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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/12 母の日:あなたを背負う神 イザヤ63:9〜17 64:5〜6
☆聖書箇所 イザヤ63:9〜17 64:5〜6

<イザヤ63:9〜17>
9  彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
  主の臨在の御使いが彼らを救った。
      その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、
  昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。
10   しかし彼らは逆らって、
  主の聖なる御霊を悲しませたので、
  主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた。

11  そのとき、主の民は
  いにしえのモーセの日を思い出した。
  彼らを、ご自分の群れの牧者たちとともに
  海から導き上った方は、どこにおられるのか。
  その中に主の聖なる御霊を置いた方は、
  どこにおられるのか。
12  その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
  彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、
13  彼らに深みの底を
  歩ませた方は、どこにおられるのか。
  荒野の中を行く馬のように、
  彼らはつまずくことはなかった。
14  谷に下る家畜のように、
    【主】の御霊が彼らを憩わせた。

  このようにして、あなたはご自分の民を導き、
  ご自分のために輝かしい名を成されました。
15  どうか、天から見下ろし、ご覧ください。
  あなたの聖なる輝かしい御住まいから。
  あなたの熱心と力あるわざは、
  どこにあるのでしょう。
  私へのたぎる思いとあわれみを、
  あなたは抑えておられるのですか。
16  まことに、あなたは私たちの父です。
  たとえ、アブラハムが私たちを知らず、
  イスラエルが私たちを認めなくても、
  【主】よ、あなたは私たちの父です。
  あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
17  【主】よ。なぜあなたは
  私たちをあなたの道から迷い出させ、
  私たちの心を頑なにして、
      あなたを恐れなくされるのですか。
      あなたのしもべたち、
      あなたのゆずりの地の部族のために、
      どうかお帰りください。

<イザヤ64:5〜6>
5  あなたは会ってくださいます。
  喜び、正義を行う者たちに。
      彼らは、あなたの道であなたを心に留めます。
  実にあなたは、激しく怒られました。
  私たちはその道で久しく罪の中にいたのです。
  私たちは救われるでしょうか。
6  私たちはみな、汚れた者のようになり、
  その義はみな、不潔な衣のようです。
  私たちはみな、木の葉のように枯れ、
  その咎は風のように私たちを吹き上げます。

☆説教 母の日:あなたを背負う神

イザヤ書63章から、母の日の礼拝で、「あなたを背負う神」「神はあなたを背負う」、と題して、(※週報では「神に背負われる」)
えっと、あと20分ですが、20分では終わりません。
しっかりした説教です。私は色んな所でこの説教をしています。だいぶ短くしたつもりですけれども、短く3つのポイントですから、決して難しくはない。
よく聞いていただきたいと思います。

昔母親と子どもの関係の、ある書物を読んでいた時に、こんなことが書いてありました。
「近頃、母親が子どもを背負う姿をあんまり見ない。」
確かにそうだと思います。おんぶよりも抱っこですから。
で、胸のところに抱っこするのもおんぶと同じですけれども、その方は、
「バギーが随分普及して、なるべく子どもがバギーに先に座るように、子育ては運んでいる」という話で、その本の作者によりますと、
「子どもを背負わなくなった母親と子どもとの間に距離ができたのではないか?」
そんな分析がなされていました。

私(藤本牧師)はそうは思いません。
子どもはそう簡単にバギーに乗りませんし、やっぱりお母さんに抱っこしてもらうことが何よりも一番であります。
しかしお母さんのすぐそば、背中であろうと、前であろうと、いるということは親子関係にとっては非常に大きなことなんだろうと思います。

親子のスキンシップがどれほど大切であるか、自分の記憶を辿ってみるとよく分かります。
私(藤本牧師)は子どもの頃喘息でありました。
子どもの頃ここに住んでいたんですけれども、ここは公害の町川崎でありまして、私のかかりつけは、隣の二子新地の駅のすぐそばのクリニックでありました。
祈祷会、夕方7時にピアノを弾いて、私が調子悪くなって、クリニックに電話をして、急いで私を背負って、約10分もうちょっとかかりますかね。
そして私は点滴をしてもらい、母親が私を背負って、最後の伴奏に帰って来るというのが何回かありました。
そんなことを考える度に、私は母親に背負われて、ここまで来たんだなぁという実感があります。

