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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/25教会総会:イエスを迎え、イエスに仕え、イエスを信じる ルカ10:38〜42
☆聖書箇所      ルカ10:38〜42

  38さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

☆説教     イエスを迎え、イエスに仕え、イエスを信じる

ルカの福音書の10章を開いていただきました。
ここに登場するのは、典型的な姉妹です。姉のマルタと妹のマリヤで、そして姉のほうが、38節の後半、「マルタという女が喜んで家に(イエスさまを)迎え」ます。
そして、10章の39節に――(***42節まで続けて読んでいかれる藤本牧師)

39彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

姉のマルタはお客様を迎えるために、あれやこれやもてなしに忙しく、妹のマリヤは手伝いもせずに、じっとイエスさまの足元にすわって、教えに耳を傾けています。
教会で言いますと、気配りして様々に奉仕するマルタと、そしてじっと坐って祈り、熱心に主の教えに耳を傾けるマリヤですね。
あるいはもっと広くキリスト教的なあり方から言いますと、主に仕え、様々な働きをする動的なマルタ、奉仕者マルタと、礼拝、祈りに集中し、敬虔に静かに生きる静的なマリヤ、という風にも分けることができます。
さて、自分はどちらのタイプかと尋ねられたら、正直皆さんは、必ずどちらかに当てはまってしまうほど、この二つのタイプは典型的に違います。

さて、皆さんはどっちなんでしょう?
私(藤本牧師)は、マルタ、ですね。すごく気を遣って、疲れてしまう(笑)。
気を遣ったからと言って、何か得するわけではないんですけれども、これはある意味で性格的なもので、ものすごく疲れてしまうタイプ、気疲れをしてしまうタイプですね。

じっと坐り、教えに耳を傾けているのが、本来は牧師のあるべき姿だろうと思います。
祈りとみことばに専心する、と言いますか……。
しかし、もし祈りとみことばに専心していて、そして教会は育つ?
そして信徒の方々の様々な必要にも応えることができず、状況も知らずに、いかにも気の利かない牧師だとしたならば、それもまた問題ですよね。

私(藤本牧師)はよく神学生に言います。
「神学校に入って来ましたら、実習先を教会に選ぶか、マクドナルドにするか(大笑)。
マクドナルドの大切なところは、いつもニコニコして『いらっしゃいませ』が言えることですね(笑)。
あなたがかつていかなる性格で、どういう職業に就いていたとしても、教会の牧師になったら、ニコニコして『おはようございます』が言えなければアウトだよ。
だから教会で実習する以前に、先ずマクドナルドで実習させてもらった方がいいんじゃないのかな」
という風に、実際に言います。

マックも一ランク上に上がりますと、今度は居酒屋ですね(大笑)。
これはマニュアル通りだけでは済まない。ガミガミ言われる店長のその様々な圧迫に耐え、それでいて、機転を利かしながら、様々な状況に応ずる柔軟性と強さが求められています。
「マニュアル通りだけじゃだめだよ。どんな事態にあっても、平静心をもって、信仰と愛を生かしながら対応できるような人物になってね」と(言います)。

そして私たちは、祈りとみことばに専心しない限り、いのちをつなぐことはできない。
そう考えますと、私たちはあらゆる意味で、マルタであり、同時にマリヤです。
女性であれば、このマルタの気持ちがわからない人はいないと思いますね。

私たちにとりまして、ありそうでないのが時間です。
静かに主の前に座る時間が、あればいいなぁと思いますが、先ずしなければならないということが多すぎる。
イエスさまはここで仰いました。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」と(ルカ10:42)。
そのどうしてもしなければいけないことが、主婦の場合は次から次に(笑)やってくる。一つなのかもしれないけれども、それは次から次へやってくる。
子どもたちの弁当から、掃除から、洗濯から、学校の行事から、子どもの勉強やご主人の 云々、先ずは子どもたちやご主人のことに追われて、その上で自分の仕事のことがあったとしたならば、しなければならないこと――「どうしてもしなければいけないことはわずかです、いや、一つだけです」と言われたら――その一つが実は沢山、別個に存在しているんですね。
主婦であれば、どんなにマリヤのようになりたいか。じっと座って、主のみ教えに耳を傾けるような人物になりたいか。
でも、自分が背負っている責任を考えたら、なかなかなれない。いつまで経ってもなれない。

