☆聖書箇所 使徒の働き1章3〜9節
3イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。 4使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 5ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」 6そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」 7イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。 8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 9こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
☆説教 ペンテコステ・戸塚伝道師:聖霊の力を受ける恵み
(※藤本牧師と入れ替わりに、戸塚伝道師、中央に出て来る) 皆さん、おはようございます。(※カメラに一礼)高津教会の礼拝によくお出でくださいました。それから(※カメラに向かって語りかける)この会堂にいらっしゃる以上の沢山の方々が今、同時にオンライン礼拝に共に参加されていること、心から感謝いたします。共に主イエスさまを礼拝することができる恵みを心いっぱい味わいたいと思います。
また今日、初めて教会の礼拝に来てみた、という方、もう大歓迎であります。こっそり覗いておられる方もいらっしゃるかも知れませんが、どうか最後までおつき合いいただければ、これほど嬉しいことはありません。
このオンライン礼拝は、考えてみれば、この瞬間、全世界に高津教会の礼拝が流れている。そのことを思いますと、私(戸塚伝道師)はすごい緊張します。皆さんの前でお話しするのはこれ位の人数なのですけれども、でもその背後にどれだけ多くの数え切れない方々が共に高津教会の礼拝に参加されているか? そう考えますと心躍ると共に、語る者といたしましてはすごい緊張をしておりますが、まさに聖霊の助けを受けながら、最後までご奉仕をさせていただきたいと思います。今日もよろしくお願いいたします。(にこやかなお顔で)。
今日のみことば、今日は《ペテロのいる風景》のシリーズとはちょっと離れまして、 今日はペンテコステですので、ペンテコステスペシャルのお話しをしたいと思います。
「説教篇のペテロになってから、なんかペテロが近寄りがたい存在になってしまった」 ――そう仰った方がおられました。 「人間味溢れる弱さ丸出しのペテロの方が、私は好きだった。なのに説教篇になって、そしてペンテコステ以降、ペテロがこんなにも手の届かないような存在になってしまった。まさに風景が変わってしまった」 ――(※笑顔で)そのような印象を持たれた方もいらっしゃるかも知れません。
でもあんなに怯えていたペテロが、迫害の中で殉教覚悟の、腹の座った信仰を持つようになった。 また無学な漁師だったペテロが、一度に三千人の人を救いに導くような説教をすることができるような説教者になった。 これはいったい何が原因だったんだろうか? 私(戸塚伝道師)なりに、3つの要因を考えてみました。
1)ペテロが復活されたイエスさまを目の当たりにしたからだと思います。
2)イエスさまに愛と憐れみの心をかけていただいて、そして自分が本当に罪許されて、神さまに愛されているということを、イエスさまにケアされていることを、心の底から実感することができたからだと思います。
3)約束の聖霊に満たされたからだと思います。 《約束の聖霊》――その約束とは何か? それは、聖霊によって、力を着せられる。力を受ける約束。 父なる神さまが約束してくださった《約束の聖霊》であります。
そこで今日、特別に心に留めたいみことばは、先程読んでいただきました、 使徒の働きの第1章8節のみことばに注目をしていきたいと思います。 <使徒の働き1:8〜9> 8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
イエスさまが地上で語られた最後のことばが、この使徒の働き1章の8節でありました。
9こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
