☆聖書箇所 Tペテロ3:8〜12
8最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。 9悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなた方は祝福を受け継ぐために召されたのだからです。 10 「いのちを愛し、 幸いな日々を過ごしたいと思う者は、 舌を押さえて悪を言わず、 くちびるを閉ざして偽りを語らず、 11 悪から遠ざかって善を行い、 平和を求めてこれを追い求めよ。 12 主の目は義人の上に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。 しかし主の顔は、 悪を行う者に立ち向かう。」
☆説教 祈りに召される
久しぶりに第一ペテロの手紙に戻りました。 なんとか年末礼拝を含めて、これを終えることができたらなぁと思いますが、拙速なことはできませんので、しばらく今日はお付き合いいただきたいと思います。
有名な聖書の箇所なんです。もう一回8節から読んでいきます。
8最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
次が特に有名ですね。
9悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
悪をもって悪に報いず、却って祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから。
アメリカには、特有な表現で、クリスチャン・リアリズム(キリスト教現実主義)という言葉があります。 この言葉を用いた人物は,アメリカ恐らく最大の神学者、ラインホールド・ニーバー。 N・Yのユニオン神学校、コロンビア大学で教えていた人物でありますが、言いたいことは簡単です。 現実主義とは、この世界の現実です。 この世界の現実というのは、悪をなす者がいて、人から攻撃され、国同士がぶつかり合い、この世界に生きていますと、イエスさまが仰ったような、「右の頰を打たれて左の頰を差し出す」(***マタイ5:39)ようなことをしたら、家族は守れない。国が滅びてしまう。 そしていつの間にか、アメリカという国は何でも裁判です。そして日本では考えられないような、法外な請求が右から左に飛び交う世界になってしまいました。
ですから、やられたら、やり返さなければならないという現実がこの世界にはあるというのは、私たちは良く知っています。 たとえ私たちが神の国の市民であって、たとえ私たちがイエス・キリストの福音に心底コミットしていたとしても、あくまで神の国はいまだこの世界に完成を見ていない。 私たちは両方の地盤に足をつけるかのように、今のこの世界にあっては、平和主義は理想論に過ぎない。 だからキリスト教としては、やっぱり現実主義を追求せねばならない。 でなければこの世界に正義はなりたたないです。 これがキリスト教現実主義です。
キリスト教とはいえ、イエスさまの教えとはいえ、私たちは現実にこの世界を生き抜いて、責任を果たし、自分を・家族を・国を守らなければいけない。 これは、アメリカだけではなく、キリスト教国全般、イギリスでもドイツでもフランスでもある程度成り立つ、現実主義です。
ところがアメリカには、ドイツ敬虔派、主に、フィラデルフィアのあたりから入植してきましたメノナイトと呼ばれる人々がいます。 メノナイトと呼ばれる人々は、キリスト教の中では、徹底した平和主義者です。 徹底しています。 たとえば冷戦時代に、アメリカの国家予算の40%近くが国防費、特に核兵器を中心とした兵器開発に用いられていたことがありました。 メノナイトの人々は、明確に税金を支払うことを拒みます。 そして、それは憲法的に許されました。 つまり自分たちが払っている税金の40%が軍事費に用いられるんだったら、払わないと――それほど彼らの平和主義は徹底していました。
アメリカ社会において、メノナイトから税金を徴収しなくても十分やって行けるぐらい、実はメノナイトの人々は少数派です。 ほとんど相手にもされない時期もありました。
しかし、そこに強力な神学者、ハワード・ヨーダーという人物が現れます。 彼の使った言葉を今日はちょっと捉えていただきたいのですが。
彼は、ラインホールド・ニーバーの言う「キリスト教現実主義」を逆手に取って、「聖書現実主義」ビブリカル・リアリズムという言葉を用います。 私はこのことを、先日、兄弟団の聖会に行きましたときに、それを研究している一宮教会の中島真実(なかしま・まさみ)先生から教えていただきました。 「聖書現実主義」って、どういう意味なの? 彼はいろいろ教えてくれました。
