☆聖書箇所 コロサイ人への手紙1:15〜20
15御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。 16なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。 17御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。 18また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。 19なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、 20その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
☆説教 ケネス・コリンズ先生(アズベリー神学校):忘れてはいけない、キリストこそ創造主
(※英語を聞き取ろうとしていましたが、藤本先生にお聞きしますと、先生の原稿は10枚以上もあるそうで、到底私の手には負えないと思いましたが、通訳された原稿だけでよいとのことで、とは言いましても原稿は送られて来てませんので、日本語は藤本先生の通訳されたお言葉を書いています。T・Y)
In the recent past, the Global Church has often neglected many great intellectual challenge of the day,ここ二十年位の傾向ですけれども、世界の思想的な潮流に教会は答えて来ることをいたしませんでした。 Especially at the term of 20th century,20世紀の、ま、中盤ぐらいからand it has basically ・・・concerns about personal and social effects.教会が関心を持ったのは、個人の救いとそれから社会的な倫理の問題でありました。 多くの場合、教会の神学者たちは救いの教理・救済論にフォーカスを当ててしまったのです。勿論それは教会の生命線であります。
しかし使徒パウロが今日読んでいただいたところを見るように、イエス・キリストがこの被造物の世界全体に関わっている、というような教えから教会は往々にして目を逸らして来ました。 イエス・キリストが私たちの救いのために一体何をされたのか?ということは大切な聖書の教えでありますけれども、しかしこの全世界、自然界、コスモス、宇宙全体にキリストが何をされたのか?ということも、実は聖書が教える重要な教理の一つなんです。
ですから今朝はコロサイ人の手紙の1章の15節〜20節を見ていただきました ここでパウロはイエス・キリストへの賛美を記しているわけですけれども、キリストがまさに自然界にあるすべての存在と関わっておられる、という事実に主の御名を崇めているわけです。
パウロの言葉使いをちょっと見てみましょう。 17節「御子は万物に先立って存在し」と記されています。 今日エホバの証人、或いは教会史を振り返ってみますと4世紀がアリウス主義という流れがありますけれども、 ま、エホバの証人もそうですが、御子イエス・キリストは被造物の一部であって、神より一段下の者という風にキリストを見ていました。 しかしながらアリウス主義に対抗して4世紀のアタナシオスは、イエス・キリストはまさにすべてのもの、万物に先立って存在していた、ということを改めて強調いたします。 すなわち御子イエス・キリストは被造物の一部ではなく、すべての被造物とは別の次元の存在であるということです。
18世紀のジョン・ウェスレーの思想の中では、この考え方はもっと明快です。 すべての被造物が生まれる前に、神はビゲットという同質の存在を創り出し、創り出すというよりも同質の存在としてキリストは存在していた、というのがウェスレーのものの言い方です。 キリストは永遠から永遠に至るまで、すべての時空を超えた存在であります。 その意味で、御子イエス・キリストがすべての上にある、被造世界の大もと、或いは被造世界以前の存在である、ということに私たちは真実に心を留めてみなければなりません。 キリストこそが第一の者であり、キリストこそがすべてに先立って存在しています。 それは、その存在のランクにおいても、すべての存在の時空においても、キリストが第一の存在であるということです。 すべてのものに先立ち、すべてのものの上におられるのがキリストです。
ですからキリスト教がほかの宗教との対話に関わるときに、時に対等の立場で対話しようと言っておきながら、キリスト教には対等の立場に立つことがなかなか困難であります。 なぜですか?少なくとも、ほかの宗教の中ではイエス・キリストをほかの宗教の創設者、ほかの宗教の中心たる存在と同列に並べてこそ、初めて対話が可能だと考えるものです。 このようにキリストをほかの存在と同じように扱うということは、イエス・キリストが質的にほかの存在と全く異なっているということが主張できないところへ、キリスト教は自分の身を置かなければなりません。 イエス・キリスはこの世界に存在する宗教のすべての指導者、創設者、それ以上の存在であるということが、キリスト教の信念です。 イエス・キリストは独特な存在です。 永遠から存在し、そして万物に先立って存在するお方です。
