☆聖書箇所 創世記48:1〜16 1これらのことの後、ヨセフに「お父上が、御病気です」と告げる者があったので、彼は二人の息子、マナセとエフライムを連れて行った。 2ヤコブに「息子さんのヨセフが、今お見えになりました」との知らせがあった。それで、イスラエルは力を振り絞って床の上に座った。 3ヤコブはヨセフに言った。「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、 4仰せられた。『見よ、わたしはあなたに多くの子を与える。あなたを増やし、あなたを多くの民の群れとし、この地をあなたの後の子孫に永遠の所有地として与える。』 5私がエジプトのおまえのところにやって来る前に、エジプトの地でおまえに生まれた、おまえの二人の子は、今、私の子とする。エフライムとマナセは、ルベンやシメオンと同じように私の子となる。 6しかし、二人の後でおまえに生まれる子どもたちは、おまえのものになる。しかし、彼らがゆずりとして受け継ぐ地では、彼らは兄たちの名を名乗らなければならない。 7私のことを言えば、パダンから帰って来たとき、その途上のカナンの地で、悲しいことにラケルが死んだ。エフラテに着くにはまだかなりの道のりがあるところでだった。私は、エフラテ、すなわちベツレヘムへの道にあるその場所に、彼女を葬った。」 8イスラエルはヨセフの息子たちに気づいて言った。「この者たちはだれか。」 9ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった息子たちです。」すると、父は「私のところに連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。 10イスラエルは老齢のために目がかすんでいて、見ることができなかった。それで、ヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけして抱き寄せた。 11イスラエルはヨセフに言った。「おまえの顔が見られるとは思わなかったのに、今こうして神は、おまえの子孫も私に見させてくださった。」 12ヨセフはヤコブの膝から彼らを引き寄せて、顔を地に付けて伏し拝んだ。 13それからヨセフは二人を、右手でエフライムをイスラエルの左手側に、左手でマナセをイスラエルの右手側に引き寄せた。そして二人を彼に近寄らせた。 14ところがイスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭に置き、左手をマナセの頭に置いた。マナセが長子なのに、彼は手を交差させたのである。 15彼はヨセフを祝福して言った。 「私の先祖アブラハムとイサクが、 その御前に歩んだ神よ。 今日のこの日まで、 ずっと私の羊飼いであられた神よ。 16 すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、 この子どもたちを祝福してくださいますように。 私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、 彼らのうちに受け継がれますように。 また、彼らが地のただ中で 豊かに増えますように。」
☆説教 敬老祝福:ヨセフ(19)ヤコブの最後
ずっと元旦礼拝からヨセフ物語のシリーズを学んで参りました。そして19回目で、今日が最後であります。 創世記の48章を見ていただきました。 実は先週の聖日が敬老の説教にふさわしいと思いながらも、ま、順番からすると先週開かざるを得ませんでした。
先週の説教は、ヤコブは一族を連れてエジプトのヨセフのところに移住して行きます。 そして王の前に立った時に、「あなたの年齢は幾つだ?」という王の質問に対して、
ヤコブは「私の人生の旅路」と表現いたしまして、思わずそこに労苦ばかりが溢れていたかのように言います。 「私の生きてきた年月はわずかで、色々なわざわいがあり」(創世記47:9)と表現いたします。
しかしそのわざわいの中で、彼は実は様々に祝福を受けていたと、聖書の中で告白しています。 ある苦難の中で、子どもたちに言いました。35章の3節ですね。 <創世記35:3> 3私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。
「苦難の日は沢山あった。そして今回もそうだ。でも神は今回も答えてくださり、私の歩んできた道にいつも共にいてくださった神を礼拝しよう」 とヤコブは一族皆に伝えます。
私(藤本牧師)は、先週亡くなったエリザベス女王の晩年の、2021年のクリスマス・メッセージから引用してお話を閉じました。 エリザベス女王のメッセージも、その讃美歌のフレーズで閉じられていました。 「すべての年々の希望と恐れは、今晩、あなたのうちに出会う、一つとなる」 という「今晩」はクリスマスの話でありまして、讃美歌の引用は「ああベツレヘム」でありました。 《様々な年月の希望も恐れも一つとなって、イエス・キリストのうちに出会う――この希望を私たちはイエス・キリストのうちに持っている》ということを忘れてはならないと思います。 ヤコブの晩年も、私たちの晩年も、振り返るとそういうことが見えてくるのでありましょう。
