☆聖書箇所 使徒の働き4章32節〜5章11節
<使徒の働き4章32〜37節> 32さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。 33使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。 34彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、 35使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。 36キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、 37所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
<使徒の働き5章1〜11節> 1ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、 2妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。 3すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。 4売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 5このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。 6若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。 7さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。 8ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。 9そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」 10すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。 11そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
☆説教 戸塚伝道師:《ペテロのいる風景R 説教篇X》驚くべきあわれみ
今朝はペテロのいる風景の第19回目、説教篇の第5回目、「驚くべきあわれみ」と題して、 お読みいたしました使徒の働きの4章32節〜5章11節から、みことばに心を留めて行きたいと思います。
ペンテコステの後、ペテロの説教で多くの方々、3000人が救いに導かれ、その後、5000人の人たちも救いに導かれ、エルサレム教会の土台が築き上げられました。 このエルサレム教会というのは、一つの大きな会堂の教会ではなくて、家庭集会が集まった、そういう教会であったといわれていますけれども、
この初代教会、家の教会の特色が、どんな特色なのかということが、この(使徒の働き)4章の32節から書かれています。 3つの特筆すべきことがありました。
@<使徒の働き4:32> 32さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。
――こういう家の教会だったようであります。
A<使徒の働き4:33> 33使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。
――イエスさまの復活を証しする教会であった。 勿論十字架なくして復活なしですから、当然十字架も語ったんでしょう。 でも、イエスさまの復活、それを大きな力、聖霊の力をもって証しをし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。 一人残らず神さまの恵みを受けていた、ということです。
B<使徒の働き4:34〜35> 34彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。・・・
――なぜ、このように言えるか?そのシステムがその後に書いてあります。
(34節続き)地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、 35使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。
――自分たちの土地、或いは家、それを売って、その代金をみんな持ち寄って、その資金で教会をそれぞれ運営していたということが分かります。 「一人も乏しい者がいない」(34)システムがここに形成されたことが分かります。
このような教会の歩みの中で起こった出来事が、5章からの出来事でありました。 5章に出て来ますアナニア・サッピラ夫妻に語ったペテロの説教に、今日は心を留めて行きたいと思いますが、3つのポイントで今日はお話ししたいと思います。
1)アナニア・サッピラ夫妻の罪
罪とは的外れな生き方で、そのことをペテロは指摘しているんですけれども、この夫妻はどんな罪を犯したのか、聖書から読み取れることを3つにまとめて来ました。
@貪欲の罪<使徒の働き5:3> ペテロがこう言っています。
3すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
