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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/29 教会総会:神聖な日を共に ネヘミヤ8:1〜12
☆聖書箇所     ネヘミヤ8:1〜12

1民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、【主】がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。
2そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、
3水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。
4学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。
5エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
6エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して【主】を礼拝した。
7ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。
8彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
 9総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。
10さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ。」
11レビ人たちも、民全部を静めながら言った。「静まりなさい。きょうは神聖な日だから。悲しんではならない。」
12こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。

☆説教      神聖な日を共に

教会はここ十年、「礼拝への集中」ということを掲げて来ました。私たちは礼拝の民です。

「真実に、拙い言葉でも心を込めて祈る」というのが、私たちのモットーです。
礼拝の中で様々な人たちが祈りに立ちますけれども、その人なりの真実な祈りを奉げていただくこと。
ただ「右から左から、ありとあらゆる課題を全部出して、長々とお祈りをしないこと」というように、礼拝の祈りの研修会を持ったこともございます。

あるいは、「大きな声で歌う」ことを私たちはモットーとしています。
近所迷惑省みず(大笑)という、ねぇ、ここに70年近くいますので、(裏の)アパートに引っ越して来た方々は、まさか日曜日になるまでは分からなかった(笑)という現実があると思いますけれども、大きな声で賛美をしますし、
また「賛美を聞く時」も、その賛美の「独唱に心を合わせる」ことを心がけて来ました。

そして礼拝から余分なことを全部省きました。
ですから司会者には、司会者用のマニュアルがここにあります。次どういう言葉をもって次の段階に行くか?
その間に自分の様々な言葉を挟むことがないように。

それから礼拝の前には奏楽が始まります。その「奏楽をもって心を静める」ことを学ぶ。礼拝が終わりましたら、もう一回奏楽があります。その間、司会者は前に立っていますが、静かに主の御前に座ることを学んでいます。

そしてみことばを読みます。みことばに耳を傾けます。みことばを受け取ります。
神のことばによって慰められ、力づけられ、導かれ、教えられ、ゆるされ、きよめられ、と真実に願って礼拝をしてまいりました。
それは先程から繰り返していますように、教会員であろうがなかろうが、よその教会の方が立ち寄ったとしても、初めての方でも、共に礼拝することの喜びを味わうことにしています。
もちろんそれはインターネットで共に礼拝にあずかる方々もいます。

そして今日開いていただいたのは、ネヘミヤ記。
ネヘミヤ記というのは、「礼拝の書」です。
ここから礼拝の神髄というべきことを、3点短くお話ししたいと思います。

【※1)礼拝に、私たちは様々な破れを持って、やって来る。】

いま8章を開いていますが、1章をちょっと見ていただけませんでしょうか?
ネヘミヤ記の1章です。1章の1節を私(藤本牧師)が読みますので、皆さんが2節を読んでみてください。
(***以降ネヘミヤ1章1節〜6節まで、説明しながら読み進まれる)

1ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、
2私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。

こういう風にネヘミヤは始まります。
3節からちょっと見て行きますね。

3すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」

ネヘミヤという人物は、幼い頃――バビロンがエルサレムを滅ぼしてイスラエルの民をバビロンに奴隷に捕って行った、捕囚に捕って行った――その捕られた人物の一人でありました。
そして奴隷に捕られて70年、ペルシャが今度はバビロンを滅ぼし、バビロンに捕われていたイスラエルの民はエルサレムに帰ることになります。

しかし帰ることができなかった者たちも数名いました。例えば、政府に仕えていたダニエルがそうですね。
ネヘミヤはペルシャのアルタシャスタ王に仕えていました。ですから彼もまた故郷に帰ることができません。

