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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/1説教「私たちの足を洗う主」ヨハネ13:1-20
今年のイースターは4/12(ペンテコステは5/31)になりますが、受難週(十字架の週)は4月第1聖日に始まり、第2聖日がイースター(復活祭)です。十字架、そして復活の恵みに向かって、これから心を備えるように導かれています。ヨハネの福音書13章から21章の流れを4月の終わりまでかけて、礼拝で学びます。

13章で最後の晩餐に入りますが、ヨハネの独特な展開で洗足に始まります。その数時間の出来事を、なんとヨハネは13章から17章、つまり福音書全体の4分の1を費やして、この一晩の話に集中して書き記しています。弟子であったヨハネにとって、どれほどこの夜のことが印象的で忘れられなかったかがわかります。

いったいそこで何があったのでしょう?ヨハネはそれを、13章1節に要約しています。
主は「この世を去って、父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られた」。そして、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残ることなく示された」。

「世にいる自分のもの」とは、弟子たちだけではありません。世に生きている、キリストに属する者すべてで、私たちのことです。
その私たちに、「その愛を残ることなく示された」とは、新改訳の訳ですが、先生はここは、別訳の方が好きですとおっしゃいました。
欄外に書いてありますが、別の訳は、「最後まで愛された」。「最後まで愛し通された」ということです。しばらくしたら、イエスさまは十字架にかかり、復活して天に昇ります。弟子たちは残されます。しかし、世の終わりまで、イエスさまは、ご自分に属するものを愛し抜かれていく、これこそが、ヨハネがわかったことです。

最後の晩餐の教えから、十字架、そして復活、天に昇られる出来事を通して、ヨハネは何がわかったのか? それは、キリストの愛がわかったのです。
ヨハネは後に手紙のT、U、Vと黙示録も書きましたが、手紙Tに書いています。

「神は、そのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」ヨハネの手紙T4:9

ヨハネには、愛というものが何であるのかが、心底そして初めてわかったのです。
この最後の晩餐から始まって、十字架と復活を通して、主の愛がわかったのです。

ですから、ヨハネ13章から最後まで学んでいくことによって、私たちも開眼したい。私を愛してくださる、神の愛がどのようなものなのか?それがわかれば、その愛の中に生きるとは、どのような生き方なのかがわかります。

ヨハネがキリストの愛に開眼する、きっかけとなったのが、13章の始めに出てくる、弟子の足を洗う主イエスさまの姿です。他の福音書には書かれていない、ヨハネの福音書にだけ出てくる、彼の魂に焼き付いた出来事でした。

キリストが弟子たち一人一人の前にかがんで、タオルを巻いてその足を洗っている、指と指の間を洗っています。一日の旅の終わりに、土埃で汚れた足を洗ってから食事をします。その役目を、イエスさまがしておられるのです。違和感が、一瞬にして部屋を包んだことでしょう。ナタナエルが洗面器に水を注ぐべき、アンデレがタオルをもってくるべきです。でも、だれもそんなことをするそぶりもありません。

なぜでしょうか?彼らが最近話題にしていたことがありました。それは、12人でだれが筆頭か、だれが一番かを互いに論じていたからです。ルカの福音書(22:24)では、最後の晩餐の席上でも、この話題、だれが上でだれが下かが出ています。誰一人として、足を洗う役目を買って出て、他人の足の前にかがむ者はいません。知らぬ顔をして、だれかが洗ってくれるのを待っています。

今の私たちの感覚では、自分で自分の足を洗えばいいでしょう。自分のことは自分ですればいいではないですか。いや、このアジアの一角では、そういうわけにはいかない。なぜなら、それが奴隷(しもべ)の仕事だから。ですから、弟子たちは思いました。他人の足なんか洗わない。召使いがやればいい。一番下っ端のやつがやるのが当然だと。

その時です、4−5節、イエスさまがひざまずいて洗いはじめます。

この出来事を通して、イエスさまが私たちに願っておられることは2つあります。ですが、今回はその一つだけに注目したいと思いますと先生はおっしゃいました。もう一つは「互いに足を洗いなさい。」です。でもその前に、これだけはと言うイエスさまの願いがあり、それは「私があなたの足を洗いたい。」――イエスさまが主張されたこのことを、特に学んで欲しいのです。

8節で、主に足を洗ってもらうなんてとんでもないとばかりに、「決して、私なんかの足を洗わないでください。」と弟子の立場から強く辞退するペテロに、主はおっしゃいます。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と主の側の理由を教えてくださっています。主は何とかしてあなたと関係のある状態でいたい、救いたい、弟子にしたい、導きたいのです。洗いたいと言うことばにその思いが込められています。