キリストは、すべての宗教が崇拝している主だった存在と比較にはなりません。 イエス・キリストは神の御子である、というものの言い方は、モーセが偉大な指導者であったということとは全然違います。 イスラム教のモハメッドであれ、或いは儒教の指導者であり、孔子であれ、どんな存在であったとしても、「キリストは万物に先立って存在」する(***コロサイ1:17)とパウロが記している限りにおいて、質が全く違うわけです。 こういう言い方をすれば、ストレートになるのかもしれませんけれども、人間である限りにおいて、そのような宗教の指導者がどれほど偉大であったとしても、罪人である点では私たちと変わりはありません。 簡単に言えば、そうした偉大な人物もこの人間という大きな大きな問題の一部にしか過ぎないわけです。 ということは彼ら自身が問題なので、彼らは私たちを贖うことはできないということになります。
事実、偉大な宗教家というものは、イエスさまのような自己主張をなさった試しがありません。 イエスさまは仰いましたよね。「アブラハムが存在する前に、わたしは存在している」(***ヨハネ8:58)と。そのようなことを宗教家が言うはずもありません。 繰り返しますけれども、神の御子だけが永遠から永遠に存在するお方です。 偉大な宗教指導者というものが、多くの信者を従え、そしてどれほど高く上げられていたとしても、パウロがここでイエス・キリストのために宣べているようなことが、彼らに言えるでしょうか? 聖書を見てください。(コロサイ1章)16節に「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られた」――そんなことを言える人がいるんでしょうか? このように言えるのは、イエス・キリスト以外には存在していません。
私たちが聖書から学ぶことは、御子イエス・キリストは私たちのたましいの問題に関わっているだけでなく、この宇宙全体、この自然界、被造物全体に深く関わっておられるということです。 勿論ある人々は、キリストにそのような卓越した存在性を認めず、キリストもまた人間の一部であると考えるような神学もございます。 マーリン・クラウスという人の書いた書物のタイトルをちょっと紹介します。 宇宙論、それから宇宙天文学の専門家がこういう本を書いています。興味深いタイトルなんですね。 「かつて歴史上で語られた中で、最も偉大な物語」というのがその天文学者が書いた書物の名前です。 ところがその本を開いてみますと、エネルギーの話、そして素粒子の話、そして物質の話、そうした宇宙に存在する非常に地球的なものが記されているのみです。
「教会が語っている偉大な物語」というのは、単に物質がどのように関連しているのか、どのように派生しているのか――そういうことではございません。 クラウスが想像した以上のメッセージを私たちは持っています。 星座ができた過程、そして宇宙がどのような力学で存在しているのか、っていうことを、考えてみたらよろしいんじゃないでしょうか。 この世界に存在するこの宇宙と言うものが、どういうエネルギーで、どういうデータで、どういう力学で動いているかということを、どれほど追求したとしても、 もしそこに、宇宙の成り立ちについて最も大切な要素を加えることができるとしたならば、 それは16節の最後、見てください。 「御子によって造られ、御子のために造られた」というこの言葉が、先程の天文学者の書物の中には全く入ってないわけです。 その意味で、私たちクリスチャンと言う者は、天文学者クラウスが言った「かつて語られた中で最もすばらしい物語」のさらにすばらしい部分をここに持っていると、いうことができましょう。
パウロのこの言葉をじっくり味わっていただきたいと思います。 すべてのナラティヴ(物語)の中で、イエスに関する福音書のナラティブほど偉大なものはないです。 万物を造られ、その方のために万物が造られて、その方によって万物が造られたような至高の存在が、なんと肉を取り、私たちと同じ人間になられたというのが福音書のメッセージです。 単純にイエス・キリストは人となり、私たちの間に住まわれただけでなく、遜った姿勢を取り、やがて十字架に架かり、私たち人間存在の底の底にまで到達された方がイエス・キリストです。 キリストは遜って、犠牲的な愛をもって、私たちを愛してくださいました。 キリストこそは世界の中におられ、この世界はキリストを通して造られたにもかかわらず、世界はキリストを認めようとはしませんでした。 「キリストはご自身の民のところに来た」とヨハネの福音書の1章に書いてあります。 しかしながらイスラエルの民は、イエス・キリストを受け入れることをいたしませんでした。
そうなりますと、私たちが信じている信仰の世界と、化学が説いているこの自然界の原理という、この宗教的なものとそして科学的なものは、どういう風に融合していくと思われますか? 科学と私たちキリスト教信仰というものは、科学と聖書の教えというものは、私たちは聖書を通して神の言葉を聞き、また福音の響きをここから汲み取りますけれども、 このバランスを私たちはどういう風にして取っているんでしょうか?学校に行けば、大学に行けば、科学や数学や物理学の話を吸収し、教会に来れば、聖書を通して神の権威と信仰の話を聞きます。 そのバランスを私たちは一体どういう風に取っているんでしょうか?
