☆聖書箇所 マルコ4:1〜20
1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。 2イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。 3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 4蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。 5また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、 6日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。 7また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。 8また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」 9そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」 10さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。 11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。 12それはこうあるからです。 『彼らは、見るには見るが知ることはなく、 聞くには聞くが悟ることはない。 彼らが立ち返って赦されることのないように。』」 13そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。 14種蒔く人は、みことばを蒔くのです。 15道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。 16岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、 17自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 18もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、 19この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。 20良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
☆説教(奨励)前段のお話し 伊藤大輔CS教師
おはようございます。『第五週の男』に指名されました(笑)伊藤大輔と申します(笑)。 いつも本当にお祈りありがとうございます。 さっき、上(保育室)で息子が見ているんですけれども、なんか控えめに手を振ってくれました(笑)。たぶん「失敗しないように頑張れよ」ってそんな風に言ってくれてんのかなぁ、って思いながらお祈りと応援を感じています。
また高校生のあきら君も、「来週、僕話すんだよね」って言ったら、ま、無謀だったんですけれど「あの、一番前で聞いてくれない?」って言ったら「うん、いいですよ」って、翌日からテストなんですけれど、「いいですよ」って言ってくれて、実際(※左腕を差し出して)前で今日は聞いてくれています。滅茶苦茶嬉しいです(笑)。
ほんとに色んな方がお祈りしてくださって、応援してくださっているんだなぁということをすごく感じています。ありがとうございます。 あのKGKのためにも、ぜひお祈りをよろしくお願いします。
先週の藤本先生からの紹介の中で、信徒伝道師(※定住伝道師になってくれればという話でしたね)っていうような話がありましたけれども、 私としてはあんまり過度にプレッシャーを感じず、ま、でも心地よくプレッシャーを感じながら、自分のペースで応答したいなぁと思っていますので、ご承知置きいただければと思います。 では少し奨励の時間をいただきたいと思います。
☆説教(奨励) 伊藤大輔CS教師:私を遣わしてください
高津教会の2024年の聖句はサムエル記第一3章10節です。 週報にも(※上の余白に緑の字で)に書かれていますけれども、「お話しください。しもべは聞いております。」です。 「聞く」ということを聖書を通して考えたいと思っていまして、今日読んでいただいた聖書の箇所に辿り着きました。
マルコ4章3節には「よく聞きなさい」という言葉から始まります。 そしてまた、そのたとえの終わりには、9節「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉で締めくくられています。 特にこの9節の「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉は、すごく強烈でした。 耳というものは、聞くものなので、「聞くべき耳」とか「聞く耳を持つ」みたいな言葉ってそう聞かないと思うんですね。 そういう意味で本当に強烈なインパクトを覚えました。
