☆聖書箇所 Tサムエル20:35〜42
35朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。 36そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。 37子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」 38ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。 39子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。 40ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。 41子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。 42ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『【主】が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。
☆説教 サムエル(13)矢は超えて行く
ごめんなさい。父の日であるということを、私は昨日アメリカの娘から父の日が届くまでは全く意識してなかったので(笑)、父の日のメッセージではないです。 ないですが、皆さん、どうぞ頑張って差し上げてください。妻は夫に。子どもは親に、もうどんな形でもいいです。何か、姉は妹にとかですね(笑)。どんな形でもいいです。食事一つでもいいんです。互いが元気でいることが一番なんですから。
さて、今日は、しばらく飛ばしていますんで、ちょっと話を聞いてください。いいですか?
承認願望の強いサウルが第一代目のイスラエルの王になりました。 彼はいつも人の目を気にして、神の声を聞く以上に人の声が気になる人物となってしまいました。 神さまに背を向けたサウルを、心が病むように天からの悪い霊が下るようになります。 不安と自己顕示欲の塊となって、厄介な王になってしまいました。 そこに連れられて来たのがダビデという少年で、彼は竪琴を弾きながら、王の心をなだめるという役割を果たします。 やがてこのダビデがイスラエルの第二代目の王になるんですが、それはまたまた何十年も先の話です。
それもまた一緒に見ていただきますが、 ダビデは竪琴を弾く少年、彼はサウルの心を穏やかにするために王宮に招かれました。 前々回の説教で申し上げました――竪琴を弾く人があなたには必要ですと。 竪琴である必要はないんですけれども、自分の仕事以外に自分は趣味を持つべきだし、何もなければ、それでも海を眺めるような時間が必要ですし、自分のやらなければならないことばっかりに集中していないで、ま、竪琴を聞く時間をぜひ持ってください、という話をいたしました。 そんなダビデに慰められて、サウルは王としての職務を続けていきます。
ところがこの少年、王宮から暫らく離れて、父のところで羊を飼っていました。 その時、ペリシテとの戦いが生じ、兄さんたちの弁当を持ってこの少年がペリシテの前に行きます。 そしてなんと相手方の大将とも言えるゴリヤテと一騎打ちをいたします。 見事に石をゴリヤテの眉間に当てて、そしてダビデは大勝利を収めます。
18章の7節見ていただきたいと思うんですが、そうすると町中ではこういう風に言われるようになります。 【画面:7節「サウルは〜討った」に黄色のハイライト、8節「サウルは〜怒り」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル18:7〜8> 7女たちは、笑いながら歌い交わした。 「サウルは千を討ち、 ダビデは万を討った。」 8サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。・・・
年齢にして親子の違いがあります。 しかし、一躍ダビデの人気が高まりました。 そして、承認欲求の高い、人々の評判を気にするサウルは、ダビデに嫉妬を抱くようになります。
それ以来、王宮に二人がいるということが、実は厄介になります。 18章の10節を見てください。こうありますね。 【画面:10節「わざわいをもたらす〜槍があった」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル18:10> 10その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。
何度も身をかわすんですね。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした(11節)と。 ゆっくり竪琴を弾く余裕もない。弾きながらいつも、サウルの様子を気にかけていなければいけないんですね。
「ダビデの手には竪琴、サウルの手には槍」(10)――皆さんはそういう家庭ではないと思いますけれども(笑)、そういう職場で仕事をしておられるってことはままある。 皆さんの周りの人間関係で、槍を持っている人間が何人いるのか?っていうことも考えられる。 今日はその辺から話を始めて行きたいと思います。
18章の13節にこうありますよね。 【画面:13節「彼を千人隊の長にした」14節「ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル18:13〜14> 13サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。 (***ということは、戦場で死んでくれたらいいなぁぐらいですね。ところが、と説明) 14【主】が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。
