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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/3 戸塚神学生:花婿を迎える十人の娘 マタイ:25:1〜13
☆聖書箇所     マタイ25:1〜13

1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
7娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。開けてください』と言った。
12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

☆説教     花婿を迎える十人の娘

今日は、「花婿を出迎える十人の娘」と題して、共に恵みを分かち合いたいと思います。
このみことばはイエスさまが語られた天の御国の譬え話のうちの一つです。
天の御国の譬え話というのは、マタイの福音書の中で全部で10あるんですけれども、そのうちの9番目がこの「花婿を迎える十人の娘」の譬え話です。

この譬え話のそもそもの始まりは、弟子たちのイエスさまへの質問にあるんですね。
その質問はどこにかかれているかと言いますと、24章の3節です。
ちょっと24章に戻っていただいて、3節をご覧いただきたいと思います。そこにこう書いてあります。

<マタイ24:3>
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

イエスさまに弟子たちが質問しています。ここに2つの質問が書いてあります。
「世の終わりにはどんな前兆があるのか」ということと、もう一つは「いつ、そのようなことが起こるのか」ということです。
この2つの質問に対して、イエスさまは24章全体で答えておられます。
「どんな前兆があるのか」というのは、詳しい説明がず〜っと24章に書かれています。
また「いつ、そのようなことが起こるのか」というのは、24章の36節に目を止めていただきたいと思いますが、イエスさまはこう答えています。

<マタイ24:36>
36ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

そして結論として
<マタイ24:42>
42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

「目をさましていなさい」と、“世の終わり”や“再臨”に関して、こう書いてあるわけです。
“再臨”、“世の終わり”――なんか現実離れをしています。
しかし、私たちはさっき使徒信条で、告白しているんですね。
「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」
イエスさまはかしこより来たる――再びお出でになる。

藤本満先生は『わたしの使徒信条』という本の中で、こう書いてくださいました。

再臨に関わる新約聖書の箇所をすべて合計すると、新約聖書全体の十三分の一にもなると聞いたことがあります。「死んでよみがえられたキリストが、再び来られる」ということは、キリスト教の大事な神学であり、信仰者が確信していることです。私たちは、やがて死んで、天に召され、主イエス・キリストに見(まみ)えるというだけでなく、キリストがこの地上に再び来られるという真理を、現実的にもう少し深く受け止めるべきでしょう。
(***『わたしの使徒信条』174ページ)

満先生は書いているんですね――「キリストの再臨を、現実的にもう少し深く受け止めるべきでしょう」と。
そこで「目を覚ましていなさい」とイエスさまが語られているわけです。

今日お読みしましたマタイの福音書25章の13節にも、イエスさまは同じことばを仰っています。

23だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

このイエスさまの“再臨”や、“この世の終わり”を扱う一連の話の中で、イエスさまが一番伝えたかったことは何かというと、いつそのようなことが起こるか分からないから、「目をさましていなさい」ということなんですね。

そこで今日の「花婿を迎える十人の娘の譬え話」に移りたいと思うんですけれども、
「目を覚ましていなさい」と仰ったイエスさまの、目を覚ましていなければならない理由が、この譬え話の中で書かれているわけです。
まず1節をご覧になりますと――

1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

花婿を出迎える十人の娘――この花婿というのは、再臨されるイエスさまのことを示すと言われています。
で、この花婿を出迎える十人の娘というのがいたんですね。
この十人の娘というのはクリスチャンのことではないかと思います。
イエスさまの再臨を待ち望む私たちのことです。

2節を見ますと――

2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

この愚かか・賢いか、との違いというのは――

3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

愚かか・賢いかの違いは、ただ一つ――自分のともしびといっしょに、油を用意していたか、用意していなかったかの違いだったんです――これだけです、愚かか・賢いかの違いは。

そしてこの十人の娘の役割は何かと申しますと、花婿を出迎えること。
具体的には、十人の娘たちはランプのともしびを点けたまま、花婿の到着を待っているわけです。
で、花婿が到着したら、結婚の祝宴会場までの道を花婿たちと一緒に、その花婿たちの足元を照らしながら案内するわけですね。
当時、電気も通っていない暗い時代でしたので、夜の道は真っ暗です。
十人の娘はこの花婿の足元を照らして祝宴会場までお導きする、という役割をご主人さまから与えられていたわけです。

ところが、この日想定外のことが起こったのですね。
花婿の到着がかなり遅れました。思わぬ時に来ることになった。
6節を見ていただきますと――

6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

なんと夜中に花婿が到着したんです。
まさか真夜中に婚礼の祝宴など開かれるはずはないと、十人の娘たちは考えていましたけれども、とんでもないハプニングでした。
十人の娘は、花婿がいつ来てもいいように、ランプのともしびは点けっ放しでした。
気がつくと十人とも、ランプの油がなくなりそうで、ともしびが弱くなって来ている状態でした。そこで7節――

7娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

それぞれ自分のともしびを整えたんですね。
この時、賢い娘たちは入れ物に入れてあった油を自分たちのランプに注ぎ足したわけです。準備をしていましたから。
一方、愚かな娘たちは油を用意しておかなかったので、自分たちのランプの油はなくなりそう。そして、ともしびは消えかかっていました。
賢い娘たちはランプの油は十分あった。でも愚かな娘たち(のランプの油)は消えそう。
そこで、賢い娘たちに言われたことに従って、愚かな娘たちは自分たちの油を店に買いに行った、ということが9節10節に書いてあります。

なんと店に買いに行っている間に、花婿が到着しています。10節――

10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

油の用意ができていた賢い娘たちは、花婿と一緒に婚礼の祝宴に行くことができた。でもその後に戸が閉められてしまいました。
油の用意ができてなくて、油を買いに行った愚かな娘たちは、まさにトリプルパンチを食らったわけですね。
花婿を出迎えることができず、祝宴会場からは締め出され、ご主人さまからも無視された。
12節に――『確かなところ、私はあなたがたを知りません』とご主人さまから言われてしまった。
で、この譬え話を語られたイエスさまは、最後に13節にこう書いてあります。

13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

ここで導き出されるメッセージは一体何でしょうか?それは――

「皆さん、再臨される私たちの花婿、イエスさまをお迎えする準備はできていますか?
この世の終わりが来ても、今日自分が死ぬことになったとしても、大丈夫ですか?
皆さん、愚かな娘たちになってはいけませんよ。
油が断たれているような状態――油断というのはここから来たのかもしれませんけれども(笑)――にならないように。
賢い娘たちのように、救われている、という信仰をしっかり持って、聖霊の油をいつもいただいて備えていましょう。」

この譬え話を聖書の文脈で読むと、このようなメッセージになるということは間違ってはいないと思います。
今日、説教をこれで終わってもいいんですけれども(笑)……
今までもそういう風に教わって来ましたし、教会学校の子どもたちにも、「いつ天国に行っても大丈夫なように、イエスさまを信じましょうね」って教えて来たし、そういうメッセージなんですね。

でも、私(戸塚神学生)は、ここを読むたびに、何かしっくりと来ない違和感を覚えるのです。
皆さん、覚えませんか、この記事を読んで?私の聖書の読み方が間違っているんでしょうか?
何かここを読むたびにしっくりこない違和感は二つあります。

1)違和感の一つ目――それはこの譬え話の設定にあります。

ご主人さまに仕える娘たちが十人いた。
十人の娘たちの中で、五人が愚かで五人が賢い。五人が油の準備がなくて、五人が油の準備があった。
広げて言い換えるならば、神さまにお仕えするクリスチャンに、愚かな人と賢い人がいる、最初から。
つまり私たちクリスチャンに、勝ち組と(大笑)負け組が最初から存在している、という風にイエスさまが仰っているんです。
これ、イエスさまが語られた譬え話ですから、ま、イエスさまがそういう風に設定されたんですけれども、明らかに二つに区分されているんです。
この勝ち組クリスチャンか負け組クリスチャンかは、油を用意しているかどうかで決まる。
つまり、自己責任なんです。自己責任で勝ち組クリスチャン、負け組クリスチャン。

じゃ、勝ち組クリスチャン、何したんでしょうね?しっかり信仰を持っていたんでしょうか? この油って何でしょうね?
一生懸命お祈りをしたっていうことがそうなんでしょうか?
教会を休まずにず〜っと励んでいるということがそうなんでしょうか?
聖書を毎日読んでいるということがそうなんでしょうか?
それとも何か善い行いをしたっていうことがそうなんでしょうか?
油を準備するっていうのは、一体どういうことなのでしょうか?

でもご主人さまに認められるかどうかということが自己責任だとしたら、これは大変なことになります。
もし、自分が教会へ行けなくなってしまったらどうなんでしょうか?
信仰をしっかり持ちなさいよと言っても、あまりにも辛い出来事の中で、信じる気力さえない、というような状況になったらどうなんでしょうか?
一生懸命お祈りしていたけれども、やがてお祈りすることができなくなってしまうような状況――私なんかも自信ないです。認知症になるかも(大笑)しれない――その時どうなるんでしょうか?自己責任なんでしょうか?
それとも、そもそも生まれつき愚かだったら(笑)、どうなんでしょうか?

