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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/5洗礼式・聖餐式:初めの愛を覚える 黙示録2:1〜7
☆聖書箇所     黙示録2:1〜7

1エペソにある教会の御使いに書き送れ。
 『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
6しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
7耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

☆説教    初めの愛を覚える

ヨハネの黙示録の1章9節を見てください。すべてはここから始まって行きます。1章の9節に――

9私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

エーゲ海の島に島流しになって、迫害に遭っているヨハネにイエスさまは語りかけます。10節――

10私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

とイエスさまの声を聞きます。
2章の1節をごらんください。

1エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。

というのは、七つの教会の間をゆき廻る方がこう言われる。エペソの教会に対して、イエスさまはこう仰いました。

2「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

エペソの教会に対してイエスさまが仰ったことのまず第一番目は、
イエスさまはこの教会を知っている。そのすばらしさをよく見ておられる。

1)わたしはあなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている

誰かに知られているということは尊いことです。
逆にイエスさまの目から隠されていて、私たちの行いも、私たちの労苦も、私たちのがまんも、私たちになされた批判も、私たちの悲しみも、イエスさまは知っておられないというのは最悪です。
終わりの日に、「主よ、主よ」と呼ぶ者誰もが神の国に入る訳ではない、とイエスさまは仰いました(***マタイ7:21)。
主よ、主よと叫びながら、神の国の門を叩くときに、内側から声が聞こえてくるんですね――「わたしはあなたのことを全然知らない」(7:23)
これはイエスさまが仰った非常に残酷な言葉の一つだなぁと思います。

「口では神さま、神さまと言いながら、心では全く神さまを神さまとせず、そのみことばに耳を傾けることもなく、ただ単純に神さま、神さまと言って来た者、どんなに神の国の門を叩いたとしても、わたしはあなたのことを全然知らない」
「いや、全然知らないっていうことはないんじゃないですか。イエスさま、あなたは知っておられるんでしょう?」
全然知らないっていうのは、こういう意味です――あなたはこの祝福には絶対に入れないという意味です。

私たちはいろんなことをイエスさまに祈ります。何でも祈ります。
なぜそうするのか?――それはイエスさまが知っていてくださるならば、イエスさまの恵みから漏れることはない、ということを知っているからですよね。

昔、皆さんに話したことがあるんですが、インドの神学校に100万円の献金を持っていくということを託され、理事会に出かけて行ったんですね。
100万円は小切手なんですけれども、それはインドの神学校の年間の予算の約25%を埋める大切な大切な小切手なのでした。

タイの空港で、バンコクの空港で一回降りて、私はタイの教会で奉仕をして、しこたまマッサージを受け、こりゃもうインドに入ったら終わりだ、もう苦痛しか待っていないわけですから、ともかくマッサージ漬けになって、そして私は空港の中に入ってチェックインをして、自分のカバンだけを持って、そして一回家に電話をしようと思って電話をした。

クレジットカードで電話ができる電話がある、使ったことがないので一回やってみようと思って、いくらやってもうまくいかないんですね。
それであきらめて、ゲートに戻ってふと気が付いた――カバンを忘れてきた。戻ってみたらないんですよ。

何が問題かというと、カバンの中に帰りの航空券も入っているんですよ。
全部入っているんですよ。パスポートも入っているんですよ。
私はそこら中汗だくになって走り、そして遺失物届け場所はいったいどこかって訊いたら、それはゲートというか、コントロールの外だ(と言う)。

交渉してコントロールの外に出していただいて、そんなものは届いていない。
もう一時間ぐらい走り回って、汗だくで、途中でペットボトルを買って喉を潤して走り、とうとう出てきた。
それは電話ボックスの前の主人が預かっていてくれたのでした。(あぁ、よかったと一同胸をなでおろす)。

私(藤本牧師)、いろんな人に、カバン見てない?見てない?あの中にパスポートとチケットが入っているんだと(訊いて回りました)。
みんな見てない、見てない。中には心配してくれる人がいて、それでそれはチェックインカウンターに預けた荷物なのか?――預けていない。
そしたら返って来る答えは――“That’s too bad”それは残念だね(笑)――それでおしまいです。

