☆聖書箇所 Tサムエル記17章1〜23節
1ペリシテ人は戦いのために軍隊を招集した。ユダのソコに集まり、ソコとアゼカの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。 2一方、サウルとイスラエル人は集まってエラの谷に陣を敷き、ペリシテ人に対する戦いの備えをした。 3ペリシテ人は向かい側の山の上に構え、イスラエル人は手前側の山の上に構えた。その間には谷があった。 4一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。 5頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを着けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。 6足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。 7槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。盾持ちが彼の前を歩いていた。 8ゴリヤテは突っ立って、イスラエル人の陣列に向かって叫んだ。「何のために、おまえらは出て来て、戦いの備えをするのか。おれはペリシテ人、おまえらはサウルの奴隷どもではないか。一人を選んで、おれのところによこせ。 9おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷となって、おれたちに仕えるのだ。」 10そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」 11サウルと全イスラエルは、ペリシテ人のことばを聞き、気をくじかれて非常に恐れた。 12さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。エッサイには、八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。 13エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出ていた。戦いに行っていた三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャンマであった。 14ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていたのである。 15ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を世話するためであった。 16例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て立ち構えた。 17エッサイは息子ダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。 18この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を確認しなさい。そして、しるしを持って来なさい。 19サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人はみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているから。」 20ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、言われた物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて陣地に向かうところであった。 21イスラエル人とペリシテ人は、向かい合って陣を敷いていた。 22ダビデは、父からことづかった物を武器を守る者に預け、陣地に走って来て、兄たちに安否を尋ねた。 23ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来た。ガテ出身のゴリヤテという名のペリシテ人であった。彼は前と同じことを語った。ダビデはこれを聞いた。
☆説教 サムエル(12)代表戦士
よく来てくださいました。今日はサムエルの連続のお話しで12回目。 Tサムエル記の17章でございます。 全部読みたい。読めば物語全部分かるんですけれども、皆さんはかなりの方が知っておられるのではないかと思って、前半部分にいたしました。 所謂17章というのは、「ダビデとゴリヤテの戦い」の場面で、教会学校では非常に有名です。
前回はサムエルが次の王としてダビデに油を注ぐ16章から見ていただきました。 情けないサウル王に油を注いでしまったサムエルは、サウル王の失敗と共に自分自身もめげてしまいました。 でも神さまは、サムエルに仰いました。 「いつまで悲しんでいる。わたしは次の王をもう既に選んである。さあ、次の王のところに行って油を注げ」という風に。
そうしてエッサイの家に行き、サムエルはこれだと思われる青年を考えるわけですけれども、彼の予想は全部外れました。 彼は一番下の、まだ少年であったダビデを選びました。 何の賜物もなく実績もない、しかし選ばれて行くダビデでありました。