咳込みますし、ゼーゼー言いますし、私の息遣いというのは母に伝わりますけれども、母親が一生懸命集会に間に合おうとして、急いで帰って来る母親の息遣いも私には理解できました。
皆さんだって、足の骨を折って兄弟に背負われたとか、色々辛い時に妹が助けてくれたとか、病気の時に水一杯弟が運んで来てくれたとか、「背負う」ということで一体何が伝えられているのか?
実はこのイザヤ書には、「背負う」という言葉は沢山出て来るんですよね。

1)一体となる、一つとなる。

先程見ていただきました。ちょっと聖書映しますね。ここです。
【画面:9節「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、」にピンクのハイライト「昔からずっと」にピンクで囲み「昔からずっと〜担ってくださった」に緑のハイライト】
<イザヤ63:9>
9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
 主の臨在の御使いが彼らを救った。
 その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、
 昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。

体温が伝わるほど肌が触れ合い、その心が一つになる。
背負われている私たちの苦しみ・悲しみ・涙が背負ってくださる主のものとなる。
というのが、《イエスは彼らを憐れんだ》という言葉の意味です。
それは五臓六腑(※伝統中国医学で、内臓全体を言い表す言葉)が相手の思いと一つになるという。
へブルの世界では、(※左手で心臓辺りを叩いて)心っていうのは単なる空間としては見なかった。
それは五臓六腑の中にあり、相手が悲しむ時に、自分の五臓六腑もそれに合わせるように動く。
それが、《キリストが私たちをあわれむ》という意味でした。

「私たちが苦しむとき、いつも主も苦しみ、」(9)――背負ってくださる神、担ってくださる神は、私たちと心を一つにして、私たちを背負ってくださった。
私たちが涙する時涙し、私たちが喜ぶ時に喜んでくださった。

2)9節の最後に、「背負う」という言葉のもう一つの意味が出て来ます。――運ばれてきた。

ちょっと見てください、9節の最後です
【画面:「昔からずっと」にピンクの囲み。「昔からずっと〜担ってくださった」に緑のハイライト】
<イザヤ63:9>
9(4行目)昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。

という言葉ですね。
これは以前の訳では、「運んでくださった」ですけれども、《神によって運ばれる》という意味がございます。

イザヤ書の46章をちょっと見ていただきます?
46章の1節からちょっと読んで行きますね。私の方で読んで行きます。
【画面:特に何もしるしはない】
<イザヤ46:1〜4>
1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。

(***ベルというのは、バビロンの偶像です。ネボというのもそうです。
ですから、ベルシャツァル王とか、ネブカドネツァル王とかいう言葉が46章の1節ですね。
これはバビロンという国の偶像なんですが、と説明)

  彼らの像は獣と家畜に載せられる。
  あなたがたの荷物は
  疲れた動物の重荷となって運ばれる。
2  彼らはともにかがみ、ひざまずく。
  重荷を解くこともできず
  自分自身も捕らわれの身となって行く。

3  ヤコブの家よ、わたしに聞け。
  イスラエルの家のすべての残りの者よ。
  胎内にいたときから担がれ、
  生まれる前から運ばれた者よ。
4  あなたがたが年をとっても、
  わたしは同じようにする。
  あなたがたが白髪になっても、
  わたしは背負う。
  わたしはそうしてきたのだ。
  わたしは運ぶ。
  背負って救い出す。

ここ、4節の最後に、「わたしはあなたを運ぶ。背負って救い出す」と出て来ますよね。
4節後ろから4行目にも、「わたしは背負う」「あなたが白髪になっても、わたしは背負う。」

すると偶像と言うのは、人によって運ばれる存在で、人の人生に何も為すことができないと。
却って運んでいる動物の重荷となって、動物も疲れる。
しかし、わたしはそうではない。
あなたが生れてきたときから、白髪になるまで、わたしはあなたを運ぶ。

一番最初のポイントは――(とこれまでの話の要点を整理される藤本牧師)
1)神は私たちと一体になる。
  一体になるとは、喜びも悲しみも神は背負ってくださる。
2)私たちの人生は、神によって運ばれてきた人生だということですね。

異教の神、どんな神であれ、あなたはお守りとして、その神を運ぶことはできても、
その神はあなたを運ぶことはできない。
しかし神はあなたが生れてから、やがて白髪になるまで、あなたを運んでくださる。
それが羊飼いなる神です。

私たちが運ばれ、旅していく人生には、いろんな出来事があります。
例えて言うならば、旧約聖書の中では、出エジプトのいにしえのモーセの日です。
先程のイザヤ63章の11節に戻っていただきますと、そのことが記されています。
11節から、見て行きますね。
【画面:11節「どこにおられるのか」二か所にピンクの囲み。14節「【主】の御霊が彼らを憩わせた」にインクのハイライト 】