「カウンターに預けた荷物は、たといそれが失われても、世界中を巡って3日後に必ず帰って来る。それは飛行機会社が、意地でもなくなった荷物が戻ってくるように世界中を捜してくれる。でも預けていない荷物は全部君の責任だよ。君がなくしたならばどうしようもないんじゃない」
と、私には何とも冷たい答えに聞こえましたけれども(笑)、その人物は単なる常識を言っているんですよね。

神さまというカウンターに預けるということは、要するに祈ることです。
私たちはね、祈った答えが答えられるか答えられないかだけの判断でしか、物事を考えていないんですが、実はそうではない。
祈るってことは神さまにお託しするという意味です。
神さまって方は託された者に対して、「わたしはそんなことは全然知らない」とは仰らない。
いや、「あの時、私は心からこの問題に対して、あなたに祈り続けました」といった問題に対して、「そんなこと全然聞いてない」と言うはずがないです。
だから私たちはすべてのことをイエスさまに話すんですね。
それは罪深い事でもイエスさまに話すんです。
それはイエスさまが聞いていてくだされば、この方はどこかで必ず私を正してくださり、私に憐れみを施してくださる、ということを私たちは心から信じているからです。

エペソの教会は、イエスさまにほめていただいています。
2節の中盤から――

2……また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

ということは、霊的な洞察力を持って偽預言者を見抜いた。6節に――

6しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

ニコライ派というのは、当時の世界の異端ですね。
恐らく世俗主義だろうと言われています。
彼らには霊的な洞察力があって、偽預言者を見抜いて追い出すこともでき、異教社会エペソにあって――エペソは東西南北交通の要所ですから――そこにはアルテミスの神殿という、もう巨大な女神の神殿があり、偶像崇拝のアジアの中心点だった。
その中にあった教会は、いかにして信仰の純粋さを保つかということに苦慮してまいりました。

イエスさまはそれらの苦労を全部知っていると。3節に――

3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

きっと疲れたことはあったに違いないと思います。
でもそのたび毎に、イエスさまに祈り、忍耐力を与えていただき、一旦転んでももう一回起き上がり、最後までイエスさまについて行こうというその志、まじめな信仰をエペソの教会の人々は貫いていたんですね。

2)しかし4節に、イエスさまは非常に強烈なことばを、とっても単純に仰います。

4しかし、あなたには非難すべきことがある。……

これをあまり厳しく捉えないでください。
イエスさまは必ず私たちを愛しておられる方であるならば、非難をすべきことを正してくださるお方です。
逆に言うならば、あなたには非難すべきことが何一つないということはあり得ないでしょう。あり得ないですよ。
イエスさまは必ず私たちに何か教えてくださるというのは、私たちの弱さや、私たちの足りなさや、私たちの傲慢さを必ず教えてくださる。
そして今回エペソの方々が指摘されたのは、「あなたは、初めの愛から離れてしまった。」(4節)

信仰的な洞察力もある。何が正しい教えで何が正しくないかを見極めることができる。世の中とは妥協しない。忍耐してふんばる。
でもイエスさまはあなたに言うべきことがある――それはとっても大切な問題で、それは愛ということの問題でありました。

愛が足りないというのか?愛を失ったというのか?
すごく象徴的な言い方で、「初めの愛から離れてしまった」というのは、とても象徴的な言い方です。
単なる愛ではない。初めの愛です。それは恐らく新鮮な愛です。
それを思い出しますと、新しい力をもって、今の現実の課題を乗り切る力になる――そういう初めの愛を忘れてしまった。