この場面に、洗うというイメージを持った言葉が、8回出てきます。――たらい、手拭、水、それに「洗う」と言う動作のことばがいくつか。
時は、『過ぎ越しの祭り』の最中です。イスラエルの人がこのお祭りに入る前にしなければならなかった事、それは身を洗い清めることだと11章55節で分かります。

『過ぎ越しの祭り』というのは、出エジプトを記念した、イスラエルにとっては歴史的なお祭りです。
エジプトの王パロはなかなか奴隷のイスラエルを解放しない。最後に神はモーセに言いました。「わたしは、死の陰をエジプトに送る。人の子であれ、動物の子であれ、みんな初子を死に渡す。死の陰がこの世界を包んでいくその夕暮れ、子羊をほふってその血を門柱と鴨居に塗れ。その晩、主の裁きがその家を過ぎ越して行く。」と、神はただ恵みによりイスラエルを救ってくださったという信仰が、出エジプトの記念の意味です。

イスラエルの人は、単に奴隷から解放されただけではない。人間の罪の最終的な裁きが死であり、100%我々は死ぬというところに、どれだけ罪深いかということが現れていると聖書は教えています。聖書は明確に、あなたの罪深さの最終的帰結としての死があり、死んだすべての者に神の裁きがあることを教えています。
ヘブル人への手紙(9:27)は、すべての人が死ぬ事、死んだ後に神の前に立つこと、この二つはすべての人に定められた宿命だと、教えています。

それから何百年も経っても、イスラエルの人々は、この『過ぎ越しの祭り』を祝っていました。アッシリア、バビロンなどに滅ぼされて、世界中に散らされていた(ディアスポラ)イスラエルの多くの人々が、年に一度身を清めるために、『過ぎ越しの祭り』の前にエルサレムに上ってきていました。それが、ヨハネ11:55に書いてあることです。
神の救いに与るために、この祭りのために、身を清めなければならない。水浴びを済ませてエルサレムに入ってくるのです。そのため、エルサレムにはたくさんの沐浴場がありました。

13章9節に戻ります。最初遠慮していたペテロが、今度はおかしいほど積極的に、「主よ、私の足だけでなく手も頭も洗ってください。」と頼んでいます。ペテロはまだ主のみこころを何も分かっていなかった、一人の弟子に過ぎなかった、しかし、イエスさまは「今はわからなくてもよい」と(13:7)おっしゃり、そのご計画の深さを物語っているように思います。主は「もう水浴を済ませたから、足以外は全身清い。」と言われるのです。最後まで汚れが取れないのは足なのですね。

しかし、イエスさまが「足を洗う」時に、もっと深い霊的な意味があります。その場面を回想して書いているヨハネにとって、とても大切なモチーフです。

福音書の最初(ヨハネ1:29)で預言者のバプテスマのヨハネが、イエスさまに初めてお会いしたとき何と言ったでしょうか。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」――イエスさまはどういうお方なのかを、あなたの罪を洗い清める小羊だと紹介するのです。主はご自身の血をもって、罪にそまる私をきよめるお方だと、その福音の伝道生涯の最初から預言されているのです。

「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。」ヨハネの手紙T1:7
ヨハネは、イエスさまの十字架の血は、この世界の全ての罪を清め、洗い流すと言います。
ヨハネは、はっきりと見て取ったのです。イエスさまが、ひざまずいて、弟子たちの足を洗う姿は、明日に待っている十字架の前奏曲であったと。

イエスさまは、だれでもできることを、誰もがしないので代わりになさっていたのではない。ご自身にしかできないこと、それは私たちの罪と汚れを洗うことだったのです。過ぎ越しの夜にほふられた羊の血が、初子の死を免れさせたように、イエスさまの十字架の血潮だけが、私たちが自分ではどんなに洗ってもきれいにする事ができない、罪と汚れを洗い流す(きよめる)効力を持つのです。イエスさまは、ご自身祭りの夜に神の前に捧げられるいけにえの子羊を意識され、十字架に向かって進まれています。

足は汚れていますから、主に洗っていただくなんて・・・と、最も躊躇する部分でしょう。また、恥ずかしいところでなかなか人前に出せません。
ペテロは思わず、「決して私の足をお洗いにならないでください」と引っ込めてしまいますが、イエスさまは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと(神の国と)何の関係もない存在になってしまう。(だからわたしに洗わせて欲しい)。」と言われるのです。
        