2節の状況というのは、そんな彼のもとに親類が訪ねて来て、そして報告をするわけです。
「実は今、エルサレムは困難の中にあります。そしりを受けています。しかもエルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです」
というのは、私たち流にものを言いますと、
「(震災の」復興とは程遠い。5年経っても7年経っても復興とは程遠い状況です」
という情報を、ネヘミヤは故郷から親戚がやって来た時に、受けるわけですね。
「城壁を失い門を失った」ということは、守りを失います。
ですからいつも近隣諸国から攻撃にさらされ――というここからネヘミヤの礼拝が始まります。

1章の4節に、ネヘミヤはこう祈り始めますね。

 4私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、
5言った。「ああ、天の神、【主】。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。
6どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。……

こう始まるのです。これがネヘミヤ記の礼拝の始まりです――ショックを受け、疲れて、困難に遭って。
私たちが礼拝に出る時というのは、「いつも絶好調で礼拝に来ます」というそんな人がいたら会ってみたいもんだという思いもありますし、そんな人には会いたくない(笑)という思いもありますね。
事実私たちの日常の城壁というのは、至る所で破れます。
その門はくずされ、そんな状態で私たちは礼拝に来る、つまり問題課題を背負って礼拝にやって来るわけですね。

礼拝の始めで、ネヘミヤは神を仰ぎました。彼が考えていること、そのすべてを心の中に秘めながら、彼の祈りの始まり(1章5節)、
「ああ、天の神、【主】よ。大いなる、恐るべき神。あなたを愛しあなたの命令を守る者に対して、あなたは契約を守る真実な神。慈しみを賜る愛の神」
その神さまに向かって、
「どうぞしもべの祈りに耳を傾け、ま、耳を傾けるのみならず、目を開いてこのしもべの祈りを聞いてください」
これが私たちの礼拝の始まりですね――つまり神さまが真実な方であること、その慈しみが偉大なものであること、
そしてこのしもべの破れた城壁、破れた心、焼き払われた門、そんなものを抱えている私たちの祈りを、神は必ず聞いてくださるという思いで、礼拝の場にやって来るわけです。

さて、少し飛ばしますけれども、2番目の8章の1節に戻ってください。
ここから、今度は民の礼拝が始まります。民全体の礼拝ですね。ネヘミヤだけでなく。
8章の1節をちょっと見てください。ここに学者エズラというのがありますが、彼がモーセの律法をよく知っている人物ですね。ちょっと一緒に読んでみましょう。

<ネヘミヤ8:1>
1民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、【主】がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。

聖書がここから読まれます。そして、それを聞いている者たちは真実ですね。
3節にちょっと目を留めていただけますか?

3水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。

これは聖書朗読です。
「理解できる」者たちというのは、「文字が読める」者たちという意味ではないです。読まれた聖書が、聞いて理解できる者たち(という意味です)。
「民はみな、律法の書に耳を傾けた」――この真剣さ。男性も女性も耳を傾ける。

5節を見ていただけます?

5エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。(見えたんですね、と説明)。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。

きっと神のことばに対する崇高な思いでしょうね。で、6節――

6エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して【主】を礼拝した。

ちょっと1回飛ばしますが、8節を見てくださいます?

8彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

今年は2017年、宗教改革500年で、そして後ほど教会総会でもご案内いたしますけれども、来年から「新改訳2017」という新しい聖書の訳が出ます。
で、日本全体で新改訳聖書を使っている教会、それから以前の口語訳聖書を使っている教会も、恐らくこの「新改訳聖書2017」に聖書を変えて来るはずです。
私たちは一斉に、2018年の1月の元旦礼拝をもって変えたい、と思っています。
今年の10月に中判聖書、11月に小判聖書、12月に大判聖書が出ます。電子聖書が出るのは、それから多分一年はかかると思います。