ま、そういう意味では譬え話がこれからず〜っと続いて行くんですけれども、マルコの福音書を読むと9つ譬え話が続きますが、その中でも最も大事な譬え話だということができるのではないかと思います。 「聞きなさい」から始まって「聞く耳のある者は聞きなさい」で締めくくられますので、ま、一番大事なと捉えることができるんではないかと思っているわけです。
今日の聖書の箇所は、4つの土地について説明されています。 マルコの4章を読んでいきたいと思いますので、聖書の方をご覧ください。 <マルコ4:3〜4> 3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 4蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
この当時、種をまく人は、特定の場所に沢山蒔くというよりは、歩きながら色んな所に蒔くというのが当たり前でした。 ですので、これを聞いている人たちは、特に違和感なく聞くことができたと思います。
1つ目は道端に落ちました。 人々が歩いて硬くなった道端では、種は地中に根を張ることが出来ません。 その結果、鳥がそれを見つけて食べてしまいます。そんなことが書かれています。
2つ目の土地は岩地です。5節―― <マルコ4:5〜6> 5また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、 6日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
見た目は他の土地とあまり変わらないようです。 我々が想像するようなごつごつした岩地ではなく、石灰岩の地層の上に土壌が薄くおおいかぶさっているようなイメージを持つと良いということです。 ここでは、根を張ることができず、日が昇ると枯れてしまいます。
3つ目は、いばらの地です。 <マルコ4:7> 7また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。
茨には生命力があります。 そのような地に落ちると、他の植物が必要とする水や光を遮り、上手く実を結ぶことは出来ません。
そして4つ目、この地は良い地です。 <マルコ4:8> 8また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
ということで、良い地に落ちると30倍、60倍、100倍と大収穫になります。 種1粒まけば、30粒、60粒、100粒の収穫があると考えると分かり易いかも知れませんけれども、そういうことですね。
「これがたとえ話です。これで解説は終わりです。では祈りを捧げます」 って言ったら、(笑って)え?って皆さん言ってくださってありがとうございます。 これでメッセージ終ったらおかしいです。 「え、なに?」って思いませんか?「もうちょっと話してよ〜」とか、「説明をもっとしてよ〜」って思いますよね。 でもイエスさまはこれで終わったんです。 イエスさまはこれで解散にして、群衆を帰しました。 弟子たちは当然もやもやしたと思うんですね。「これではダメでしょう。どういう意味なんだ?」って。
それでは消化不良だったので、弟子たちは聞くんですね。 <マルコ4:10> 10さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
イエスが急に教え方を変えたんですね。 今までは譬え話を使って話すということはあまりなかったようですけれども、 その理由はマルコの3章に書かれていて、「イエスには悪霊がついている」とそういう情報・噂が流れて行くんです。 そこから群衆に対する奇跡や話を一旦止めにして、たとえで話すようになっていきます。
さて、譬え話とは一体何かということを確認したいと思います。 たとえ話――これを英語で言うと、parableという単語があります。 parableのparaとは対になるという意味があります。 対比するというような言葉に使われることのある接頭語です。 つまり、たとえ話とは、二つのものを対比するということなのです。 日常的に起こる事例を取り上げて、そこから霊的、キリスト教的真理を教えるということです。
もう少し分かり易く言うと、知っていることを通して、知らないことを学ぶ――それがたとえ話の一番大きなメリットであるということです。 イエスが群衆と弟子たちに向かって種まきのたとえ話をします。 そこから考えると、種まきは、聴衆からするとよく知っている日常的なこと、 そして、この種まきの話を通して、イエスさまが霊的な真理、キリスト教的な真理を伝えようとしているということがわかります。 それをよく聞きなさいと言うことなのです。