<イザヤ63:11〜14>
11  そのとき、主の民は
  いにしえのモーセの日を思い出した。
  彼らを、ご自分の群れの牧者たちとともに
  海から導き上った方は、どこにおられるのか。

(***と言うのは、紅海を二つに分け、海から導き上った神、というモーセを通して現れた神のみわざというものを、記しているんですね。
それは別にモーセだけでなく、私たちの人生においても、神は様々に介入してくださり、私たちの病であれ、或いは私たちの仕事が難しい時、私たち自身が自分が不幸だと感じる時に、神は私たちを運び、私たちを助けてくださったわけです。
神さまは紅海を二つに分け、百万という民がそこを出エジプト記の中で、渡って行くわけですね。
その時の出来事を、この13節にこうありますよね、と13節に飛ぶ)

  その中に主の聖なる御霊を置いた方は、
  どこにおられるのか。
12  その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
      彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、
13 彼らに深みの底を
  歩ませた歩ませた方は、どこにおられるのか。

(***「彼らに深みの底を歩ませた方」ってあるじゃないですか。それほど大変だった。
或いは、14節に――14節に飛ぶ)

  荒野の中を行く馬のように、
  彼らはつまずくことはなかった。
14 谷に下る家畜のように、
  【主】の御霊が彼らを憩わせた。

       このようにして、あなたはご自分の民を導き、
   ご自分のために輝かしい名を成されました。

「谷に下る家畜のように、 【主】の御霊が彼らを憩わせた」と。
二つに分かれた紅海の中で、一人も犠牲者は出ませんでした。
百万の民が海にできた細い乾いた道を、荷車を連れて、お年寄りから子どもまで行く中、どうして将棋倒しにならなかったのか?
どうして犠牲者が出なかったのか?
左右にそそり立つ海の中に飛び込む者はいなかったのか?

色々考えますが、彼らのいのちは保たれた。
それは「谷を下る家畜のように」(14)って、中近東の荒野の谷を家畜は下れないですよ。
家畜っていうのは、全然下れないんです。野生のヤギじゃないんですから。
でもそのように、主に導かれた家畜のような私たちが、これまでの人生で厳しい人生の試練を様々に渡って来た。
その原因として、14節の最後、「【主】の御霊が彼らを憩わせた」からである。
「【主】の御霊が彼らを憩わせた。」(14)
聖霊がくださる平安と言うのは、世が与えるものとは全然違います。

教会にいまMさんという方がいらっしゃいますが、
Mさんをイエスさまのもとへ連れて行った藤川さんがいらっしゃって、
藤川さんは50歳でがんで天に召されました。
再々発で、もう手術の可能性はなく、がんは大腸、肝臓、最後は脳に転移して、苦しみました。

脳に転移して死を前にした時、姉妹はすごく真実なクリスチャンだったんですけれども、これまでにないような不安に陥りましたね。
がんばり屋の信仰を持っていた姉妹はふと人生を振り返って、
自分の足りなかったところを沢山指摘されて、
果たしてこんな自分が、みこころに敵わない人生を送って来た自分が、
死んだときに主の前に立てるのか?という、
その不安が末期がんの時にものすごく襲って来ました。

あんまりにも不安がるので、飯田橋の厚生年金の病院に入院されていたんですけれども、私(藤本牧師)は、自分の携帯番号を渡して、「不安になったらかけてくれと、それでいいから」と申し上げました。
すると、かかる、かかる。だいたいが夜中の3時、夜中の4時。夜中の2時(笑)。
いったい何時だと思っているんだ?あ、考えてみたら、ICUはいつも真昼だよね(笑)、と。
煌々と電気がついているから、時間の自覚がないんですね。
で、私もちょっと困ってしまって、電話越しに祈っている自分が何を祈っているのか、状況がどうであったのか、朝起きた時に覚えてないんですね。

それで家内と一緒に、「あ、これはまずい」と。「聖餐式を持って行こう」と。
で、病室で一緒に聖餐を終えて、姉妹は妻に一言いいました。
「これでいいんですね?」と。
私はご主人とご葬儀の相談をしている間、藤川さんは圭子(夫人)と話していました。
「これでいいんです。すべての罪は十字架で赦されています。次の聖餐式は天国の晩餐ですよ。」
それからピタリと携帯は鳴らなくなり、静かに姉妹は平安な顔で天国に召されました。