聖書の教えは、私たちがそれをどのように受け取るか以上に、実はそれを最初に語り、最初に聞き、最初に実践していたイエスさま、イエスさまの弟子たち、 初代教会の人々が、それをどう受け止めたかをまず第一に考えるべきだ、と。
つまり、ヨーダーが言うには、イエスさまが、そしてペテロが、「悪に対して悪に報いず、侮辱に対して侮辱に報いず、かえって祝福を求めなさい」と教えたときに、それを受け取った時に、イエスさまもペテロも、当時の人々も、それを理想論とは考えていない。 教えたイエスさまも弟子たちも、それを実際に生きるように教えている。 それを実際に実践するように、彼らは受け取っている。
だからこそ、明確に「あなたがたは神の国の市民なのです」と言う。 「あなたがたは神の国の市民なのです」というのは、理想論の問題ではない。それは現実的なリアリティーを持ったテーマとして、当時の初代教会の人々はきちっと受け取っていた。 もちろん当時の人々も、今日の私たちと同じような複雑な社会の状況、人と人との争いを抱えていたにもかかわらず、キリストの十字架によって神の子とされた私たちは、この世の現実に振り回されずに、先ず神の国の現実というものを彼らは追及していた。
そうなりますと、一つ言えることがあるとすると、今日の私たちの現実的な感覚が先に来てはいけない。 いつも聖書の現実主義が先に来なければいけない。 そして、ヨーダーは、常に聖書の現実主義が先に来るべきであって、それを私たちの直面している今日的現実主義で薄めてはいけない。 なるほど聖書を神さまの言葉と信じている私たちは、私たちの現実に聖書の教えを合わせるのでなく、聖書の教えが先にあって、何とかして私たちの現実をその聖書の現実に沿わせていくということを頭に考えなければいけない。
アメリカがあのテロリストの9.11を体験いたしまして、徐々に、大統領を含めて、特定の国をあの有名な「悪の枢軸」と呼ぶようになります。 やがてイラク戦争に傾いていく中、ヨーダーを含めた、数名の神学者が声明を出しました。 その声明はとっても興味深い。2006年に出された声明ですが、
*聖書に証しされたキリスト教には国境がないこと、キリスト教が帝国主義に妥協したとき、福音は信用を失うこと。
*戦争を選択する前に、あらゆる外交手段と国際協力の努力を惜しまないこと。 *敵を悪魔のように呼ばないこと、アメリカの政策を根本的に問い直そうとする人々を悪魔の手先と決して呼んではならないこと。 *そして、平和を作り出すことに、キリストを主とする世界は招かれていること。
そうしたことが、声明文の中に書いてありました。
どんなに現実的にそれを実行することが難しかったとしても、それこそが聖書が教えている現実であって、まずその現実を優先し、聖書現実主義を優先し、今の私たちの現状を何とかそれに沿わせていく、ということは、私たちの日常生活にとって、大変大切なことであります。 聖書の現実にしっかりと踏みとどまりたい。 なぜなら、私たちはイエス・キリストに従う者だからですね。 そこにしっかり留まって、自分の生活を何とかキリストの教えに沿わせていこうという覚悟がない限り、この世の現実感に私たちは流されてしまう
その事を踏まえながら、2つのことに今日は目を留めたいと思います。
1)「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから。」(9節) 悪に対して悪をもって報いず、なぜならあなたがたは祝福を受け継ぐために召されのです。 実は、ちょっとこのTペテロの3章の10節〜12節はかっこの中でくくってあります。 これは詩篇の引用なんですね。 ですから、この詩篇の34篇をちょっと見ていただきたいと思います。 詩篇の34篇からペテロが引用しているんです。 ペテロが引用している部分というのは、34篇の12節〜16節
12いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、 日数の多いのを愛する人は、だれか。 13あなたの舌に悪口を言わせず、 くちびるに欺きを語らせるな。 14悪を離れ、善を行え。 平和を求め、それを追い求めよ。 15主の目は正しい者に向き、 その耳は彼らの叫びに傾けられる。 16主の御顔は悪をなす者からそむけられ、 彼らの記憶を地から消される。
これが引用されているのです。ペテロが暗記していたので、そのまま引用したというよりは、自分の記憶の中から引用しているのでしょうけれども。 ここに、非常に興味深い言葉がいくつか出てきます。 ダビデの詩篇なんですが、彼は34篇の冒頭をちょっと見てください。 冒頭には表題が書いてありますね。