それでは、イエスさまが私たちに本当に語りたかったことは何でしょうか。ご一緒に見ていきましょう。 たとえ話だけで終われば、すごく短いんですけれども、ごめんなさい、結構準備して長くなっちゃったんで、もしかしたら長くなるかもしれません。 退屈だったらすみません。
一旦、11節から13節は飛ばしたいと思います。あとで戻って来たいと考えています。
1)みことばの聞き方
たとえの解説である14節から共に見ていきましょう。 <マルコ4:14> 14種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
まずここで分かることは、種とはみことばであるということです。 そして、みことばを蒔くのはイエスさまです。 つまり聞き手、土地は私たちの姿であるということが容易に想像することができます。
では、4つの土地の意味を確認したいと思います。 ●先ずは道端です。 <マルコ4:15> 15道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。
さて、道端君です。 みことばを蒔くのはイエスさまで、受け取る私たちは土地ですから、少し親しみを込めて、敬称をつけて話したいと思います(笑)。道端太郎君ですね。 この人たちは、福音の真理は自分たちには無関係だと考えています。 今日明日食べることの方が大切なのです。永遠の命とか死後の世界とか、罪とかとりあえず自分には関係ない、宗教は関係ないと考えています。 そういう人は鳥が来て食べてしまいます。この鳥というのはサタンのことだと聖書は教えています。
●二番目は岩地さんです。16節〜17節 <マタイ4:16〜17> 16岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、 17自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
みことばを聴いて、すごいすごい、信じる信じると篤い信仰を見せる方です。 すごく大きな信仰を持つのですが、土壌が浅いのでみことばに根ざした生活ができない。信仰を持てない、そういうような方です。 信じてはいるんですけれども、みことばが深く落ちて来なくて、それを学ぶということがないです。 どちらかというと体験主義的な信仰かもしれません。 だから、「信じたら、こうなった」「祈ったら、成功した」というような話が大好きです。しかし、困難や迫害が来ると、すぐにつまずきます。なぜかというと根が浅いからです。
●三番目は、茨木君です。 <マタイ4:18〜19> 18もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、 19この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
この人も信じていますが、霊的勝利を自分のものにできていません。 みことばを知っているかもが、自分の人生に適応していません。 信仰生活と日常生活が別の部屋になっています。 信仰以上に本音のところで大事にしている偶像を持っています。 富、健康、快楽、成功、などが自分のゴールとなっています。 日曜日に教会に来る顔と日常の顔が違うかもしれません。 周りの人に「実は私はクリスチャンです」と言うと、「へえ、ちっとも知らなかった」と言われるタイプの人です。 正直私(伊藤大輔CS教師)も、2番目3番というのはよく当てはまるなぁって思ってる部分があります。
●そして四番目、「良い地」さんって言いたいところなんですけれども、そういうのをあまり苗字で思いつかないので、ま、希望をもってご自分の名前を入れましょう。 <マタイ4:20> 20良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」
みことばに根ざした生き方をしている人です。 聖書をよく読んで研究をしていて、聖書やキリストが自分の判断と行動の基準となっていく。 そういう人は、周りの人にも好影響を与えていきます。 そして、30倍、60倍、100倍となっていきます。
この四種類の聞き方がある、とイエスさまは言われているわけです。 私たちの聞き方は、本当に「良い地」でしょうか?必ずしもそうとは限りません。 時に熱しやすく冷めやすい私たちは、まさに「岩地さん」のような信仰を持っています。 「茨木君」のように世の価値観に流されて生きて行くことなんて、社会に生きていればほんとに良くあることかも知れません。 そして一番最初――これは自分には当たらないかなぁと思っている――「道端君」のようになってしまうことすらあるんですね。 みことばに関して自分が無関心だ、という風に思ってしまうこともあると思います。
2)私を遣わしてください