まさに遺言であるかのように、最後の地上での一言。 今日はこの一言に心を留めたいと思います。 今日のメッセージは至ってシンプルです。 ペンテコステを単なる聖霊降臨記念日にせずに、 《実際に今日、聖霊の力をもう一度いただきましょう》 という、この一点であります。
1章の8節から、「聖霊の力を受ける恵み」と題して、3つのポイントでペンテコステの恵みを分かち合いたいと思います。
1)聖霊があなたがたの上に臨むとき
このおことばに心を留めていきたいと思います。 聖霊が臨む光景は、ペンテコステの日の様子が書かれている聖書、使徒の働きの2章から読んで行くと分かります。 様々な現象が見られた。でも結果的に起こったのは何か? それはペテロの説教による、「集団悔い改め」と「教会の誕生」でありました。 それがペンテコステの日に起こった出来事でありました。
その後、教会の歴史の中で《聖霊による集団悔い改め》は、何度も何度も起きています。 特に宗教改革以後、所謂この「集団悔い改め」「リバイバル」「信仰復興のみわざ」は、うねりとなって、広がって行った状況が確認されています。 近年では「ウェールズのリバイバル」というのがありました。 イギリスの南西部ウェールズの町、エバン・ロバーツ先生という指導者によるリバイバルでありました。 1904年10月30日に、神さまの声を聞いたロバーツ先生、教会の青年たちの集会でそのメッセージを説教しました。 その時に、青年たちは集団で悔い改め、そしてリバイバルのうねりとなって、わずか数か月で、ウェールズの町の10万人の人がイエスさまの救いの恵みにあずかることができました。 なんと町の犯罪者は激減、刑務所は閉鎖され、社会の隠れた腐敗は明らかにされ、政府のあり方、法律さえも変えられて、社会全体の改革へと結びついた「ウェールズのリバイバル」。 このような聖霊の働き、それは滅多に起こらないかも知れません(笑)。 でも特別な神さまの計画で、このような聖霊の臨み方があるということですね。
日本のホーリネス教会のリバイバルも、何度かありました。 昭和13年、1938年、東京の日本橋のホーリネス教会の聖会。 司会者も、お祈りする人も、証しする人も、賛美の独唱する人も、説教する先生も、 聖霊の臨在に圧倒され、何もすることができませんでした。 涙がみんなどっと溢れて言葉が出て来ない。 そして会衆のあちこちから、すすり泣きの声がして、「お祈りしたい人は前に出て来てください」と、やっとの思いで司会の先生がお勧めをしたらば、 もうみんな怒涛のように前に出て来て、神さまの前にひれ伏し、泣いて泣いて泣いて悔い改めのお祈りをした。 立ち上がった後、その場所は涙の滴でびっしょりになっていた、っていう逸話があります。 そしてこのリバイバルは、この日本橋教会から始まって日本全国にリバイバル運動として広まって行った、ということが記録されています。
最近では、去年(2023年)の「アズベリー大学のリバイバル」っていうのがありました。 昨年の2月4日、アメリカケンタッキー州のアズベリー大学では、週に一度のチャペル小礼拝が行われていましたけれども、終った後、学生は去りませんでした。 聖霊の働きが言葉にならないような臨在がそこに濃厚にあって、みんな祈らざるを得なかった。 そして賛美が止まらなかった。 入れ代わり立ち代わり、前に出て来て、賛美する青年たちが続々と現れ、 そして賛美した後、聖書を読み続ける学生たち――穏やかで確かな聖霊の働き。 夕方になってもその働きは止まず、さらに噂を聞き付けた外部からの人たちもそこに加わって、礼拝者はどんどん増えていった。 なんとそれは二週間以上も続いたそうです。
このリバイバルの働きは、その後キリスト教系であるかどうかを問わず、ほかの大学にも広がって、自発的な礼拝が行われるようになった。 《聖霊が臨むとき》、このようなみわざが、このような光景が、各地に現れて来た。
ペンテコステの前に、イエスさまは仰いました。 <ヨハネの福音書16章8節> 8その方(***聖霊が、と説明)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
とイエスさまは仰いましたが、その通りの、聖霊の働きは悔い改めの霊でもある。 罪の悔い改め、そして新しい聖霊の満たしによる新しい出発。