自分はどっちだろうか?勝ち組なんだろうか、負け組なんだろうか?そんなこと考えたこともないんですけれども(笑)……
でも果たして、油を入れ物に入れて備えている賢い娘なんだろうか?
勿論賢い娘の方が愚かな娘よりも望ましいとは思います。
でも私(戸塚神学生)のことを省みると、8節にあるように、『油を私たちに少し分けてください。私たちのともしびは消えそうです』という風に、こっちの部類かなぁと思います。
自分のともしびは消えそう。準備できていません。
「今日花婿が来たら、今日再臨があったら、今日もし世の終わりが来たら、今日もし自分が死んだら、困ります。準備ができていません(笑)。神さま、憐れんでください」の部類かもしれません。

でもその前に、クリスチャンにそんな区別ってあるんでしょうか?勝ち組・負け組。賢い・愚か。神さまの前に。
神さまによって救われたクリスチャンに、初めから勝ち組・負け組があるようにイエスさまが仰っている――これが私(戸塚神学生)が感じた一つ目の違和感です。

2)二つ目の違和感は、賢い娘たちの言葉と態度からにじみ出て来るものです。

自分のこと棚に上げて言いますが、この賢い娘って、嫌な感じがしませんか(大笑)?
ほんと、嫌な人ですね。この人たちって。
それはどこから来るんでしょうか?
愚かな娘たちの「少しだけ油を分けてください」とのお願いに、自分のともしびを守るのに精一杯だった賢い娘たち。
9節に「分けてあげるにはとうてい足りません」――賢い娘たちがこう言うのは仕方がないにしても、
花婿がもう来ようとしている時に、愚かな娘たちに油を店にまで買いに行かせているわけですよ。当時コンビニなんかないですから、夜中に店は開いているんでしょうか(笑)?それなのに、買いに行かせている。
そして、自分たちだけ花婿を出迎えて、そして最後、祝宴会場の戸が閉められた後は、もうそれっきり。

賢い娘たちはこの時何を思ったでしょうか?
(得意気に声を大きくして)「ああ、よかった(大笑)!ちゃ〜んと油を用意しておいて。あの五人の娘たちはお気の毒に!」
賢い娘たちは間違ってはいない。でも愛がない。結果的に、なんて意地悪なんだろうって印象を与えている。本当に嫌な感じなんです。

でもイエスさまはこの人たちを賢い娘として高く評価している――これが違和感の二つ目です。

3)で、この二つの違和感をよく覚えながら、この譬え話をよ〜く読み返してみました。

実はイエスさまがここで言われたこの譬え話の結論、キーワード、「目をさましていなさい」13節――

13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

この言葉をどのような意味で捉えるかによって、この譬え話で言わんとしているメッセージが変わってくるんだということが解りました。

「目をさましていなさい」――イエスさまが「目をさましていなさい」と言われたその意味は、油を用意しておきなさい、ということなんでしょうか?そうかもしれません。
13節に「あなたがたは、その日、その時を、花婿が来る時を知らないから」とイエスさまは仰っているわけです。

しかし、そうとも言えない読み方もできると思うんですね。
イエスさまは「油を用意しておきなさい」とは一言もここで仰っていない。
イエスさまはあくまでも「目をさましていなさい」と仰った。
イエスさまの言われた「目をさましていなさい」とは、文字通り「眠らないでいなさい」ということではないでしょうか?

眠らないでいなさい――それなのに、愚かな娘も賢い娘も、この点に関して同じ失態を見せている所が一か所あるんです。
5節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。

5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

みな――みな、十人とも――うとうとして眠り始めた。
花婿の到着があまりにも遅く、待ちくたびれて、十人とも、賢い娘も愚かな娘も、十人とも目をさましていることができなかった。

ではこの時十人全員がもし、うとうとして眠らなかったとしたら、どうなっていたことでしょうか?
うとうとせず、文字通り全員が「目をさまして」いたら、もしかしたら愚かな娘たちは、油を買いに行っていたかもしれません。
しかしそれ以上に、この嫌な感じの賢い娘たちは、本来の賢さを発揮していたに違いない。
自分のランプのことしか考えない人たちにはなっていなかったと思うのです。
賢い娘たちは、愚かな娘たちのランプの様子を見て、彼女たちに的確な指示をしていたに違いないと思うんです。
この時、賢い娘たちと愚かな娘たちの会話を想像してみました。

