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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   牧師
Subject   御霊によってキリストの愛を知る
04ペンテコステ 御霊の力によって    04.5.30
       エペソ3:14−21

 1945年8月6日、午前8時15分、原子爆弾が広島の町に投下されました。一瞬にして7万人の人の命を奪い、町を壊滅させた爆弾の威力は、TNT火薬2万トンに値する力といわれています。その力は、すさまじい閃光、爆風、そしてきのこ雲と目に見えるかたちで現れていました。なんという力でしょうか。
 しかし、同じ力が原子炉で働くとき、それは静かで、爆弾のような威力を目で見ることはできません。原子力潜水艦の中心に原子炉があります。原子炉の中で作り出すエネルギーは空気を必要としません。ですから、原子力潜水艦は、普通の潜水艦と違って、浮上して空気を取り入れる必要がなく、静かに海底を延々と航行することができるのです。
 同じ力です。しかし、その力は目に見えるわけではなく、目を見張る現象を伴うわけでもなく、静かに、しかし確かに存在しているのです。
 聖霊の働きと力を考える、まさにそのように異なった二つの側面を考えなければなりません。ペンテコステの出来事は、使徒の働きの2章に描かれているような目を見張る聖霊の力の顕現でした。聖霊が一所に祈っている弟子たちの上に降りたのです。聖霊が大風のように、その場を揺り動かし、炎のように、一人一人の上に下り、弟子たちはいろいろな他国語で大胆にキリストを証しし始めました。その日、3千人が悔い改め、教会が誕生します。それは、圧倒的な聖霊の「力」です。ペンテコステとは、神の力の圧倒的な体験でした。
 この上からの、聖霊の力づけを、使徒の働きのように、劇的に力強く描いている聖書の箇所もあります。しかし、今朝の聖書の箇所のように、静かに、日常的な出来事として教えている箇所もあります。しかし、それは、使徒の働きと変わらず、神の圧倒的な力なのです
 16節「御霊は、あなたの内なる人を強くしてくださいます」
  そして、20節「その力によって、神は私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、豊かに施してくださるのです」
 聖霊は、どのような力を私たちに与えてくださるのでしょう。ここでパウロは、独特なことを記しています。御霊は、あなたの内なる人を強くしてくださる。そして愛の力を与えるのです。それは、愛する力ではなく、神の愛を知る力です。
 19節「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」
 「人知をはるかに越える」となれば、もともと私たちの力ではその愛はわからないはずです。キリストの愛を本当に知ることは、聖霊によってのみ可能になります。
 私は、この箇所が、こう響いて仕方がないのです。17節「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」あなたがた、いやそう思っているあなたがたは……本当に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかわかっているのか?というパウロの問いかけを、その祈りの背後に感じるのです。人知をはるかに越えたキリストの愛がわかっているのか? ああ、聖霊があなたの内なる人を強くして、キリストの愛を知る力を与えてくださいますように――パウロは、そう祈っているのではないでしょうか。
 「パッション」という映画を見ました。先に見た兄弟から言われました。キリストが鞭で打たれるシーンだけで30分、十字架を担いでゴルゴタに向かうだけでも30分。それは、人知をはるかに越えたキリストの苦しみでした。
  しかし、それを見て涙する私たちは、残虐なシーンを見て涙するのではありません。私たちの罪のために、人知をはるかに越えた苦しみを背負われた、人知をはるかに越えたキリストの愛に触れるからです。私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった主の愛を、私は本当にわかっているのか?それに根ざしているのか? そこに人生の基礎を置いているのか?――そう考えさせられます。

 先週の午後の堀先生の講演は、さすがに心理カウンセリングを専門としておられるだけあって、人の心、人間関係というものにあらためて深い洞察を与えるものでした。
 私は、午後、食事をしながら、先生に日頃からわからないことを先生に尋ねました。それは、日頃、教会で複雑な精神的な問題を抱えておられる方の話を聞きながら、圭子が一つの事実に突き当たったということなのです。複雑な心の問題を抱えている人の話を聞くと、その人生の挫折や憤りが、最後、親との問題に集約されるというのです。
 「結局は、親が憎いのか」――小学生の時にいじめを受けた、でも憎いのはいじめっ子たちではなく、学校に行きたくない自分を無理矢理連れて行った母親だ。圭子が言うには、それが残念だというのです。
 母親は子どもを憎んでいるわけではありません。子どもを愛しているのです。子どものためを思っているのです。しかし、その愛が伝わっていないのか、不幸にもそれが人生の最大の問題として、母親を父親を憎みながら、何十年たっても未だにくすぶり続けているわけです。いわゆる統合失調症とか鬱病という病気のことではなく、おおよそ、複雑な心の病を抱えておられ方々の多くが、その悶々とした心の複雑な思いをたどっていくと、親との関係に行き着くと圭子は観察しているのですが、先生はどうお考えですか?というのが私の質問でした。
 堀先生は、こうおっしゃったのです。「そうした複雑な問題の『多くが』ではなく、私は『すべて』が親との関わりに行き着くと思っています。しかも、小学校の時のある出来事が問題ではなく、実は1才から3才ぐらいの間に、子どもが味わわなければならない、無条件の絶対的な愛を知らないで大きくなったのが原因でしょう。問題の根源は、もっと小さい頃にあると思います」。
 ですから、カウンセリングをするとき、テープを巻き戻すようにして幼児期にまで記憶をさかのぼります。時には、子どもは被害者意識のあまりに間違って親との関係を誇張して解釈することもあるそうです。そんなときは、カウンセラーは第三者の立場から、過去の体験をもう一度学び直すそうです。必ずしも、あなたのお母さんはそう言う意味で、その言葉を言ったのではいのではないですか、というように。

