☆聖書箇所 マタイ16:13〜20 13さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。 14彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。 19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」 20そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景C「あなたは生ける神の子キリストです。」 (※マスクは外されている) 皆さんおはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。(※カメラの方を向いて)それからオンラインで今日も共に礼拝をささげている方々、それから初めて今日教会の礼拝を覗いておられる方々、また私たちが存じ上げない方々も含めて共にこの礼拝のひと時、神さまを待ち望み、神さまの恵みを期待し、共に神さまに賛美をささげる幸いを心から感謝したいと思います。
早速みことばに心を留めたいと思います。 「ペテロのいる風景」と題しまして、シリーズものでお送りしております説教でありますけれども、今日はその第4回目。 「あなたは生ける神の子キリストです」と題しまして、マタイの福音書16章の13節〜20節。 ここから、イエスさまがペテロに語られたお言葉から、3つのメッセージを読み取っていきたいと思います。
1)ことの発端はイエスさまの弟子への二つの質問から始まりました。
<マタイの福音書16章13節> 13さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれた時、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
***ピリポ・カイサリアの地方というのは、地図で見ますと、パレスチナの北のはずれです。イエスさまの追っかけもいない、もう誰もいないような所だったんでしょう。 そこでイエスさまは大切なことを、ここで弟子たちに投げかけておられるんですね。 「人々は人の子を誰だと言っていますか?」
14彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
***二つ目の質問、そこでイエスさまは投げかけられます。
15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
***すると、指名されたわけでもないのに、またペテロが(※笑いながら)まるで早押しクイズのようにパッと答えるわけですね。
16シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
***「バルヨナ」というのは、ヨナの子シモン。ペテロのお父さんの名前はヨナという名前だったようですね。 「あなたは幸いです」――ペテロは「やったね!自分は正解を言うことができた」――そう思ったのかもしれません。 でもイエスさまはちゃ〜んと釘を刺されました。 「血肉」という所に*印がついていて、下に「人間」という風に別訳が書かれていますが、ま、血肉、人間ではない。 あなたのお父さんでもない。天におられるわたしの父が、それをあなたに明らかにしたのです。
イエスさまに対して、弟子たちは「先生」とか「主よ」とか今までも呼んでいました。 しかし、ペテロは面と向かって、イエスさまにこのように信仰告白するわけですね。 一見イエスさまというお方は普通の人間でした。 私たちと同じようになられた、ということは普通の人間で、しかもユダヤ人であり、大工上がりであり、 そしてイザヤ書の53章の2節には、預言的な言葉として、イエスさまのことをこのように表現しています。 <イザヤ53:2> 2・・・彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
もしイエスさまが高津教会にお出でになったらば、どんな感じだろうか? 急にホールに後光が射して、そしてすごいきらびやかな真っ白い衣が輝いて、そしてこの会堂一杯に神さまの栄光がみなぎるような、そういう雰囲気になるのだろうか? でも、「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。」 「良くお出でくださいました。初めてですか?」――ごく普通のおじさんがそこにおられて、そして教会堂に案内する。イエスさまだとは誰も分からない(笑)。
でも、弟子たちには、目の前にいる一人の男の人を、「先生」とか「主よ」とか呼んでいるその人を、何か違った存在であるということを、薄々感じていたに違いないと思いますね。 そしてペテロはそのことを、すかさず「あなたは生ける神の子キリストです」と告白したわけです。 ペテロが信仰告白できたのは、父なる神さまがペテロに明らかにされた。
2000年経った今も、今朝、私たち一人一人に、イエスさまは同じ問いかけをされています。 「人々は人の子を誰だと言っていますか?」 2000年前のパレスチナ地方の宗教家だと、人々は言っているかも知れない。 12月25日に生まれたキリスト教の創始者だ、と言っているかも知れない。 自分は神だと言って、ユダヤ人たちに憎まれ殺された人だ、と言っているかも知れない。
「ではあなたがたは、わたしを誰だと言いますか?」 私たち一人一人にイエスさまが問いかけておられる。 で、シモン・ペテロと同じく、私も告白します。 「あなたは生ける神の子キリストです。救い主です。救世主です。主に油注がれたお方です。私の神さまです。」 そうするとイエスさまのお答えは同じですね。 「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天におられるわたしの父です。」
私たちはイエスさまを目の前にして、「あなたは神の子キリストです」と何の抵抗もなしに告白することができる。 会ったこともないんですよ(笑)。見たこともない。でもそのように信じることができた。不思議ですね〜。 ほんとに不思議ですよ。よくぞ信じることができた。