そして40節に、マルタは自分の不満をイエスさまに訴えます。
妹がいるんです。いなければいいんですけれどもね(笑)、妹がいるんですよ。
助け手がそこにいるのに、その助け手が、イエスさまのみことばに聞き入って、一向に助けようとしない。
このマルタの主張は、実に納得がいきますね――少し位手伝ってあげたらいいのに。

ところが、41節でイエスさまが仰ったのは、「マルタ、マルタ。……」
聖書の中で、名前が二回呼ばれている人物っていうのは少ないんです。
モーセの場合は「モーセ、モーセ」(出エジプト記3:4)です。
パウロの場合は「サウロ、サウロ」(***使徒9:4、22:7、26:14)です。
そしてもう一人、ここに出て来る「マルタ、マルタ」です。
サムエルの場合は、別々の状況で3回呼ばれていますけれども、「サムエル、サムエル」とは実は呼ばれていたことがわかります。(***Tサムエル3:10)

そういう風に考えますと、この「マルタ、マルタ」というものの言い方の中に、神さまのものすごく大きな愛情がこもっていると、
そしてむやみやたらに、イエスさまはマルタを制した、叱った、指導したということではなくして、
「マルタ、マルタ。わたしはあなたを愛する」という意味で以下のことを仰った。

「あなたはいろんなことに心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」(41〜42節)
それでもマルタは納得できないと思いますね。
このいろいろなことに心配してという、色々なことを誰かがしなければいけない。
教会でいうならば、色々なことは様々な人が分担しなければいけない。

ここではマルタとマリヤですが、私たちの教会には沢山のマルタがいて、沢山のマリヤがいます。
そして正直、マルタとマリヤ以外の人というのは、私たちの中にはいない。どちらかに当てはまっているのだろうと思います。
でもマルタも沢山いて、マルタが時にマリヤになれるように、マリヤが時にマルタのように気を遣って様々に奉仕することができるように、
私たちがいつでも交互に交替できるほどの賜物のある人物を(神さまは)私たちの教会に備えてくださいました。
私たちの教会では、いつでも犠牲が誰かに集中することがないように、互いに配慮しなければいけないですし、
祈りの責任も私たちが皆分担して負うことができるように、牧会的な配慮も、一人一人がそれを荷うことができるようにしなければいけないと思います。

ここで挙げられている反省には2つあります。
1つは41節に「いろんなことを心配して」とあるように――

1)色々やりすぎてはいけない――選択的に生きる

私(藤本牧師)は、お客さんと食事をする時に、いろいろ話しながら食べるのが苦手です。自分が呼ばれていく時には平気な顔をしていますけれども、自分が誰かを接待する、招いた時には、その人の食事がものすごく目に入ってしようがない。
どうしてそこから手を付けるかな?とかね(大笑)、この人はどうして魚ばっかり先に食べているのか、茶わん蒸しにはどうしていかないんだろうか?(大笑)ということが、ぐるぐるぐるぐる回っちゃうんですね。
そして、私は言ってしまうんですね。「あの、茶碗蒸し冷めますよ」(大笑)とか、「昔からそういう食べ方をなさってたんでしょうか」(大笑)とか、「そこにいろんなものが載っていますので」とか、「やっぱり熱いものを先に食べたらどうでしょうか」とか。
一番厄介なのは外国の方で、外国の方っていうのは、食事は先ず楽しく話をすると言うんですかね、ともに交わるということを優先されるので、そこに何が並んでいるのかなんてさっぱり関心がない。
そのくせ、「なんかすごくきれいですね」とか、いろいろその見てくれをほめるんですね。だったら食べろよ(大笑)と、頭の中ですごくそれが回ってしまうんですね。
そうすると、私(藤本牧師)は、それが一番疲れる。

