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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/31Tペテロの手紙(16)苦しみを耐え忍ぶ Tペテロ2:18〜21
☆聖書箇所         Tペテロ2:18〜21

 18しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
19人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
20罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

☆説教       Tペテロの手紙(16)苦しみを耐え忍ぶ

Tペテロの手紙2章の18節から21節までを見ていただきました。ちょっともう一度18節から見ていきます。17節からですね。

17すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
 18しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
19人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。

私(藤本牧師)は正直、こういうみことばが一番納得できないです。
横暴な主人がいたら、すぐ労働局に相談する(笑)という、そういうタイプでありますので、そういう私がこのみことばをどういう風に読むか、今日は紹介したいと思いますので、ご一緒に見ていただきたいと思います。

1)不当な扱いを受けるこの世界

ちょっとこのペテロの手紙の流れを見ていただきたいと思いますが、いま申し上げましたこの17節は、「すべての人を敬いなさい」――「すべての人」から始まりますね。
そして18節で「しもべたちよ」と教えられています。
それから3章の1節では「妻たちよ」と教えられ、3章の7節では「夫たちよ」とこう来ますよね。
こういう風に来ますと、私は正直残念だなぁと思います。

なぜなら、パウロですと「しもべたちよ」と言って、しもべたちにある勧告を送れば、必ず「主人たちよ」と主人たちにも勧告を送るはずです。
それがペテロの手紙は「しもべたちよ」で終わっている。
主人たちには勧告がないです。

ちょっと(パウロが書いた)エペソの手紙5章の21節にこうありますね。
ちょっと私(藤本牧師)の方で読んでいきます。

エペソ5:21キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

キリストを恐れて互いに従いなさい――パウロという人物はこの互い性を非常に強調します。
ですから22節で「妻たちよ」と言った時に、25節で「夫たちよ」と来ますよね。
それから6章の1節で「子どもたちよ」と来れば、4節で「父たちよ」と来ますね。
そして、5節で「奴隷たちよ」と来れば、9節で「主人たちよ」と来ますよね。
全部ペアになっているわけですよ。
全部が互いというペアの中で、キリストを恐れて互いに従いなさい――これがパウロの教えです。

ところがペテロの手紙に行きますと、もう一回戻っていただいて、この片割れがないのです。
「しもべたちよ」と言ったままで、片割れなくして次は妻であり、夫であり。
じゃ奴隷の、しもべの片割れである主人たちに対して、ま、例えば、
ペテロがしもべに対する教えを言った後に、「主人たちよ、あなたがたも奴隷に対して同じように振る舞いなさい。脅すこともやめなさい。あなたがたは彼らと同じように、天の神という主人を持っていて、天の神さまは人を差別されることがない。社会的な立場が奴隷であれ、主人であれ――これはローマ帝国・ギリシャ帝国の話ですけれども――そういう立場であれ、神さまに不平等はないんだよ」という教えが入っていれば、私たちは少々横暴な主人にも従わなければいけないということを、どこかで納得できるわけです。

パウロはそのようにして、いつも互いを対にして完成していくのですが、おそらくエペソの教会には、教会員の中に奴隷のクリスチャンと主人のクリスチャンと両方いたのだろうということが解ります。
エペソの教会には主人の立場にいる人と、奴隷の立場にいる人がいた。

ところが、ペテロの手紙の宛先である小アジヤの教会は主人――要するに奴隷を持っていれば主人であるわけです――そういう裕福な人はいなかったのではないかと言われています。
もともとギリシャ帝国でもローマ帝国でも、戦勝国ですから植民地から大量に奴隷を連れて来ます。しもべを連れて来ます。
ローマ帝国では全体で6千万人いたという歴史的な記述があります。
もちろん、そういう風に奴隷を持っている主人の中には、善良な人もいたんですね。

ところが(Tペテロの手紙2章の)18節にありますように、

18しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく(そういう主人もいた)、横暴な主人に対しても従いなさい。

横暴な主人に対しても従いなさい――そんな主人に従えるかと思いますね。
「そんな主人に従えるか」と奴隷が百回言っても、いやそもそもそういう世界ではなかった。
つまり自分は植民地から奴隷として連れて来られ、肌の色も言葉も違い、所詮普通の自由人としては生きることができない。市民権を持ってない。
だから「そんな主人に従えるか」とは言えなかったわけでしょう?