キリスト者の家庭で育った方も同じだと思うんですね。 自分は小さい時から教会に親に連れられて来たから信じることができた――そうとは限らないと思うんですよ。 やっぱり天の父なる神さまが、明らかにしてくださった。そのように告白するように導いてくださった。 背後には家族の祈りもあったでしょうし、教会学校の先生たちの祈りもあったでしょう。 でも何にも増して、父なる神さまがそのことを明らかにし、同じように「あなたは神の子キリストです」と告白することができるように導いてくださった。
努力して学んだ結果ではありません。思い込みや気休めではありません。 ましてや誰かに洗脳されたとか、マインドコントロールを受けて、そしていつの間にか、マインドコントロールの内に「あなたは生ける神の子キリストです」と言わせられた――そんなんじゃない。 何だか自分でも分からない。でも目の前のお方に向かって、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白することができるようにさせていただいた。
で一つ目のメッセージ――私たちに父なる神さまがイエスをキリストだと示し、信仰告白に導いてくださった。 100%恵みです。私たちの努力や頑張りではなく、100%恵み。 天の父なる神さまが明らかにしてくださった。
2)二つ目のメッセージ、それは18節にあります。
<マタイ16:18> 18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
「あなたはペテロです」――「ペテロです」という所にも*印がついていて、下(の注)を見ると、「岩」ではなくて「石」と書かれていますね。 ヨハネの福音書1章42節には「岩」と書かれています。この注を見ますと。 ヨハネの福音書1章の42節には、「あなたはケファ、言い換えればペテロと呼ばれます」というイエスさまの言葉があって、《岩を意味する語から来ている固有名詞》としてケファとかペテロと言う言葉を説明しています。
「あなたはペテロです」、その後イエスさまが「この岩の上に、わたしの教会を建てます」。 「この岩の上に」って一体何だろうか? カトリック教会の立場では、「ペテロとその後継者の上に、わたしの教会を建てます」と解釈しています。 ペテロの正当な後継者として続く法王たちが、教会の権威の基礎を構成すると信じて、カトリック教会はペテロを礎に教会が建ったと信じて、今でもそれが続いている。
ではプロテスタント教会の立場は何でしょうか? 「この岩の上に」というのは、ペテロという人物の上にではなく、「この岩」というのは、「岩のような確かな信仰告白の上に」という意味です。 この時のペテロの信仰告白というのは岩のようだったと、イエスさまは評価されています。 この後ペテロは挫折しますから、 岩のような信仰ではなくなってしまいます。 でも、この時はイエスさまは「この岩のようなペテロの信仰告白の上に、わたしの教会を建てます」(と仰った)。 信仰告白した人で成り立っている教会、集会――「エクレシア、それをこれからわたしは建てることにします」――これがプロテスタント教会の立場です。
信仰告白で成り立っている教会、人数はどれ位なんでしょうか? 最低限、「二人か三人か」ってイエスさまがマタイの福音書18章の20節で語られていますので、二人いれば教会が成立するのかもしれません。 信仰告白している二人がいれば、もうそこは教会。
しかし、何らかの事情で、信仰告白していない人もおられるかも知れません。 或いは信仰告白できないような状態におられるお方もいるかも知れません。 でも、そのような方々もこの教会の支え合いによって、大事にされている。 愛の共同体としての教会がそこにある。 そういうことを考えますと、信仰告白していない人であっても、立派な教会の一員であり、教会を構成する大切な人である――そのように思うんですね。
更にイエスさまは付け足すように大切な言葉を語られています。 (マタイ16章)18節の最後の言葉。 18・・・よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
よみの門、地獄の権力、それ(教会ですね、と説明)に打ち勝つことはできない。 地獄の権力も勝てない教会の信仰告白、その権威。 イエスさまはここで宣言されている。
しかし、教会の歴史を辿っていくと残念なことが沢山あります。 与えられた上からの権威が、人間の権力にすり替えられてしまって、そしてそれが醜い争いへと発展してしまった、という歴史を私たちは知っています。 なんとカトリックとプロテスタントの争いも、しかも血を流すような争いもあった――なんと残念なことでしょう。 でもあくまでも信仰告白、それは愛の教会の土台である。 そして、私たちはその告白の上に成り立って、ここまで教会が続けられて来た。
そこでイエスさまが語られた二つ目のメッセージ――私のささやかな信仰告白も教会がここに存在するための基盤になっているということです。 高津教会もここに存在している。それはなぜか? 私たち一人一人の信仰告白による。 こんな頼りない細やかな信仰ですけれども、その信仰の告白が基礎になって、この高津教会も存在しているんだ、というメッセージですね。
3)今日はここからがメインなんですけれども、この後でイエスさまはペテロ限定の特別な約束を示されました。
それが、(マタイ16章)19節から書かれています。 <マタイ16:19> 19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
イエスさまはペテロに「あなたに天の御国の鍵を与えましたよ」と仰った。 ペテロはその鍵をイエスさまからいただいた。 恐らく今までイエスさまが持っておられた鍵だったんでしょう。 それをペテロに与えたんですね。 「あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
鍵ってどんな鍵だったんでしょうかね? 「開けたり、締めたり」(※右手を鍵穴で回すふりをして)って風に言わないで、(※両手こぶしを胸の前でくっ付けたり離したりして見せて)「繋いだり、解いたり」という表現をイエスさまはされている。 どんな鍵だか分からない。 同じ表現がマタイの福音書18章の18節にも書かれていますけれども、 ペテロは一体何を繋いだり解いたりしているんだろうか?