賢い娘は愚かな娘たちにこう言います。
「花婿さんの到着が遅れそうだけれど、あなたたち、油は用意してあるの?」
愚かな娘たちは答えるでしょう。
「いいえ、予定通りの時刻に花婿さんが来ると思っていたので、油はランプの中だけでぎりぎりなのよ。これじゃきっと足りないわ。どうしようかしら」
その時、きっと「自分のをお買いなさい」とは言わないで、とっておきのこんな賢いアドバイスをしていたかもしれません。賢い娘たちは言います。
「それじゃ花婿さんたちが来るまで、あなたたちのランプは、そのともしびは消しておきなさい。消しておけば、ランプの油はそれ以上減らないでしょう。
私たちのランプは油を満タンにして点けっ放しにしておくわ。そして花婿さん到着の相図があったら、すぐに私たち五人のともしびで、あなたたち五人の灯心に、同時に火を点けてあげます。
そうすれば花婿さんたちをお連れして婚礼の祝宴会場に行くまでの距離だったら、あなたたちのランプの油が十分に保つと思うわ。大丈夫よ」

十人全員がもしうとうとして眠らなかったら、賢い娘たちは愚かな娘たちの様子に気づいて、こんな麗しい関わりが、連携が繰り広げられていたかもしれません。
私たち五人のともしびで、あなたたち五人のランプに火を点ける――五人が五人に。
なぜイエスさまは五人、五人という風に同じ数ずつだったんでしょうか?
イエスさまはこの数にもちゃんと意味を持たせていたんではないかと思うんです。
1節でイエスさまは言われました。

1……、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

イエスさまはここで、五人の娘とは言われなかった。
「十人の娘が花婿を出迎えるんだ。十人なんだ。だから、皆さん目をさましていなさい」
愚かな娘たちにも、賢い娘たちにも、この十人の娘たちに、そういう意味でイエスさまは仰ったんです。

今朝高津教会でともに礼拝をささげている私たち、またここに来たくても来れない方々に、またこの時インターネットで礼拝のメッセージを聞いていらっしゃるあなたも(カメラ目線と右手の招きに大笑)、一人ひとり全員に神さまはランプを与えてくださっている。
そして、信仰による一方的なともしびを点けてくださった。
だれが愚かでだれが賢いか、そんなことは私たちには解りません。私たちが決めつけることでもありません。
でも、イエスさまがここで仰ったように、目をさましていたいものです。
そして自分のランプの状態は見ておきたい。
せっかく神さまから点けていただいた信仰のともしび、もし消えそうだったら、今のうちに店に行って油を用意しておく必要があるかもしれません。
店っていうのは教会かもしれない。教会に来ることが油の供給時間だって言う方もいるでしょう。
自分のランプの火が消えそうな時、高津教会には油をいっぱい持っていらっしゃる方々が沢山いますので、分けてもらいましょうね。
ともに心を開いて祈り合ったり、心許せる人を見つけて語り合ったり、愚痴を言いあったり、笑いあったり、いろんなことをするのもありです。
教会ってそういう所だと思う。

そしていざ、「花婿さん、到着ですよ」と声がかかったら、「はい」と言って、イエスさまに返事できるようになりたい。
花婿さん到着ですよ。あなたの出番ですよ。あなたの出番、明日出番の人がいるかもしれませんね。
新年度出番の人がいるかもしれない。新しい環境で出番の人がいるかもしれない。
でも声がかかったら「はい」と与えられた自分の役割を果たすことができるように、準備をしておきたいと思うんです。
日頃から恵みに生かされるものでありたいと思うのです。
更には自分のことだけではない。近くにいる人のランプの様子にも気づかせていただきたい。
お互いの様子を見合いながら、声を掛け合い、油を分け合い、励まし合い、支え合って行きたいと思います。

イエスさまは仰いました。「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです」(1節)
賢い人・愚かな人、関係なく、強い人・弱い人関係なく、信仰生活が長い人・短い人関係なく、今日初めて来た人も含めて、全員自分のともしびは点けられています。
そしてお互いに融通し合う恵みの油によって、そのともしびは輝き続けて行くのです。
イエスさまは仰いました――「そのような人たちのいるところこそが天の御国ですよ」と。

☆お祈り――戸塚神学生

イエスさま、感謝いたします。あなたは私の愚かさや弱さを十分ご存じの上で、「目をさましていなさい」とお語りになりました。あなたから信仰のともしびを点けていただきながら、すぐうとうとしてしまいがちな者です。どうか私たちを目覚めさせてください。

どんなに小さく目立たなくても、与えられた自分の役割を知り、それに生きることができますように。またお互いの様子を見ながら、共に支え合うことができますように、私たち全員を呼び覚ましてください。

この四月から新年度の歩みを助け、守り、導いてくださることを信じ期待します。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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