で、私たちにも同じ聖霊が臨んでおられるんです。 私たち一人ひとりへの聖霊の力――それは悔い改めだけではないと思う。 聖霊経験の豊かさというのは、測り知れないものがある。 聖霊の働きは、人間が分類したり、分析したりすることができない、すばらしい働きであると思います。 ヨハネの福音書3章8節に、「風は思いのままに吹く」とあります。 この「風」というのが聖霊の働き。 聖霊は思いのままに吹く。そして行く先々で、聖霊の働きが具体的にその人に最も必要なわざとなって現わされてくる。 そして実際に経験した人は、言うでしょうね。証しするでしょうね。 ――恵まれました。語られました。示されました。気づかされました。 心を刺されました。心が燃やされました。目が開かれました。励まされました。 自分の罪深さをとことん実感しました。神さまからのストップがかかりました。 癒されました。平安に満たされました。喜びが何かしら溢れて止まりません。 閃きました。導かれました。特別な経験をしました。 ――もう千差万別です、聖霊の働きは。
この「聖霊の力」というのは、「力」という表現で描かれていますけれども、 ガ〜ンと来るような力もあれば、じわ〜っと沁み入るようなそういうものもある。 ほんとに神さまのみわざというのは、もう千差万別、測り知れない様々な働きとなって現れてくるんですね。 この聖霊の力による働きは、いったい何のためなのでしょうか? 自分が恵まれてお終いなのでしょうか? そうではない。私たちはイエス・キリストの証人とさせていただくために、聖霊が臨まれるわけです。 その始まりがペンテコステの日でありました。 この時から聖霊の時代がスタートし、それは今日に至るまで2000年間続いているわけです。
理屈っぽいお話をしますと、 三位一体の神さま――三位一体なんですけれども、 天の父なる神さまは天におられる。 御子イエスさまは召天されて、神さまの右の座に着いておられる。 そうすると、この地球上に神さまは居なくなっちゃってる(笑)状態。 だからイエスさまは、「もう一人の助け主をあなたに遣わします」と仰った。(***ヨハネ14:16、26) その「もう一人の助け主」が聖霊です。 今、厳密にはこの地球上には、聖霊なる神さまが臨在しておられる。 すべての宗教を越えて、聖霊なる神さまが、あらゆる所に臨在しておられる。 それがこの地球であり、この世界なんですよ。
2)わたしの証人となります。
この「証人となる」――聖霊の力はそのために与えられている。 「わたしの証人――イエスさまの証人になる」ということについて、思い巡らしていきたいと思います。
「イエスさまの証人」って一体何でしょうか? 「イエスさまの《復活の》証人」です――「イエスさまは復活された。私は復活の主をこの目で見た」 当時、イエスさまの証人というのは、既に目の当たりにイエスさまを見た人たちによって、証人としての働きが進められていった。 「自分は確かにこの目で、復活されたイエスさまを見たのです」――証人。 証人の口から出る言葉は証言です。 「確かに自分はイエスさまを拝することができた」 ある人は、「イエスさまに触った。復活のイエスさまのおからだに触った」――そういう方もいる。
さらには、「イエスさまが《救い主》であることを証しする人」――これを証人と言っていいと思うんですね。 「私の罪の贖いのために、十字架で死なれたイエスさまによって、私のすべての罪が許されました」 「やがて私も復活し、神の国に生きる者となる希望が与えられています」 「イエス・キリストは聖霊を通して、今もわが内に共におられます」 ――そのようなことを証しすることができるような人がイエスさまの証人。 目には見えないイエスさまが、どこにでも同時におられるためには、もう一人の助け主、聖霊の臨在が不可欠でした。 でも、同時にイエスさまがどこにおられるか、聖霊が臨在されているからこそ、私たちはどこにあっても、イエスさまの証人になることが可能なのですね。
インマヌエル讃美歌から、教会福音讃美歌に切り替わってから、もう12年になるでしょうか。 礼拝で歌えなくなってしまったインマヌエル讃美歌の名曲は沢山あります。 ああ、あれも歌えなくなってしまった。これも歌えなくなってしまった。 勿論、切り替えて良かったんですよ。 でもあの歌もう一度歌いたい、この歌もう一度歌いたいという思いが、古い私たちには、インマヌエル讃美歌で育った私たちにはある。