「そんな主人に従えるか」と叫んでも、いやいや、私たちの世界はそういう世界ではないんですよ。
言うなれば、私はこの人の部下ではないか。そうでしょう?
つまりこのペテロの手紙では、奴隷と主人という風に言われていますが、必ずしもその関係だけじゃなく、主従関係が成り立つ状況に、私たち誰もが生きている。
およそ私たちはこの世界にあって、主人にがみがみ言われる方が多い。
皆さんのご家庭のご主人がそうだというわけではないですが、もうしょっちゅうご主人にがみがみ言われる、前提の中を私たちは生きています。

今はそうじゃないですよ。でも私が子どもの頃は、先生にがみがみ言われました。
いま先生は大変ですよね。モンスター・ピアレントにがみがみ言われるのですから(大笑)、がみがみ言われるこの世界は一体なんだろうかと。
部活の先輩からは不当な要求を突き付けられ、社会に出てはもっぱら会社の奴隷であるかのように、上司にこき使われ、のみならず上司に脅されるでしょう。
「こういう失敗を繰り返しているとな……」みたいなことを言われるんですね。
じゃひるがえって、「お前が若かった頃はこういう失敗はしなかったのか」とは反論したいのですけれども、それができない。
反論したいんだけれども、それをぐっと飲み込んで、やっぱり自分の上司には、
「わかりました。二度とこういう失敗をしないように気を付けます」と言わざるを得ない世界に、私たちは生きているわけですよ。

学校の先生が今の時代、モンスター・ピアレントに不当な要求を突き付けられ、そこで思い切り怒鳴ったら、話は教育委員会に行っちゃうんですよ。
ですから、それをぐっと飲み込み、あ、自分はこういう状況にあるんだな、それは自分だけでなく、ほとんどの人ががみがみ言われる側に立っているんだなということを飲み込まざるを得ない。
そうしますと、このペテロの手紙の主人と奴隷とは言わなくても、あ、同じような世界に私たちが生きているんだなぁ、ということがよくわかります。

エペソ(人へ)の手紙で、パウロは主人たちに向ってこう言いました。(***エペソ6:9)
「脅すことはやめなさい。あなたの方が立場は上であっても、神さまの前ではあなたもまたしもべと平等に扱われる、ということを忘れてはいけないよ」

でも、私たちの先生は、私たちのモンスター・ピアレントは、私たちの先輩は、私たちの上司は、エペソへの手紙を読んでないんですよ。
それが問題じゃないですか。
エペソの手紙なんて読まないですもの。
ですから先輩は先輩の横暴ぶりを遺憾なく発揮し、上司は上司の横暴さをもって、「部下を育てる」という名目で、自分のうっぷんを部下にぶちまける世界に私たちは生きているんです。
そもそも私たちを平等に扱おうなんてことは、そういう前提でこの世界は成り立っていないということを、肝に銘じておかねばいけませんよね。

そうしますと、ペテロが教える従順って、私たちにとってどういう意味があるのか、考えなければいけないことが解ります。
私たちはしもべのように、この世界を生き抜いていくんですね。

2)ペテロは最終的には、そのために「召された」と言います。

ペテロは、21節見てください。最終的にこういうことを言います。ちょっと21節、ご一緒に読みましょうか。

21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

「召されたのは、実にそのためです」――不当な苦しみを耐えるために召されたと言われると、ちょっと解せないんですが、でもその後を読んでいくと解りますよね。
あなたがたは召された。それはキリストの足跡に従うように召された。
そしてそのキリストは、あなたがたのために苦しみを受け、その苦しみを受ける、黙々と苦しみを耐え抜くという意味で、キリストは模範を残された。
召されたのは実にそのためだ。
召されたのは「不当な苦しみに忍耐するために召された」と言うよりは、召されたのは、「キリストの足跡に従うように召された」のですね。