「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのように振る舞い、彼に追われて去ったとき」にこの詩篇(34篇)を書いているんですが。 ダビデがサウロ王に殺されかけてサウロの王宮を追われます。 そして、荒野で逃亡生活を送っていたときに、当時のガテという町(イスラエルの敵国ペリシテの町)にダビデは逃げ込みます。 逃げ込んでしばらくして、ダビデがサウロ王のもとから逃げて来たということが解ったときに、アビメレクはダビデを殺そうとします。 そのとき、ダビデは、気がふれたふりをしたのです。 口からよだれを垂らし泡を吹き、自分が気がふれているかのように振る舞った(***Tサムエル21:13)というのは、とんでもない屈辱ですよ。
追われたことも屈辱であれば、追われた先で再びいのちを狙われたことは複雑ですし、その難を逃れるために気がふれたふりをするというのは、ものすごく惨めです。 そんなダビデは、自分の事を34篇の6節に、「この悩む者が呼ばわった時、主は聞かれた」と、彼は自分の事を悩む者と呼びますね。 そしてそんな自分を、神さまは助けてくださる。7節――
7主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
確かに、ダビデは自分が通過している苦労に打ちのめされています。 あるいは19節見てください。
19正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される 20主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
こうやって見ていきますとね、 先ほどのTペテロの手紙でペテロが言う所の、「あなたがたは祝福を受け継ぐために召された」という言葉の意味が、少しわかってきます。
つまり、どんなに周囲から非難されても、悪を被ったとしても、呪われても、批判されても、神さまはあなたを助けてくださる、守ってくださる、あなたの骨はその一つさえも砕かれることはない。 あなたは神さまに愛されている、なぜならあなたは「祝福を受け継ぐように定められている、召されているからだ」と言うのです。
私たちの人生で、ものすごい失望と屈辱を味わうことは多々あります。 それでも、人間的な方法で打って出るな。立ち向かうな。 「神さまは、あなたを守ってくださる。神さまはあなたが祝福を受け継ぐように定めて、召しておられる」――そのことをしっかりと覚えて、 悪に対して悪をもって報いるというこの世の現実主義に染まらず、あなたは神の子どもであるということを覚えて、自分をのろう者を祝福しなさい。
これは確かに簡単なことではないですが、そう考えますと、次のポイントは生きてくると思います。 もう一回ペテロの手紙に戻っていただいて、3章の11節と12節を私が11節を読みますので、皆さんで12節を読んでください。
11悪から遠ざかって善を行い、 平和を求めてこれを追い求めよ。 12主の目は義人の上に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。 しかし主の顔は、 悪を行う者に立ち向かう。」
「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」先ほどの詩篇の34篇のダビデの祈りですが、祈らなかったら無理です。 私たちのこの世の現実があまりにも複雑で、そして周囲から様々な批判を受けているときに、神さまが仰った、「悪に対して悪に報いず、何とか神の愛に、自分の現実社会の複雑さを沿わせていこう」と思ったら、自分の力では無理です。 神さまの助けによって、この難局を乗り越えていくと本当に信じているなら、そう決意するなら、あなたは祈りなさい。 「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる」 と言うんだったら、祈らなかったら、神さまの耳はそちらに傾かない。
私たちは、聖書の中でおおよそ難しい、と思われる教えは沢山あります。 難しいのはもちろん、自分の能力の問題ではなくして、この世の基準から考えたら、このようなことをしていたら、却ってやられるばかりだ。 やられたら倍返し(大笑)。 私(藤本牧師)はほんとに、「倍返し」というドラマが、前にも申し上げましたように、好きでした(大笑)。 好きで好きでしょうがないので、全部見ましたからね。 自分の人生の中で、ドラマを全部見たのは初めてですね(大笑)。 最後の方にわかった、なぜ好きなのか? 自分は倍返しなんかしたことがないからです(笑)。全くできない。 大体やられたらやられっぱなしですから、倍返ししている人を見ると、気持ちがスカッとする(大笑)。 皆さんもそうなんだろうと、私(藤本牧師)は想像しているんですが。
