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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/7 Tペテロの手紙(17)たましいの牧者 Tペテロ2:22〜25
☆聖書箇所       Tペテロ2:22〜25

22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

☆説教     Tペテロの手紙(17)たましいの牧者

ずっとペテロの手紙の第一を学んで、今日はその17回目。
2章の22節からです。
前回は18節から始まる「しもべたちよ」という所から見ました。
ちょっと思い出していただきたいです。
「しもべたちよ」というのは、当時のギリシャの社会における、いわば奴隷身分の人々に対する言葉で、「奴隷身分のあなたがたは主人に服従しなさい」と、18節「しもべたちよ。尊敬の心を込めて、主人に服従しなさい」と(ペテロは言うのです)。

そうしますと、こういう話をしました。
仮にパウロなら、必ずこういう時には、互いに従うという言葉が出て来て、妻と言えば夫、子どもと言えば親、当然奴隷と言えば次は主人となるのですが、ところがペテロのこの手紙には、実は後に、妻と夫は出て来ます。
でも実際には、ここでは奴隷しか出て来ない。
主人に対する教えがないんですね。

それは前回申し上げましたように、奴隷を持っているような裕福な主人と呼べるような人々はこの小アジヤの教会にはいなかったのかもしれない。
でもそればかりではなく、主人の教えがないというのは、とっても意味があるんじゃないかという話をしました。
なぜなら、そもそも私たちはみなしもべなんですね。
ここで奴隷が経験する不当な苦しみ、あるいは服従を強いられる状況が非常に多いという話をしました。

子どもの頃から先輩の不当な要求に従い、兄弟の不当な要求に従い、上司の不当な扱いに耐え、私たちは自分の上にいる人の考え方がどんなに違おうと、自分の上にいるがゆえに、それに仕えなければいけないということが多々ある。

そしてペテロはキリストの模範を私たちに示し、21節で――

21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

というのは、黙々と十字架という、その不当な扱いを耐えられたキリストを模範に、その足跡に従うようにしなさいと(勧めるのです)。
それは神を信頼して、不当な事柄に忍耐して、最後は復活され、栄光へと登られるキリストの姿を模範として、ペテロはプっと持って来たのです。

今日は改めて、ペテロがプッと持って来たこのキリストの模範、キリストの姿を考えていただきたいので、22節からお話します。

ちょっと読ませてください。22節から――

22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

こうあります。ここから簡単に3つお話します。

1)いま読みましたのはほとんどがイザヤ書53章からの引用です。

22節の「罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見いだされませんでした」というのは、、イザヤ書53章9節の「その口には欺きがなく」という言葉の引用です。

23節の「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」というのは、イザヤ書53章7節の「彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」の引用です。

それから24節で「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」というのは、イザヤ書53章12節の「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」の引用です。

で、一番有名なのは、24節の最後「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」というのは、イザヤ書では「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)という言葉の引用です。

そして、先程は読みませんでしたけれども、25節の「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが」というのは、(イザヤ書)53章の6節「羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」の引用です。

こういうことなんです。
ペテロは、ま、聖書から引用していますが、彼が引用している聖書というのは、旧約聖書しか持っていないです。
新約聖書もできていないですから。
特に彼はイエスさまが最も使われたであろうと言われるイザヤ書から引用しています。
そしてイエス・キリストの十字架の予告であると言われる53章から引用してくるということは、一体どういう意味があるんだろうか?と考えてみたら不思議なのです。

なぜかと言うと、ペテロは旧約聖書以上に、イエスさまと過ごした3年半のことを知っていたはずです。
イエスさまのことを語るなら、別に旧約聖書を持って来なくてもよい。
ペテロはイエスさまのことばを聞き、その目でイエスさまの奇跡を見、イエスさまと共に生活をし、イエスさまと共に働いたチームです。
最後のゴルゴタの十字架までペテロはいませんでした。
でもその時のことは、友人のヨハネから隅から隅まで聞いたはずです。
つまりイエスさまの忍耐の足跡については、実は旧約聖書どころではない。
ペテロは一番よく知っているのですね。

でもそれを説き明かそうとしたときに、彼はあえて自分の頭の中にある神の言葉である聖書――それは旧約聖書なんですけれども――神の言葉の引用をもって説明しようとする姿勢は、皆さんがこれから証しを書くときにとっても大切だということを、最初のポイントにさせてほしいと思います。