浜辺にいると、靴を脱ぎ、靴下を脱いで、波の中に入ってみたい誘惑にかられ、入ってしまいますね。ところが、いざ帰ろうかと思って、足についた砂を、砂浜に寄せる波で洗い落とすものの、なかなかきれいに落とせない話は面白く聞きました。
一旦海水の中に入ったらその砂から離れる事ができない。きれいにしたつもりでも、また周りの砂の中に足を落としてしまいます。

ナーマンが皮膚病にかかって、それが気になって、でもどんなに洗っても、どんなにきれいにしても、どんな薬を塗っても、自分で自分をきれいにすることはできなかった。(U列王5:1―14)。聖書では、砂も皮膚病もそれらは、私の罪の事を言っているのです。神の目的は何だったのか、ナアマンがこうしたら自分は癒されると思っていたシナリオを粉々に砕かれます。自分でどんなに頑張っても、自分をきれいにできない、そのことを教えるために。

私たちが捉えるべきメッセージは、果たして私はイエスさまと関係があるのか、どういう関係の中を生きていくのか、私はきれいなのか、汚れているのか、部分的に汚れているのか、いつも間にか汚れてしまったのか、洗礼の恵みをいまだにそのまま持っているのか、それとも忘れたのか、イエスさまの言葉「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何と関係もありません。」は、冷たく私たちと関係ないと言い放っておられるのではない。私に洗わせてくれと、イエスさまは懇願しておられる。どんな信仰の段階にいる私たちをも憐れみ顧みられるがゆえの、深く温かい招きの言葉なのだと分かり、改めてアーメンと感謝しました。

最後に、20世紀を代表する神学者といえば、カールバルトとCSルイスでしょうと、先生は挿話を始められました。1950年代に、神の国をわかってほしいと、たくさんのシリーズを出した児童文学者でもあるCSルイスの、『ナルニア国物語』の第三巻『朝びらき丸 東の海へ』(あさびらきまる ひがしのうみへ、原題:The Voyage of the Dawn Treader )のご紹介がありました。
あまりに楽しそうで、クリスチャンとして考えさせられるお話なので、ここに少々長くなりますが、書き留めさせていただきます。是非皆さんも本をお読みになってください。今まで2つのシリーズが映画になっていて、日本でも大評判です。

子どもたちが、夏休みのある日、部屋の壁に掛かっている舟の絵の中に吸い込まれて、ナルニアへ冒険の旅をする話。そこにユースチス・スクラブという意地の悪い男の子が出てきます。わがままで、自分のことしか考えない。人を平気で利用して、自分の楽しみしか考えない少年です。

朝びらき丸が長い航海の果てに、島を見つけて舟の修理をします。しかし、ユースチスは修理の手伝いなんかしたくありません。
彼は、仲間を残して、島を探検します。そして、ドラゴンの巣を見つけます。おそるおそる入っていくと、幸いドラゴンはいません。そして、そこは輝く宝の山でした。人生でこれほどの宝の山は見たことがありません。
彼は宝の山から、宝石をちりばめた腕輪が気に入って、腕にはめ、探検で疲れた少年は、巣の中で眠りこけてしまいます。

どれくらい時間がたったのか、ふと眠りから覚めると、戻ってきたドラゴンがユースチスの隣で寝ているのです。
恐ろしい、悪魔の形相のドラゴンがなんと隣に。心臓が口から飛び出るほどの驚きです。
彼は息を潜めました。しばらくじっとしていました。ぜったにドラゴンを起こしてはいけない、かといって、このままで見つかったら食われてしまいます。
勇気を出して右手を動かしました。すると、なんとドラゴンの右の手が動きます。足を動かしますと、ドラゴンの足が動きます。

ユースチスは気がつきました。隣にいると思ったドラゴンは、自分(の影)だったのです。欲張りな心が、いつのまにか自分を欲深い、悪魔にしていたのです。
自分が恐れていた、嫌っていたドラゴンになっていたのです。

叫び狂って、彼は洞穴を出ます。そこは湖でした。水辺にいって、自分の姿を写します。ドラゴンになっていました。
焦った彼は、鋭い石を持ってきて、ドラゴンの皮を自分のからだからはがそうとします。必死になってはがします。しかし、一枚はがすと、下から出てきたのは、ドラゴンの皮でした。もうドラゴンそのもの、自分が悪魔になっていました。自分でどんなに皮をはがしても無理です。

やがて、ユースチスはアスランというライオンに出会います。キリストのことです。
ユースチスは、アスランがしてくれたことを友だちに話します。
はじめて、アスランがドラゴンの皮をはがしにかかったとき、あまりにも深く爪を入れられ、心臓がえぐりとられるかと思った。あんな苦痛は、生まれて初めてだった。でも、不思議にその皮がはがれていくのが心地よかった。これでようやく、本来の自分に戻れると思った。