キリストが荷われた十字架という重荷は、まことに不当でありました。
それは当時のユダヤ教の宗教指導者がねたみのゆえに、キリストを葬り去ろうとする十字架であり、ローマの極刑という厳しい刑罰、恥と苦しみに満ちた刑罰を耐えられ、それがご自身の罪のためでなく、私たちの罪を代りに背負って、というその不当性(がありました)。

でもイエス・キリストはその不当な十字架によって、私たちの罪の裁きをイエス・キリストが処分してくださる、というその神の御心を背負い、その神の御心に従順であるがゆえに、キリストは十字架を耐え抜かれた。
そして父なる神は、十字架のイエスを復活させ、その従順さのゆえに、権威の座に座らせられた。
そのイエス・キリストにあなたがたは召されているんだと。

神はキリストの十字架のみ苦しみを忘れてしまい、目を伏せておられたわけではない。
それが私たちの罪を荷う、贖う唯一の方法であることを知りつつ、あえて愛する御子にその十字架を背負わせ、でもその従順のゆえに、キリストを死者の中から復活させ、権威の座に座らせられた。
あなたがたは、そのキリストに召されたのだ。

「召される」という表現をちょっと考えていただきたいと思います。
「召される」というのは「呼ばれる」という意味です。名前を呼ばれる。
旧約聖書(***Tサムエル記3:1〜9)で、神さまが少年サムエルが神殿に寝ていた時に、神さまがサムエルの名前を呼びます。「サムエル、サムエル」。
サムエルはまだわかりませんから、急いで自分が仕えていた祭司のエリ先生の所へ行って、エリ先生に尋ねるのですね。
「先生、お呼びになりましたか?」
エリ先生は「いや、呼んでないよ」

これが何回か続くのです。何回か続くうちに、最初、エリ先生が解るのです。
「あ、これは神さまがこの少年を呼んでおられるのだ」と。
そしてサムエルに教えます。
「もし今度その呼ぶ声が聞こえたら、こう言いなさい。『ここにおります。しもべは聞いています』と答えなさい」
ここから、少年サムエルの預言者としての生涯が始まって行くのです。

どこから始まって行ったのか?
つまり――自分が神さまに呼ばれている――それに気づいた時にサムエルの預言者人生は始まって行くんです。
神さまは私の名前を呼んでおられるということに気づいた時に、私たちのクリスチャン人生は始まって行くんです。
もちろん私は神さまに関心を抱き、聖書のみことばを読み、しかしこんな私を神さまは名前を呼んで、目を留めておられるということに気づいた時に、私たちの信仰生活は始まって行くんですよね。
そしてしばらくすると、私たちは様々な声を聞くようになる。

「気づく」ということはどれくらい大切か?
例えば、キリスト教では、死んで亡くなっていくことを召天(しょうてん)と言いますでしょう?天に召すですよね。
ここでも、やっぱり、召すという言葉が使われるわけじゃないですか。

でも仮に私たちが病気で、あるいはもう治らないような病気で、自分の死期が近いんだということを感じたとしたならば、弱った肉体と共に心も弱り、たましいも弱り、やがて愛する家族に別れを告げなければいけないという現実、自分が積み上げたことを全部葬り去って、残して一人で旅立たなきゃいけないという苦痛、様々なことが一気に意識の中に飛び込んできます。