で、今朝の聖歌隊の賛美、「聖霊来たれり」もその内の一曲です。 ああ、指揮者の選曲がお見事でしたね。ほんとにいい曲を、ペンテコステらしい曲を選んでいただきました。 (※大きな声で)「もうペンテコステと言ったらこれでしょう。 『聖霊来たれり』ですよ。これ歌わなかったら、ペンテコステ来ないですよ」(笑)。 アメリカで起きたリバイバルで、よく歌われた讃美歌です。 日本人になじみのある演歌調のメロディーライン。なんか歌ってると、(※何度も胸の前で両手を広げて)酔っていくようなメロディーラインですね。 もう何度でも「聖霊来たれり」「聖霊来たれり」と言いながら、なんか酔ってしまうような(笑)。 なんか、ほんとに気持ちよくなるような旋律です。「聖霊来たれり」
英語ではThe Comforter has Come! Comforter――慰め主です。Has Come――現在完了ですね。懐かしいですね、現在完了。 Spring has comeと同じHas Comeです。聖霊が来た。 現在完了ですから、「今も共におられる」っていう意味も含められています。 「聖霊来たれり」の「来たれり」というこの文語の言葉も、「来たれり」――「来たる」に「り」がついていますが、この「り」という言葉も、完了と存続を表す助動詞ですね。 つまり「聖霊は来てくださった。完了。だけれども、今も存続されて共におられる」――。聖霊来たれり。 今日3節までしか賛美しませんでしたけれども、5節までの間に、「聖霊来たれり」「聖霊来たれり」何回歌うと思いますか? 20回歌うんですよ。20回。聖霊来たれり、聖霊来たれり、天下りし慰め主、Comforter、聖霊来たれり! リバイバルの最中、歌われた讃美歌のあの熱気が伝わって来るかのようですね。
何のために聖霊は来てくださったのか?そして今も来続けておられるのか? 不思議な現象を見たり聞いたりするためでしょうか? 自分が恵まれるためでしょうか? 地の果てまで宣べ伝えよ。聖霊来たれり。――何を宣べ伝えるのでしょうか?福音です。 良い知らせ、イエス・キリストを宣べ伝えよ。
1節は「いずこにある島々にも、いずこに住む人々にも」 英語の歌詞ですと、「人の心に、悲しみのある所に、至る所に」――そういう風に訳されている。 「喜びの音を伝えよ。喜びの音、福の音――福音」
「イエス・キリストを宣べ伝えよ」――このイエス・キリストの宣べ伝え方は色々あると思いますが、 「みなさ〜ん、イエス・キリストは救い主です。イエス・キリストはあなたの罪のために、十字架に架かって死んでくださいました。そして3日目に復活してくださいました。今あなたがイエス・キリストを信じるならば、あなたは救われます。悔い改めて、神さまの子どもとなりましょう!」(※両手を大きく左右に広げて見せる) って言う説教は、日本人にはあまり好みじゃない。 引かれちゃいますね、こういう説教は。
《イエスさまの証し人になる、証人になる》というのは、誤解を恐れずに申し上げるならば、(※笑いながら)またこの「誤解を恐れずに申し上げるならば」ってのはよく使うんですけれども(笑)、誤解されるんです。 でも誤解を恐れずに申し上げるならば、《周囲の人をキリスト教信者にすることを意味していない》。 キリスト教という宗教を布教することが、証人になるということではない。 イエスさまが期待されているのは何か? キリスト教の布教でも、キリスト教信者にならせることでもない。 だってイエスさま、キリスト教ってご存じないんですから。 「何?キリスト教って?」ってイエスさまが仰るかも知れません。 後で人間がまとめて、伝え易くして、整理したものですよね、キリスト教って。 でも、《イエスさまが私たちに期待されているのは、イエスさまの証人になること》なんです。 あくまでも自然体ですよ。変にクリスチャン臭くない方がいいのでしょうね。あくまでも自然体。
ということは、自分はあまり分からなくていいのかも知れません。 いや、分からない方がいいのかも知れません。 自分はクリスチャンなんです――それは分かっていますよ。 でも自分はどんなように人から見られるだろうか?――そんなの案外分からない方がいいのかも知れない。 分かっていることはただ一つ――それは前回お話しした《私は救い主イエスさまに出会った》――この経験を味わい、この経験に生きていますよ、というこの一点ですよ。