さて、イエスさまがたとえ話をする理由は、日常的に起こる事例を取り上げて、そこから霊的、キリスト教的真理を教えるということでした。 果たして、日頃のみことばに対する態度、聞き方というものは、弟子たちにこの種蒔きの譬えを通して教えたかったことなんでしょうか? 11〜12節を見てみましょう。 <マルコ4:11〜12> 11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。 12それはこうあるからです。 『彼らは、見るには見るが知ることはなく、 聞くには聞くが悟ることはない。 彼らが立ち返って赦されることのないように。』」
11節でキーワードになることが、皆さんお分かりだと思いますが、《神の国の奥義》です。 あなたがたとは、弟子たちのことです。 弟子たちには、神の国の奥義が与えられているが、弟子でない外の人たちには、たとえで話されるということです。 つまり、弟子以外には、あえてたとえ話にして、神の国の奥義が分からないようになっているというように聞こえます。
極めつけには12節です。たとえ話がされる理由は、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることがない、そして、彼らが立ち返って赦されないためだというように言っているようです。 逆なら分かります。たとえ話を用いれば、外の人たちにも神の国の奥義が分かるようになるためです、ならOKです。 しかし、弟子たちのような内の人たちには、神の国の奥義を打ち明けるけど、外の人たちには、見たり聞いたりするが、よく分からず、立ち返って赦されないようにたとえ話を語るのだと説明しています。
分かります?すごいですね。 100回聞いても分かる気がしない箇所だと、個人的には思いました。 私たちが普段神さまに抱いているイメージは、愛ですよね。 内なる人にも外の人に対しても愛をもって接してくださる、そういうお方だ――そういう風に思っていますので、 そういう意味では何というか、想像外というか、「えっ、神さまってこんな非情でしたっけ?」って思ってしまうような部分かも知れません。 でもそんなことはありません。新約聖書の二重鍵かっこになっているみことばは全て、旧約聖書からの引用です。 この箇所が引用されているイザヤ書にあたり、このみことばにはどんな背景があって、どんな意味があるのかを見たいと思います。 そうすると、神の国の奥義とは一体何かが少しはご理解いただけると思います。
二つ目のポイントは、これはイザヤのことばですが、今回の奨励のタイトルにしましたけれども、「私を遣わしてください」です。 ではイザヤ書6章9節10節をお読みしたいと思います。お開きいただきますでしょうか。 旧約聖書の1176ページです。 これからのお話し、ずっとイザヤ書を開きながらお話ししていきますので、どうぞページを開いていただければなぁと思います。 <イザヤ6:9〜10> 9 すると主は言われた。 「行って、この民に告げよ。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな』と。」 10 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、 立ち返って癒やされることもないように。」
この箇所が引用の元になります。 ちなみにこんなに厄介そうな箇所なのに、新約聖書では実は何度か引用されているすごく大事な箇所なんです。 さて、9節10節の神の言葉は、イザヤに対してのものです。 6章はイザヤの召命の箇所としてとても有名なところです。 簡単に復習していきたいと思います。1節から一緒に見て行きます。
イザヤは、預言者として神から預かった言葉をイスラエルの民に語って来ました。 信仰的に妥協が起こっていたこの国にイザヤは厳しい預言を語り、不正を正そうとしていました。 イザヤ6章1節を見ると、ウジヤ王が亡くなった年であることが分かります。 ウジヤ王はとても良い王で、イザヤを後押ししてくれていた王です。 そのウジヤが亡くなった時、イザヤは天の神が御座に座っているという幻を見ます。 そして、その幻は、セラフィムという御使いが神を礼拝しているシーンです。
ちなみに、御使いと言うと頭にわっかがついたふわふわした可愛いものを想像するかもしれませんが、2節を見るとそんなに可愛くないですね。 翼が6つついていて、二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、もう二つで飛んでいる感じです。思っているよりも少しいかつい感じがしますよね。
そのセラフィムたちが神を礼拝しています。 神を見たイザヤは、大変なことになってしまいます。5節です。 <イザヤ6:5> 5 私は言った。 「ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の【主】である王を この目で見たのだから。」
神を見て、自分の汚れた唇に意識がいったのです。そして、自分は滅びると思ったのでした。 イザヤは神の言葉を堂々と語っていた人です。それなりに自信があったはずです。 しかし、神を前にして自分の汚さが分かったのです。 神に出会い、その聖さに触れて、自分の罪が明らかになったのです。 預言者ですから唇が汚れているなんてことはないです。