この「新改訳聖書2017」という名称を決めるのに、もうすったもんだしました。
すったもんだ――ま、聖書の方は明確なんですね、聖書ですから。
(※名称は、サンプル版の小冊子によると「聖書 新改訳2017」となっています。)
この場合は聖書新改訳、聖書新共同訳、聖書口語訳――日本にはこの三つがあるわけですけれども。
実は翻訳聖書委員会は、2016年に出したかったんですが、ところがどうしても仕上がらない。
もう十年位やっているんですけれども、どうしても仕上がらない。
じゃ、一年待とう。ちょうどルターの(宗教改革)五百年記念がやって来るから、一年待つことによって、「新改訳聖書2017」というタイトルにしたら、それでいいじゃないか、というあたりが実は名前の落としどころなんですね。

1517年にマルティン・ルター(***1483〜1546)は当時のカトリック教会の贖宥状という、いわゆる免罪符ですね、それに反対する『95箇条の提題』をヴィッテンベルグ大学のその大学教会(***ヴィッテンベルグ城教会?)の門に釘で打ち付ける。
それが10月の31日ですか?そうですね(***それゆえ多くの教会ではこの日を宗教改革記念日としている)。
1517年のもう冬が近づく、そこに始まった宗教改革。

ルターはギリシャ語から新約聖書を発行するのは1521年ですから、なんと4年で一人で新約聖書を翻訳してしまいます。
もちろん活版印刷、グーテンベルグの活版印刷(***1445・ルネッサンスの三大発明)でヨーロッパ中に広まって行きますけれども、皆が読めたわけではない。
でもドイツの人々はそれが読まれた時、それがみんな解った。
ルターは自分の聖書訳をこういう風に表現しますね。
「私は人々の口の中に手を突っ込んで、言葉を取り出してきた。」
つまり、みんなが解るような言葉を私は選んで来た。

例えば今度の聖書訳でいろいろ問題があるのは、「つぶやく」という言葉ですね。
神に対してつぶやく(***不平を言う)のですが――あれは新改訳聖書独特の言葉です。
「つぶやく」というのは、普通そういう風には使わない。あの言葉はどういう風に変わるんだろうかという問題がありますし、
新改訳聖書が生み出した有名な言葉の中に「聖絶」という言葉がありますね。
旧約聖書の、ありとあらゆる生きているものを滅ぼしてしまうという「聖絶」という言葉をどうするのか?とか、
ま、そんなことも、今日お渡しするサンプル版に色々出て来ますが、
人々が聞いて解る言語にルターは翻訳したい。

ルターの翻訳が出る前に、ボヘミヤのヤン・フスという宗教改革者(***1372〜1415)。
彼は火あぶりの刑によって異端者として抹殺されてしまいますけれども、フスとその弟子たちが「ボヘミヤ聖書」を作ります。
その前に、イギリスのウィクリフ(***1320年頃〜1384)が「ウィクリフ聖書」を、中世の英語(*** 1066年のノルマン・コンクエスト以後15世紀後半頃までの 英語の名称)ではなく当時の英語で翻訳します。
ルターの少し後には、スイスのツヴィングリ(***1484〜1531)による(***ドイツ語訳)「チューリッヒ聖書」が出て来ます。

つまり1500年代のあの時期というのは、次々とラテンの世界、神聖ローマ帝国という大きなラテンの世界から、母国語意識が出て来まして、そして聖書翻訳によって、その国の言語ができ上がって行きます。
ルターの詩篇はドイツ語を作ったとも言われます。
同じように、私たちが以前使っていた「文語訳聖書」、その元訳、「明治元訳聖書」というのがありますが、その詩篇は日本語を作ったと言われています。

何よりも聖書は、その通り読まれ、それを解説した時に、その意味を会衆が理解する――つまり、神は何を求めておられるのか?自分はどのような存在であるのか?神さまは私をどのように変えたいと願っておられるのか?

神のことばが読まれた時に、そしてそれが理解された時に、明らかに人々は胸を打たれました。
9節を見ていただけます?