確かに、私も救い主イエスさまに出会った、ですから私たちもイエスさまの証人なんです。 ですから、もし証人喚問されても、いつでもOK です。 「あなた、イエスさまに出会ったんですか?」 「はい、イエスさまに出会いました。救い主イエスさまは私のために十字架に架かって・・・」と説明することができますよ、証人喚問されたら。 「証人」ってそういうものなんですよ。
「私はイエスさまに出会った」この《あるがまま》、あるがまま私は今生きている。 キリスト者として、イエスさまに出会った者として、あるがまま日々生活している。 この《あるがままに歩んでいる》――これが証人としての生き方なんです。 何かをするっていうよりも、その場にいる佇まいですね。 それは恐らく自然とにじみ出て来る生きざまなんでしょうね。 お仕事している時も、勉強している時も、友だちと遊んでいる時も、段々と老いていく時も、病の中にある時も、激しい試練に打ち震えて、どうしていいか分からない時も、 どのような状況であっても、「腐っても鯛」なんですよ。 《 私たちは証人》なんです。
性格はそのままでしょうね。 ペテロはペテロのまんまでしょうね。 なんか、カッコつけてますけれども、恐らく性格は変わってないんだろうと思う。 パウロはパウロのまま、あのあくの強さは。 恐らくみんなの人に、全員に好かれるとは限らない。 自分の存在が嫌われるかも知れない(笑)。 でもイエスさまの証人なんです、それでも。 何かをするというよりも、その場にいる佇まい。ということは自然とにじみ出て来る生きざま。 星野富弘さんの生きざま、中村哲先生の生きざま、マザーテレサの生きざま。 あんなすごい人とは、自分はそんなになれない。いや、高津教会にそのような方々が沢山おられるではありませんか。 みんなイエスさまの恵みを知っている。みんなイエスさまの証人として歩んでおられるではありませんか。 「イエスさまに出会って、こうなりました。こう生きています」――そのことを、存在で示す人のことを証人と言うんです。 で、私たちはイエスさまの証人なんです。
証人になるために、何が必要か?
3)聖霊の力が備えられている
証人となるための聖霊の力を受ける。 「あなたがたは力を受けます。」――この三つ目のポイントをお話しして終わりたいと思います。
力を得るのではなくして、力を受けます、とイエスさまは仰いました。 自分で頑張って努力して必死になって、力をゲットするのではなくて、 力を得ます。ルカの福音書24章の49節では、イエスさまが「(あなたがたは)力を着せられます」という言葉で表現されている。 着せられる。神さまにそうされる。でもそのために、私たちがすることは何か? イエスさまは示してくださいました。 ルカの福音書11章の13節には、「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とイエスさまは約束してくださった。 「求める」「ご自分に求める人たちに聖霊を与えてくださる」――なぜ求める人たちに限定しているのでしょうか? 宝の持ち腐れにならないためです。だから、「求めますか?」「はい欲しいです」「はい、じゃあ、お祈りしてください」という、そういう世界ですね。
使徒たちは求めました。町に入って泊まっていた屋上の部屋に上がって、心を一つにしてお祈りをしていました。(***使徒1:13〜14) 天の神さまは天にいて、イエスさまはもういなくなっちゃった。 でももう一人の助け主、約束の聖霊を与えてくださると仰った。 じゃあ、祈り待ち望みましょうと。 そして五旬節の日になって、皆が同じ所に集まっていた時(***使徒2:1)、天から突然激しい風が吹いて来たような響きが起こって(***2:2)聖霊が来てくださったんですね。
今の私たちは、もうペンテコステの後です。 もう聖霊がおられるんです。でも、聖霊の力を新たに求める時、やっぱりお祈りしたいと思うんですね。 でも、「あ、そうか〜、じゃあ、祈るぞ〜」って頑張って祈り求めるものではない。 祈りを積んでいった結果、聖霊が来る。なにか祈りの時間の長さだとか、それによって聖霊の働きが決まるっていうわけではない。 むしろ、祈り求めるんですけれども、「私なんてイエスさまの証人などにはなれない」 無力さを痛感している人にこそ、案外聖霊は来てくれるのかも知れません。
