☆聖書箇所 Tペテロ4:1〜3
1このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。 2こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。 3あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
☆説教 Tペテロの手紙(23)十字架は私のため
ペテロの手紙を学んでまいりました。今日は23回目で、4章の1節からの箇所を少し心に留めたいと思います。1節と2節をもう一度読みます。 そして今日は聖書をかなり開きますので、できる限り聖書を開いたままにしておいていただいてページを見ていただきたいと思います。 4章の1節を私(藤本牧師)が読みますので、2節を皆さんの方で読んでみてください。
1このようにキリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。 2こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
先週の日曜日は(4章)1節の真ん中、「あなたがたも同じ心構えで自分を武装しなさい」――この表現を3章につなげてお話をしました。 ペテロの手紙の3章には、大きな課題があります。 それは小さなアジヤの教会の人々に、ペテロが力付けを与えようと書き送っています。 例えば 3:9に「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい」。 あるいは3:13に「善に熱心でありなさい」。 あるいは3:17に「神のみこころなら、善を行って苦しみを受けることもまた幸いである」と。
つまり、キリスト者であるがゆえに、信仰者であるがゆえに、社会からはじき出されたり、時に迫害を受けたり、信仰が理解されずに誤解され、かえって苦しい思いをする時がある。 そういう時にあなたがたは罵られるかもしれない。 でも罵られても、罵り返さずというのが、これが3章のテーマです。 そうするためには、自分の心をきちっと武装しておきなさい。 キリストも十字架の苦しみを耐えられた。そのキリストと同じ心構えで、自分の小さな弱い心を武装して守りなさい――そういうお話をしました。
で、3点お話をしまして、 @キリストの十字架によって、この良心をいつもきよめられた状態にしておくといいですねと。 A自分は箱舟に乗って大海を渡っているんだという、外の世界に対する警戒心を失わずに、心を武装しなさい。 B十字架にかかられたキリストは復活されて、今は神の権威の座に着いておられるというキリストの勝利を心に留めて、自分の小さな心を武装しなさい。
そうしていない限り、私たちは善を行うことに疲れてしまいますし、からし種ほどの信仰は簡単に潰されてしまいますし、世の中に取り込まれてしまうということを(先週3/8に)学びました。
今日(3/15)は4章の1節の「同じ心構えで自分を武装しなさい」というこの言葉を、4章につなげて理解します。3章につなげるのでなくして、4章につなげます。 すると、私たちは、新しい心がまえというものを理解することができると思います。 「新しい心がまえで自分の小さな心を武装する」と言った時に、それはキリストを信じる前の自分とは違う、全然違う自分の心構えで生きていくんだという決意が語られています。
今日は全部見ませんが、その新しい心構えをペテロは具体的に @例えば2節でこう記しています。真ん中から――「もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになりなさい」。 Aあるいは7節に、「万物の終りが近づきました。ですから、祈りのために心を整え身を慎みなさい」――これも新しい心構えの一つですね。 B8節に「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」――これも新しい心構えです。 Cあるいは10節に、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」――これも新しい心構えです。 こうしたことを、順番に見たいと思います。
今日は@を一緒に見ていただきたいと思うのですが、その第一番目の心構えというのは、それは4章の1節の最後から始まります。――罪とのかかわりを断ちなさい。 そして2節では――人間の欲望のためではなく、神のみこころのために生きなさい。 これが新しい心構えで、ペテロが言おうとしている第一のことです。