この前、昨年の聖化大会で、アメリカの私の知っているロナルド・スミスという、ウェスレー神学校の校長が来まして――ま、スピーカーとして――彼と一緒に食事をしたんですね。
彼は学長歴が18年位だったと思います。今、学長歴から解かれてすごく生き生きしているという話を、彼がしてくれるものですから、
「学長として何が一番疲れたの?何が一番嫌だったの?」
彼はスパンと、「ホストになることが疲れた」と。
お客さんが来たら、その人をお迎えする、理事会があるときには、理事一人ひとりに頭を下げてお迎えする、そして神学校に献金してくださる方が来たら、その人を迎える――人を迎えることの大変さ。
学長という仕事は、ひたすら丁寧に丁寧に、言葉を選んで人を迎え、その人の存在感がありとあらゆる集会で、卒業式、入学式で、きちっと際立つことができるように、気を遣うことに自分は疲れてしまったと。
以前のように、一つの研究職、あるいは一つの教会に没頭することの、なんと平安なことか、という話をしていました。
私(藤本牧師)もそうだなぁと思いました。食事をして疲れているのではない。相手を楽しませようとして疲れているのでもない。

微妙な気の遣い方で、あれやこれやとして、自分を消耗させてしまう立場の人、あるいはそういう性格の人がいますね。
そういう人がいろいろやりすぎていますと、それが何倍にもなって、その人のエネルギーを絞り取って行きます。
「もし、いろいろというものをあきらめれば、そんなにピリピリする必要もなかったかもしれない。もう少し選択的に生きることができたら、あれもこれもと無理しなければ、もう少し余裕をもって生きることができたならば、あなたはそこまで消耗する必要もないし、そういう不平を発する必要もないんだよ」と(イエスさまは仰るでしょう)。

ですから、イエスさまがここで示していることの一つは、選択的に生きることの大切さです。
「私たちがマリヤであろうと、私たちがマルタであろうと、そして特別にマルタのように様々なことを考え、そして気を遣うタイプであればあるほど、逆に、もう少し選択的に生きなさい。できることとできないことがあるんだよ。そして活動過多になってはいけないよ」と(教えておられます)。

私たちの教会はもっともっといろんなことをすればいいと、伝道的にいろんなことを考えればいいと思います。そして考えていかなければいけないと思います。
でもそれが誰かに集中することがないように、係りでも、教会的な運営でも、一人に集中することがないように、私たちは様々な配慮をして、時に自分がマルタになり、自分がマリヤになり、奉仕の先頭に立ち、しばらくしたら、また後進を育てるということを実際に考えていかないと、一人の人だけに活動過多が集中してしまう。
すると、必ずそのような奉仕者は疲れていく、ということを心に留めておきたいと思います。

2番目これはもう明らかです。42節の「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」という言葉にあるように――

2)『良いほう』

やっぱりこっちの方がいいんだ。
食事のことも、仕事のことも、子どものことも、みんな大切なのです。
でも人生、絶対的に大切なのは、神さまのもとに座る――これが霊の世界に繋がっているからですね。
イエスさまは実に上手なものの言い方をします。
「彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)――それを犠牲にしてはいけないよと。
周囲の者がそれを取り上げなくても、自分でそれを取り上げてしまう場合がありますよね。

私たちの教会から祈りを取り上げないでください。
私の人生の営みから、どんなに忙しくても、みことばを読み、祈るということを取り上げないでください。
イエスさま、あなたが私にどんなことを課したとしても、どうかこの絶対に必要な一つのことを、私から取り上げないようにしてください。
私がどんな試練の中を生き、どれほど神さまに背を向けたくなった状況にあったとしても、絶対に必要なことを私から取り上げないでください。

今年一年間、一つのみことばを与えられました。
「神を愛する人々、すなわち、そのご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
ということは、自分が何をしようが、どう生きようが、すべてのことを相働かせて益としてくださる神さまを、私から取り上げないでください、という言葉が入ってきます。