頑張り屋の信仰ではない。自分の誠実でもない。最後はキリストがくださる平安だけに支えられて、藤川さんは死の陰の谷を歩いて行かれました。
死の陰の谷を、私が歩くことができるのだろうか?
それが先程の(イザヤ63章)14節の、家畜が谷を下れるのか?というのとおんなじ質問ですよ。
下れるんです。聖霊が先頭になって、導きを与え、平安を与え、聖霊の臨在によって、私たちはたとえ荒野の谷であっても下って行ける。

そして、このようにして、私たちはここまで来た。(14)
ところがですよ、10節を映しますね。
【画面:全文に緑のハイライト。「御霊を悲しませたので」にピンクの囲み】

<イザヤ63:10>
10 しかし彼らは逆らって、
  主の聖なる御霊を悲しませたので、
  主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた。

というのは、すべて順調ではない、
生れたときから担われ(イザヤ46:4)、生まれたときから運ばれ、喜びも悲しみも神さまは理解してくださった。
しかし、私たちは「御霊を悲しませる」というのは、「(神のみこころに」逆らう」ということですね。
神さまに逆らう。「御霊を悲しませた」という言葉になっていますが、
普通はこれ、「悲しませた」とか「悲しむ」というのは、神さまに対しては使われない動詞ですね。
旧約聖書で20回出て来ますけれども、19回が人の心の痛みについて書いてあって、
ここだけが神さまの心の痛みを表現しています。
聖霊が心を痛める。私たちが悩ませるのです。
明確にみこころに逆らって犯す罪もあるでしょう。
でもそれだけではないですね。

「初めの愛を離れた」という黙示録(2:4)のことばのように、いつの間にか神さまの臨在をリアルに感じなくなってしまった。
何か特別に罪があるわけではない。でも純真でもない。熱心でもない。冷ややかに教会の現状を分析し、冷ややかに説教を非難する。

胸の奥に叫びがあるんです。そういう人にも。
読んでいただいた今日の最後、(イザヤ)63章17節の最後に「どうかお帰りください」とあるじゃないですか。
なぜそう言うのか?
それは逆らっている内に、こうなっちゃったんですね。11節――
【画面:11節「どこにおられるのか」二か所、13節「どこにおられるのか」、15節「どこにあるのでしょう」にピンクの囲み】

11節に二回「どこにおられるのか」
13節「どこにおられるのか」
15節「どこにあるのでしょう」

つまり、逆らっている内に「神さま」というものを身近に感じなくなってしまった。
そして、いざ次の試練が来た時に、「神さま、どうかお助けください」とは言うものの、
神さまがどこにおられるのかも分からない。
あれほど神さまを身近に感じていた自分が、今は非常に遠い所にいる。
そして、神さまは果たして帰って来てくださるのだろうか?というのが、今日の最後のポイントです。いいですか?

「背負う」というイメージで3つのことをお話しします。
最初に話したことは、
1)背負う――苦しみの中で、神は私たちと一体となる。
2)背負う――生まれた時から神は私たちを運んでくださる。白髪になっても運んでくださる。

3)背負う――神は私たちの罪を背負うです。

「背負う」という言葉が面白い所にイザヤ書で出て来ます。
もう一回開いて戴きますが、イザヤ書の53章、十字架のところですね。
53章の4節――キリストの十字架を預言した4節ですね。

<イザヤ53:4〜5>
4 まことに、彼は私たちの病を負い、
   私たちの痛みを担った。
     それなのに、私たちは思った。
   神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は(***イエスは、と説明)私たちの背きのために刺され、
   私たちの咎のために砕かれたのだ。
     彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
     その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

キリストの十字架の打ち傷によって、私たちは癒やされる。
なぜかというと、キリストは私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったからですね。

主が背負われた十字架、それは私たちの罪、私たちの痛み、悲しみ、不安、背き、汚れ、不従順、不服従。
イエス・キリストは黙々と私たちの罪を担われ、十字架に架かられる。
私たちが神さまに逆らって、自分の好き勝手な道を行く間も、イエスさまは黙々と私たちを背負ってくださる。
このお姿に、私たちは究極の愛を見るわけです。
神さまは愛なるお方で、神さまは母のような愛を持っておられるお方です。