3節には人間の欲望が様々に記されています――好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、偶像礼拝。 具体例を挙げたらきりがないことを私たちはよく知っています。 でも3節の最後を見てください――それは過ぎ去った時のことで、もう十分だと。 つまり、神さまを信じていない時のことで、もう私たちにとっては過ぎ去ったことだ。だからそれとのかかわりを断とうではないか、とペテロは言っているんですね。
申し上げておきますけれども、3節にある具体例というのは、ほんとにわずかなことであります。 それは様々に、私たち自身洗礼を受け、あるいはキリストのために生きようと思った時に、かかわりを断たなければいけないことがあることはよく知っています。 で、そのすべての新しい心構えの原点を今日は中心に見ていただきたいと思うんです。
その原点が、1節の初めに出て来る「キリストは十字架において苦しみを受けられたのですから」――これが原点です。 キリストの十字架が原点となって、新しい心構えが生み出されて行きます。 で、私たちはもうすぐ受難週、キリストの十字架の週を迎えます。 ですから今日は改めて、新しい心構えの原点となるキリストの十字架っていったい何のことなのかということを、もう一度――ま、何度学んでもいいわけですけれども――一緒に考えてみたいと思います。
キリストの十字架には、3つのことが含まれています。
1)キリストの十字架はのろいです。
ちょっとガラテヤ人への手紙の3章の13節を見ていただきます? ちょっと私(藤本牧師)の方で読んでみます。
ガラテヤ3:13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
最後の「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」というのは、申命記21章からの引用です。 旧約聖書の世界で、死刑といえば普通は「石打ちの刑」です。 ところが「石打ちの刑」に遭った後、見せしめのために、木に吊るすということがまれにあったようですね。 石打ちの刑を受けた後に、その人物が木に吊るされるというのは、いわば辱めを含めた上での極刑中の極刑です。 これほどまでに「木に吊るす」ということを、旧約聖書の人々は最大の処罰として受け留めました。
日本の江戸時代でも、切腹した人物の首をさらし首にするという。 単にその人物のいのちを取るだけでなくして、その首をさらすということが極刑中の極刑ですよね。
イエス・キリストは生きたまま十字架にくぎ付けにされました。そのまま吊るされ、息を引き取ります。 手に足にくぎを打たれ、自分の身体の重さで肉は裂かれ、そして徐々に出血し、亡くなっていくわけです。
私たちはその十字架をイヤリングにしたり、ネックレスにしたりしてるわけですから、その十字架そのものの呪いというものは、もしかしたらあんまり感じていないのかもしれませんね。
でも十字架というものは、当時の感覚からいえば、人の人生に起こり得る最も残酷な呪われた姿だ、ということは、どういうことかと言いますとね―― 自分の子どもがいれば、伴侶者がいれば、それは子どもの代まで、孫の代まで絶対に忘れられない――あの家は呪われていると。 あの家から木に吊るされた者が出たというのは、もうその家そのものが終わりだということでしょう。
「呪われた」という言葉の意味する通り、イエスさまは叫びました、十字架の上で――わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(***詩篇22:1、マタイ27:46、マルコ15:34)。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というアラム語ですね。
呪いというのは、祝福の逆です。 祝福というのは神さまが共にいてくださる。神さまが御顔の光を照り輝かせてくださる。神さまが私に顔を向けてくださるという意味です。 それが祝福であると、呪いはその逆で、神さまが私に背を向けられるという意味です。 神さまが私に手を伸ばしてくださらない。神さまが私を押しのけて行かれるという。 キリストはそのようにして、罪の裁きを背負い、そして最も残酷な刑に処せられ、神さまは背を向けてキリストをご覧になった。――これが1番目です。
いいですか、十字架というと必ず2番目がくっつきます。それは――
2)キリストがそのように呪いの十字架にかかられたのは、私のため
必ずこれが付きます。 私のためなんだ。キリストの十字架は私の身代わりであって、キリストは私たちの罪を背負って、それはご自身のためではなく、私たちのためであったというのが、必ず十字架にはくっつきます。 くっつかずに十字架が語られることはないですね。