2)胸を打たれた――これが礼拝の2番目の大切な所ですね。

(※今までのお話を振り返って、まとめる藤本牧師)
一番目に、礼拝に来る私たちは、様々な破れ、門が壊され、心が崩され、様々な破れをもってやって来る。
そして私たちは、賛美や祈りや聖書のみことばを通して神のことばを聞く。
それをはっきりと語られ、理解した時に、9節――
ちょっと(9節を)読んでみましょうか?

  9総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。

民が律法のことばを聞いた時、みなは泣いていた――「律法のことば」ってわかります?
モーセの律法の書(***旧約聖書最初の五書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)が読まれているわけですけれども、
そこにはやはり『十戒』を含めて、「私たちはこうあるべきだ」と、
神と契約を結ぶ時に、私たちは律法を自分の側の義務と課して、神さまの御心を歩むように私は決めたんだ。
義務強制の問題ではないです。
「神の恵みの中を歩むために、私はこうあるべきだ、ということを心に決めたにもかかわらず、自分たちは全くそういう歩みをしていなかった」ということを心に留めたんですね。

ちょっと難しいことで、ウェスレーはよく言いましたね。
「傷を受けていない者を癒すな」――これはちょっと厳しいものの言い方なんですけれども、
ま、福音は慰めですね。だけどそれは傷を受けた者にとっての慰めですね。
傷を受けてないにもかかわらず、つまり律法を聞いたことによって心を痛めてないにもかかわらず、
ただひたすら「安心しなさい。どうにかなりますよ。神さまはパズルを組み合わせて最善の方向に持って行きます」と、
悩んでもいない、自分の足りなさが解ってもいない。
それを全部飛び越して、いきなり神の愛を語っても、それは福音にはならないということは、
ルターもウェスレーも、後のディートリヒ・ボンへファー(***1906〜1945・ナチにより39歳で絞首刑)という戦中のドイツの神学者はよく言いましたね。

「そういう恵みは、市場でよく売っている安いジャンバーのようなものだ」と。
ドン・キホーテ(量販店)で売っている安いジャンパー(笑)と言うと、ドン・キに申し訳ないんですけれども。
ドン・キホーテの前にいくつかの紳士服屋さんがあって、紳士服屋は「入ってはいけない」という輝きを放ってますから、その前に吊るしてあるものを私たちは見るわけですが、
その前に吊るしてある、なんかもう70%引きぐらいのワイシャツっていうのは、買っても大事に着ないでしょう。
ま、それもその内でいいんでしょうけれども、そういう風に恵みの安売りをするなと。

ルターが言うには、一番最初に『95ヵ条の提題』ざ〜っとあるわけですよ。
一番最初に神が私たちに求めておられることは、誠心誠意の悔い改めですよ。
つまり自分は罪深い。
そして当時ノートルダムの大聖堂の改築が始まるわけですよ。
そして、ヨーロッパ中のお金を集めたいわけですけれども、ヨハン・テッツェル(***ドミニコ会修道士)という免罪符販売の天才(大笑)と呼ばれた人物がいましてね、
これにルターは完全にムカついて、そして宗教改革を起こすわけですが、テッツェルは(こう言ったのです)。
「あなたがもしこの免罪符を買うために、この箱にお金を入れて、下でチャリンと鳴ったら(大笑)、あなたの先祖のたましいが煉獄から飛び上がる」
これは確か『95ヵ条の提題』の28番目に出て来ますね。

私たちというのは、神さまの慰めの中に生きたい――これはもう当然ですね。
当然ですよ。だけど、ここで律法が読まれて解き明かされ、それがはっきりと納得した時、理解した時に、そんな安っぽく恵み、恵みと語ることができなかったという悲しみがあるわけです。

私たちは気をつけなければいけないことは解っています。
それは私たちはリバイバルの伝統を生きているわけですね。
それが福音派の中でも、アメリカやイギリスのキャンプ・ミーティングという、ちょっと教会とはまた違う所で為された説教で、
有名なのは――桜美林大学というのがありますが、あれの原型のOberlin大学というのがアメリカにあります、それを作った――チャールズ・フィニー(***1792〜1875)という人がいます。
彼は長老派の牧師です。長老派というのはカルバン教の牧師ですね。