でもその時、私たちは、それ以上に目覚めなければいけない。自覚しなければいけない――それは、私は天に呼ばれているんだと。
神さまに呼ばれているんだと気がついた瞬間、私たちはお医者様にお願いするんですね、「延命処置はお断りします」と。
だって、せっかく神さまが呼んでくださっているのに、いろんなものに繋がれて、神さまのその召しを遅らせるということは、私たちにとっては不本意だと、私たちは気がつくから、(延命処置を)止めてもらうのです。

召されるということは、どんなに神さまがあなたを召しても、召されている自分に気がつかない限りは、私たちはその召しを実現するっていうことはできないですね。
すると、ペテロが言うには――学校で職場で、様々にがみがみ言われて、なんでこんな横暴な主人の下で自分は仕えているんだろうかと思った時に――「あなたは十字架を背負って、十字架のみ苦しみに耐え、最後よみがえり、権威の座に座られたイエス・キリストに召されているんだ」ということを思い出してくださいとペテロは言っているのですね。
思い出してくださいと。

ペテロは何回かイエスさまに呼ばれています。
➀一番最初は、彼がガリラヤの浜辺で網を繕っている時に、「わたしに従ってきなさい」という何とも言えない魅力に彼は惹きつけられて、彼はイエスさまに従うようになります。(***マルコ1:16〜18)

Aしかしやがて、エルサレムに入る前、ピリポ・カイザリヤで、イエスさまがご自分の十字架と復活のことを予告されます。(***マルコ8:34)
その時イエスさまは、弟子たちと群集を改めて呼び寄せて――ペテロもその中にいました――仰います。
「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負ってついて来なさい」と。
ペテロはその時はその意味が解りませんでした。
「わたしはあなたに声をかける。でも覚えておきなさい。わたしは十字架を負うと。だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てよ。自分の十字架を負わずについて来ることはできない」と(いう難しい呼びかけでした)。

B三回目は、キリストが復活され、でもペテロはキリストが十字架にかかる前、イエス・キリストを知らないと三度否んでいますよね。
食事が終わってからでしたか、イエスさまはペテロに尋ねます(***ヨハネ21:15〜19)
「あなたはわたしを愛するか」と、三度否んだペテロに、三度尋ねます。
そして最後にイエスさまが仰った言葉が、「わたしに従ってきなさい」
それからず〜っとペテロは、イエスさまに従う意味を考えながら生きていた。

私たちが、キリスト者の人生を送って行くときに、イエス・キリストに召していただいた、イエス・キリストが私に目を留め、私の名を呼び、私はこの方に召されたということの意味を一生涯かけて考えるのですよ。
そして自分の人生の様々な場所で、様々な曲がり角で、改めて主は私に声をかけてくださる――「わたしに従ってきなさい」と。
で、その時に改めて、この方がどういうお方であったのか?
神のみを信頼し、十字架の苦しみ、不当な扱いを耐え抜き、しかし神によって復活の恵みにあずかり、やがて権威の座に座る事ができたこの方。
私はこの方に召されているんだということを自覚する。
ペテロはそう自覚しなさいと(言う)。

もちろん、あなた方が主人であるならば、神の前に平等だということを考えて、そんなにがみがみ、がみがみと人をこき使うな。
でも私たちはみんな、実はしもべなんですね、この世にあっては。
どこかで不当な扱いを受け、どこかで人にいいようにされ、でもそんな時に謙虚に遜った姿勢で、召された方のことを思ってご覧なさいと、ペテロはここで言っているんですね。

この方は、イエス・キリストは、最後まで苦しみを耐え忍ばれただけではなく、イエス・キリストは、自分を十字架にかけた人々を愛して赦してくださいました。
不当な扱いをしている人間、その相手を、不当な扱いに耐えるのみならず、その人物を愛しゆるされた。
そのことを実はペテロは知っている。
ゆるし、耐えるだけでない。その方のように、私たちは、自分に不当な苦しみを与える人物を赦すんですね。
22節(〜23節)に――