今年とても暑い日が続きましたよね、8月に。
涼しくなってから夏の疲れが出ないように気をつけていただきたいと思いますが、私(藤本牧師)は、8月の第3週ぐらいだったと思うんですね。第1週だったかもしれません。
日曜日の礼拝が終わって、そして月曜日に関西の方に出かけ、そして月曜日の夜から水曜日のお昼まで聖会がありました。
すぐに新幹線に乗って、夕方の五時半ごろ帰って来て、さぁこれから祈祷会だというところで、本当に暑さにやられてしまって、私はこりゃあ、無理だなぁと思いました。
私(藤本牧師)は(妻の)圭子に「今日はいくらなんでも無理だ。閉店ガラガラ、臨時休業って札を出しても誰も怒んないんじゃない?」
圭子は、そんなことばかり言って、という顔をしていましたけれども。

私はごろっと横になって、「ね、人生でこれまで一番暑かったと思う夏はどんな夏だったの?」って訊いたんです。
ま、確かに昔37度が連続した夏ってありましたよね。
あの年、わが家の冷蔵庫が壊れたんです(笑)。
壊れたことに気づくまでちょっと時間がかかり、それは確かにあの夏は暑かったですね。
もっと手繰って考えますと、私は高校生の受験の年、まだクーラーがなくてバケツに水を入れて、そこに足をつっこんで勉強していたあの夏も暑かったなぁと思います。
圭子が言った、一番暑かった夏は、直樹がケンタッキーで生まれた夏。
あれは32年前ですね。あのときはやはり一番暑かったですね。
(私、藤本牧師は)5月の終わりに神学校を卒業して、(圭子夫人は)7月に出産して3日後、もう一回入院したんです。
で、私は生後三日の直樹を腕に持って、(ベビーを腕に抱える仕草で)これを一体どうすりゃいいんだ(大笑)という、もう何とも言えない絶望感(大笑い)ですね。
母親は生まれたばかりの子どもを、手に抱けない悲しさというものを味わっていました。
それでも、8月の終わりには引っ越しをしなければいけない。
ですから8月は引越しの準備をして、8月の最後には、家財道具をトレーラーに入れて、2日かけて東海岸まで引っ張って行くんです。
で、圭子は2か月の直樹を連れて、飛行機で9月の1日だったかな、ニュージャージーに到着した、あの夏は厳しかった。
ものすっごく暑かったですね。
そして今から振り返っても、よく乗り越えられたなと思うと、感慨深げに私が横になっていますと、圭子が
「はい(と元気よく)、あの夏を考えたら、今晩の祈祷会はできるでしょう」(大笑)
私はそういう落ちが来るとは思いませんでしたね(大笑)。

あの夏を考えたら、今日のこの厳しい暑さも乗り切れる。
皆さんも同じようなのがあるでしょう。同じようなのがあるんです。
それは夫婦で経験した、ま、異国で出産し、厳しい夏を越え、なおかつ引っ越しということを体験したあの疲労ということもあれば、それは夫婦の愛情もあれば、それは初めての愛、初めての苦労、初めての何とかというのが全部いっしょになってるんですね。
それは忘れない。そしてそれを思い出すと、人生の年限と沢山の他の思い出が積み重なって、初めの愛ははるかに大きな力を発する。

私はよく結婚式の時に申します。
結婚式というのは、英語で言うとeternal moment永遠を一コマ区切ったもの。
そこに永遠に至るすばらしさというものが凝縮されている。
私たちがもし結婚式を、一生、日々、生きることができたら、これほどすばらしい人生はない。
だからその永遠という一瞬を切り取ろうとして、皆がカメラを構え、あるいはビデオを回しという(ことをする)。

初めの愛は、まだ何も知らない素朴な純粋な、でも未熟な愛ではない。
洗礼の日というのは、それはもちろんクリスチャンの信仰としては、まだ様々な試練を通っていない素朴なものでしょう。
でも、実は素朴なものを思い出し続けていくと、それが人生の力になる。
それほど初めの愛には、純粋であるがゆえに、力が込められているんですね。

エペソの人々はそれを忘れたのではないか、とイエスさまに問われているんですね。
初めの愛をもしあなたが思い起こすことができたら、あなたの人生は変わって行くのに。

10たとい山々が移り、丘が動いても、
    わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
    わたしの平和の契約は動かない」と、
    あなたをあわれむ主は仰せられる。