地所の代金の一部を自分のために取っておいた――例えばですね、分かり易く言うならば、地所を二億円でアナニア夫妻が売ったとします。 二億円で売れた土地、その内の一億円は自分のものに、裏金にしたわけですよね。 そしてその後の一億円を、残りの一億円を使徒たちの足もとに置いた、ということです。 なんで自分のために、一億円を手元に置いておいたのでしょうか? それは老後のために、老後で一億円要らないかも知れませんけれども。 でもその根底には、金銭を愛する生き方があったのではないかと想像することができます。
二億の内の半分は自分のものに。勿論そうする権利はあると思いますが。 でもペテロが指摘している以上、それは罪だった。 一億自分のものにすることは、《金銭を愛する生き方》(***へブル13:5、Tテモテ6:10)それを示していた、ということが読み取れます。
A偽りの罪<使徒の働き5:8> 今度はアナニアの妻(サッピラ)にペテロはこのように言っています。
8ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。
夫のアナニアと口裏合わせをして、「ちゃんと地所は一億円でした。一億円で売れました」、そのように言ったわけですね。 「一億円で売ったその地所を、全部神さまにお捧げしました」――偽りの罪です。 「一億円で売ったのか?」「はい、確かに一億円です」――確かに偽りの罪ですね。
B傲慢の罪<使徒の働き4:36〜37> 使徒たちの足もとに、教会の人たちはお金にしたものを置いたわけですけれども――
36キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、 37所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
と書いてあります。 このバルナバ、「慰めの子」と言われるバルナバ、恐らくこの教会では「慰めの子」と言われる位評判が良かったようであります。 やがて、このバルナバはエルサレム教会を支える一員となって、さらにはパウロと伝道旅行にまで行くような、そういう人物になりましたけれども、 そのバルナバが畑を売って、その代金を捧げた。
これも想像して分かり易く言うと、例えば八千万で売れたとしますね、バルナバは。 その八千万円をバルナバは持って来たわけですね。 そうすると、教会員から「あ、バルナバさん、八千万円ですかぁ!」――教会員から高く評価されたわけですよ。 そのことによって、恐らくこのバルナバは教会での存在感が増したのかも知れない。
このバルナバの捧げ方を見ていて、何かを感じた夫妻は、「私たちはバルナバよりも広い土地を持っている。その土地を売れば、何とかバルナバの八千万以上、一億で何とか教会にお捧げすることができるのではないか。」――そういう魂胆がこの夫妻にはあったのかも知れません。 競争意識ですね。神さまから託された土地である、という信仰的認識はゼロでした。 その土地を売って、お金を一億円として教会に捧げれば、バルナバに勝つことができるかも知れない、と思ったのかも知れない。 傲慢の罪。 @貪欲の罪 A偽りの罪 B傲慢の罪――これらの三つの罪、アナニア・サッピラ夫妻の罪は、《サタンに心を奪われた結果である》と聖書は明らかにしています。
2)《サタンに心を奪われる》ということについて思い巡らして行きたいと思います。
もう一度、ペテロの説教に心を留めたいと思います。5章の3節――
<使徒5:3> 3すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
ここに「あなたはサタンに心を奪われている」とペテロは説教を通して語っているわけですね。 説教と言うよりも、お説教ですね。 かなり厳しい口調で、《サタンに心を奪われる危険性》をペテロは語っています。
あのペテロがですよ、どんな厳しい表情でこんな説教をしたんでしょうか? でも実はペテロにも、かつて危ない時がありました。 《サタンに心を奪われそう》になっているペテロに対して、イエスさまは「下がれ、サタン」(***マタイ16:23)と言われたことがありました。
二年前の9月に、《ペテロのいる風景の第5回目》でもお話しいたしましたけれども、 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 マタイの福音書16章の23節に書いてあります。 「神のことを思わないで、人のことを思っている」――イエスさまはこの時点でのペテロの心の奥底をお見通しでした。 ペテロは神のみこころではなく、人間的な名誉や評価をものすごく気にしていた、ということが窺い知れます。 人間的な思惑に従って動いてしまった――それがペテロのこの時の思いでした。 「イエスさま、先生が苦難に遭うはずがない」――そう思っていたのでしょう。 「そうなっては、私が困るからですよ。あなたはメシアとして、イスラエルをローマ帝国から解放されたその暁には、私もあなたの右の座に着いて、そして共に治めようと考えているのですから、あなたが苦難に遭うはずがないじゃないですか。」 イエスさまは言われたでしょうね。 「ペテロよ、邪魔しないでほしい。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。 わたしは、すべての人を救うためにこのいのちを捨て、 すべての人を死から解き放つために復活するという、 天の父から与えられた使命があるのに、 ペテロよ、おまえは十字架への道を辿ろうとしているわたしを引き止めるのか? 下がれ、サタン!」 そのように、ペテロに向かって、イエスさまは厳しい口調で語っておられました。