そこで説教は「神の霊は、私たちの人生を突き抜けて行く」というタイトルを付けました。 神が選んでくださる、そういう私たちの人生は、何があっても神の恵みによって突き抜けて行くんだと。 「神はダビデの心を見て、ダビデを選んだ、神はダビデの兄貴たちの様子を見て、退けた、たとえ体格は立派であっても」という風に読みがちですけれども、 聖書の原文では「その心を見て」「その目を見て退け、その心を見て」と言った時に、その心は実はダビデの心ではなく、神さまの心だという風に申し上げました。 (※原文の直訳では、「人は目によって見るが、【主】は心によって見る」でした)
神さまはご自身で誰を祝福するかしないか、見ておられる。 そして神さまはみこころのままに、人の目はどうであれ、みこころのままに私たちを選んで救いに導いてくださる。 それはまさに私たちのことであって、「私のような者がどうして教会に?」「どうして主の御前に?」「どうして礼拝に?」――それは神さまがあなたを選んでくださっているから。 私のように十分に神の選びに答えていない者にもかかわらず、「大丈夫。神さまの恵みはあなたの人生を貫いて行く」 時に悲しみ、失敗してくずおれる時も沢山あるでしょう。 いや、神さまはまた立たせてくださる。 そして私たちが想像もしていない竪琴弾きを用意してくださり、私たちを励まし、 私たちが最後まで神さまのご計画を生きて行くことができるように、神さまはしていてくださるという話をしました。
このダビデですけれども、サウルのための竪琴弾きとして宮殿に招かれます。 しかし、いつもそこにいたわけではありません。 兄さんたちの、お父さんの羊を飼うために、彼は家と王宮を行き来していました。
その頃イスラエルはペリシテとの戦いを交えていました。 ペリシテというのは、非常に屈強な戦士として古代オリエントでよく知られていました。 二つの軍隊はエラの谷という谷間のこちら側と向こう側で分かれて陣営を張りました。 見合っているんですよね。 兄たちは兵士として、イスラエルの軍隊の中に入ってエラの谷に出て行きます。 しかし末のダビデはまだ年齢が小さいので、彼はお父さんに言われて弁当を兄さんたちに届ける役割というのをいたします。
すると行ってみると、谷の向こう側から非常に大きな声が聞こえて来ます。 「おれはゴリヤテだ。ペリシテの代表戦士だ。ごちゃごちゃ戦うのは止めよう。無駄に死んでいくのも止めよう。代表戦士一人を出せ。イスラエルからも、一騎打ちで決着をつけよう。一人選んでおれのところによこせ」と書いてあります。
イスラエル軍は身震いをします。一騎打ちなんてできるわけがない。 ゴリヤテは身長で2m50cmを越えています。つけている鎖は、57kgと書いてあります。 だれがあんな巨人と一騎打ちができるか。
ところがそれを聞いたダビデは、「行かせてください」と名乗り出ます。 ちょっと26節見ていただきますね。26節にこうありますでしょう。 (※今日は物語なので、文中に【 】をして、オレンジのハイライトの部分を示します。)
<Tサムエル17:26> 26ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を打ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。【この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは】。」
ですから、「私が倒しますので、私に行かせてください」ですね。 ちょっと聖書を映したままにしておきます。
32節も見てください。 <Tサムエル17:32> 32ダビデはサウルに言った。「【あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行ってあのペリシテ人と戦います】。」
ダビデは自分が羊を守るために、ライオンと戦いそして熊と戦って来たことを言います。(34〜36) そして37節―― 37そしてダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった【主】は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「【行きなさい。【主】がおまえとともにいてくださるように】。」
ま、あきらめの言葉ですね――「そんなに行きたければ行きなさい。主がおまえと共にいてくれるように」というのは。 「せめて私が着けているこの剣、或いは私が着ているよろいを着て行ったらどうか?」と38節〜39節に言っていますけれども、書いてありますでしょう。 しかし着けて歩いてみると、【これらのものを着けては、歩くこともできません。】 (***笑、ま、サイズも違う、重さも違う、慣れていない。) 【慣れていませんから」】(***と言って、)ダビデはそれを脱いだ。(39)
そして彼が一番慣れている、【石投げ(機)を手にし】、【川から五つの滑らかな石を選んで】来て、(40)この【石投げ(機)】で戦うんですね。 ゴリヤテはこんなことを言っています。
<Tサムエル17:43> 43ペリシテ人はダビデに言った。「【おれは犬か。杖を持って向かって来るとは】。」
「杖を持って向かって来る」というのは、羊飼いだからですね。 ここに書いてありますでしょう、42節――「ダビデがいくら血色がよく、姿が美しい少年だったとしても、おれを倒せるのか?」と。 そういう場面の中で、石投げ機一発で最初の石をゴリヤテの眉間に当て、ダビデは走って行って、ゴリヤテの剣を抜いて、ゴリヤテの首を落とすという場面がこの17章なんです。