つまり、ペテロが少なくとも神の言葉であると疑わない、旧約聖書を引用してくるのはこういうことです。
自分が語る言葉よりはるかに意味があると彼が思っていたからですよ。
自分のその目で見てその耳で聞いて、体験してきた以上に神の言葉を引用することの方がはるかに意味がある、と彼は思ったのですね。
私たちは自分の人生については自分が誰よりも知っています、神さまよりも知っています、と思っています。
自分の確信を、自分の信仰を、自分の体験を、自分の言葉で表現するというのを、私たちは証しというのですけれども、どこかで聖書のことばを引用しますでしょ。一番最初か一番最後にくっつけますでしょ。
そこにはもしかしたら、陳腐な発想があるかもしれない。
つまりある意味で、自分のつまらない証しに、何となく信仰的なフレーバーを付ける(笑)ためには、神の言葉を添えておいた方がいいんじゃないかというような陳腐な発想があるかもしれない。
でも、私(藤本牧師)はそれは陳腐な発想ではないということを言いたい。

自分がどんなに綿密に組み立てた論理や表現よりも、神の言葉をそこに抱き合わせることによって、神の言葉が持っている真理の世界の中に、私のちっぽけな体験が吸収されていく、ということの方がはるかに意味がある。
ペテロは自分の目で自分の耳で、イエス・キリストをじっと見てきた。
しかし、いざイエス・キリストのその忍耐を極めた十字架を説明しようとした時に、彼はそうだ、神の言葉を引用しよう、そう思った。
所詮、私たちのどんな表現や論理展開も、神さまの言葉にはかなわない、ということを私たちは知っているのです。
自分のつまらない証しを少しでも立派にさせるためにみことばを引用するというのは、表面的なものの言い方で、もう少し深いものの言い方をすれば、私の書くどんな言葉よりも、一つのみことばの方が真理を語る。

皆さんが証しを書かれた時に、じゃ、そこにどんなみことばを添えたらいいのかわからないというのであれば、ぜひ相談してください。
私も考えますよ。一緒に考えてみます。ヒントのいくつかは差し上げられると思います。
自分の人生を神さまのみことばの上に載せておくということは、それはものすごく意味がある。
聖書のみことばを全部読んだことがない――そりゃそうでしょう。
私もしょっちゅう忘れます。
でも祈って読んでいく内に、あ、まさにこれだなぁというみことばに来ることがあると思います。
そういうことを兄弟姉妹、ご友人、家族に相談してご覧になるといいんじゃないかなぁと思いますね。

例えば私たちが、いろんな試練にぶつかりながら、それを乗り越えていき、いや乗り越えられずに果たして耐えられるかと思い、時の経過とともに、試練の波風が少しおさまった頃に、私たちはロマ書8章(28節)のみことば「神を愛する人々のためには、神はすべてのことを相働かせて益としてくださるのです」というみことばを思い出すわけでしょう。

すると自分の人生の細かな、これとこれとのパズルが合わない、自分が計画していたことに全然邪魔が入ってしまったというような出来事が、一つのみことばの中の真理に、すぅっとこう入って行くわけですよ。
神さまは私の人生のパズルを合わせて、最終的には私の益としてくださるために計っておられた、と。

聖書のみことばというのは、私たちの人生のさまざまな出来事を全部吸収して、神のドラマとして築き上げていく力を持っているのですよ。
私たちは証しの中で、単純にある断片を少しドラマチックに、意味ありげに書くかもしれませんけれども、それが俄然このペテロの言葉のような働きに変わって行くということをぜひ覚えておいていただきたいと思いますね。

2)そのようにしてペテロが見出したキリストの姿はどんな姿だったのか?