ペテロは「イエスがメシア、キリストである」と告白しましたけれども(***マタイ16:16)、キリストであることが何を意味するかは、ペテロはこの時点で全然分かっていませんでした。 キリストであるからこそ、苦難に遭わなければならないことを全く理解していなかった。 ペテロは後に気づかされたでしょうね。 イエスさまからサタン呼ばわりされたのも、この時自分がサタンに心を奪われていたからなんだ、とそう気づいたかも知れません。 だからこそ、アナニアにこのメッセージを語ることができたんだろうと思います。
「なぜあなたがたはサタンに心を奪われて・・・」 アナニア夫妻がサタンに心を奪われてした行為の意味するところは、結果的に何だったのでしょうか? それは(使徒5章)3節の「サタンに心を奪われて」のすぐ後に「聖霊を欺き」という言葉があります。 もしよろしければ、ご自分の聖書でしたらば、この《聖霊を欺き》というところにしるしを付けていただければと思いますが、 ここに《聖霊を欺き》という言葉があります。
もう一つ(使徒)5章の4節の最後に、「あなたは人を欺いたのではなく、《神を欺いた》のだ」――《神を欺いた》という言葉があります。 聖霊を欺いた、神を欺いた――《聖霊を欺いたことは神を欺いたこと》 ってことは、《聖霊は神さまである》ということが、このみことばからちゃんと証明できるわけです。 《聖霊は神である》。
もう一か所、(使徒5章)9節です。 ペテロが(アナニアの)妻に言った言葉ですが、「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか」という言葉があります。 「夫婦そろって、心を合わせて、《主の御霊を試みた》」っていうこの言葉があります。 《主の御霊を試みた》。
《聖霊を欺く》《主の御霊を試みる》 「聖霊を欺く」の欺くの意味は、「だます」という意味がありますが、 もう一つ「軽く扱う」とか、「ばかにする」っていう意味があります。 軽く扱う。ばかにする。聖霊を軽く扱う、ばかにする。 《聖霊の語りかけを軽く扱うこと》――それが《聖霊を欺く》を意味するところ。
もう一つ《主の御霊を試みる》(9)ってありますが、「聖霊を試みる」ってどういうことか? この「試みる」の意味は――どんな結果になるかを確かめるために、実際にやってみる――そういう意味があります。 「聖霊を試みる」とはどういうことかっていうと、「ここまでだったら、罪を犯しても大丈夫かなぁ?」――そうやって聖霊を試みる――そういうことを意味していると思います。 《聖霊を欺き、試みる》ことは、《神さまからの語りかけを無視してしまう》結果に繋がる恐れがある。
「お話しください。しもべは聞いております」(***1サムエル3:10)というこのお言葉で、2024年はスタートしました。 「神さまからのお言葉を聞かせてください。」 でも私たちが、聖霊からの語りかけを聞かずに、無視し続けていると、聖霊の語りかけが分からなくなってしまう。 神さまは私たちに語りたくて語りたくてたまらないのに、いつの間にか神さまが語っていることが全く分からなくなってしまう。 聖霊の語りかけを無視すると、そのような状態になっている。 これが《サタンに心が奪われる》ということなんでしょうね。
サタンに心が奪われている二人に、ペテロは「下がれ、サタン」とは言いませんでした。 アナニアとサッピラそれぞれに対して、お説教をしました。 そしてペテロの足もとに時間差で、次々と倒れた二人、息が絶えた二人でありました。
その遺体を運び出して葬ったのは、教会の若者たちだった、と書いてあります(10)。 若者たちは体力があるから、それだけではない。 エルサレム教会の将来を担う人たちが、この出来事を目の当たりにしたということは、 何かがしっかりと心に刻み付けられたに違いない。
3)最後に思い巡らしておきたいことがあります。
アナニアの息が絶えた時、5章の5節―― <使徒の働き5:5> 5このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
妻のサッピラが息絶えた時、5章の11節―― <使徒5:11> 11そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
《大きな恐れが生じた》。 神さまの前に罪を犯し、《聖霊を欺き》、《聖霊を試みた》この二人が、ペテロの説教によって、息絶えてしまった。 そのことを見た人たち、そのことを聞いた人たち、すべての人たちに、《大きな恐れが生じた。》
「恐れる」というのは、漢字で書くと二つあるんですね。 恐怖の恐――聖書に書いてあるこの漢字「恐れる」と もう一つ、畏怖の畏――もう一つの「畏れる」 恐怖の恐の「恐れる」は、神さまを怖い存在だと実感することです。 畏怖の畏の「畏れる」は、神さまを神さまとして認め、礼拝し、信頼する。キリスト者が神に対する特別な思い、それが「畏れる」ですね。