ということは、これ、ますますサウルを苛立たせます。 そこで、サウルは作戦を変えますね。27節―― 【画面:27節「サウルは〜与えた」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル18:27> 27・・・サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。
家族の一人として抱き込んでみようということになるんですが、これもまたうまくいきませんでした。
何度か出て来る言葉は、ここにある29節ですね。 <Tサムエル18:29> 29サウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはずっと、ダビデの敵となった。
ますますサウルは厄介な人間に変わっていきます。 何をそんなに恐れたのか? 自分よりも人気のある人物なのか? 自分よりも力あることなのか? いやいや、自分は王位から退けられて、やがて彼が王になるということ。 ――このことは、薄々サウルにも分かったんだろうと思います。 それは実にドロドロの王宮でありました。
で、それがドロドロの私たちの職場であり、ドロドロの私たちの人間関係です。 厄介な上司一人いるだけで、自分の隣にいる人がサウルである場合もある。 皆さんは竪琴を持っておられる。 皆さんは穏やかで竪琴を弾くことを試みるんですけれども、槍が飛んで来ます。 竪琴を弾いているダビデのところに、槍が二発飛んで来ます。
牧師にはこういうことがない。 う〜ん、教会員から槍を投げられるって場合もあります。 皆さんはそういうことをしないですよね。 だけどそういう教会があるということを、私(藤本牧師)は良く知っています。 よく招聘性の教会に多いですよね。 先生、引っ越すんですけれども、一年間が試用期間で、家族連れて引っ越して一年後に×が出たら、また引っ越さなければいけないんですよ。 あ〜あ、そんな、大変だなぁと思いますね。
私(藤本牧師)以前モーセの生涯、話しましたでしょう? モーセはエジプトの王のところに10回通って、そして「民を解放してくれ」って交渉しますよね。 すると言ってしないもんですから、モーセは10回奇跡を起こして、「もう一回、イスラエルの人を解放するから」と言って、また心変わりして、10回ですよ。 「10回行くモーセとアロンの気持ちになってご覧なさい」という話を、当時私はしたと思うんですね。
でも聖書を見る限りにおいて、それは非常に淡々と描かれていて、 「あ、なるほどな。つまり神さまが解放するんだから、モーセとアロンは単純に仕事をしているだけなんだ。ま、一回でうまくいくと思うなよ」 ぐらいな感じで、10回でも20回でも30回でも、神さまがこれをなしてくださるんだったら、ただひたすら淡々と通って、 なるべく心をこの問題の中に入れないで、私たちは単純に通おうと思ったんでしょうね。
ここにおけるダビデの作戦は一つしかない――それは逃げることです。 ともかく逃げなければいけない。 19章の1節を見ていただきたいと思いますが―― <Tサムエル19:1> 1サウルは、ダビデを殺すと、息子ヨナタンやすべての家来に告げた。
10節見てください。 【画面:10節「サウルは槍で〜突き刺そうとした」「槍を壁に打ちつけた」「ダビデは逃げ〜逃れた」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル19:10> 10サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとした。ダビデがサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難を逃れた。
(※指で言葉をなぞって示しながら)「逃げる」「逃れる」「避ける」で、これから見ていただくのは、「隠れる」です。 淡々と気持ちを中に入れずに、自分の仕事をし続けていたモーセ。 そしてここに於いては、もう「逃げる」以外にない。 「私はここにいたら、絶対に殺される」という時に、ダビデは奥さんを残して、自分の親友のヨナタンも残して、彼は逃げることになります。 一旦サムエルの所に彼は逃避いたします。(***Tサムエル19:18)
ある日ヨナタンに相談するというのが、20章の1節です。ちょっと見ていただけます? 【画面:「私があなたの父上の前に〜おられるとは」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル20:1> 1ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。(***ヨナタンはサウルの息子ですね、と説明)「私があなたの父上の前に何をし、私にどんな咎があり、どんな罪があるというのですか。父上が私のいのちを求めておられるとは。」
「息子として、実際お父様はどういう気持ちなんでしょうか?」ということを深〜く訊くんですよね。 それから、ダビデはヨナタンに提案します。 「もうすぐ新月の祭りがありますよね。3日間祭りの間、王の食卓で皆さんは楽しみますよね。 私は野に身を隠します。 その時に、王が穏やかに――私がベツレヘムの田舎に帰らざるを得なかったというその理由を仰っていただいて――王が穏やかにそれを受け止めることができたならば、私にはまだ希望がある。」
ところが7節を見ていただきます? 【画面:7節全文に山吹色のハイライト】 7もし父上が『良し』とおっしゃれば、あなたのしもべは安全です。もし激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。
つまり、「もう私はここにはいられません」ですね。
