12/24 キャンドルサービス:クリスマスは神の招き ルカ2:1~19
☆聖書箇所 ルカ2:1~19
1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 2これは、クレニオがシリヤの総督であった時の最初の住民登録であった。 3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。 14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。 地の上に、平和が、 御心にかなう人々にあるように。」 15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」 16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。 17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。 18それを聞いた人たちは皆、羊飼いの話したことに驚いた。 19しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
☆説教 クリスマスは神の招き
クリスマスおめでとうございます。24日のこの日はまことにもって平日でありますので、いらっしゃることのできない方も沢山おられると思います。 ここからお見受けしますと、後ろ半分は良く見えないんですけれども、多分この教会に初めていらっしゃったという方が1/3ぐらいいらっしゃるんじゃないかと思います。 クリスマス礼拝は日曜日でしたので、180名の方がいらっしゃいました。でもこの日はなかなかいらっしゃることができません。 でも覚えてください。24日のクリスマス・イブの夜7時に、毎年――来年はちなみに木曜日ですけれども――キャンドルライト・サービスをやりますので、ぜひ覚えておいていただけたらと思います。
聖書の箇所は、プログラムの式次第の一番下にある、ルカの福音書の2章8節。 先ほど中川姉が読んでくださった、最後の一部ですが、ちょっと見ていただきたいと思います。
8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
とありますように、クリスマスの知らせを告げるために、神さまは天の使いを遣わされます。 そして、その天の使いが行った先が、羊飼いでありました。 イエス・キリストの誕生のシーン、つまりクリスマスの出来事になくてはならない登場人物がいます。 イエスさまのお父さんヨセフさんと、お母さんマリヤさんと、そして幼子イエス。 そして野原で、羊の番を夜中にしていた羊飼い。 その羊飼いたちに、救い主の誕生を知らせた天使。 それからマタイの福音書に出てきます、星に導かれて、キリストを拝みにやって来る東の国から来た三人の博士たち。
教会やキリスト教の幼稚園では、クリスマスの時に、このキリストの誕生を祝う劇を子どもたちがします。 ミッションスクール出身の方は、やったことがあるという方もいらっしゃいますでしょう、いわゆる聖誕劇ですね。 誰かが言っていました――子どもたちに人気のある配役は、必ずしもマリヤさん、ヨセフさんではない。これは、注目を浴びすぎます。 だから非常に――低学年の子どもたちがやるんですが、高学年になればなるほど――人気は羊飼いに集まるという話を聞いたことがあります。 ま、羊飼いらしい上っ張りのようなものを着させられ、頭にはターバン・輪っかのようなものをかぶり、男の子ならだれもが喜ぶ、羊飼いの杖を持たされ、 そして、何と言っても、人気がある要素は、この羊飼いにはセリフが少ない (大笑)。 ほんとにセリフが少ないですね。
真夜中に、いきなり天使が現れて言います。(ルカ2章10節)
10「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
と羊飼いに話しかける天使はセリフがしっかりしています。これを全部覚えなければいけないのですが、 そのとき、羊飼いたちは、互いに話し合って言います。
15「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
で、皆が「おーっ!」と言えば、それだけで劇は成立してしまうんですね。 なるほど、セリフは短く、掛け合いもほとんどない。 高学年になればなるほど、子どもたちはこの羊飼いをやりたがる。
この独特な場面から、今度は2つのことを心にかけていただきたいと思います。 先ず第一番目に、神は天使を遣わしたときに、羊飼いへ行かせました。 ということは、クリスマスにあって――