イザヤ書54章の10節ですね。
たとい山々が移り、丘が動いても、私の変わらぬ愛はあなたから移らず、私の平和の契約は動かない」と、あなたをあわれむ主は仰せられる。

この変わらぬ愛というのは、神さまにとっての初めの愛でしょう。
そして、神さまの変わらぬ愛を実感するのは、私たちの初めの愛なのかもしれません。
それは山々が移り、丘が動いたとしても、あなたからは移らない。
初めの愛をしっかりと心に留めておきなさい。

イエスさまは7節のみことばを見ていただきますと――

7耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

神のパラダイスにあるいのちの木の実を、私たちは今日これから食べようとしています。
聖餐は、神のパラダイスにあるいのちの木の実です。
それをいただくときに、自分が神さまの特別な恵みの中にあり、すべての罪赦され、永遠のいのちのパンにあずかっているということを考えるべきです。
全ての罪赦され、こんな者を神さまは愛してくださる。
こんな者のありとあらゆる罪を洗い清めてくださるために、私たちはキリストの十字架の血潮を表すぶどう液を飲むんです。
それは単なるぶどう液ではない。イエス・キリストの十字架の血潮で、その血潮は私の罪を洗い清めるために流されたものである。
初めの愛に立ち返るために、今朝私たちは聖餐にあずかりたいと思います。

こんな話があります。前に一回、6年位前にしたことがあるんですが――

町に少し頭のおかしいおばあさんがいた。
みんな知っています――歩きながら独り言をぼそぼそぼそぼそ言い、そして時々、自分はイエスさまとお話をした。イエスさまに話しかけて、イエスさまが答えてくださった、ということをみんなの前で言うんですね。

その町に新しい牧師がやってきました。
その頭のおかしいおばあさんのことを耳にしました。
ある日町ですれ違うと、やっぱりぼそぼそぼそぼそ独り言を言っているんです。
牧師は思わず、からかい半分にその婦人に話しかけ始めました。
「イエスさまと話をなさるんですって?」
「そうですよ。イエスさまとは一日何時間も話しています」
「へぇ〜。じゃちょっとお願いしてもいいですか?イエスさまに尋ねてほしいことがあるんです」
「もちろんです」とおばあさんは答えます。
「じゃ、イエスさまに訊いてみてください。私がイエスさまに告白した最後の罪は何だったのでしょうか?」

「私がイエスさまに最後に告白した罪が何だったか、イエスさまから聞いてください」――半ばからかって言いました。
おばあさんは言いました。「お安い御用です」

数日後に牧師は、またぶつぶつぶつぶつ独り言を言っているおばあさんと町ですれ違うんですね。
「で、どうでした?聞いてくださいました?イエスさまに。私が最後に告白した罪が何だったか、聞いてくださいました?」
おばあさんはにっこり笑って、
「もちろん聞きましたよ。イエスさまは仰いましたよ。わたしは彼が告白した罪を覚えていない(笑)。わたしは彼が告白したすべての咎を踏みつけ、海の深みに投げ入れた。」

「わたしは彼が告白した罪を覚えていない。わたしは、彼が告白したすべての咎を踏みつけ、海の深みに投げ入れた。だから覚えていない」
いま言った言葉はミカ書の7章の19節(の引用)ですね。

牧師はショックを受けた。
そしてこのおばあさんはイエスさまと本当に話をしているということがわかった。
そうだ、みことばの通りに主は、私の告白したすべての罪を踏みつけ、海の中に投げ入れてくださる。
牧師はイエスさまの愛の大きさ、深さを新たに実感し、初めての愛に戻ることができたという話です。

今朝私たちが聖餐にあずかるのは、パラダイスにあるいのちの木の実を食べるこの瞬間であります。
同時に私たちは、自分が受けるすべての恵み、そして主の愛に感動したその初めの日を思い起こしながら、その初めの愛によって、今かかえている課題を乗り越える力をいただこうではありませんか。

            ――これ以降、聖餐式――

説教前後にある、洗礼式と聖餐式を読みたい方は、「聖日説教」にIDとパスワードで入ってお読みください。T・Y

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