その時にヨナタンとダビデは、ある決め事をします。 祭りの間に父親の気持ちを確かめてください。 もし殺意があれば、ヨナタンはダビデに知らせる、嘘はつかない。
その知らせ方の約束なんですけれども、 ヨナタンは子どもを連れて、野に弓を打ちに行くという。 「仮に子どもの手前に弓矢を打つようであったならば、あなたは戻って来てください。 でも、もし弓矢を子どものはるか向こうに打ったならば、申し訳ないですけれどもダビデさま、逃亡してください。絶対に殺されます。」
《祭りが終わった朝、ダビデと待ち合わせた時刻に、ヨナタンは子どもを連れて野原に行く》という場面を、今日は読んでいただきました。
1)矢は子どもよりもはるかに遠く放たれました。
37節に、ちょっと見ていただきますと、20章のずっと後ろですが―― 【画面:37節「子どもが〜うしろから叫んだ」に緑のハイライト「矢は、〜向こうではないか」に山吹色のハイライト】 <Tサムエル20:37> 37子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どもの後ろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」
それを、近くにいたダビデは聞いているんですよね。 「あ〜あ、矢は向こう側に行ったのか」と。 そして読んでいただいたのは、あの別れの場面です。
【画面:20章39節「ヨナタンとダビデだけに」41節「抱き合って〜激しく泣いた」42節「【主】が」と「【主】の御名によって誓ったのです」に山吹色のハイライト】
<Tサムエル20:39〜42> 39子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。 40ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。 41子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。
と記されていますよね。 私が今日申し上げたかったのは、ダビデの人生にはこれから色々なことがあります。 ゴリヤテを倒し、彼は非常に順調なスタートを切りました。 だけどこれが、後々彼が様々な場面で、詩篇の中に読むように、これから彼は荒野に逃亡して数年過ごしていきます。 逃亡しただけではなく、サウロはダビデを追いかけて、その息の根を止めようと何度も何度も追いかけて来ます。
それも一緒に見ていただきますけれども、ダビデは恐らく野原で神さまに伏して祈ったと思います。 「あなたにしたら、サウルの心を変えることができる。 どうか明日の朝、ヨナタンが弓を打った時に、それが子どもの手前で落ちますように。 そして何らかの形で私が王宮に戻り、サウルと和解することができるように。 私の妻はサウルの娘ではありませんか。 神さま、人には心は変えられません。でもあなたには、心を変えられるのですから。」 ところが朝になると、無情なことに矢は子どもの上を遠く飛んで行ってしまいます。
「矢は超えて行く」というのは、私たちの人生に度々あります。 私たちは努力をします。 先程申し上げたのは、「度々ある」ということは、異常なまでに性格が歪んでいる人物っていうのは、私たちの職場に必ずいるでしょう。 私たちの周辺にもいると思います。 願わくは、私たち自身がそうではないことです。 必ずいます。そしてその人物とうまく交渉がいくように、私たちは祈る。 心を変えてくださるのは神さまのみです。
でもダビデの祈りは聞かれなかった――なんと王宮から荒野で何年間も過ごすことになるんですけれども――無情にも矢は子どもの上を超えて行くわけですね。
さて、二番目のポイントですね。 1番目のポイントは「矢は往々にして超えて行く」ということなんですが――
2)この世で最後の別れとなることを、二人は知っている。
一度、荒野にいたダビデをヨナタンは訪問しに行きます。その様子を見に行きます。 でもそれが最後で、41節の「子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。」 と言うのは、やっぱり今生の別れであることが、よく分かっているわけでしょう?
一昨日、日本聾話学校のチャリティ映画会に、子どもたちの讃美歌がありました。 すごく今回は讃美歌が多かったですね。 「球根の中に」「主われを愛す」「光ひかり」 小学校一年生から中学生に至るまで、耳の全く聞こえない子どもたちが、人工内耳とそれを受け取る赤外線電波をそこに向けて発する音声のシステムを使いながら、あそこでは手話を使わずに話す訓練をする。 なんと歌が歌えるというのは、まったくすばらしいことですね。
その一つに卒業ソングというのがありまして。絆と言う山崎朋子さん作詞作曲の歌を子どもたちが歌って行きました。 後で調べて、なかなかいい歌で――
*ぼくらの出会いは この広い世界で ささいな出来事だけど 今も忘れない 君と過ごした日々 輝いていた毎日
ま、卒業式らしいですよね、(※と感想を漏らす藤本牧師)
*君とぼくの大切な絆 いつまでも切れないように ずっとずっと守り抜こう 心の中で紡いでいく。
素敵な歌で、卒業ソングっていうのはみんな素敵ですよね。 で、テーマというのは一つしかない。 それは「離れても忘れない」というそのテーマしかないですよね、卒業ソングには。 ――と私は思います。 ところがこのテーマというのは、歌ったらすぐ忘れます。 高校卒業して大学に行きますと、皆さん全然別の道に行くわけです。 就職する方も専門学校にいらっしゃる方もいらっしゃいますでしょう。