 私は、興味深く聞いていました。それから、堀先生はもっと私にとって考えさせられることをおっしゃいました。
 「子どもにとって、一番最初に接する親から愛を学ぶとしたら、クリスチャンは一番最初に接する牧師から、神の愛を学ぶんだと思うのです」
  「はあ……」
 「もしそこで間違った愛を学んでしまったら、もしかしたらその方の信仰生活にいつまでも尾を引く、いつまでたってもくすぶり続ける問題となると、私は考えています。」
 「だから、牧師が福音というものを、キリストの愛というものを正しくとらえているか、ということほど重要な事柄はないと思います」。
  そうおっしゃったのです。
 幼児期に体験する親の愛が、その人の人生に大きな影響を及ぼすとしたら、信仰の幼児期に体験するキリストの愛は、その人の信仰生涯に同じように決定的となる。そこを間違ってとらえると、長い時間をかけて、キリストの愛を学び直さなければならない、というわけです。
 なるほど、と思い当たりました。以前、神学校でこんなことがありました。一人の女子の神学生が部屋のカーテンを取り付けていて、椅子から落ちて足をねんざしました。それを通して、彼女は悔い改めたというのです。数日前、神学校の食事の準備のやり方で、改善を求めたらいしいのです。先生や先輩を差し置いて、意見をしたということで、謙虚でまじめな彼女にしてみれば大胆な行動であったと思います。その数日後に椅子から落ち手足をねんざしたことを、彼女は出過ぎた行動に対する神さまの罰だと理解したわけです。
 そこで担当の先生のところに行って、悔い改めのお祈りをして、先生も一緒にお祈りをしたという報告でした。私はそのとき、思わず、「先生、それは違いますよ。足をねんざしたのは、不注意でしょう。悔い改めの対象ではありませんよ」と申し上げました。
 ふり返ってみると、考えさせられます。その方が、キリストの愛をどのようにとらえていたのか、いやさかのぼれば、キリストの愛を育ってきた教会でどのように教えられてきたのか、です。主は、そんなことで私たちをとがめる御方なのでしょうか。そんなに厳しいのでしょうか。そんなに追いつめるのでしょうか。

 タラントのたとえ話を学んだときに、1タラントを預かった者がそれを地面に埋めて隠したとありました。彼は、神さまをどのように見ていたのでしょう? 「ご主人さま、あなたは、蒔かないところから刈り取り、散らさないところから集めるひどい方だとわかっていました。私は怖くなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」(マタイ25:24−25)。
 彼は神様を無理な要求を突きつけ、それができないと罰を与える、いつも目を光らせて、私たちのあら探しをして、失敗の責任を追及するような、御方として神を見ていたのです。どうしてですか? それは、当時の律法学者はパリサイ人にそう教えられてきたからです。このしもべには、神さまという御方が、大胆に1タラントもの財産を預けるほど、彼を愛し、安心して彼に任せているという現実を見ることができませんでした。このしもべは,神の愛を知りませんでした。

 私たちは、折にふれて、キリストの愛を学び直さなければなりません。なぜなら、それは人知をはるかに越えているからです。主がどれほどあなたを愛しておられるか、それは世の中の尺度では測れません。想像もつきません。何事も出来映えで評価されるこの世に生きていると、いつの間にか、イエスさまでさえ私を出来映えで評価されるように思えてしまうのです。
  しかし、学び直してわかるものではありません。聖霊の力以外に、そのことはわからないからです。パウロは、ロマ5:5で言っています。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのです」。
 十字架を仰ぐ者に、御霊を祈り求める者に、御霊が与えられます。その御霊は、キリストが私たちの想像、予想、通念、常識をはるかに越えて、あなたを愛しておられることを教えてくださいます。そう教えてくださいますように。
 そうして人知をはるかに越えたキリストの愛を学び直すのです。そうして信仰生涯の傷を御霊によって癒していただくのです。      

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2004.05.31 - 09:34
LAST UPDATE: 2004.05.31 - 09:38

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福井 透 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 221.113.217.138
神の前にはありのままの自分でありたい、と思い教会生活をしていましたが、いつも「こうあらなければならない」と思わされるメッセージが語られる教会生活が永く続き、苦しみの信仰生活になりやすい自分です。
2004.05.31 - 00:00 
35am0x 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.159.37.111
<a href=http://SlammaTep.com>SlammaTep</a>
gk6t48gznoshxhbxq8
2017.06.25 - 13:46 
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