そして今朝はヤコブのお話を通して、ヨセフ物語のシリーズを終えようとしています。 聖書に従って、二つのポイントで見て行きます。まず第一番目に――聖書を映しますね。 【画面:創世記48章1節「御病気です」にオレンジ色の囲み、2節「力を振り絞って床の上に座った」3節全文に同色の傍線4節「この地を」に同色の囲み】
<創世記48:1〜4> 1これらのことの後、ヨセフに「お父上が御病気です」と告げる者があったので、彼は二人の息子、マナセとエフライムを連れて行った。 ***これ、「御父上が病気です」という意味ではないです。これは「お父上の最後です」という意味ですよね。
1)聖書をちょっと上に上げますと、ヤコブは実はこの段階で(※47:29を指差して)自分の死期が近いことが分かっていました。
【画面:創世記47:29「死ぬ日が近づいたとき」「私に愛と真実を尽くしてくれ〜葬らないでほしい」30節「私が先祖とともに眠りについたら〜葬ってくれ」にオレンジ色の傍線】 <創世記47:29〜30> 29イスラエルに(***ヤコブですね、と説明】死ぬ日が近づいたとき、彼はその子ヨセフを呼び寄せて言った。「もしおまえの心にかなうなら、おまえの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。私を(***死んだら、と加えて)エジプトの地には葬らないでほしい。 30私が先祖と共に眠りについたら、エジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってくれ。」・・・
という約束事を交わした後に、いよいよ亡くなる時がやって来たというのが、この48節であります。 ヤコブはこの時点で、目もかすんで見えませんでした。年齢は147歳であります。 ヨセフを呼び寄せて言った言葉は「愛と真実を尽くしてくれ」と。 大変だろうけれども、「私をエジプトの地には葬らないでほしい」と。
「死んだら、私の遺体をエジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってほしい」。 墓のある周辺の畑は、地上で寄留者であった遊牧民のアブラハムが、唯一購入したカナンの土地でありました。 それは妻のサラが先に亡くなった時に、その土地を購入してそこに墓を作り、そこに葬り、やがてアブラハムもそこに入り、ヤコブの両親・イサクとリベカも、またヤコブの妻・レアも先に亡くなりこの墓にある、ということが48章の後半(***?創世記49:29〜33)に出てまいります。
彼は別に私有墓地に拘っていたわけではありません。 でも、エジプトから運び出して、神さまが「わたしはあなたを連れ上る、エジプトへ。しかし同時に、わたし自身があなたをこの地にもう一度戻す」(※創世記46:4) と仰った、その約束に従って行動しているわけです。 神さまはヨセフに「この土地をあなたに与える」と仰ったその約束を信じて、 「そこに葬ってほしい、エジプトではなく」と言っているわけですよね。
最初に言えることは、人生の最後が近づくと、ヤコブは自分に与えられた最後の仕事をしているわけです。 家族はこうしてほしい、と伝えられたことを実行に移すことを考えているわけですね。
我が家の話になって申し訳ないのですけれども、こういうのもあるかなぁと、そういう意味で聞いていただきたいと思うのですが―― 私の父(故藤本栄造牧師)の最後は95で、そしてそれに向かいながら、明確な意識がありました。 94歳の時に母は召されていましたけれども、末期がんでありましたので、ま、どちらが先に逝くか分からないという中で、母が先だろうということを父は考えていました。 そしてどうしても母の葬儀を出す。こういう形で出す。 説教者、それから讃美歌、ありとあらゆることを父は(想定)して、自分が喪主としてここに立つ(笑)という――ま、そういうことを。
私と姉は父を説得しました。 「いくら何でも、葬儀には来られないよ。今の状態で喪服どうやって着替えるの?」 父は姉に「おまえが来い。そして着替えるのを手伝え」と。 「そうすると、サンダルでは無理なんだよ。革靴を履けるの?足がパンパンに浮腫んでいるのに」と。 私(藤本牧師)は最後ですね、「来るのはやめてほしい」と。 来たところで、母の葬儀を出している時に、父がそこで息を引き取ったら、 「葬儀の最中に喪主が息を引き取るというのは、いくら何でも無理だと思う。 OさんとIさんがちゃんと配信してくださるから、この自分の部屋で葬儀を見る。 で、戸塚先生が父の最後の挨拶の文章を代読という形で、文章を残してほしい」 と言ったんですけれども、頑として聞きませんでした。
「牧師の道で様々な苦労を幸子にはかけたと。せめて葬儀は、ぼくが喪主として出たい」と父は言ったんですよね。 私たち子どもはあまりの頑固さに呆れていましたけれども、圭子(夫人)が「いいんじゃないの、本人が一番望んでいるんだから」(笑)という、その一言で私はもう納得しました。 そうか、本人が強く望んでいるなら、この晩年に、それを叶えてあげる、何とかして叶えてあげるというのが、子どもたちの仕事なんだなぁという風に思いました。