恐らく十分な言葉では明確に表現できないことなんでしょう。 でもこの場合、どっちの「おそれる」だったか? それは神さまを怖い存在だと実感した、だと思います。 その根拠は、(使徒)5章11節のギリシャ語の原語での訳はこうなっているんですね。 「全教会は、非常な恐れと、経験したことのない恐怖とおののきに捕らえられた。このことを聞いた他の人々も同様であった。」 恐怖におののくような出来事だった。 「ああ、あの夫妻の罪はそんな罪だったんだぁ〜。」
これから爆発的に教会が増え広がって行くこの時点において、必要な神さまからの見せしめだったのかも知れません。 ま、見せしめなんて言葉は使いたくありませんけれども、まさにそう読み取れるような出来事でした。
私たちはイエスさまの十字架の贖いによって、すべての罪は赦されました。 では何をしてもいいんでしょうか? そうではありません。 もし私たちキリスト者が罪を意図的に犯し、神さまのみこころとわざとに背き続ける内に、その罪の内容によっては、死ぬという結果がもたらされる危険性はあると思われます。 このことを教会誕生の時期に事実として明らかに示されたのが、アナニアとサッピラに起こった出来事だったと言えましょう。
しかし神さまからの見せしめ的な警告とは裏腹に、現にその後のキリスト教会の歴史を見ると、聖霊を欺くことの連続だったと言えるようなことが沢山ありますよ。 福音よりも人の思惑と欲望優先でやりたい放題だったキリスト教会。 信仰的立場の違いで、相手を批判し合い、戦争にまで発展したキリスト教会。 教会は政治権力と結びつき、弱者を切り捨て、虐待するような状況。 まさに「神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたイエスさまのお言葉の通りだったわけです。 「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と私たちは「主の祈り」で祈りますけれども、「国と力と栄えとは、限りなく我らのものなればなり」という人たちによって、 キリスト教会の歴史は綴られて来た、と言っても過言ではないかも知れません。 人間の本性丸出しの、キリスト教と言う宗教の茶番劇が、今まで繰り広げられ続けて来たのではないでしょうか。
ということは、この使徒の働きの5章にあるアナニアとサッピラのこの出来事は、神さまからの見せしめのようなこの出来事は、 ある意味では、その後の教会にとっては、無駄なことだったかのように思えてなりません。
さらにはここでどうしても納得がいかないことがあります。 アナニアとサッピラ夫妻の死についてです。 確かにペテロは、アナニアとサッピラにも罪を言い表す機会は与えたんでしょう。 彼らはそこで「土地を売った代金の一部を手元に残しました。それなのに、代金の全額などと偽って奉げ、神さまに罪を犯しました」 と、もしこの夫妻がありのままを認めていたならば、彼らはその場で死ぬことはなかったのかも知れません。 しかし彼らはそのチャンスを、悔い改めのチャンスを受け取らなかったのは、本当に残念なことだったと思います。
でもそうだとしても、(※一言語る毎に顔を机に近づけて力を込めて)そうだとしても、全財産を売って、その一部を全部だと偽って奉げたこの行為が、死に値するほどの大きな罪なのでしょうか?という疑問が残ります。 人間が生きている限り、嘘をつかないで生きて行くということは不可能ですよ。 嘘を言って殺される、というならば、このような人々はみな即座に息絶えねばならないことでしょう。
一番理解しがたいのは、愛と赦しの神さまが、見せしめのために有無を言わせずに、即座に人を処刑されたことです。 アナニアとサッピラは神さまに殺された、と言ってもいいような、そんな印象を持ちます。 「いやぁ、神さまは愛と赦しの神さまという面だけではなく、義と裁きの神さまという面もあるのではないか、バランスを取らなければね」 とそういう説明もなされることがあります。 確かに神さまは、義と裁きの神さまという面がある。勿論そうですよ。 でも、そうだとしても、その神さまの基準に歩める人間は果たしているんでしょうか? 神さまの義と裁きの前に。 恐らく誰もいないと思います。義と裁きの神さまの前に歩める人は、だれもいないからこそ、イエスさまは十字架に架かってくださったんです。 父なる神さまはそのひとり子をお与えになってくださった。それほど私たちを、世を愛してくださったんです。 まさに、神さまは罪人である私たちにとって、どこまでも愛と赦しのお方でありました。
詩篇の130篇、今朝読みましたけれども、 <詩篇130:3〜4> 3 【主】よ あなたがもし 不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。 4しかし あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます。
とあります。どこまでも愛と赦しのお方が、私たちの神さまです。 私たちはこの説教箇所を読んで、アナニア・サッピラ夫妻のようになってはならないと思います。 しかしこの夫妻の姿をさばくことができるでしょうか? いやぁ、アナニア・サッピラ夫妻の姿は、私の姿でもある。 聖霊を欺いたことが一度もないとは言えません。 それなのになぜ、それなのになぜ、この夫妻は息が絶え、私は息が絶えなかったのでしょうか? このような罪を犯している者を、イエスさまの十字架のゆえに赦してくださったとするならば、既にアナニアとサッピラのために十字架に架かってくださったイエスさまの贖いのゆえに、アナニアとサッピラの罪も赦されるはずではなかったんでしょうか?