例えば、皆さんが野球がすごく得意で、普段から大活躍しているとしても、大谷翔平選手が目の前に現れたらどうでしょうか。 大谷選手の前でいい所見せよう!とはなりません。 むしろ、自分の野球技術のちっぽけさに、自分の野球技術なんて大したことがないと心の底から思ってしまうでしょう。 自分の技術を見せるのも嫌になってしまうと思います。 イザヤと神の出会いは、全然次元が違うかもしれませんが、きっとそんなイメージです。
イザヤが戸惑っているところに、セラフィムの一人が飛んで来て、火鉢の中から炭火を持って来ます。 これが7節です。 <イザヤ6:7> 7 彼は、私の口にそれを触れさせて言った。 「見よ。これがあなたの唇に触れたので、 あなたの咎は取り除かれ、 あなたの罪も赦された。」
セラフィムが持って来た炭火がイザヤの唇にあたると、罪が赦されたというのです。 これがまさにキリストの身代わりの十字架を表しています。 その時、イザヤは神の声を聞きます。8節―― <イザヤ6:8> 8私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(***イザヤはすぐに応答します、と説明)私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
開かなくて大丈夫なんですけれども、ヨハネの福音書12章41節には、このシーンを次のように記しています。 <ヨハネ12:41> 41イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。
イザヤは、イエスに出会ったのです。 ヨハネによるとこの目の前にいる神は、三位一体の神、つまりイエスだと明確に書き残しています。 イエスは、イザヤに自分の代わりに福音を伝えてくれるかと聞きます。 イザヤは、「私がここにいます、私があなたの代わりに行きます」と力強く宣言します。 罪赦されたイザヤは、もう戸惑っていません。
そして、今日取り上げている9節、10節の言葉です。もう一度お読みします。 <イザヤ6:9〜10> 9 すると主は言われた。 「行って、この民に告げよ。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな』と。 10 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、 立ち返って癒やされることもないように。」
「私が行きます!」と意気揚々と福音を伝えに行こうと思ったときに、 イエスさまは、 「言っておくが、あなたが語っても、聞き手には悟ってもらえないよ」 と言われたのです。 やっぱり、「ええええ」ですが、マルコの時よりは状況をよりつかみやすいです。 イザヤは、イエスさまの栄光に触れて、罪赦され、そしてその使命に燃えて遣わされて行こうとしたときに、 「言っておくが、この派遣は簡単なものではない。 あなたがいくら素晴らしい福音を語っても聞かれないよ。 道端太郎さんが山ほどいるんだ。 そして、その人たちは聞いていても右から左、霊的なことは必要ない、肉体的に満足してればよい、そういう人たちは、立ち返って癒されることもない」 と言われるのです。
マルコが引用したイザヤ6章9節、10節は、《イザヤのように神と人格的に出会い、自分の罪を知り、その罪が十字架で赦されたことを悟る人はそうはいない。》という意味です。 そういう意味では、ネガティブな言葉に聞こえますが、この言葉は、イザヤが遣わされる前に語られた派遣の言葉なのです。 《そんな状況でも、神はイザヤを遣わす!》と、そういう意気込みがここにはあるのです。
続く11節のイザヤの言葉「主よ、いつまでですか」は自分の使命を受け入れる覚悟が感じられます。 <イザヤ6:11> 11私が、「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。 「町々が荒れ果てて住む者がなく、 家々にも人がいなくなり、 土地も荒れ果てて荒れ地となる。 12 【主】が人を遠くに移し、 この地に見捨てられた場所が増えるまで。
自分だったら、「もう嫌です」とか言っちゃいそうなんですけども、 「いつまでですか?」と、そこまでだったら期間によっては耐えますと、そういうことだったかも知れませんね。 あきらめの言葉ではなく、どこまでそれは続くのかと尋ねます。 すると主はお答えになります。「町々が荒れ果て、住めなくなり、家々がなくなり、土地が荒地となり、この地が見捨てられた場所になるまでだ」と答えられます。 途方もない期間をイザヤは言い渡されるのです。 それでもイザヤは、9節10節の派遣を引き受けるのです。
イエスさまが、「聞きなさい、聞く耳を持ちなさい」とお話ししたのは、 ただ、聞き方を教えたかったわけではなく、《イザヤのように神に出会い、罪を自覚し、それが全てが赦されたということを理解しなさい》という意味なのです。 つまり、私が神と人格的に出会うこと、それが「聞く」ということなのです。 そして、神さまは、そんな私たちを遣わしてくださるのです。