先週、高校の同窓会の葉書が私の所に来ました。 家内にそれを見せて、どうしよう。 最後に行ったのは、私が40歳の時でした。 今67ですから、40歳の時に、もう二度と行かないと心に決めたんですよね。 それは、同期会に来ている人たちの名前と顔が全然分からなかった。 みんな(※左胸に手を当てて、名札のこと?)貼っているんですけれども、 横から声かけられて、一々この名札を確認している自分がもう嫌で、 「こんなに覚えてないのか!」って考えたら、 67の今はほとんど覚えてないですよね(笑)。何一つ覚えていない。
で、私はクラスの多い学校で高校3年間の間に何回も席替えしましたので、仲の良い友人ってのは5人位、10人位しかいなかったんだろうと思います。 その仲の良い友人でさえ、3人位しか覚えてない。 みんな忘れちゃうんですよね。 でも卒業ソングっていうのは、「離れていても忘れない」っていう歌で、 それは自分が果たすことができなかったけれども、いや実にそういう別れだよね――そういうことを実感する歌なんだろうと思います。
ここに出て来る聖書の箇所で、3番めに42節見ていただきたいんですが――
3)しかし、特別な絆もある。
<Tサムエル20:42> 42ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『【主】が私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。
ここに、【主】の御名、或いは【主】が、と二回ありますよね。 つまり特別な絆はあるんですよ。 それは《主にある絆》であって、42節にあるように、《主が証人となって結ばれた絆は特別な絆》。 ま、もうちょっと言いますと、《教会の絆は特別な絆》。
ヨナタンは一度荒野に逃亡しているダビデを励ましに行ったことがあります。 しかし、ヨナタンはやがて戦いに倒れて死にますね。 十数年後に、先日見ていただきましたように、ふとヨナタンとの約束をダビデは思い出して、ヨナタンの息子メフィボシェテを迎えに行きます。(***Uサムエル9章) しきりにメフィボシェテが、「なんで、私のような者が・・・」と言った時に、 「いや、それはヨナタンのためなんだ。私とヨナタンは約束を交わしている」と言うわけですけれども、 やっぱりダビデも戦いの時期は、ヨナタンとの約束は覚えていなかったんだろうと思います。 一段落した時に、「ああ、ヨナタンとの約束があった」ということで、メフィボシェテを捜しに行くわけでしょう。 《離れていても、時が経っていても、【主】にある特別な絆はその人の内側にある》。
《イエスさまが導いてくださった友情》というのがある。 それは《離れていても忘れない、相手の存在》ですね。
皆さんの中で高津教会にどれくらいおられるのか。その前に色んな教会に籍を置いていらっしゃった方もいらっしゃるでしょう。 先日、私、ケイマン諸島の(Y)Mさんにメールをいたしました。 そしたらメールが返って来て、私は 「お母さんとお兄ちゃんといつも礼拝に来てるよ」 そしたら、Mさんが 「母と兄が高津教会に連なっていることは、私の一番の安心です」 っていう風に、メールに書いてくださいました。 「あ、そうなんだ、一番の安心なんだ」
教会の中には今スモールグループがありますよね。 オンラインの方も含めて、なるべくオンラインの方を私たちの教会の中に取り入れたいと、OさんやHさんやIMさんが、小さな小さな祈りのグループを作っていてくださいます。 私は教会全体で無理にそれを強要いたしませんでした。でもそれが増えていったらいいなぁと思います。
それは礼拝に来て、帰るだけではない。自分は誰かに所属していて、主が結び合わせてくださった誰かとは一生の絆が結ばれるような教会になってほしい。 教会の漠然とした交わりの中に自分は置かせていただいて、ここで主を共に主の家族として礼拝できた、だけではない、ここでヨナタンを見つけてほしい。 やがて自分が地上を去って行く時に、天国であっても、この地上であっても、「決してあなたのことは忘れない」と言えるような友を、オンラインの方にも私はお願いしたい。
それを見つけてくださるような仕組みを、教会がどういう風に作ればいいのか? 教会がそれを作った時に、皆さんがどういう風に答えてくださるのか?というのが、これから数年の教会の課題です。 それは一つの場所ではなく、オンラインとこの会堂と分けたことを考えますと、 「私たちの仲間は、遠い遠い滋賀県にもいますし、遠い遠い栃木県にもいますし、北海道にもいますし」って、色んな所にいる中で、 「私たちは一つなんだ」って言った時に、それが単なる一つではなく、ダビデとヨナタンのような一つにどうしたらなれるのか?ということは大きな課題であると思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、どれほどダビデは矢が手前で落ちるように祈ったことでありましょう。またそれができるのは、神さま、あなたのみであるということをダビデは知っていました。しかし朝になりますと、無情に矢は子どもの上を超えて行きます。
そのようにして、残された私たちに交渉はない。ただ、この場を立ち去るだけだ、という場合も多々あるでしょう。それが苦労へ踏み出すことになるのかも知れません。しかしその苦労は、ダビデにとってはマイナスではありませんでした。彼はまた多くの友人たちを荒野で見つけます。そしてやがて王になる時を、あなたは与えてくださいます。
別れに卑屈になることがありませんように。別れがいつも輝いたものでありますように。なぜなら、主ご自身がその別れの証人となって、「別れても決して忘れない」という言葉が生きていることができるように。 折しも(N)T君を、ニューヨークに旅立ち、見送りますけれども、T君のことを忘れることがありませんように助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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