私たちは、神さまが怖いから神さまに従うのではありません。 神さまに愛され赦されているから、その神さまを私たちも愛し、信頼して、すべてをゆだねて、神さまについて行くんです。 このようなお方がですよ、このようなお方がですよ(※ここでも二度繰り返す戸塚伝道師)、見せしめのために、アナニアとサッピラ夫妻を処刑されたのだろうか? 理解し難いですよ。 私(戸塚伝道師)は何度もこの聖書の箇所を読んで、思い巡らしました。
一つの答えのようなものが浮かんで来ました。 答えのようなものですよ。ようなもの。ほんとのことは神さましかご存知でない。 でも答えのようなものが浮かんでまいりました。 アナニアとサッピラがこの場で息が絶えたのは、神さまに裁かれたことは確かです。 ペテロの説教を通して。 しかし、十字架のゆえに、この二人は滅んではいません。 肉体のいのちは失っても、キリスト者として既に彼らに与えられている永遠のいのちを保つために、この世から連れ出す《神さまの驚くべきあわれみ》だったのではないだろうか? ということです。 やっと説教題に行き着きました。《驚くべき あわれみ》 キリスト者として既に彼らに与えられている永遠のいのちを保つために、この世から神さまは連れ出されたんだ、二人を。 《驚くべき あわれみ》
最後にこのみことばを開いて終わりにしたいと思います。 このみことばは一緒に開きたいと思います。 旧約聖書の1407ページです。イザヤ、エレミヤの次です。 哀歌の3章22節、23節。 下の段。後ろから三行目から読みましょう。実に、という所から。 <哀歌3:22〜23> 22 ・・・ 実に、私たちは滅び失せなかった。 主のあわれみが尽きないからだ。 23それは朝ごとに新しい。 「あなたの真実は偉大です。
あなたの真実は偉大です。 「♪ながまことは大いなり」(※イ474)讃美歌はここから来ています。 あなたの真実は偉大です。 私たちは滅び失せなかった。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。 (※この聖句とこの讃美歌は故藤本栄造牧師がお好きだったことを思い出させますね)
アナニア・サッピラ夫妻も滅んでいなかったでしょう。 神さまの驚くべきあわれみのゆえに。 永遠のいのちを保つために、肉体をこの世から連れ出された神さま。 私たちはそう簡単に自分と人をさばかないようにしたいと思います。 神さまと当事者との間でしか分からないことがあるんでしょう。 いや、当事者でさえ、その時には分かっていない、神さまのお取り計らいというのが、あるのではないでしょうか。 神さまは、イエスさまの十字架のゆえに、どこまでも愛と赦しのお方でした。 そして私たちも、驚くべきあわれみのゆえに、今も、朝ごとに赦され続けています。 イエスさまの十字架の恵みに信頼するのみです。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、あなたはかつてペテロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。(***ルカ22:32)でも立ち直り、聖霊を受けたペテロの口から出た今回の言葉は、罪を犯したアナニア夫妻に死をもたらす裁きのメッセージでした。ああ、聖なる神さまの前に、その裁きに、私たちも一瞬たりとも耐えられないものです。それでも天の父よ。あなたは、イエスさまの十字架の贖いの一事のゆえに、愛と赦しの神さまですから感謝いたします。
今週も様々な場面で祈るでしょう。「われらの罪をゆるしたまえ」と。驚くべきあわれみに、朝ごとに新しく尽きないあわれみにすがりながら、あなたに信頼してついて行く者とさせてください。そしてどうぞ私たちの高津教会もその憐れみのゆえに、あらゆる悪からお守りくださいますようによろしくお願いいたします。私たちの救い主の御名でお祈りいたします。アーメン。
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