22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

というのは、(イエス・キリストは父なる)神にすべてをお任せになった。
そしてその神は、キリストを死の中に捨て置かず、キリストを復活させられたんです。

もし耐えるなら、不当な扱いに耐えるなら、十字架の模範に倣っている自分を自覚し、こんな人、到底愛せないと思いながらも、キリストはこういう人をも愛され、ゆるされたんだということを思い出し、ああ、この人つくづく嫌な奴だなぁと考えながら許してあげるといいです(大笑)。

あのねぇ、尊敬しながら許すっていうのは、ちょっと難しい。
ペテロは尊敬しなさい(***Tペテロ2:18)って書いてありますけど、これは実践してみると、それは無理があると私(藤本牧師)は思う。
つくづく嫌な奴だなぁと、思いながら許してあげたらいい。
それは私たちもまた、つくづく嫌な部分を持っているわけですからね。
そして反面教師ではないですけれども、自分はこういう人にはならないぞと、この人を教訓として、自分はこういう人にはなりたくないと思いながら、イエス・キリストに召されていることを、(それゆえにキリストの模範に倣っていることを)思えばいいのではないでしょうか。

マルチン・ルーサー・キング牧師のことばを引用して終わりにします。
ちょっと長いですが、読みますから聞いてください。

 「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。
 どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。
 なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。
 
 私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。辛いことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。
 
 真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。
 
 国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。
 
 しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。」
                
「きっとあなたがたをも勝ち取る」というのは、あなたがたを友として勝ち取るという意味です。
そのことを、「苦しみに耐える能力」によって実現していくと言うのが、黒人解放運動にいのちを捧げたマルチン・ルーサー・キング牧師の言葉でありました。
彼がこのように語ることができるのは、イエス・キリストに召されていたからですよね。

イエス・キリストは不当な十字架を背負いつつ、人々の敵意、罪を身に受け、しかし父なる神は彼をよみがえらせ、キリストを権威の座に着かせられた。
私たちが不当な苦しみに耐えることは、決して無意味なことではない。
いつの日か私たちは必ず勝利を得る、と確信をもって語ることができたのは、父なる神さまが主イエスを死者の中から復活させ、死の力にも勝利していてくださることを知っていたからです。

心して、がみがみ何かを人に言うような人間にはなりたくない。
なぜなら、そういう反面教師は私たちの周りに腐るほどいるからです。
そしてそういう人たちは、そもそも人間はみな神の前に平等だということは全く知らないし、関心もない。
ただひたすら自分のわがままゆえに、私たちに無理な要求を突き付けてくる。
そして私たちは、立場上その無理な要求を飲まざるを得ないことが、往々にしてある。

つくづく嫌な奴だなぁと思いながらも――
そうだ、私はイエス・キリストによって召されている。
そのイエス・キリストは十字架を耐え忍び、権威の座に着かれた方であって、私のこの耐え忍んでいる姿を見ておられる――(と気づいていれば)、
耐え忍ぶ力によって、彼をやがて友として勝ち取ることができる。

辛いことが多い。そして私たちは辛い状況の中にある人のためにいつも祈っています。神さまがその状況を変えてくださるように。
そして本当に潰れそうになったら、逃げ出せばいいです。潰れるまで我慢する必要はない。
でも私たちはどこかで、キリストに従っている者として、忍耐、許す、愛する力をいただこうではありませんか。

☆お祈り

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(Tペテロ2:21)


恵み深い天の父なる神さま、ペテロが住んでいたこの世界と今の世界とあまり変わりのないことかもしれません。横暴な主人が、不当な苦しみが私たちを取り囲んでいます。

でもあなたは「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、のみならず、横暴な主人に対しても従いなさい」と(ペテロを通して、Tペテロ2:17〜18で言われます)。なぜならキリストはそのようにされ、なぜなら父なる神は、そのキリストに復活の力を与え、権威を授けられたからです。

主よ、どうか私たちに耐え抜く力をお与えください。そしてどうか状況をひっくり返して、私たちに自由を得させてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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