ギリシャ語の原意を紐解きますと、色々な解釈がそこから生まれるんでしょう。 でも私(戸塚伝道師)はあえて日本語に拘ってみたいと思いますね。 繋いだり解いたりするって一体何だろうか? 繋ぐ――それは人と救い主を繋ぐのではないだろうか? 解く――悪の束縛から解き放つ。 繋いだり解いたりすることができるような鍵をペテロはもらった。 そういう鍵ではないだろうか? 天の御国の扉の鍵って、そういう鍵。 私たちと救い主を繋いで、悪の鎖から解き放つ鍵――これは一体何だろうか? それは人を救いに導く行為ではないだろうか?
そしてそれはすべてペテロ次第なんだ。 ペテロが信仰告白に基づいて、その鍵を、イエスさまからいただいた鍵を使うことができる。 で、恐らくこの時のペテロにとって、何のことだかさっぱり分からなかったでしょう。 鍵?そんなの貰ってない。目にも見えないし(笑)。 でも分かるようにさせられる時がやがてやって来るんですね。
ペンテコステの日、聖霊に満たされたペテロの説教で、3千人の人が洗礼を受けます。 救いの鍵をペテロは使ったんですね。 「あなたは人間を捕るようになるのです。」――ルカの福音書の5章の10節で以前読ませていただきました。 マルコの福音書1章の17節には、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスさまは仰った。 それが実現するわけですね、救いの鍵を使って。 そして世界で最初の教会が誕生した。エルサレム教会です。 「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)という先程お読みしたイエスさまの預言的なメッセージが、このペンテコステの日に成就するわけです。
恐らくこの時ペテロは全然そんなことは分からなかったし、この時知らされていないことを、今私たちは知っていますね。 ペテロがこの時知っていないこと――それはイエスさまの十字架と復活です。 イエスさまの十字架と復活による救い。 ペテロに与えられた救いの鍵というのは、イエスさまの十字架と復活による救いというものによって、教会が、キリスト者が用い続けて来た。 そして連綿と続く恵みの流れが、今のこの私たちに、この私に届けられたということなんです。
教会で礼拝する今の私たち。 でも私たち一人一人に、イエスさまがこの時ペテロに与えられた鍵が、私たち一人ひとりにも届けられている、と言えるのではないでしょうか? なぜなら、私たちもペテロと同じ信仰告白をしているからです。 「あなたは生ける神の子キリストです。」 私たちの信仰告白。ペテロと同じ信仰告白をしている私たち。
そこで3つ目のメッセージ――私たちの信仰告白そのものが、すべての人の救いの鍵である、ということですね。 私たちの信仰告白がすべての人のための救いのカギ――え、そんなすごい責任重大なことをイエスさまから与えられているんですか?(笑) ペテロにはできたかもしれません。でも私には無理です。 でも、当然ですよ。ペテロのようなことはできません、私たちには。それはイエスさまの特別な恵みがあったから、ペテロにはできたんです。
でも私たちは、ペテロと同じ信仰告白はしているわけですよ。 「あなたは生ける神の子キリストです」という、私たちの信仰告白。 この鍵を与えられている以上、そのままにしておいていいのかなぁって思うんですね。 私たちは信仰告白を使っていきたい。現わしていきたい。 「あなたは生ける神の子キリストです」という3秒間で言えるこの言葉を、多くの人々のために用いさせていただきたいし、用いていただきたい、神さまに。
この信仰告白っていうのは、様々な形で表現されています。 お祈りの中で、「あなたは神の子キリストです」と言うだけで、もうそれは立派な信仰告白ですけれども、 たとえば洗礼を通して、洗礼を受けるということは、立派な信仰告白ですね。 神さまの前に、教会の人たちの前に、「あなたは神の子キリストです」という信仰告白の証しが、洗礼です。
