嵐が追いかけてくる マルコ6:45−56
今朝は台風の影響が残る聖日となりました。今年も日本を襲った台風、土砂崩れ、大雨、またその被害を大きく引きずっているのが現状ですが、それにしてもアメリカの「カオリーナ」につづく、「リタ」という大きなハリケーンのことは気になります。ニューオリンズは、再びしない全域が冠水。そうして、テキサスの人はもちろんのこと、ニューオリンズからテキサスに非難している方々までも、また違うところに非難せざるを得ないと。テレビでは、その恐怖感よりも、次から次へとやってくる世紀の大型台風に疲れをおぼえているという印象が伝わってきました。 避難所に住んでいる少年が、無邪気に答えていました。 「逃げても、逃げても、ハリケーンが追いかけてくるの」 何かとても、人生にとっても象徴的な言葉でした。聖書の中に、嵐そのものが何度も出てきます。ノアの時代の洪水から始まって、大風も嵐も、大規模な惨事の連続です。それだけでなく、嵐はまた人生の様々な試練を象徴しています。無実の罪で投獄されたヨセフ。ダニエルが投げ込まれた獅子の穴。ヨブを襲った自然災害に犯罪者の手、そして病。次々にいのちをねらわれるダビデ。海難で命を落としそうになるパウロ。牢獄のペテロ、島流しに遭うヨハネ、と終わりがありません。ハリケーンが次から次へと、追いかけてくるの、という少年の言葉は、まさに私たちの人生でもあります。
1)弟子たちが乗っていた船が嵐にあって、困難な状況に陥ったのは、今回が初めてではありません。その意味で、信仰を振り返ってみる必要があります。4章の最後の出来事では、嵐はもっとひどかったのです。波をかぶり、船は沈みそうで、かつて漁師であった彼らが「死にそうです」と叫ぶほど、事態は深刻でした。しかし、その時、彼らはイエスさまを船にお乗せしていました。 主はその時、嵐と荒れ狂う湖に向かって、「黙れ。静まれ」としかりつけました。まさに、この瞬間、彼らは異なる恐怖に包まれます。なぜなら、この方の自然界に対する一括で、嵐は闇、湖面は凪となったからです。そしてイエスさまは、「わたしを信じなさい」と信仰を教えてくださいました。「信仰がないのはどうしたのですか」と叱ってくださいました。 その時の出来事の記憶はどこにいったのでしょうか。覚えていたのかもしれません。しかし、今回はイエスさまが一緒ではないのです。自分たちだけなのです。 しかし、弟子たちはこの2回目の嵐をもって、もう一つの教訓を得ます。いや、嵐のレッスンは、第二段階に進んでいたのです。イエスさまはおられません。彼らだけです。時間帯は夜です。最初の嵐で、イエスさまはこの自然界を納める力を持っておられることを示されました。しかし、二回目の嵐で、イエスさまが教えておられることは、その場に主がおられなくても、主は彼らのことをどうでも良いとは思っておられない、見放しておられない、変わらずにすぐそこにある助けである、といことを彼らに示そうとしておられます。 主は、その場にいなくても、人生漕ぎあぐねている者をささえることができるのです。その間、私たちはひたすら船をこいでいます。依然として逆風なのです。人生、休んでいるときよりも、苦闘していることが多い。感動的な瞬間よりも、漕ぎあぐねているときの方が多い。 私たちの人生にも嵐が追いかけてくるとしたら、新たなる嵐をもって、主は私たちの信仰さらに広げ、深めてくださることを、信仰のレッスンは次の段階に進むことを、この聖書の箇所から学ぶことができます。
2)イエスさまは、弟子たちを突き放すように船に乗せますが、それだけではありませんでした。この物語、実に興味深い動詞が出てきます。 イエスさまは、46節「祈って」おられました。 48節では、弟子たちが向かい風のために湖でこぎあぐねているのを「ご覧になり」ました。 同じ48節で、主は弟子たちのところに「近づいてゆかれます」。 そして、50節で主は脅える弟子たちに「話しかけて」います。 最後に51節で、主は弟子たちの「舟に乗り込まれた」と記されています。
確かに主は弟子たちの舟に、真夜中の嵐でこぎあぐねる舟の中に乗っておられませんでした。しかし主は、弟子たちのために祈り、その様子をご覧になり、彼らに近づき、彼らに話しかけ、最後は彼らの舟に乗り込まれるのです。 3)嵐によって翻弄される船の中で、祝福を探すことも大切でしょう。 真夜中、向かい風のために、こぎあぐねている、翻弄される船の中に、恵みがありました。それは、42節に記されているように、男だけで5千人の人びと、おそらく全体では1万人はいたであろう人びとにパンを配った後に残ったものを取り集めたパン切れ12かご分です。この奇跡は、彼らが今まで見た奇跡の中で、最も壮大な形で、イエスの力が確かに現された出来事でした。この奇跡の興奮冷めやらぬ、同じ日の出来事なのです。 彼らは、いま、この12個のかごのパンを眺めて、何を考えたでしょうか。当然のことながら、それは嵐に対して、今の現状に対してたいした意味を持っていません。しかし、それは明確に神の力が、人の想像や限界や能力をはるかに超えていることの証しでした。 私たちは、辛いとき、苦しいときに、何を思い浮かべるでしょうか。それが昔の写真であったり、昔もらった手紙であったり。絶望の中でも、愛する家族に囲まれていることを認識したりします。 52節には、弟子たちの心が閉ざされていて、パンの奇跡からまだイエスの力を本当に悟ることができていなかったと指摘されています。私たちもそうでしょう。だからこそ、あらためて翻弄される船の中にある祝福のしるしを探さなければなりません。イエスさまが今、自分の目で確認できなかったとしても、主が共におられることを、きっと何かのしるしが指し示しているはずです。嵐の中にも祝福はあり、嵐の中でも主は祈っていてくださるのです。
テレビのニュースで、ものすごい映像を見ました。フロリダにある気象庁がハリケーンの大きさや進行方向を計測するときに、飛行機を飛ばして、ハリケーンの目の中に小さな電子機器を落とします。上から見ますと、見事なまでのハリケーンの目の大きさ、ぐーっと渦を巻いているのが、明確に分かります。何度も飛行機を飛ばして、ハリケーンを正確に計測しようと努力をするわけですが、なんだか恐ろしいお仕事です。しかし彼らは、ハリケーンの風向きを利用して、行きと帰り、その風に乗ることに注意を払いさえすれば、危険はなく、なおかつジェット燃料もほとんど使わずに往復できるというのです。嵐になれているといいますか、確かに何度もそうやって飛んでいるのです。 鷲も同じように飛ぶんだと聞いたことがあります。嵐がやってくることを察知すると、鷲はあらかじめ高い山の上にまで飛んで、やってくるのを待っているそうです。そして嵐がやってきたら、それに向かうことなく、その渦巻きのような風力を利用して、一気に、嵐の上へと舞い上がっていくというのです。 すごいな、と思いますね。嵐の力を利用して、それを越えて舞い上がることができるのですから。その鷲について、イザヤ書の40章で、私たち神をを信じる者になぞらえて、いわれているではないですか。「主を待ち望むものは、つばさをかって上ることができる。」 嵐の中に埋没するな、それを越えて、私のもとへと舞い上がってこい、と。
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