彼がアメリカで第二次大覚醒(***1800年代〜1830年代)というのを起こした時に、彼は説教の中で、みことばの講解以上に迫りを強調しますね。
説教が20分なんだけど、迫りがあと1時間続くみたい(笑)のがあるんですよ。
迫りというのは、私たちの心の中にある罪責感を駆り立てて引き出すという。
これをやり始めたら、もう限りがないですね。
つまり律法を読むことによって、はっきりと理解した。読まれたことがわかった。悲しんでいる者を、その悲しんでいる良心を、ゴマをするように潰していくんです。

そういう教会でフィニ―が作ったのが、歎きの椅子です。
前の方に脇にありましてね、礼拝の最後に「罪で悔い改めた人は嘆きの椅子に来なさい」。それから先生が祈ってくださる。
それが、ま、年に一回だったら――年に一回だったらと言うのは申し訳ないんですけれども――ま、年に二回でしたらいいんでしょうが、毎週毎週それをやられて、そして「一番後ろに座っているあなたも前に出て来て、この嘆きの椅子に座らない限り礼拝は終わりません」(大笑)となったら、礼拝は全然終わらないです。
ずっと待ってなきゃならないです。「あいつ出ないかなぁ」って(笑)。「あいつ出ろよ」みたいな。
そういう世界が、ま、リバイバルにはあった。それで聖霊が用いられることもあった。
またそういう風に、自分の罪責感をこね繰り回されることを好む人もいる(笑)。
ま、ドS(大笑)というとあれですけれども、自分の足りない所をぐりぐりぐりぐりされることを好む人もいる。

そういうことを考えますとね、やっぱり日本の教会は、恵みよりも悔い改めに比重が入っていたことはよくわかる。
だから、恵みを説かなければいけない。
でも傷ついてもいない、自分の足りなさも解ってもいない、自分の罪深さも解ってもいない者に、「癒されました」「愛されています」と言っても、それは全部飛び越えて行くだろう。
それはそこらへんの安っぽい市場で売っているジャンバーと何の変わりがあろうか?それが本当に福音と言えるのか?というのが、ルターやウェスレー、ボンへファーの深〜い所ですね。

それがわかっていながら、私たちは喜ばなきゃいけない――それが三番目です。

3)私たちは喜ばなきゃいけない。

9節に、彼らは何はともあれ、ですね。

9……「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。

礼拝に行く最終は10節です。ちょっと一緒に、10節、長いですが読んでみましょう。

10さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ。」

「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲み、何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。喜べ」です。喜べ。
で、最後の一句は、欄外に別訳がありますが、
「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」――こちらの訳の方が一般的だと思います。
悲しんではならない。喜べ。なぜなら、主を喜ぶことは、あなたがたの力となる。

皆さん、日曜日の午後はどんなものを召し上がるんですかねぇ?
我が家の子どもが小さかった頃は、子どもたちはカレーと決まっていました。
大体レトルトカレーで、牧師の家庭は皆さんレトルトカレーだろうなぁと思いますね。レトルトカレーかカップ麺かだと思いますが(笑)。
私(藤本牧師)は案外マックがいいかなぁという思いがありますねぇ(笑)。
高津のマックがつぶれてもらっては困るということで、マックが調子悪かった時にはよくマックに行きました(大笑)。
ここは潰れてもらっては困る(笑)。あんな便利なものはない。
で、教会の皆さんはマックが多いです。なぜなら、子どもが多いですからね。子どもはそんなりっぱなものは食べたくない。マックのハッピーセットのおもちゃが(大笑)欲しいわけですから、もっぱらですが。