1)神は羊飼いたちを招かれる 羊飼いとは遊牧民で、今流に言えば、とても牧歌的な風合いを感じます。 でも当時の世界では、昼も夜も羊の番、過酷な仕事だったと言われています。 (羊飼いは卑しい仕事とみなされていました)。 当時の文献を読みますと、自分の子どもたちを羊飼いにしてはいけない、という文書も出てきますし、 羊飼いのほとんどは雇われで、自分の主人の羊を、代りに面倒をみているわけです。 給料も少ない。彼らは羊を置いて礼拝に行くこともできませんので、神さまの御前から閉め出されていた――そういう職業であったと言われています。
あまり、羊飼いを悪く言うことはできません。 しかし、私たちも時に卑しいことに手を染め、苦労ばかりをさせられ、24時間体制で仕事をし、そして時に、神さまの御前から締め出されるという感じもするかもしれません。 沢山の成功を手にした、そうであっても、自分は非常に孤独を感じ、いつも誰かに雇われ、誰かに文句を言われ、人が楽しむときに自分は楽しむことが出来ずに、神さまから遠いところで生きているように思える場合もあるでしょう。
神さまは、喜びの知らせを真っ先に知ることができる人物として、天使を遣わされるんですけれども、なんとそういう羊飼いたちのところに行くように、あえて指定されます。
私たちは神さまの愛は平等だと思っています。 しかし、聖書によりますと、特に新約聖書を読みますと、必ずしもそうではありません。 イエスさまは仰いました。「幸いなるかな、悲しめる者、貧しき者、卑しめられる者」(***マタイ5:3、ルカ6:20) 神さまは圧倒的に、悲しめる者、苦しむ者、不当な扱いを受けている者、自分は罪深いと心打たれている者の味方であると、やはり聖書は語ります。
さて私たちは、神さまはあえて貧しい、卑しい者たちを招いてくださった、という前提で、2番目に羊飼いたちの動きをちょっと見ていただきたいと思います。 それが、最初のお祈りにも出てきました15節ですが、
15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2)羊飼いたちは、神の招きを受け取る
彼ら(その羊飼いたち)は、すぐにベツレヘムの町に入って行きます。 どういう風にして、この羊飼いたちは馬小屋を捜し当てたのかは書いてありません。 東の国の博士たちは、星に導かれてベツレヘムの町へ、そしてこの家畜小屋へと――それもまた難しいかなぁと思いますけれども――でも何とかして羊飼いたちは、イエスさまがお生まれになった家畜小屋にたどり着きます。 神さまによって招かれた、でも忙しくて、とりあえず聞いたけれど、また時間と余裕のあるときに改めて行くことにしよう、とは彼らは言わなかった。
ここに座っておられる皆さんの中には、多くはご友人の方や家族の方に無理やり引っ張られるように(笑)いらっしゃったかもしれない。お仕事の帰りなのかもしれないですね。 でも心の底のどこかに、今日はクリスマスのイブだから、教会の礼拝に行ってみようという思いがあったに違いないですね。
羊飼いたちは学者ではありませんから、まず、いろいろな文献を調べて、(ということはありませんでした)―― これは東の国の博士たちが、ヘロデ王の所に行ったときに、(王は)王宮にいたユダヤの権威ある学者たちに、その場所を探せ、という風に命じます(***マタイ2:1〜4)。 捜す場合に、古い文献を読みながら、その町がいったいどこであるのか、捜し当てて来いと命じます。 でも羊飼いたちは、そうした聖書の教えや旧約聖書や、その他のユダヤ教の文献には全く縁がありませんでした。 本当にそういうことがあるんだろうかと考えようともしませんでした。
彼らは天の使いの声に応じて、神さまの招きに応えて、まっすぐに自分の救い主と思われる方のみもとに向かって行きます。 それは、彼らが信仰深かったからだろうか?彼らが敬虔な人たちだっただろうか?――そんなことも聖書には書いてありません。 神さまはあえて経験深い羊飼いを選んだ、とも書いてないのです。 単純に羊飼いという職業のゆえに天の使いは遣わされ、そして彼らは、すぐに神さまの声に応えて、その招きに応えて、ベツレヘムへと足を急がせた。
仮に今年のクリスマス、神さまが天使たちと相談して、「今年はだれの所に、遣わそうか」と仰るのなら、私たちは言います。 「神さま、私のもとにお遣わしください。 私は、すでにあなたのもとに、救い主を礼拝しにやって来ました。 だから私を、あなたの愛と恵みの世界に招き入れてください。」
もうずいぶん前に、豆腐料理を専門とした和食屋さんに行ったことがあります。 教会員のご葬儀の後で、集まった方々は結構大勢でありました。 そして皆さんで食事をした部屋は、大部屋のお座敷でありました。 ところが、その入り口がものすごく狭い――と言うと、大体どこのレストランか想像できる方もいらっしゃるかもしれませんけれども(笑)。 かがまないと入れないですね。膝をつくようにかがまないと入れない、その窮屈さ。 でもその狭い入り口から入って、向こう側に非常に広い庭に面した明るい部屋が、何ともすがすがしく広がっていた。 私(藤本牧師)は、料理以上に、その部屋の構えと部屋の広がりを印象深く覚えています。