「無力」は力が無いと書きます。無力って否定的な言葉です。 体力、気力、学力、判断力、思考力、読解力――語尾に力っていう言葉がついている。 でも無力も語尾に力っていう言葉がついているではありませんか。 無力――無力な時にこそものを言う力があるのではないでしょうか。 無力という力。無力も力。無力こそ力。 私たちは(※胸の前で手を合わせて)お祈りする時、無力を実感する。 だからお祈りする。だから聖霊を求める。
ノルウェーの神学者ハレスビーの書いた本に、「祈りの世界」という本があります。 第1章に「祈りの本質」というのがありますが、こういう文章が書かれていました。 ――読み始め―― 無力ということは、祈る人の心に認められる第一の確かなしるしです。 祈りは本質的には、無力な人のために備えられたものだと思います。 祈りは無力な人の最後の逃れ場です。 祈りと無力さは切り離すことはできません。 無力な人だけが本当に祈ることができるのです。 あなたの無力さこそ、最後の祈りなのです。 あなたの心の底からの呻きは、言葉に出したあらゆる祈りに勝って、神の心に届くのです。 あなたが無力に捕らえられたその瞬間から、神は聞かれるのです。 中風の病人の無力な無言の祈りを聞かれたように、神は無力な祈りを、大能の力をもってお聞きになるのです。 ――ここまで読み終わり―――
このような文章がハレスビー先生によって書かれていました。 この朝自らの無力さを全面的に認めつつ、聖霊を求めたいと思います。
「高津教会は祈る教会です」――この言葉が出たのは、4月21日の週報が初めてでした。 祈らなければどうすることもできない問題課題が、一週間のうちにバタバタと発生した時に、藤本満先生がまさに心の呻きであるかのように、書かれた文章の中に、「高津教会は祈りの教会なんだ」という一言が入っていた。 確かに高津教会には、祈りの賜物を与えられている方々がいます。 しかし、祈祷会は盛んではありません。 Zoom で週一回のみ。早天祈祷会も断食祈祷会も徹夜祈祷会も、お隣の韓国の教会のように、熱心な祈りは捧げられていないかも知れません。 それでも、「祈る教会です」と言えるのは、一体なぜなんでしょうか? それは、無力さを痛感している人たちのために、無力さを痛感している人たちが祈り合っているからです。 それがたとえ短い祈りであっても、無言の祈りであっても、言葉にならない祈りであっても、その人の名前を思い出すだけの祈りであっても、そのような祈りは、神さまに届いている。 そのような祈りをする人たちが、高津教会に集まっている、だから高津教会は祈る教会なのです。 そのような祈りの姿勢で今朝、このペンテコステの朝、聖霊を求めたいと思います。 イエスさまは今も語っておられます。 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります。」(使徒1:8) 私たちも今、イエスさまの証人となる力、聖霊の力を求め、待ち望みたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、こんな罪深い者が、こんな弱い者が、あなたの証人なんてなれるのでしょうか?無理です。無理だからこそあなたは、父なる神さまが約束された聖霊を、私たち一人一人にお送りくださいました。心から感謝いたします。
ペンテコステを記念するこの聖日に、いま新たに祈り求めます。聖霊来てください! 私たちの心に。わがたましいを愛と喜びと平安で満たしてください。聖霊来てください! 課題の多い私たちの日常生活に、聖霊来てください!私たちの家族に、親族に、友人に、聖霊来てください!私たちの教会に、そして祈られているあの方に。聖霊来てください!この日本の国に。全世界に。すべての人に働きかけて、臨在し続けてください。
さらに、聖霊の力により、私たちがあなたの証人となって、あなたの恵み深さを現す者とさせてくださいますように。今週もあなたに期待いたします。イエス・キリストのお名前で、約束の聖霊をくださる天の父にお祈りいたします。アーメン。
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