これ全部見るわけにはいかないし、そんな時間はありませんから、幾つか簡単に見ていただきたいと思います。
1)ダビデの信仰に注目すれば、様々なことが見えて来ます。
様々なことを箇条書き的に申し上げます。
@ダビデはゴリヤテの叫びに負けなかった。
イスラエルの兵士たちは、戦う前から負けています。 向こうの陣営から、朝昼となく、ゴリヤテが挑戦状を叩き付けて来ます。 「おれと一騎打ちをしよう」と、あらん限りの力の強さ――戦う前から脅しで負けているのが私たちです。 戦う前から既に負けが決まっている。 私たちが取り組む様々な問題課題の威圧感、負けた時に生まれて来る恐怖――それを考えただけで結論が決まって来る――「それは自分には無理だ」と。 問題課題というのは、25節の「イスラエルの私たちをそしるためにやって来た」と。 「そしるためにやって来る」のが課題ですね。 ですから日々様々な問題課題と戦っているという点では、私たちも戦場にいるわけですけれども、 相手の戦法と言うのは戦いを交える以上に、私たちを脅すために様々な問題課題を私たちの頭に思い浮かべさせる。(※右手を頭の上あたりに置き、頭を撫でるしぐさ) 私たちは、それを考えただけで、「あ、無理だ」という結論に行ってしまう、 だから、気を付けなければいけません。
Aダビデの信仰は、神がそしられることへの怒りです。
26節の最後、ちょっとこれ映してみますね。さっきも読みましたね。26節の最後―― <Tサムエル17:26> 26・・・【この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは】。」
やがて47節でダビデはこう言いますよね。 <Tサムエル17:47> 47【ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。】この戦いは【【主】の戦い】だ。・・・」
私たちは力がなくても、神が代わりに戦ってくださる。 「【主】の戦いだ」という認識も大切ですよね。 私たちの日常で私たちに課せられた課題は、必ず私の課題なんです。そういう認識です。 病気があって、そしてそれと戦うのなら、それは私のものなんです。 だけど、どこかで私たちの人生も「これは自分のものなんだけれども、神さまが与えてくださったもので、これは主の戦いだ」と立つことができたならば、 ダビデのことのように、一番何が悔しいか? 自分がそしられることではない。神さまの御名が卑しめられることが一番悔しい。 そのためなら、私が戦う。 そして私が戦った時に、それは「主の戦い」となり、神は必ず勝利してくださる。
そういう真っ直ぐな、ストレートな信仰に立てるか?っていうのは、それはもう人によっても様々ですね。 私たちは、あれやこれやと考えて行くようなもんです。 イエスさまも無謀なことはするなと仰ってますから、あれやこれやと考えたらいいんです。 だけど時々見てて、あの方清々しいなぁと思うのは、「これは主の戦いだ」と思って抗がん剤に向かっていく。 「これは主の戦いだ」と思って、ま、私たちはそうならなければいけない。 数年後に会堂建設という大きな課題がありますよ、と言った時に、一人一人の常識を出し合っていてもしょうがないんです。 「最終的には主の戦いなんだ」と思って、みんなが一つになって行く時に会堂は建つんでしょうね。 そうでなければ建たないですよ。
Bダビデ自身は戦うことに鍛錬を怠ってないです
彼はさすがにゴリヤテと戦ったことはない。でも熊と獅子とは戦ったことはある。 それ位の自信はある。 何にもない所で全部神頼みではない。 自分は日頃から健康に気をつけて来た。自分には十分な体力がある。 自分は「リハビリしろ」って言われればできる。 それ位の気持ちがあって初めて、大きな手術に臨むわけじゃないですか。 経験に培われた自信というのは、最終的に勝利を決めるわけではない。 決めてくださるのは神さまです。 でもこの経験があるかないかで、私たちの人生は変わって来ます。
Cダビデの信仰として言えることは、彼は手にある武器に慣れていました。
サウルが自分の剣と鎧を貸して、「これを使ったらどうだ?」って言った時に、試してみますけれども、彼はそれに慣れていなかった。 で、よくこういう説教は聞くと思うんですよね。 キリスト者にとって慣れている神の武器は、エペソに書いてあるような祈りであり、みことばであり、 それに一向に慣れてないという時に、いざという時にそれらの武器は使えません、ということですね。 いざという時に、それらの武器は使えません、ですよ。 信仰という武器に慣れておくということは、私たちにとっては大変大切です。
今簡単にいくつかのポイントを挙げて来ましたけれども、 今日は説教題にある通り、一番最初の聖書の個所に戻って――
2)「代表戦士」――これで、あと3分、締めくくりたいと思います。
ここに説教のポイントがあります。 17章の4節に、ゴリヤテは自分のことを【代表戦士】と呼びます。 17章の8節に、【一人の人を選べ】と言います。 17章の10節に、【一人をよこせ】と言いますね。 17章の23節に、【あの代表戦士】という風に、イスラエルの人々は言いますね。
この「代表戦士」で一番有名な聖書訳は1611年のイギリスの欽定訳聖書、King James なんです。 そこで訳はチャンピオンなんです。 で、61年のKing Jamesは、82年に160人以上の聖書学者が関わって、新欽定訳、New King James Versionに変わりました。 その時にも、やっぱりチャンピオンだけは引き継いだんですね。
