうやったらこの人生のパズルの中にあてはまるのか、その意味さえ感じることはない。

神さまが、アブラハムをどういう意味でこの試練に会わせられたのか、神さまは本当にアブラハムを試されたかったのか、実はそれも私(藤本牧師)にはわかりません。
アブラハムにどこかあやしいところがあって、最後の最後に、一回彼をその試練の穴に入れて、信仰がどういう風に輝き出すのか、彼を練ってみようと神さまが思われたのかどうかも私には明確にはわからない。神さまがそんなことをされるのか?

■その分からない中で、一つだけ、非常に示唆に富んでいる聖書の箇所はあります。そこを見て終わりにしたいと思うんですが、22章の1節をもう一回見てください。

1これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

そして試練の出来事が記されていて、最後11節に――

11そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」

■試練の始まりは名前を呼ばれて、「はい。ここにおります」と始まり、試練の最後でもう一度名前を呼ばれて「はい。ここにおります」とアブラハムは答える。
つまりアブラハムという人は、神さまと距離を置かなかった。試練の中にあっても、神さまとの距離を取ることをしない。
呼ばれたら「はい」と答える従順さを持っていました。

私(藤本牧師)はこの所から非常な刺激を受けて、いまインマヌエルの式文を書きました。
洗礼式の時の式文で、今までと違うスタイルの式文を書いた時に、私(藤本牧師)はここから式文を書きました。
「洗礼式であなたがすることは、名前を呼ばれたら『はい』と返事をすることです。
世界中に何億という人間がいる中、神さまはいつもあなたに目を留め、あなたの名前を呼ぶ。(***この次の文章が入るのかどうか不明ですがあしからず――T・Y)
名前を呼ばれたら、メッセージを聞いたら、みことばが心に響いたら、讃美歌が自分の信仰を揺らしたら、それは神さまがあなたの名前を呼んでいるということに気がつきなさい。」

神さまが差し出される杯は、時に祝福に満ちている喜びの杯だ。救いの杯です。
でも神さまは同時に、苦き杯を私たちに差し出されることもある。
その時も同じように「はい」と返事をし、全幅の信頼をもって、その苦き杯を益と変えてくださる神に信頼しながら、それを飲み干す。
私たちは杯の匂いをかぎ、一口なめて、「これは自分には飲めない」と杯を触ることを放棄します。

アブラハムはそれを全部飲んだ。全部飲みながら、
「きっと神さまはすべてのことを働かせて益としてくださる。私に今できることは、ともかく論ずることではない。抵抗することでもない。出された杯を飲むことだ」
と信じて、アブラハムは杯を飲みにかかる。
その時に神さまは、「わたしはあなたの信仰がよくわかった。あなたの手を止めなさい」
そして神さまは逃れの道を、用意していてくださいました。

アブラハムの信仰は従順な信仰です。名前を呼ばれたら、いつも「はい」と言う。
アブラハムはいつも神さまにくっつき、神さまとの距離を取らず、アブラハムはこんなにも苦しい厳しい状況にありながら、神さまを避けない。神さまを捨てない。
「はい。ここにおります」という距離に居続けました。

■私たちの、そしてアブラハムの一生もまたこれと同じです。
信仰は積極的な行動に結びつく場合も多々あります。しかし、訳の分からない矛盾の中をひたすら耐え抜いて進んで行くという場合もある。
J・B・フィリップスのように、このうつ病の意味が全く分からない程、空しくマイナスでしかなかったという場合もある。
でも「はい。ここにおります」という距離は保ったままです、フィリップスは。
保ったまま、神さまのなさっておられる事と、自分の人生をすれ違いには絶対にさせない。

アメリカのサスペンスの作家でジェフリー・アーチャー(***Archer,Jeffrey 1940年英国生れ)。読んだことある?
私(藤本牧師)はジェフリー・アーチャーは好きですけれども、彼のサスペンスで、『盗人にも一抹の名誉を』 “Honor Among Thieves”という本があるんですが、二人の主人公が出てくるんですね。

一人は、ハンナ・コペックという美しいイスラエルの女性で、彼女の家族というのは、フセイン大統領によって、放たれたミサイルで全員死亡してしまいます。
ですからハンナはイスラエル軍に入って厳しい訓練を受ける。諜報部員に抜擢されて、やがてパリに潜入して、そこでイラクの大使館でスパイ活動をするようになるんですね。

もう一人の主人公はアメリカ人で、エール大学の教授でスコット・ブラッドレー。
彼はCIAから遣わされて、このハンナを見張るという役。パリに潜入したハンナを見張るという役ですね。

ある日このハンナのもとに、イスラエルの母国から連絡が入って、パリの街角で同胞と接触するように言われるんですが、その情報を手に入れたアメリカ人のスコット・ブラッドレーは、その同志のふりをしてハンナと先に出会う。
そしていつの間にか二人に恋が芽生えるという話です。