つまりどういうことかというと、欲深い思いが、自己中心な思いが、次第に私たちの心に根を張ります。しばらくすると、どん欲なドラゴンになっているのです。悲しみに追い回され、悔しさにおぼれていると、悲しみのドラゴンに。悩み事でふくれあがったドラゴンに。劣等感の固まりというドラゴンに。おおよそ自分が最も嫌なドラゴンになっていて、その皮をいくらはがしても、そこにまた同じ皮が内側から出てくる。

キリストはおっしゃいました。わたしが、あなたを洗わなければ、あなたに神の力が及ぶことはない。自分ではがすことをやめて、わたしにさせなさい。わたしがあなたを洗う。

アスランは自らの死をもって、魔女(悪魔)の力を打ち破り、同じように悪の奴隷になっている人々を解放するために復活したのです。
ドラゴンになってしまったユースチスが、人間に戻る方法は一つしかありません。それは、アスランに自らをゆだねることです。アスランが、深い爪をもって、自分の皮をえぐりとること。自分でどんなに頑張っても、ひと皮剥ければ同じドラゴンの皮です。

私たちが自分で洗うことの出来ないものを、救い主イエスはひざまずいて洗うために、この世に来てくださった。そして一番最初に主が私たちを洗おうとする時に、もしかしたら、私たちが体験した事もない、あんな苦痛は初めてだった、主の手が心臓をえぐりとるのではないかと思ったと言われるほど、私たちのわがままな、高慢な、自己中心な、その心の奥に手を伸ばしてくださいます。

人生にはいろんなことがあったに違いない。いろんなことで悩んでいるかもしれない。しかしいつの間にか、あなたに降りかかった出来事はあなた自身になってしまう。もし主に汚れた心、罪深い人生を差し出して、洗ってくださいとお願いしなければ、私たちは神の国と関係がないままです。

12節では、なんとイエスさまは、一人も残さず、全員の足を洗われたことがわかります。その中には、ユダの足もありました。この晩、ユダは主を売り渡すために暗闇に出て行きます。その前に、もう一度チャンスを与えるように、ユダの足をも洗っておられるのです。
そうすると、結果的に言うなら、ユダに足りなかったのは、自分はイエスさまが洗い清めてくださったという自覚だったのではないかと、私は今思います。しかし、ペテロでさえ、その時はイエスさまのなさっていることの意味が分からなかったのですから、無理もありませんが。それらすべてを主は天の父のみこころだと思って、受け入れられたのでしょうか?

主は私たち全員の足を、一人も残さずに洗ってくださいます。 信仰がしっかりしている者も、そうでない者も、聖く生きている者も、なかなかそうは生きられないと悩んでいる者も、祈りの勇者も、祈りの足らない者も、一人残さず、洗ってくださいます。もし私たちが主の前に足を差し出すならばという条件で。
私たちはきれいなところや自信のある部分は平気で主の前に出します。しかし、一番自分にとって汚いと意識している部分だけは、主の前に出さないのです。
そこを洗っていただかなければ、イエスさまと何の関係もない、その厳しい現実を素直に認めて、「ああ主よ、あなたには何一つできないことはありません。」と十字架にすがりたいと思います。  
私たちの願いはひとつです。主よ、どうか洗ってください。私の傲慢な思い、他人を責める思いを、私の不安を、私の悲しみを、洗ってください。それ以外にあなたと関わる方法はないと心に留めて、主の恵みの大きさ、その愛の大きさ、十字架の恵みの広さ深さ、すべてを感謝します。

恵み深い天の父なる神さま、あなたは御子イエスキリストをこの世界に送られ、私たちの悩みや怒りや悲しみ不安を味わい体験し、深く同情してくださるだけでなく、「さあ、足をわたしの前に出しなさい」と言われます。主よ、どうやって洗ってくださるのですか?「そういうことは考えなくてよい。素直に自分の最も汚れていると思うその足を出しなさい。それは互いに洗い合うこともできない、自分で洗うこともできない。わたし(主イエスご自身)しかできない。」と言われる主よ、私の心配事、焦りを、迷いを洗ってきよめてください。そして、「ああ主よ、あなたには何一つできないことはありません。あなたは、私の隠れた汚れさえ、洗ってきよめることができます。」と十字架の前で素直に遜って感謝します。主イエスキリストの聖名によって、アーメンと先生が祈られました。

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DATE: 2011.03.26 - 15:07

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