それからしばらくして、お茶の先生をしておられる教会のH姉から、それは茶道の「にじり口」だという風に教えてもらいました。 そう教えてもらっても、そんな言葉、正直聞いたことがないので、ピンと来ませんでした。 しばらくして、キリスト教と千利休の関わりも伺ったことがあります。
フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を持って来るわけですけれども、彼は(ポルトガルの)宣教師たちに、少しでも日本の文化になじむようにと、茶道を勧めます。 その宣教師たちに、専ら茶道を教えたのが千利休ですね。 1500年代の出来事でありました。 そして、千利休は五人のキリシタン大名に茶道を教えます。そして最も親しかったのが有名な高山右近でした。
高山右近は、大阪の高槻に城をかまえる大名で、やがて彼は秀吉の時代に、バテレン追放令(宣教師追放)が出た時に、高山右近は自分の信仰を守るために、大名としての領地と財産を全部放棄して田舎の方に引っ込んでしまいます。
千利休という名前は、san Luke(St.Luke聖ルカ)と言われています。 確かなことはわかりません。 そして、彼が考案した四畳半の狭い茶室の「侘び茶」という茶道には、キリスト教の要素がいろいろと入っていたと言われていますけれども、 その代表的なものが、茶室に入るときに、武士も刀を挿したままでは入れない。 その刀を外さないと入れない、狭い入り口、それを「にじり口」と言います。
その言葉はあまり聞いたことがないですけれども、日常的に「にじる」ということばは聞いています――それが、踏みにじる、ではないでしょうか。 この世にあって踏みにじられたような思いをした人々が、クリスマスにはむしろ歓迎される。 神さまはそういう人にまず天の使いを送って、愛と平安の知らせを届ける。 天使は救い主の誕生を、先ず羊飼いに知らせました。 神はまず、この世界にあって踏みにじられるような体験をした人々に、御自身の愛と憐れみをお伝えになったということです。
そのときに羊飼いたちは、神の招きをすぐに受け入れ、生まれたばかりのイエス・キリストを拝みに行きます。 その時、身分の高い人も低い人も、招きに応じようとするのなら、神さまの前でにじり口をくぐるように頭を下げてへりくだります。 そして武士も平民もない、とりあえず自分の持てるものを置いて、キリストを礼拝するために足を急がせます。 そして私たちがいつも持っているような、人を斬るような刀、自分の力を知らしめるような刀は、汚れているものを自分の身から外して、低く頭を下げ、かがんで、神の恵みの世界に入って行きます。
狭い入り口と裏腹に、目の前に広がるのは広い広〜い、賛美と祈りの世界でありました。 今晩皆さんは、これからクリスマスの夕べを過ごされるのだろうと思います。でも心に覚えていてください。クリスマスの中で一番大切なのは、このイブの礼拝です。 それはこの晩、神さまはこの喜びの知らせを一番最初に卑しめられていた羊飼いに届けられたように、今晩もし私たちが自分の卑しさ、踏みにじられるような自分のつつましさ、情けなさを心に感じるならば、喜びの知らせをまず第一に私たちの心に届けてくださいます。 そして、神さまがきっと「メリー・クリスマス」と私たちのたましいに語りかけてくださいます。
☆お祈り
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」(ルカ2:15)
と互いに誘い合いながら、キャンドル・サービスに足を運ぶことが出来たこの年を感謝いたします。この年、様々な出来事が私たちの仕事に、学びに、人生に、家族に、教会に、世界に、降りかかりました。時に私たちの心は、クリスマスの当時、世界から踏みにじられるような、あの羊飼いたちのように、私たちは嫌な仕事を押し付けられ、人の批判にさらされ、こき使われて、二四時間体制で生きて来たのに違いありません。
あなたがまず、「恐れることはない。あなたは神に顧みられた。神はあなたのことをお忘れになっていない。神はあなたの為に救い主イエス・キリストをこの世界に送ってくださった」――そのニュースを聞いたならば、「さぁ、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と、今晩この教会に来ました私たち一人ひとりの、この年末を祝福してくださり、2015年を祝福してくださり、いや、私たちの人生をあなたの御手の中に包んでくださり、汚れ多き自分中心な刀を外して、狭い口から広〜い恵みの世界に入って行く私たちを迎えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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