20節に「耐え忍ぶ」という言葉がありますでしょう。十字架、苦難を耐え忍ばれたイエスさま。
23節に「ののしられても、ののしり返さず」――これはほふり場に引かれていく羊のように、黙々と耐えて私たちの罪を荷っておられるイエスさまの姿ですよね。
そして罪を犯されなかった方が、自分の罪ではなく、私たちのそしてペテロの罪を背負って十字架にかかられた、そのお姿をペテロは書きますよね。

で、なんとペテロは、イエスさまの傷に触れるんですよね。24節――

24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

有〜名な言葉です。イザヤ書の引用ですけれども、有名なことばです。

ペテロという人物は、イエス・キリストを裏切り、しかし復活されたイエス・キリストは何度かペテロに出会っているのです。
何度も出会っています。
その度ごとに彼は一つ、以前とは違ったイエス・キリストの姿を見つけています。
それは言うまでもなく、両手、両足、わき腹にできた傷ですね。
その傷を見る度に、いまお会いしているイエス・キリストは以前のイエス・キリストとは違う。
あの苦難を耐え抜かれた、私の罪を背負われた、十字架にお掛かりになったイエス・キリストだということを彼は自覚するわけですね。

ある時、食事をしていました(***ヨハネ21章)。
食事が終わったら、イエスさまがペテロに三回、「わたしを愛するか」「わたしを愛するか」「わたしを愛するか」と尋ねられている間、ペテロの目はそのイエスさまの十字架の傷から離れることはないです。
そして思ったんです――自分は三度イエスさまを否んだ。「こんな奴は知らない」と3度イエスさまを否んだ。でもイエスさまは三度私に「あなたは、わたしを愛するか」と尋ね、イエスさまご自身の愛を示してくださった。ああ、この方の傷によって、私の罪は赦されたのだ。

この方の傷によって、十字架によって、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」というのが、イザヤ書(53:5)の表現ですが、「彼への懲らしめ」というのは、その極刑の十字架を受けたキリストというのは、まさに、罪と死の奴隷として売られていた私たちを連れ戻すために、買い戻すために、神さまがご計画になった贖いのみわざだったんですけれども、それを完成させるためにも、イエスさまは十字架を荷われ、それによって、自分は赦されたのだ。あ、この傷というのは私のためにあったのだということをペテロは経験するのですね。

ペテロが味わったのは、ここでは「いやされた」(24節)ということばを使っています。
イザヤ書では「平安を受けた」(53:5)という言葉を使っています。
打ち傷によっていやされるというのは奇妙な言い方でありますが、それはある意味で、キリストの傷は私の傷との交換であった(ということです。)
心に受けた傷もあるでしょう。身体に受けた傷もあるし、人生そのものに刻んでしまわれた傷もあります。
それらの傷すべてを、イエス・キリストの十字架は私に変わって荷ってくださったのだと(ペテロは教えているのです)。

ペテロのそもそもの話は、しもべが横暴な主人に耐えるという、そんな話だったのです。
しもべに対するメッセージで――あなたがたは横暴なことを言う主人にも仕えていきなさいよ。そういうへくだった姿勢をイエスさまは取られ、それはあなたがたの模範ですよ――ということを話していたのですね。
でもいつの間にか、イエスさまの十字架によって罪赦され、救われ、平安を与えていただいた、という所に話が行ってしますのです。

私たちが書く文章とか、語る話というのは、こういう感じかなと思いますね。
つまり何を語ろうが何を書こうが、最終的にはただの大切な一点に帰結していく。
その一点に帰結していく自分というのは、ただの死を前にして初めて分かるんだと思う。
自分の人生ではまさに様々なことがあったけれども、今ここで振り返ってみると、すべてがこの時のためにある、罪赦されて、天の御国に召されていく、この平安のためにあるんだということに、私たちは気づくんだろうと思います。

皆さんが証しを書かれるときに、そこにはいろんなことを書くと思うんです。一度書いてぱっと出さないで、一度書いたら二度書いてご覧になったらいいと思います。
それがどんな小さな話であれ、この方の打ち傷によって私はいやされた、という味わいは、必ず自分の内側に出て来ます。
証しというのは、ある意味で、人に読んでもらうために書きます。
でもそれは自分のために書いているんですよ。

自分の中で自分の味わった、時に苦々しい体験、悲しみ、喜び、不思議な出来事、それがいったい神さまのその摂理の中でどういう位置づけをしていたのだろうか、と考えながらきっと皆さんは書くと思いますよ。
さらっと書いて、もう一回読んでみたら、じゃ、これって、いったい自分の人生でどういう意味があったのだろうかと、もう一回読んでみると思いますね。
そして読んでいる内に、読んでいる内に、ああ、自分の人生は彼の打ち傷によってことごとく癒されてきた人生なのだなぁということに気が付かれるんじゃないでしょうか?