3)神の国の奥義の譬え
3つ目のポイントは、種に戻って行きます。「種を蒔く」ということです。 改めてこのことについて考えたいと思います。 そのために、マルコの福音書4章は、《神の国のたとえ》であるということについて考えたいと思います。
マルコ4章11節で、イエスは、弟子たちには神の国の奥義を与えていると言いました。 弟子たちは、イエスと出会い、自分の罪が分かり、そしてそれを全て解決してくださる方がイエスキリストだと信じてついて行きました。 イザヤと同じく人格的に神と出会った人たちです。 つまり聞く人には、弟子たちと同じように神の国の奥義が与えられます。
では、一つ一つ言葉を確認していきたいと思います。 まず、《奥義》とは、何でしょうか。 それは、旧約時代には隠されていたが、新約時代にイエスご自身が明かす真実のことです。 そういう意味で、《イエスキリスト自体がその奥義》と言えると思います。 聞く者の人生には、キリストが心に来られて、キリスト中心の人生に変わります。 種まきのたとえの文脈で考えるならば、《奥義は、「伝道」》だと言えるのではないでしょうか。
ユダヤの社会において、キリストの福音を伝えるという概念はほとんどありませんでした。 特に異邦人に伝えるということは、旧約時代には、重きがおかれていないはずです。 来た者には教えてあげるが、来なければ、伝えるものではない。 みことばはユダヤ人だけの与えられた特別なものだという伝統を持っていたわけです。 しかしイエスは、《私たちが福音を伝える時代が来る》ということを奥義として弟子たちに教えたのです。 まさに私たちの時代に向けての奥義と言えるのです。 ずっと前から、福音を全世界に宣べ伝えていくことを計画していたのです。 これは驚きです。 まだ十字架にもかかっていない、復活もしていないこの時代に、神は、そのずっと先までご計画されていたその事実に私は驚きました。
次に《神の国》です。 神の国という言葉は、様々な意味で使われていると思います。 まずは、天国。神が支配している霊的な世界は神の国です。 王国は王が統治している場所であるように、神が統治している天国は、神の国です。 また、神はこの地をも創造されたお方ですから、そういう意味では、この地上もまた神の国と言えるでしょう。 そして、福音を知らない人が多くいるこの世、この時代も神の国だということができるかも知れません。 しかし、何よりもイエスの教えに従って私たちが生きるなら、私の心を支配するのもイエスだということです。 つまり、《神の国はあなたの心の中心にイエスがいる状態》のこと。 つまり私たちの人生そのものです。 イエスに人格的に出会い、キリストを心の中にお迎えしているならば、私たちの人生にも神の国は来ているのです。
マルコによる福音書4章以降、イエスさまは、たとえ話を通して神の国とは何かを明かしていきます。 神の国の奥義とは、《神を心に迎えて、自分の人生の中心を神に明け渡し、その喜びをこの時代、この世に、分かち合うこと、伝道すること》です。 だからこそ、ただ聞いているだけでは、神の国の奥義は受け取ることができないという話になっていき、11節や12節のような言葉になるのです。 この言葉は、《イザヤにとっての派遣の言葉》でしたよね。 「世の中甘くない、簡単な使命ではない。でも行ってきなさい!」という神が、私たちを送り出す言葉です。 てことは、この言葉で締めくくられていて、この後から解説が始まるマルコの方も、派遣のことばだと捉えることはできないでしょうか?
私たちは、たとえ話から神の国の奥義を受け取っているでしょうか。 ただ聞くことが求められているのではなく、人格的に神と出会うこと、そして自分の人生の神としてイエスを迎え入れること、その上で、福音伝道に派遣されることが書かれているのです。 イザヤは、全てを聞き、受け入れた時に、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と神への応答へと導かれたのです。 サムエルもそうです。「お話しください。しもべは聞いております。」 これは、ただ聞くという言葉ではなく、ある意味、「私がここにいます。遣わしてください、しもべは聞いております」という主体的な応答ではないでしょうか。
マルコの福音書の種まきのたとえは、私たちに正しい聞き方を求めるためだけのたとえ話ではありません。 その意味もあると思います。 単純に「良い土地のようになろう!」ということではなく、「福音の種をわたしのために蒔いてきてくれないか」という神の国の奥義のたとえ話なのです。 信仰をもって行動することが聞くということです。 イザヤやサムエルがそうでした。 イエスと人格的に出会い、罪が分かり、赦された弟子たちは、《種まきに遣わされる》のです。 みことばを伝えることに召されるのです。 マルコの4:14には、こんな風に書いてありましたよね。14節―― <マルコ4:14> 14種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