先々週に、日本の最大の貢献をなされた星野富弘さんと言うクリスチャンが天に召されました。
「愛、深き淵より」という、彼がまたクリスチャンになる前の病院での闘病記が一番お勧めですよ、という話をしました。
その一節を読んで行きますね。
――読み始め――
 手が動かないので食事は三度三度母に口に入れてもらっていた。仰向けに寝たままだから、汁は大きなスプーンで口に流し込んでもらった。腹の減らないときに、口のそばに持ってこられると苦痛でさえあった。
 母の手元がふるえてスプーンの汁を私の顔にこぼしてしまったときのことであった。わずかなことだけれど、かっとなってしまい、そのとたんに積もり積もっていたイライラがいきなり爆発してしまった。爆発といっても、どうしようもないほどに膨れ上がったいらだちを、投げつける相手は母しかいない。
 私は口の中のご飯粒を母の顔に向けて吐き出して怒鳴った。
「チキショウ。もう食わねえ。くそばばあ」
散らかったご飯粒を拾い集めながら、母は泣いていた。

「こんなに一生懸命やっているのに、くそばばあなんて言われるんだから・・・」
「うるせえ。俺なんかどうなったっていいんだ。産んでくれなけりゃよかったんだ。チキショウ」

 母は涙を拭きながら、自分の食事に出ていき、しばらく帰ってこなかった。一度開いてしまったイライラの出口は容易に閉じることができず、母がやっと帰ってきても、刺のある言葉で母に当たった。
 蠅がうるさく顔の上を飛び回っていた。まるで私の手が動かないのを知っているかのように、いくら顔を振っても、離れてはすぐに私の顔にたかった。黙りこくっていた母が、とうとうたまりかねてはえ叩きを握った。
 蠅が私の顔にとまった。母がはえ叩きを握って叩こうとしたら、気を取り直してはえ叩きを左手に持ち替えて、右手で私の顔の蠅を叩く構えをした。

 そして、母の手は叩くというよりも、そっとさわるように私の顔を押さえた。もちろん蠅は逃げてしまったが、蠅のとまっていた頬に母のしめった手のぬくもりが残った。ざらついていたけれど、やわらかな母の手だった。その感触は、私の頬からいつしか体中に広がっていった。

 あれほどの言葉を浴びせた私を母はきっと憎んだのに違いない。しかしその憎しみの中でも、母は私の顔につきまとう蠅を見過ごしていられなかったばかりか、はえ叩きで私の顔を叩くこともできなかった。母の顔にご飯粒を吐きかけた私の顔にまとわりつく蠅を母は手でそっと捕まえようとした。
 私は思った。これが母なんだと。私を産んでくれた、たった一人の母なんだと。
・・・この母なくして、私は生きられないのだ。
――ここまで読み終わり――

やがて星野さんは信仰を持つようになります。
すると今の言葉がそっくりそのまま、十字架のイエスに向くようになる。
星野さんは十字架を見上げて、同じように、私たちと一緒に思うんです。
これが救い主なんだ。私を贖ってくださった、たった一人の救い主なんだ。
毒づいても、逆らっても、抵抗しても、背負ってくださり、なお私を運んでくださるイエスさまだ。
十字架の釘の痕がくっきりと残っているイエスさまの御手が、私のほほを触ってくださる。
その愛の眼差しが、ぬくもりが、体中に広がっていく。
イエスなしに生きられない。
私を贖ってくださった、たった一人の救い主なんだ。

☆お祈りをして、終わりにいたします。――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、あなたのことを知ろうと知るまいが、生まれたときからあなたは私たちを担ってくださり、運んでくださり、それでいながら私たちは背中の上で、離れて、暴れて、毒ついて――でもイエスさま、あなたはその私たちの罪さえも担い、十字架を背負ってくださいました。

「どうかお帰りください」(イザヤ63:17)ではない、私たちがあなたのみもとに帰って行きます。あなたの十字架のところに帰って行きます。運ばれていながら、御霊を悲しませ、聖霊を押し退けていた私たちが、悔い改めと共にあなたのもとに帰り、十字架のもとへと帰って行きます。

なぜなら、あなたなくして私は生きられないからです。小さな子どもが母なくして生きられないのと同じように、どこかで子どもは成長し、母なくして生きているかのように思い、私たち大人も小さい頃には真実にあなたを慕い、やがて力をつけると、神なくして生きているかのように思い、でも大きな試練に遭うと、私たちは「主よ、どうか帰って来てください」とあなたに祈り、ところがあなたは、「いやいや、帰って来るのはあなたの方だ」と。「なぜなら、わたしがあなたの罪を担ったからだ」と仰ってくださる十字架の愛を心から感謝いたします。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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