3)ペテロは興味深い言葉を残します。

25節は一緒に読んでみましょう。

25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

これもイザヤ書の53章の6節の引用です。

25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

自分のたましいの牧者に、付き添われる身となった。
開きませんけれども、イザヤ書40章の11節に、神さまを羊飼いに例えた文章があります。ずっと読んでいきますね。

イザヤ40:11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

イメージは、捕囚に捕られていた人々が、一斉に故郷のイスラエルにバビロンから、何百キロの旅路を帰って行くのです。
そこにはおじいさんもおばあさんもいれば、もしかしたら一番大変なのは、やっぱり母乳を飲ませている親子だろうと思います。
母乳を飲ませる親子がいたら大変ですね。

私(藤本牧師)、教会員のみなさんで赤ちゃんができて、そして病院に行きますと、時には看護婦さんがとっても母乳にこだわって、母乳母乳と仰る方がいらっしゃるのですが、こそっと耳元で「ボトルも使っておいた方がいいよ。ボトルは便利だからね。母乳にこだわってしまったら、夜中起きてしまったら、全部お母さんが母乳だから……、もしボトルだったら、ねぇ、おばあちゃんに変わってもらうとか、お父さんに変わってもらうとか、ま、母乳は持ちがいいしね。母乳には大切な成分も入っていると思うけど、半々ぐらいがいいんじゃないの」と私はいつも言うんですよね。

乳を飲ませている小さな赤ちゃんと母親というのは、もしかしたらその群れの中で一番大変かもしれない。
何をするにも誰かが付き添って、ま、一番最後の方を行くんでしょうね。
つまり団体で行動する時に、一番誰がお荷物になるかといえば、乳を飲ませる母親と赤ちゃんですね。
神さまは私は羊飼いで、そういう子羊を引き寄せて、ふところに抱くと。わたしが抱っこしてあげると(仰る)。
そして出産間もない母親の羊は、わたしが優しく導くと。(***イザヤ40:11)

ペテロが描いているたましいの牧者監督者というのは、こういう優しさをもって私たちを見守っているイエスさまですよ。
ペテロはこの方に導かれて、この方の足跡をついて行くんですね。

私(藤本牧師)はこう考えます。
前回、今回ペテロが記していることは、イエスさまの足跡とか、イエスさまの模範とか、「イエスさまはののしられても、ののしり返さず」とか、イエスさまの十字架とか、イエスさまの打たれた傷とか、そう記しているペテロは、もしかしたら自分の最後を意識していたんじゃないだろうか?

あのヨハネの福音書の最後(***21:18〜19)で、復活のイエスさまが最後ペテロに仰ったことは、
「あなたは若かったときには自分で帯を締め、自分の好きなところへ行きます。しかし、歳を取ったら、他の人があなたに帯を締め、あなたの行きたくないところにあなたを連れて行きます」
――そう言って、イエス・キリストは、ペテロの死において、最後どのように栄光を現すかを示された。

伝説によりますと、ペテロはローマで殉教します。
ローマで殉教したというのは確かです。
ですからカトリック総本山の、あのバチカンの教会は聖ペテロ教会で、聖ペテロ教会の建物の中心部分にペテロの墓があると言われています。
伝説によりますと、十字架に掛かるときに、ペテロはローマの兵士に言いました。
「自分はイエスさまに申し訳ないことをした。だから、私の十字架は、(私を)逆さまに磔(はりつけ)てくれ」と。
で、有名な「逆さ磔」という言葉が生まれるわけですよ。

もしかしたら、ペテロはこの手紙を書いた時点で、すでにもしかしたら「イエスさまの足跡を行く」というのは、最後にどういうことなのか、(意識し始めていたのではないかと思われます)。

つまり、しもべが横柄な主人の言うことに従うとか、そんなことじゃない。
私たちが横柄な上司の、その無理な注文に応えるとか、そんなことじゃない。
もう自分の人生はそれよりかはるか上に行ってしまって、私は当時若い頃に学んだ従順の精神というものを、これから先徹底的に学ばさせられるのだ。