スコットは、ハンナがだれであるのかを大体知っているんです。だから、ハンナに同志のふりをして近づく。
しかし、ハンナは全然スコットの正体を知らないですね。
ふたりの関係が深まるにつれ、スコットは自分を愛する女性をだましていることに罪の意識を感じ始める。

でもついにハンナは、イスラエルの本当の同志とコンタクトが取れちゃう。そしてスコットが偽物であることに気がつくんですね。
スコットは本来、CIAに雇われて、ハンナを守るために任命されました。
ところがそれを知らないイスラエル側は、ハンナに彼を殺すように命じました。

スコットは、ハンナを夕食に招待して、そして食事をしながら、
「自分は実は味方なのだ。君を守るためにアメリカから遣わされた味方なのだ。ごめん。身分を偽ってしまった。でも自分は敵でなく、味方なんだよ」
と明かす決意をするために、ハンナを自宅に呼ぶんです。

ところが招待を受けた彼女は、「彼を殺せ」というイスラエルの命令を実行に移すチャンスが来たと思って、出かけていきます。

夕食の席上で、スコットはコーヒーを入れます。
普段はミルクと砂糖を使わないハンナですけれども、
「ミルクと砂糖を取って来て」と彼が台所に取りに行った、その隙にハンナはコーヒーに毒を入れるのです。
                
戻って来たスコットは、「自分は心から君を愛している」と言いながら、「自分は味方であって敵ではない」と言いながら、毒入りのコーヒーをすすり始めるという映画(本?)ですね。

考えてみたら、よくわかる。
つまり、スコットは、ハンナについて、かなり知っている。
でも、ハンナは、全然事情がわからない。
スコットは本当に自分を愛しているんだろうか。それともスパイなのだろうか。自分をどういう風に利用するんだろうか。
どこかで疑いの目をもって、いつもスコットを見る。
その知らない部分が命取りになって、スコットの愛を、毒をもって殺そうとするわけです。

これはね、神さまと私たちの関係と、ある意味で、非常によく似ています。
神さまは、スコットのように、私たちの状況、私たちの事態をよ〜く知っておられる。
でも私たちは神さまを知らない。
聖書をよく読んでいない。聖書を一方的にしか知らない。聖書を健全に知ろうとしない。自分の勝手な考えで信仰を理解しようとしてしまう。
まして、まともに祈らない。「神さま、この出来事にどんな意味があるのでしょうか?」と問いもしない。
「神さまのくせに、よくもまぁ、こんな苦い杯を出して来たものだ」と(大笑)文句さえ言う。
そして神さまは、絶好の機会として用意してくださったのに、私たちは毒を盛るんですよ。

■そう思いますとね、近づいて来てくださったお方が、神さまであるかを知ろうとする、知ろうとしようと思うなら、私たちは日頃から神さまとものすごく密な関係にあり、神さまのことをいつも知ろうとしなければいけないし、「なされることは何をしようとしておられるのですか?」と、神さまに問いかけなければいけない。

アブラハムはついぞわかりませんでした。
だけど(名前を呼ばれて)「はい」と言い、最後に「はい」と言うのは、神さまとものすごく近い時に、80キロの旅路を三日間かけていくわけですけれども、アブラハムの頭の中には、ず〜っと祈りがある。ず〜っと祈りがある。
「神さま、私は若い頃から自分の生まれ故郷を出て、あなたの示す土地に出て行くために、これだけの人生を歩んでまいりました。この期に及んで、こういう試練を与えられるとは、それはいったい私にとって、何の意味があるんでしょうか?」
で、神さまは答えないです。でもアブラハムは三日間問い続ける。
そして最後の最後に、神さまは答えてくださる。

アブラハムは、神さまをそこまで近くに感じていたということでしょう。
そしてこれまでのすべての経験を通して、「神さまはすべてのことを相働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とアブラハムは言うことができたから、この試練を受け留めることができた。

私たちはこの年、様々な出来事を通してきっと、すべてのことを益としてくださる神の恵みというのを、小さな小さな形で何回も何回も経験していくと、大きな試練さえも、意味が分からなくても、「神さま、あなたが飲めと仰る杯でしたら、あなたがこれを益と変えてくださることを、私は知っています」と言った瞬間、神さまは必ず益にしてくださる――それが私たちの信仰であることを覚えて、一言お祈りをしたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、「何だ、この杯は!?」と思うような出来事は多々あります。でもそうした杯を飲んできたからこそ、今の自分があると思います。自分自身、実に多くの忍耐を強いられ、沢山の試練を乗り越えてきたことを覚えることであります。そして、この世界に生きている限り、きっと試練は続くに違いありません。
でもどうか、パウロと同じように、「神は、神に絶対的に信頼する者のために、すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」というこのみことばを、自分のものとすることができるように、信仰を豊かにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2015.01.12 - 19:00

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