ここしかマルコは読みませんので大丈夫ですよ。(※と会衆の誰かに)
よく見ると誰が種を蒔くかは書いていません。 何となくイエスさまかなぁ、神さまかなぁと思っていましたけれども、そんな風に書いてないです。 文脈から考えて、種を蒔く人はイエスさまだと思ってしまいますけれども、《種を蒔く人たちは、実は私たち》なのです。 神の言葉を受け入れ、イエスを自分の人生の中心とし、伝道していくようになるという奥義に触れた私たちは、イエスさまから《福音の種まく者としての使命》を引き継ぎ、「私を遣わしてください」と勇気をもって一歩踏み出すのです。
そう考えるとこのたとえ話の持つ意味合いは一変します。 種が蒔かれるのを待っていて、良い地になることを目標にしていた私たちは、受動的な信仰だったかも知れません。 しかし、イザヤのように「遣わしてください」という主体的なスピリットを目の当たりにした私たちは、「種蒔く人」として導かれていくんです。 それは主体的な信仰への招きが与えられているのです。
福音の種を蒔きに出て行く時に、受け取られ方は、4種類です。 良い地に落ちればいいですが、そうとも限りません。 全く相手にされないかも知れませんし、信じてもらえるかも知れませんが、続かないかも知れません。 いくら一生懸命にみことばの種を蒔いていても不毛に思えるのです。 失望するかもしれません。しかし、それで良いのです。 《それでも神は、私たちを用いたいのです。》 私たちの使命は、種を蒔くところまでです。 種を蒔いても、聞くには聞くが、理解しない人がいるものです。 しかし私たちは、あらかじめ、たとえ話を通して分かっています。 あとは神さまに任せればいいのです。
最後にイザヤ書6章13節の言葉を見ていきたいと思います。 <イザヤ6:13> 13 そこには、なお十分の一が残るが、 それさえも焼き払われる。 しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、 それらの間に切り株が残る。 この切り株こそ、聖なる裔。」
実は、ここで初めて希望が語られます。 「切り株が残る」――それが「聖なる裔」キリストだと言われています。 イザヤが「遣わしてください」と言ってから、 「自分の人生に神の国を実現するような人は、そうは現れない。そんな良い地ばかりではない」と語り、 「いつまでですか」と聞かれれば、 「全てがなくなるぐらいまで」とお答えになられた神は、キリストの希望を話します。 「かなり大変な状況だが、残された切り株がある、聖なる裔、キリストが来る」と仰るのです。
イザヤ6:13の「聖なる裔」という言葉は、英語で読むと「holy seed」となっています。聖なる種です。 私たちが蒔いているのは、holy seed 聖なる裔、つまりキリストです。 その希望がある、と神はイザヤに語りかけています。 私たちに託されている種は、もう間違いのない、真理の種であるということです。 あとは神さまが育ててくださいます。
種蒔きの譬えを聞いた勘の良いユダヤ人たちは、もしかしたら思ったかもしれません。 「ああ、イザヤ書のことばだ。この種がキリストなのか。」 遣わされた先で、どんな大変な状況があったとしても、希望の光である「聖なる裔」「holy seed」「聖なる種」がある。 私たちの使命はこの聖なる種を蒔くことです。 私たちが蒔いた種は、30倍-60倍-100倍と神さまが祝福を広げてくださるはずです。 神さまは、信仰をもって応答する者を大きく遣わしてくださいます。 「誰を遣わそうか。誰がわたしのために行ってくれるのだろうか」(イザヤ6:8)という神の声を正確にキャッチしたいなと思います。
「よく聞きなさい」とは、神と出会うことで、罪を認識し、その罪が十字架によって赦されたという信仰をもって行動することです。 ただ聞くだけでは、神の声ともよく分からなかったサムエルも、信仰をもって。「しもべはここにおります」(***Tサムエル3:10)と応答しました。 イエスに出会ったイザヤは、「私を遣わしてください」(イザヤ6:8)と応答しました。 では私たちの応答は何でしょうか? イエスに出会った私たちには、神の国の奥義が与えられています。 「聖なる種蒔く者にさせてください」と応答したいと思います。
☆一言祈ります――伊藤大輔CS教師
天にいらっしゃいます父なる神さま、私たちはちっぽけで弱い存在ですけれども、聖なる種を蒔く者にしてください。この祈りを愛する主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。 (※コップの水を飲み、席に戻る伊藤大輔さん)
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