私(藤本牧師)、前にちょっと話したことがあるんですけれども、大江健三郎さんの書いた文章に、「チャンピオンの定義」というのがあります。 で、大江さんは高校一年生の頃に、兄さんからConcise Oxford English Dictionaryを買ってもらった。英語の辞書ですね。 夕食、家族が集まる時間になっても、買ってもらった辞書にもう読みふけって、みんなが待っているのに降りて来ない。
ようやく降りて来た時に、兄さんが大江さんに「何か面白い言葉を見つけたか?」と。 ま、辞書を読むというのは、文学者らしいですよね。 「何か面白い言葉を見つけたか?」で、兄さんこう言うんですね。 「新しい言葉とかそういうんじゃなくて、言葉の説明が非常に興味深い、という言葉を見つけたか?」と。「一つ例を挙げて見なさい」と。
で、大江さんが挙げたのが、この辞書による「チャンピオン」という言葉の定義でした。 その定義は「ある人に代わって戦ったり、ある主義主張のために、代わって義論をする人」。 大江さんの文章はこうですね。 ――読み始め―― 僕はこれまでチャンピオンという言葉から、「大切なことをほかの人の代わりにやる役目」を思いついたことはなかった。しかしこの説明に、なにかしっくりするものを感じた。
それから40年経過するんですね。
兄弟はこのことについて何も一言も話したことはなかった。 やがてお兄さんが癌になって亡くなる寸前、病院のところで、お兄さんにですね、「死んだ後どうなるか、分かっているのか?」と、兄さんに聞いた人がいたそうなんですね。 そのお友だちに向かってお兄さんは、こう答えたと言うんです。 「それは弟に聞いてください。あれが私のチャンピオンですから」と。
皆さんはチャンピオンなんですよ。 私(藤本牧師)家族の話、しましたけれども、家族に代わって「こういう時には神に祈ろう」と言える人なんですよ。 私たちは何もできないけれども、信仰のことに関して言うならば、家族に代わって、 「じゃ、私が代わりに祈ってあげよう」と言える人なんですね。
最終的に私たちは、このサムエルから始めてサウルになって、今ダビデをやっているわけなんですけれども、私は繰り返して申し上げました。 「私たちはダビデにはなれない」と。 ダビデには私たちものすごく憧れているんですけれども、ダビデにはなれない。 その最大の理由は、少年にしてゴリヤテを倒したことがないからです。 で、その経験がない限り、私たちはダビデにはなれない。 「小学校6年生の時に世界数学選手権で、金メダルを獲った」って言うんなら、ダビデ候補ですよ(笑)。 でも普通で4か5の成績を普通の公立小学校で獲っていて(笑)、何がダビデ、ダビデになれるわけないですよ、私たちは。 その前提をもって考えたら、私たちはダビデのような代表戦士にはなれない。 その代わり、イエス・キリストという代表戦士を持っているんですよ。
私たちは、代表戦士になる必要はない。 でも私たちは代表戦士をいつでもそばに持っていて、この方が私たちの代わりに説明してくださり、この方が私たちの代わりに勝利してくださる。
ヨハネの福音書の16章の33節を読んで終わりにいたします。 これは共に開いていただきたいと思います。映しますね。
【画面:ヨハネ16章32節「見なさい〜わたしを一人残します」にピンクのハイライト。 「散らされて」に黒のペンで囲み。33節「世にあっては苦難があります」に黒ペンの傍線。 「苦難」に黒ペンで囲み。「しかし〜勝ちました」に水色のペンで傍線。「しかし」に水色ペンで囲み。「勇気を出しなさい」にピンクの囲み。】
<ヨハネ16:32〜33> 32見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。 33これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と。 これも代表戦士の後を、私たちはついて行くだけ。 そして時に、祈りと励ましと愛にあっては代表戦士になれるような存在とさせていただきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と、私たちが慕い、賛美し、祈るあなたはいつでもすべての戦いにあって、私たちの前を行くお方であります。
サウルは小さなダビデに言いました。「行っておいで。神が共におられるように」と、何の根拠もなく、何の確信もなく、少年ダビデを送り出したのはサウルでした。
でもイエスさま、あなたは違います。「行っておいで。わたしが先頭を行くから」「行っておいで。わたしがあなたのために勝利を得るから」「行っておいで。わたしはあなたを勝利の凱旋に加えるから」「わたしは十字架に架かった主。あなたも世にあっては困難が沢山ある。しかし行っておいで。わたしは必ずあなたに勝利を授ける」
恵み深い天の父なる神さま、勝利の凱旋に私たち一人一人を加えていてくださることを感謝いたします。代表戦士であるイエス・キリストから目を離さないように、私たちの信仰を育ててください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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