礼拝を通しても信仰告白ができます。 礼拝に行く姿を通して、それも信仰告白。 駅から教会に歩く。その歩く姿を見て、何も知らない人が見た時に、 「あ、あの方、この日曜日も教会に行かれているんだなぁ」と思うでしょう。歩く信仰告白です(笑)。
身に付けるものを通して信仰告白されている方もいらっしゃるでしょう。 十字架のアクセサリー、或いはTシャツ。 (故)大山正さんには愛用のTシャツがありました。(※天の窓60号2022/06/05発行にその写真があります) 明るい黄緑色のTシャツを愛用していて、そこにはNo Jesus, No Lifeと印刷されていた (※右手でご自身の胸を右から左に書くように、二行渡して見せて)それが大山さんの遺影にもなっていましたけれども、No Jesus,No Life《キリストなくしていのちなし》立派な信仰告白をされて天に帰られました。 【※先生方はそう仰ってましたが、大山未亡人とお電話した時、それは善く奉仕されていたギデオンのTシャツだそうで、《イエスさまなしの人生なんて意味がない》ということで私たちは合致したのでしたT・Y】
或いは証しや伝道を通して信仰告白をする場合もあるでしょう。 最近は宗教の勧誘という言葉が、すごく否定的に取られるような時代になりました。 勧誘、ま、無理やり勧誘はしなくてもいいのかもしれない、この時代。 宗教臭さを無理やり出す必要はないのかもしれない。 でも証しや伝道を通して、一生懸命信仰告白をされている方々は沢山いる。
或いは自分の与えられている仕事を通して。自分の生きざまを通して。 神さまとともに在る、あるがままの姿を見ていただくことを通して。 立派な信仰告白ですね。 コロナ禍の中での大変な状況の中で奮闘している姿を通して、お祈りしながら奮闘している姿を通して、それも信仰告白でしょう。
与えられた賜物を通して。 高津教会にも様々な賜物が与えられた方々が大勢います。 その賜物を通して、信仰告白をされている。
来週岩渕まことさんが来てくださいますけれども、岩渕まことさんの賜物は、ギター、作詞作曲、トーク、歌ですね。 ものの見事に神さまはそれらを用いられておられる。
ある場合には、口に出さない信仰告白もあるかも知れない。 心に念じるだけの信仰告白。でもそれが不思議と人に伝わる場合がある。 自分でも認識できない、言葉にならない存在感があるのかもしれない。 「私はクリスチャンです」と一言も言ってないのに、何か伝わるようなものが、 ま、オーラというのでしょうかね、雰囲気というのでしょうか、 私たち一人一人の心の中におられる聖霊を通して、それが滲み出て来るようなものがあるのかもしれない。
究極的には、何も意識しなくても、ただ生かされているだけで、立派な信仰告白ということもあるのかもしれない。 野の花のように、その花らしく咲いていることが、神さまへの賛美となっていることがあります。
ああ、私たちもこの存在を通して、信仰告白を通して、イエスさまのすばらしさを一人でも多くの方々に知っていただき、 そしてすべての人の救いのカギを私たちは持っている、ということを改めて認識しながら、 今週もどなたかに、あの人に、救い主イエスさまの恵みが届けられる機会が与えられることをお祈りしたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、「あなたは生ける神の子キリストです」――このように告白し、あなたを救い主として礼拝するひと時を感謝いたします。どうかこの信仰告白の恵みが自分だけ、教会の内向きの集まりの中だけに止まらず、あの方がこの方が救い主と出会う機会となるために、どうぞ私という存在を用いてください。そして今週も日々の様々な状況のただ中で、あなたが私たちの告白する通りの救い主であられることを分からせてくださいますように、生ける神の子キリストの御名で天の父にお祈りいたします。アーメン。
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