マルタという人物は、ルカの福音書で、ここ(***10:38〜42)で出てくるのが最後です。
でもヨハネの福音書を見ていただきますと、マルタはもう2回出てきます。(***11章のラザロの復活の場面と、12章2節の過越しの晩餐で給仕している場面でしょうか?)
1回だけ見ていただきたいと思うんですが、11章。11章の25,26,27節をちょっとご一緒に読みたいと思います。

ヨハネ11:25〜27
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
27彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

28節に「こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、」――イエスさまはここで、ベタニヤの家にいる、マルタという姉さん、マリヤという妹、そしてラザロという弟の話をしています。
ラザロは既に死にました。
しかし、イエスさまの力によってこのラザロはよみがえります。生き返ります。
でもその前に、一つの大きな信仰の挑戦を、イエスさまは――妹のマリヤではなく、あのルカの福音書で忙しくおもてなしをし、様々に気を遣いながら疲れ果てていた、あのマルタに――非常に大切な信仰の挑戦をお与えになります。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(25節)そしてその信仰、「このことを信じますか」と26節の最後に出てきますが、なんとあの場で叱られたマルタは、27節でイエスさまに言います。
「はい。主よ。私はあなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と。

他の福音書を見ますと、この信仰告白をしているのは、ペテロです。(***マタイ16:13〜16、マルコ8:27〜29、ルカ9:18〜20)
イエスさまが、「わたしをだれだと思うか」と仰った時に、
「あなたこそ、神の子キリストです」という、一番大切な告白が委ねられたのはペテロで、そしてその時、イエスさまはペテロに、
「あなたの信仰の岩の上に、わたしは教会を建てる」と仰った。(***マタイ16:18)
そのペテロの役割を、ヨハネの福音書では、マルタが担っているんですね。

イエスさまを家に迎え、イエスさまのために奉仕し、時に様々なことに気を遣いながら、疲れ果ててしまうような経験をし、
しかし一番大切な時に、その信仰の挑戦をイエスさまはマルタに突き付け、なんとマルタはそれに答えて、
「あなたこそ、世に来られる神の子キリストである、と私は信じています」と、
世界を代表してマルタは告白しているのですね。

すべてが、マルタがイエスさまを家に迎えた所から始まります。
喜んで迎えたのはマルタです。
マルタがイエスさまを家に迎えた――そこから始まり、彼女の人生の中で、時に奉仕する側になり、時に大胆な信仰告白をする側になり、時に疲れ果ててしまうけれども、やっぱり彼女の内側から、『良いほう』というのは取り上げられなかった。
どうしても必要なことは一つだけ、つまりイエス・キリストを信じる、というその信仰は彼女から取り上げられずに、彼女はイエスさまに仕え続けた。

私たちは、教会の中で自分がどういう立ち位置にいるんだろうかな、って考えたことがないと思います(笑)。そんなことは考えなくていいと思うんですが。
イエスさまは教会という群れの中にあって、――「今度はあなたが先頭を歩きなさい。今度はあなたは少し休みなさい。今度はあなたも選別に加わりなさい。今度はあなたが捧げなさい。今度はあなたは休みなさい」(という風に)――様々に声を掛けてくださることを心に留めておきたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたはマルタという一人の女性に目を留め、彼女を用い、彼女を育てていかれました。私たちはどのようにして高津教会に繋がるようになったかはわかりませんが、私たちはマルタと同じように「あなたは、神の子キリストである」ということを心から信じている、との告白をする立場にあります。全世界を代表して告白する者でありますように、私たちの信仰を強めてください。
しかし時に、気を遣いすぎて疲れてしまうこともあるでしょう。そんな時に私たちを「マルタ、マルタ」と優しく呼んでくださり、私たちをいやして、そしてもう少し選択的に生きることを教えてください。
時にマルタを生きることができるように。時にマリヤを生きることができるように。その両方を生きることができるように。そして、絶対にあなたの御前に座り、みことばに耳を傾け、あなたに全身全霊をもって信仰を傾ける、という生き方を私から取り上げないでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2015.01.26 - 19:47
LAST UPDATE: 2015.01.27 - 07:50

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