それは苦しい道であって、(それがイエスさまの足跡、模範であり、)それでも、自分の罪深さゆえに十字架に掛かってくださったイエスさま(の打ち傷によって、自分は癒され、)最後の最後までたましいの牧者として、私に連れ添い、そして殉教する最後の一歩まで、イエス・キリストの足跡を行かせてくださる、(ということを自分に言い聞かせているのではないか、と)。

ヘレン・ローズベリーというイギリスの女性宣教師がいます。
ケンブリッジ大学で外科医になり、アフリカのコンゴで宣教師になって、病院を建てた人です。
少し前に亡くなりました。
      
この方の経験というのは、何とも言えない。
宣教師の中でも、ヘレン・ローズベリーの右に出る人はいないと言われるほど。

この罪のない、愛にあふれた女性は、コンゴでお医者さんが一つもない場所を選ぶのですね。
そこで小さなクリニックを始め、やがて病院を建てるんですけれども、コンゴの革命に巻き込まれて、虐待され、レイプされ、投獄されるのです。
最後、その虐待され、レイプされ、投獄されていく中で、イエス・キリストとの体験を深めていくのですね。

彼女の証しには、その壮絶な体験が書いてあるんです。
その壮絶な体験の中で、ヘレン・ローズベリーはイエスさまの声を聞くんです。
それは、壮絶な体験、身を震わせる体験の中でイエスさまは彼女に尋ねる。
その尋ねる質問というのは、おそらく、ペテロも聞いたんだろうと思います。
そして私たちも同じように聞くんだろうと思います。

イエスさまはヘレンに尋ねた。
「ヘレン、この壮絶な経験をあなたにゆだねたことで、あなたはわたしに感謝できるか?
たとえ、その理由をわたしがあなたに話さないとしても、感謝できるか?」

私たちはどこかで聞くんだと思うのです。
ぜひ聞くような機会がないようにと、私たちはもちろん祈りますよ。
でも、とてつもない試練を味わった時に、
「この壮絶な体験をあなたに委ねたことで、藤本、あなたはなおも、わたしに感謝できるか?
たとえ、その理由をわたしがあなたに話さないとしても、わたしに感謝できるか?」(と仰る主の声を聞くんだと思います)。

私たちの祈りは――どうかそういう体験を私から遠ざけてください――当然、私たちの祈りです。
でもそういう体験になったら――主よ、どうか、その問いかけの言葉を私にも聞かせてください。(その答をすぐに出せないかもしれませんが。)
全くの沈黙ではなくして、その壮絶な体験の中で苦しんで(いる私の傍で)、イエスさま、どうか私にも同じ問いかけを与えてください。

「あなたはわたしに感謝できるか?
たとえ、その理由をわたしがあなたに話さないとしても、感謝できるか?」

どうか私にも尋ねてください、その質問を。
なぜなら、私はあなたへの信頼を絶対に捨てませんから。
どんなことがあっても絶対に捨てませんから、私の信頼の思いをより確かなものとするために、私にその質問を問いかけてください。
私のたましいの牧者、監督者であるイエスさま、何があっても私をあなたの足跡の最後の一歩まで行かせてください。

というペテロの思いが、今日読んだところから伝わって来るような気がいたします。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、ペテロは若い時にすでに、自分の最後がどうなるのか、イエスさまから告知されていました。
私たちは、そうでなかったとしても、自分の最後に体験するところのぐらいの苦しみを知っているつもりであります。のみならず、それを前にして、様々な試練が、とてつもない惨劇が、私の上にやってくるということも、想定しています。
ですからあなたがヘレン・ローズベリー先生をくぐらせた、とてつもない惨劇の中で、
「たとえその理由をわたしがあなたに話さないとしても、その惨劇をあなたに与えたわたしに感謝できるか?わたしを信頼しているか?それでも信頼できるか?」
と、辛いときであればあるほど、私のたましいに問いかけてください。

そして私が信仰をもって、「主よ、私はいつでも絶対的な信頼を捨てません」(と答えることができますように)。(あなたへの信頼が)揺るぎそうになった時に、たましいの牧者であるイエスさま、監督者であるイエスさま、どうか私を見守っていてくださり、強めてくださり、最後まであなたの足跡を歩ませてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2014.09.08 - 20:41

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