母に同じようなことを聞くと、「私は何の願いもないから、どうか自由にやってくれ」とこう言います。 人によってそれぞれ違うんだろうと思いますが、でも唯一母は、 「死に装束として、白のサテンのガウンを用意してあるから、それを着せてほしい」 と、姉に言いました。で、姉は、 「ごめん、満と引越しの時に、それは捨ててしまった」(笑)と言うんですよね。 姉と私は確かに両親が施設に引っ越す時に、最後のケアハウスの片付けをしました。 箪笥の中から、その白いガウンを見つけて来たんですよね。 姉がそれを私に見せて、「今更、流石にこれは着ないよね」と二人で確認して、捨ててしまったんですね。 母は、「あれを着て最後棺に入りたかった」と言って、それは叶えてあげることはできませんでした。
(創世記47章)29節(後半)のこの言葉ですね、ちょっともう一回、47章最後から見ていただいて、 【画面:創世記47章29節「死ぬ日が近づいたとき」「私に愛と真実を尽くしてくれ。〜葬らないでほしい」にオレンジの傍線】 「私に愛と真実を尽くしてくれ」と父親はヨセフに言っているんですよね。 これ言い方を変えますとね、家族の絆というものを、死に行くヤコブは強烈に意識した。 そして願うヤコブ、それに答えるヨセフ。 私(藤本牧師)は願いは何であってもいいと思います。 でも願うヤコブ、それに答えるヨセフ――そこにあるのは家族の間に存在する愛と真実です。 もう少し普遍して言うなら、これから先何があっても、おまえたちは愛と真実を尽くし、神の御前を生きてほしい、という願いがあったと思います。
2)二番目のポイントは48章の1節――今日読んでいただきました。
【創世記48章1節「御病気です」にオレンジ色の囲み】 これらのことの後、「お父上が、御病気です」というこの言葉から始まります。 いよいよ近いと分かった時に、ヤコブは自分の息子マナセとエフライムを共に父のもとに連れて行きます。
ちょっと、見てください、2節にこうありますね。 【画面:創世記48章2節「力を振り絞って床の上に座った」にオレンジの傍線】 2ヤコブに『息子さんのヨセフが、今お見えになりました』との知らせがあった。それで、イスラエルは(***ヤコブは、と言い直して)力を振り絞って床の上に座った。
これなかなかできないですね。 これからヤコブがしようとしていることを皆さんにお話ししますけれども、これは実は寝たままでもできることです。 でもヤコブは「力を振り絞って床の上に座った」ということは、彼は《この最後の仕事に自分の残るいのちの一滴を注ぎ込んだ。》 それはいったい何だったのか?と言いますと――
@【画面:3節全文に同色の傍線、4節「この地を」に同色の囲み】 3ヤコブはヨセフに言った。「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、 4仰せられた。『見よ、わたしはあなたに多くの子を与える。・・・・・・この地をあなたの後の子孫に永遠の所有地として与える。』
という神が私に現れて、約束してくださったことを、再び振り返っているんですよね。 《ヤコブがしたことというのは証し》でありました。
「永遠にこの土地を与える」ということを、後のイスラエル国家は妙に拘るようになります。 紀元70年にローマの手によって、国は滅び、民族はバラバラになり、イスラエル史というのは迫害の歴史になってしまいます。 しかし1950年頃、もう一度今のイスラエル国家が建設されるまでの間、イスラエルの人々はパレスチナを永遠の所有として与える、という神の約束として固く握りしめます。
パレスチナという国土は、ユダヤ人にとっては神さまの祝福であり、実質でありました。 でもイエスさまのユダヤ人批判を見ますと、 《いつの間にか彼らは目に見えるもの――すなわち土地、民族、割礼、お祭りごと、宗教制度――というものに神さまの祝福を限定してしまっていた》 という懸念は、イエスさまから読み取ることができます。 神の祝福というのは、何も土地、人数、そんなものに限定してるものではないです。 でもイスラエルは――あくまでそれは民族として大きくなること、国家として土地を持つこと――そちらの方向にどんどん傾いて行ってしまいます。
でもヤコブの意図はそういうことではありませんでした。 《全能の神が私に現れ、私を祝福してくださった》ということを証ししたいのです。 《全能の神が私に現れ、私を祝福してくださった》――その証しを家族にしたいんですよね。
(※ヤコブが力を振り絞って最後にしたことのもう一つは――) Aヤコブはヨセフが連れて来たエフライムとマナセという孫を祝福します。
「私のところに連れて来なさい」(48:9後半)と。 祝福の手が交差しますので、「お父さん、そうではないですよ」と、ヨセフが正すんですけれども、「いやいや、このままにさせてくれ」と。 それは次男のエフライムの方がやがて部族として大きくなる、ということを見て取って、エフライムを祝福したんですけれど、ま、両方とも祝福したんです。
「祝福する」という動詞が、実は何回も出て来ます。 先週の個所では、ファラオの前に立った時に、ヤコブはファラオを祝福したと。 「祝福する」ってどういう意味なんだろう? 今日の個所を見たら、よく分かります。15節から16節を読んでいきます。いいですか? 【画面:創世記48章14節「右手を伸ばして弟」にオレンジの傍線。15節「祝福して言った」「ずっと私の羊飼いであられた神よ」に同色の囲み。16節「すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように」に黄色のハイライト】