日曜日に何を食べるかというのは、私(藤本牧師)は大切だと思いますよ。
大切ですね。それが一番典型的なのがアメリカですが、サンデーランチというのが、どこのレストランにもありますね。
それは、礼拝に行った人がたらふく食べられるように、全部ビュッフェスタイルで、それはそれは豪華な食事を用意する、というのがサンデーランチ。
それが溝の口近辺で、高津駅近辺で期待できるか?全然期待できませんが(大笑)。
しかしこの「喜べ」という――特にお腹が空いて我慢している子どもたちに対してはなるべく喜ばせてあげてほしい。
それがマックでもいいんですが、喜ばせてほしい。

みことばを心で捉える。神さまのみこころを知る。そこからどんなに遠く離れた姿であっても、泣いてはいけない。
礼拝は主を喜ぶことだ。主の御前に喜び躍る。それにふさわしい気持ちで帰ろう。
自分の罪、自分の足りなさ、それは主の前に置いて、ここから帰る時には、主の憐れみに感謝し、主を喜んで帰ろう。
最後、主の憐れみを受け取り、祝福を受け取り、喜んで帰る――それが礼拝です。それが聖なる日です。

頭を抱え込んで礼拝に来る。みことばが心を刺して、そして悲しみに浸る。
しかし、神を礼拝する時に、
「それは人にはできないことですが、神にはそうではありません。神にはどんなことでもできるのです」(***マルコ10:27)――力強いみことばが響いて来る。
「神を愛する者のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(***ローマ8:28)と。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろう。私の助けは、天地を造られた神から来る」(***詩篇121:1〜2)

神を礼拝する時に、信じる者に真実であり、信じる我らを裏切ることのない神の愛に、神の恵みに、私たちはその身を浸して始める――それがあなたがたの一週間の力となりますように(アーメン)。
それにふさわしくごちそうを食べたらいいよと、しかも、その恵みを周りに分け与えなさいと。
ごちそうを食べるというのは、喜びの表現ですよね。
美味しいものを食べる、豪華なものを食べるというんじゃない。
喜びの表現です。楽しんで帰って行きなさいと、
(ネヘミヤは民に「神聖な日を共に」喜び楽しむよう忠告しているのです)。

12節の最後を見ていただきますと――

12こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。

ここに出て来る理解と、いいですか、8節に出て来る一番最後、「民は読まれたことを理解した」の理解は違いますよね?
最初の理解(8節)は、自分の足りなさを理解したんです。
だけど次の理解(12節)は、神の愛、神の憐れみを理解したんです。
私たちの理解が、自分の足りなさ、罪深さで留まってはいけない。あるいは自分の置かれている現状の厳しさに留まってはいけない。
神はあなたを愛しておられる。神は私を喜んでいてくださる。

ヘンリー・ナウエン(***1932〜1996オランダ出身のカトリック司祭、元ハーバード大学教授)のコメントにこういうのがありますね。
「神は喜んでおられる。
この世界の様々なものが解決されたから喜んでおられるのではない。
人間のすべての苦しみや苦悩が解決されたから、喜んでおられるのではない。
何千という人が悔い改め、回心し、感謝して集まって来ているから、喜んでいるのでもない。
神はひとりの失われたたましいが見つかったことに、喜んでおられる。」

百匹の中の失われた一匹が見つかったことに、喜んでおられる。
その神の喜びに触れる――つまり礼拝に来た私たちを、限りなく神さまは喜んでいてくださる。
その神の喜びに触れて、私たちも喜びをもって帰りたい。
それが「礼拝への集中」ということの意味する所だろうと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、なんと理解の行き届かないものでありましょう。ネヘミヤは自分の置かれている現状を、親戚の者たちが訪ねて来ることによって理解しました。律法の書が読まれた時に、自分たちの不面目さ、自分たちの罪深さに理解が及びました。
しかし聖なる聖日の本当の意味、すなわちあなたの真実とあなたの愛を理解した時に、それが喜びに変わり、「神を喜ぶことはあなたがたの力となる」と新しい確信を得ることができました。
どうか、そんな礼拝を私たちにお与えください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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