ちょっと話をそらしてみますが、旧約聖書のエレミヤ哀歌という所に、「道行くみなの人よ。よく見よ。……」というエレミヤの訴えがあります(***哀歌1:12)。 道行く人よ、よく見てみよと。 文語訳、昔の文語訳聖書は名訳で 「すべて道行く人よ。汝ら何とも思はざるか」という疑問文になっています。
エルサレムが滅亡し、子どものいのちが奪われ、人々が倒れ、建物は崩され、焼かれている状況に呆然としている中で、その様を見て、何とも思わないのか?というエレミヤの国民に対する訴え。 道行く人よ。何とも思わざるかと。 その「道行く人よ」というのは、実はイエスキリストの十字架の場面でも出てきます。
キリストが十字架にかかられたときに、あたかも犯罪人が十字架にかかっているかのように、キリストは私たちの罪を背負って、その手とかかとに太い釘を打たれて、十字架に磔にされ、肉が引き裂かれ、茨の冠を頭に突き刺されていながら、 道行く人は、何とも思わない。 道行く人は、あれは救い主だけれども、救い主であるなら、まず自分を救ったらどうか、と嘲笑いながら道を行くんですね。 何とも思わない。
処刑のシーンというのは、どの時代でも野次馬がたかって来るでしょう。そして残虐であればあるほど、人々は数を増していきます。 私たちは十字架を見て、ほとんどの人が何とも思わないでしょうね。 罵声を浴びせるということは、もしかしたらしないかもしれない。 でも世の中っていうのは、基本的に十字架に何も関心がない。 避けるわけでもないし、否定するわけでもないかもしれないけれども、実に軽々しく、教会のてっぺんに立っている十字架を見ますし、教会の礼拝堂に入って、あぁ、なるほど十字架があるんだなぁという風に、思われるんじゃないでしょうか。
ペテロも同じで、あの時エルサレムの外で起こった十字架の意味は解りませんでした。 ペテロの手紙を書いたペテロにとって、キリストが十字架にかかっていのちをお捨てになったということは、キリストはローマ帝国の権力に屈し、ユダヤ人の陰謀に負けたぐらいにしか考えていなかった。
しかし、イエスさまが教えてくださったことすべてを思い出していくうちに、また自分の前に復活の主が現れて、主を三度も否んだ自分を赦してくださるうちに、だんだんと彼に十字架の意味が解ってくる。 ああ、あの十字架は、自分のためにあったのだ、と。 だれかれのためではなく、私のために、主は十字架にかかられたのだ、と。 私たちが自分自身を罪深〜い人間と思う時に、私たちが自分の人生の空しさ、自分の人生の迷い、自分の人生の弱さというものを感じる時に、自分の孤独というものを感じる時に、自分の願いがなかなか叶わない、その空回りの度合いを感じる時に、世の人々の残虐な姿を目に見る度に、 ああ、キリストは私たちの罪のゆえに、私たちの罪を背負って十字架にかかられたんだと気づくんですね。
罪とは私たちが神さまから顔をそむけることです。 私たちが神さまから顔をそむければそむけるほど、やがて神さまはどんどん遠ざかった存在になって行くんです。 そして気が付いたところは呪われた世界ですね。
3番目、十字架にくっつく3番目。 もう一度、今度はペテロの手紙に戻っていただいて、2章の24節を見てください。 ペテロの手紙の2章の24と25(節)をご一緒に声を出して読んでみたいと思うんです。 同じペテロの手紙で、ペテロが十字架をどのように捉えていたのかがよく出てまいりますね。
2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
ここに必ず十字架について語る時に、くっついてくる3番目の言葉があります。 1)一番目は申し上げました。十字架はのろいであったと。それは、私たちの罪深さを語っているんです。 私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって 呪いの十字架を背負われたというのが1番目ですね。 2)2番目にその呪いは、私の身代わりであったということ。
3番目に(十字架について語る時に、くっついてくる言葉は)――
3)私たちが罪を離れ、義のために生きるように、キリストは十字架にかかられた
(2章の)24節にこうありますね。
2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
十字架はのろいである――これは1つですね。 しかしこれは私たちの身代わりであった――2つですね。 そして3番目、必ず十字架にくっついてくるのは、この十字架の恵みに与かる者は罪を離れ義のために生きる。 キリストの打ち傷によって、あなた方が癒されたとしたら、癒された私たちは神のために生きる。 以前は羊のようにさまよっていた私たちが、十字架によってたましいの牧者であるイエス・キリストのもとに戻るなら、私たちはキリストの羊となって、これから先、キリストのもとに生きる。 この3つが成り立たない限り、キリストの十字架は意味をなさないです。