カール・セイガンという物理学者がいますけれども、こんなことを言いました。 彼は天文学の所謂天文物理に満足することはありませんでした。 天文学者なんですけれども、物理的な天体の移動、成り立ち、そういうことだけに満足した人物ではありません。 ですから、天文学から始めてなんと彼は哲学に手を染め、天文学を通して彼は宗教を考えるようになります。 カール・セイガンの有名な「コスモス」と呼ばれるテレビ番組のシリーズがありました。 こういう風に始まります。彼のことばです。 「宇宙というのは、かつて存在し、今存在し、そしてこれから存在するそのものが宇宙だ」と。 しかし実のところ、それは物理学的な科学のステートメント、言説ではなく、どちらかというと非常に哲学的な響きを持っています。 つまりそれは彼自身の確信であって、それからまた21世紀に入りますと、ユーバー・ハラーリという無神論の哲学者がいますけれども、彼は「科学というものが様々な信仰教理を吸収していった」という現代の現象を語っています。
それは人生というものは一つのデータプロセスであって、人のいのちという、ま、尊い、私たちも掴みきれないものですけれども、それはデータ処理であり、アルゴリズムでありという最近テレビでもよく聞くような話ですよね。 そういう世界で化学をもって、人間を処理しようとする。 ハラーリが言うには、「私たち人間はデータプロセスを理解することによって、人間世界、人間存在の隅から隅までを理解できる」と彼は言うわけですね。 そうなりますと、人間って一体なんだ?人間とはインターネットを通して存在するデータの収集、データの総体にしか過ぎません。
そうすると、ここに失われているものを、皆さん、気づかれます? 私たちが信じていることは、人間というものは神のかたちによって、神の似姿によって創造されたんだというのが、キリスト教の第一前提ではないですか。 人間は神の似姿に創造されただけでなく、キリストが私たちのように受肉され人となることによって、人間存在の価値というものは、はるかに高くなって行ったわけです。 キリストが私たちの間に住み、私たちのうちに住み、そして神の栄光を私たちに現わしてくださるとしたら、人間の尊厳、人間の存在意義と言うものは単なるデータプロセスの総体ではないわけですよ。 私たちは決して人間存在の意義っていうものを、理解することができません。 まず第一に、イエス・キリストが一体どのようなお方であるのか、っていうことが分からずして、人間存在が分かるはずがないと。 「彼のうちに、彼を通して、イエス・キリストのために、すべてのものは造られた」と記されています。
こういう風に考えてみますと、いわゆる世の中が考える所の人間学と、聖書が教える所の神学というものは、実は真理の両輪のように動いていかなければいけない、ということが理解できます。 聖書の真理に私たちはもっともっと集中しなければいけないんです。 それはイエス・キリストは、単なる私たちのたましいの救い主だけではない。 キリストはこの自然界の、被造世界の秩序、その成り立ちと深〜く関わっておられる。 そのようにしてみると、人ひとりひとりの尊厳、人ひとりひとりの価値というのは、キリストが人になったことによって、はるかに高く私たちは持ち上げられた、という現実に気づかなければいけないと思います。
ですから、科学の或いは世の中の学問が私たちを隅っこに押し込めようとする、そういう行為に対して、私たちはもっと胸を張って、聖書の真理を掲げて、「自然も化学もキリストのものだ」と言うことができるのではないでしょうか?
もう一度聖書を見ていただきましょう。 19節、「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、」と書いてありますね。 17節には、「御子は万物に先立って存在し、」とございますでしょう。 16節の最後の「万物は御子によって造られ、御子のために造られました」と記されています。 「見えるものも見えないものも」です。「王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られた」と16節にあります。 「すべてのものはキリストを通して造られ、キリストのために造られました」(16節) 「すべての存在に先立って存在」(17節)しています。 そしてキリストのうちに、すべてのものは一つとなる、一つのものと保たれている、と記されています。 ですから皆さんに、「キリストの御名によって祝福がありますように」と私は切に祈ります。 同時に20節の最後にありますように、「地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しと」された。 この「地にあるものも天にあるものも、イエス・キリストを賛美することができるように」と私たちは祈ります。アーメン。 (※お二人、笑顔を見合わせ)「ありがとうございました」(と藤本牧師。) (※コップの水を飲むように勧められ、口にして席に戻るケネス・コリンズ先生)
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちは幼い頃から教会学校においてイエス・キリストがすべてであり、しかし年齢を経て学校に行き、やがて学問をたしなみ始めると、途端に信仰がつまらないものに見え、聖書の教えが古代の教えに感じ、私たちは必死になって大脳生理学者や或いは天文学者の言っている深〜い真理に耳を傾け、最近においてはデータサイエンスというものがこの世界を支配しているように感じますが、実は私たち一人ひとりは、どんな人物であれ、どんな状態であれ、神のかたちによって創造され、またそれだけでなく、イエス・キリストが私たちのうちに、間に住むことによって、私たちの尊厳は遥かに高いものに上げられている。
そして私たちが習った教会学校の基本的な教えと、私たちが大学院で習うところの天文学や物理学の教え、それらは決して分離されるものではなく、すべてのものはキリストによって造られ、キリストのために存在している、という真理に感動することができるように。時に自然界を見、また宇宙の星を眺めながら、自分の人生を考えることができるように助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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