<創世記48:15〜16> 15彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。(***祝福というのは祈ることですね、と説明)今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。 16すべてのわざわいから私を贖われた御使いが、この子どもたちを祝福してくださいますように。・・・
すると、ヤコブの一番最後の仕事っていうのは、神さまに祈って、「どうか私の子どもたちを、孫たちを守りください」というこの言葉に尽きるわけですよね。
今日特別に私たちが意識しています教会のご高齢の皆さん、どうか、子どものために祈りましょう。 ご自分のご家族の子どものために、孫たちのために。そして教会の子どもたちのためにも。 またそのように祈ることをいつも実践して来られたならば、何も死ぬ間際にこうやって祈る必要はない、ということも含めて、 いつも子どもを祝福する高齢者、子どもや孫をいつでも一番大切にする親にもなる。
その「大切にする」というのは、めったやたらに可愛がるという意味ではないです。 神に祈る――神の祝福が私に現れたように、この子らにも同じように現れることができるように。 神さまはその祈りに必ず答えてくださいます。 晩年、そのように祈れない時もあります。ですから生きている時に、そのような祈りを生きていくことが大切です。
ちょっと象徴的な話をして終わりにいたします。 高津教会の公子さんは、ちょうどヤコブのような方でありました。 60代前半位ですかね、先に川崎に住んでおられたご長男が、三重県からお母さまとご家族を呼び寄せ、そしてまるでエジプトに引っ越すかのように引っ越して来られました。
晩年、様々な苦労をお母さまは通られました。 ご長男のご夫妻が、自分の家においてお世話をし、次男の方が今度は自分の家においてお世話をし、それから北海道のご長女がお世話をしという形で、 最後はもう一回北海道から東京に戻って来て、ご長男とご次男のご家族が世話をされます。 もう一度北海道に行きます。 そして北海道に転勤になったご次男が、最後公子さんの目を閉じるんですよ。 ヤコブのようだなぁと思いますね。
ずっと60位まで三重県に住んでいた。そして、三重県の教会で家族みんなの信仰が育って行った。 でもそこから急転直下で川崎。でも家族はみんな一つ。 そして共に主に仕え、主に感謝し、晩年ほとんど自分の意識がきちっと持てない中、 子どもたちに世話になりながら、一番下の息子に最後目を閉じてもらうという。
そうして高津教会の墓地に納骨されるために、皆さん集まって来られました。 私たちは久しぶりにご家族の再会に加えていただき、皆さんが本当にその当時から考えるとご立派になったなぁという感動で一杯でありました。
その後、ご長男の方が三人のきょうだい――長女、次女、次男にメールを送るんですね。 そのメールのコピーを私に回してくださいました。 私(藤本牧師)の生涯忘れ得ぬメールの一言なんですけれども、メールはこう始まっていました。
「母はいったい子どもたちに何を残したんだろう?母の遺産は何だったんだろう?」 という問いかけでメールは始まるんですよね。 勿論、それは言うまでもなく、ぼくは信仰だと思うと言う。 で、きょうだいたちに、長男として、これからも母の信仰をみんなで受け継いで、神と出会い、苦難の日に神が共に歩んでくださるような人生を送って行こう、という決意のメールをご長男の方がみんなに回しておられました。 お母さまは、晩年相当弱っておられました。 子どもたちに祈られても、子どもたちを祈る力はありませんでした。 しかし人生日頃から神さまの約束を心から信じ、神さまご自身が連れ上り、連れ下り、連れ帰り、どこにあっても共にいてくださるというその信仰の姿を、お母さんは生きていかれたんですよね。 ですから最後静かに目を閉じながらも、残されたメッセージはヤコブと同じ。 母は別に土地を残してくれたわけではない。財を残してくれたわけではない。 いったい何を残してくれたのか?それは信仰だったなぁという、 そういう実感を子どもたちが持つことができるようなご高齢者、そういう生き方でありたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま――ヤコブはヨセフに言った。「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、仰せられた(創世記48:3と4の初め)。父なる神さま、ヤコブはその通りのことを自分だけでなく、子々孫々に至るまで、《格別に自分の子どもたち孫たちに、神が共にいてくださる、という実感を得ることができるように》、最後あなたに祈りました。 で、私たちはヤコブと同じように、最後だけではありません。人生の途上で祈る度に、自分の家族のために祈ります。「どうかこの子に全能の神が現れてください。どうかこの子を祝福し、この子の人生を私と同じように、いつもあなたが伴って歩んでくださいますように」という祈りの姿勢をもって生きることができるように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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