キリストの十字架の最終的な目的は、――罪を赦された私たちが罪とのかかわりを断ち、神のみこころを生きるため――この目的に向かって立ち上がらなければいけないと、ペテロはあの手紙を記しているんです。 キリストの打ち傷によってあなたがたはいやされ、羊のようにさまよっていた者が自分のたましいの牧者であり監督者であるキリストのもとへ帰った。だとしたら、これから先、羊飼いであるイエス・キリストとともに、罪を離れ神のために生きる者とされようではありませんかと。
教会では色んな事が語られます。聖書には様々な教えがあります。 私(藤本牧師)は聖書は一つのことを教えているとは思ってません。 一冊の書物ですが、66巻、様々なジャンル、様々な時代、様々な必要のために書かれています。 一本筋があるとしたら、キリストの十字架、それが一本の筋です。 ですから、仮に十字架が解らなければ、聖書をどんなに読んでも聖書の意味は解らない。 あぁ、創世記というのはこういうことが書いてあるんだ、あぁ、イザヤ書にはこういうみことばがあるのか、と解るかもしれませんが、十字架が解らなければ聖書を何百回読んでもわからない。 十字架が解るってどういうことかというと、それは、その十字架が私のためであったというのが解らない限りはわからないです。
皆さん、先日高津教会の証し集、文集を出しましたね。 その中で、一人の姉妹がある体験のことを書いています。 その方は時々キリストの十字架が解らないとこう仰るんですね。 解っているんですけど解らないって仰る。 ある忙しい日に、私のところに電話をくださって、「キリストの十字架が解らない」と仰るので、私はもう面倒くさいので(笑)、「解らない、解らないと言うな(大笑)。何回話したら解るんだ。いい加減に解ってるんだから、そもそも解らないと言うな。口癖のように」と、厳しいメールを送りました。
次の日だったと思いますが、メールをいただきまして、「夢を見た」と。 それは寝てて夢を見たんではなくして、うとうとしていて夢を見た。 その夢は、自分のマンションに坂があるんですが、その坂をぐる〜っと回って行ったところに公園がある。そしてその公園でイエス・キリストが十字架にかかっているという夢を見た。 不思議なまでに、その公園には誰もいなかった。だれ一人いなかった。 自分が坂を上がって行くと、丘の上には、キリストの十字架と自分だけ。
そしてわかりました、あぁ、十字架は私のためにあったんだと。 この世界にどれほどの人がいるかもしれない。どれ程の人が罪深い人がいるかもしれない。そりゃそうでしょう。 私よりももっと罪深い人がいるかもしれない。それもそうでしょう。 でもそれでは十字架はわからない。
あたかも、そのゴルゴタの丘にだれ一人いなく、私一人しかいない。 それでもキリストは私を愛するがゆえに、十字架におかかりになったということが解って初めて、新しい心構えが私たちの心の内側にできる。 そしてそれが解って初めて――私は聖書を全部読んだことはない。聖書の半分以上は理解できないかもしれない。でありながらも――聖書がわかったと言える。
主よ。どうか、十字架を私に教えてください。私がどんなに空しい者であるのかを教えてください。 でも同時に、あなたがどれほど私を愛してくださり、私のためにいのちを投げ打ち、それは私が罪を離れ、キリストの義に生きるために、あなたが十字架にかかられたということを私に教えてください。 もしそれがわかれば、私にどんなに沢山解らないことがあってもよしとします。 あなたの愛が解るなら、私はそれが自分にとって十分です、と言えるようなクリスチャンでありたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたが御子イエス・キリストをこの世界に送られたのは、この世界を愛しておられるから以上に、私を愛しておられるからで、あたかも世界に私一人しかいないかのように私を愛していてくださるから、あなたはキリストを十字架に送られました。 イザヤ書(43:4)に、「私の目にはあなたは高価で尊い。それがゆえに他の者たちを身代わりとして、あなたを救う」と、神さま、あなたはイザヤの口を通して仰いました。 どうか聖霊の語りかけを私たちの心に与えてくださり、私たちがどんなに愚かで貧しくとも、私を愛しているがゆえに、御子イエス・キリストの十字架があるんだと納得して、実感して新しい心構えに生きることができるように励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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