私たちが時にですよ。じっと耐え、耐えて耐えて忍耐を培うという教えもありますよ。だけど詩篇の34篇はそうじゃない。 「この悩める者の心を、主よ、どうか耳を傾けて、私をこの悩みから救い出してください。私はあなたに望みをかけています」と言う祈りです。 その祈りをしているうちに、自分の心の中で悶々としている悪に対する怒り、それが溶けていくわけですよね。 で、神さまが代わりに私を用いてみわざをなし、私を彼らから引き揚げ、高いところに立たせてくださるという信仰に変わって行くわけです。
――ここでポイントのまとめをされる藤本牧師―― 1)「あなたは祝福を受け継ぐために定められています。召されています。」という意識。 2)それから祈ろう。 「神さまは義人の叫びに耳を傾けてくださる」と言うなら、神さまは倍返しする者の祈りには耳を傾けられない。 神さまが返すものは返してくださる。 私たちは祈って、その人物を愛するということを考えるのですね。
2)「祈りなさい」 12節
以前にも紹介しましたOMFの宣教師、スティーブン・メティカフというイギリス人の宣教師がいます。 彼は青森を中心に5つ6つの教会を開拓しました。 この前、私(藤本牧師)の友人の松村先生(JECA甲府教会)がそれらの教会を訪問された時に、今はとても難しい状況だと話しておられました。 よくイギリスからの宣教師が、鰍沢、五所川原、それから仙台に向けていくつもの教会を建てていくのですが、ああした日本の端の地域に教会を建てたなぁと感心したと仰っていました。
映画の「炎のランナー」で、イギリスの100メートル走者、エリック・リデルは1924年のパリ・オリンピックで、代表選手に選ばれていながら、「予選が日曜日の午前中にあたる、自分はどうしても神さまを礼拝したい」ということで、100メートルを辞退しましたね。 これは実話です。 代わりに彼は400メートルリレーのアンカーを走って、イギリスに金メダルをもたらします。 彼は最下位でバトンを受け取って、なんとトップに躍り出て優勝してしまいます。
一躍ヒーローとなった彼は、すべての陸上競技を捨てて、ハドソン・テイラーとともに、中国の奥地にキリスト教の福音を伝えるために、宣教師となって生涯を捧げます。 その彼は、上海で、日本軍の強制収容所で1945年に43才の若さで天に召されます。
収容所でエリック・リデル先生は聖書のクラスを開いていました。 みんなで「山上の垂訓」を学んでいるときに、「イエスさまの右のほほを打たれたら、左のほほを出しなさい」「あなたの敵を愛しなさい」という教えを聞くわけです。
このメティカフ先生は未だその頃少年だった。 「汝の敵を愛せよ」というイエスさまの教えには全くリアリティーを感じられない。 強制収容所の中で、これほど日本軍に苦しめられて、彼らを愛することなど、全くリアリティーがない。
そのとき、リデル先生はこう仰ったと言うのです。 「私もそう思うところだった、でも次に続く言葉に気がついたんだ。『汝を迫害する者のために祈れ』と書いてある。 私たちは愛する者のためには時間を費やして祈るが、イエスさまは愛せない者のために祈れと言われた。だから、君も日本のために祈れ。祈るときに、君は神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君の姿勢を変える」。
祈りは私たちの現実感を変えていくのです。
リデル先生は、収容所で亡くなります。 そしてこの青年(スティーブン・メティカフ)は、ハドソンテイラーの団体に入り、やがてOMF宣教師として、1953年に来日し、そこから38年間、日本人のために伝道し、神さまの愛を伝えます。 彼の人生を変えた言葉――それは「祈るとき、君は神中心の人間になる。祈りは君の姿勢を変える」
最初に話しましたメノナイトの神学者、ヨーダーの聖書現実主義。 聖書の現実に、自分の現実感をより添わせていく。 自分の現実感から聖書を薄めて読まない。 この聖書の教えは、まさにイエス・キリストがたましいを込めて語られ、当時の人々は、ペテロも弟子たちも、そして初代教会の人々はそれを真摯に受け留めた現実であった。 それが長い歴史の中で、単なる理想として処理されてしまった中、私たちはもう一度聖書の教えこそ第一の現実である。 私たちの現実は何とかしてそれに合わせていかなければならない、と考えるならば、私たちもまた、「祈りはあなたの姿勢を変える」ということをきちっと心にしまっておかなければならないと思います。
☆お祈り
主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。 (Tペテロ3:12) あなたがたは祝福を受け継ぐためにめされたのだから。(同3:9)
めぐみ深い天の父なる神さま、私たちにとって、イエス・キリストを信じていながらこの世界の現実に圧倒されて、キリスト教の現実は理想に過ぎないと考えてしまうことの方がよほど簡単です。 しかし初代教会から今に至るまで、真摯にイエスさま、あなたの平和を追い求めて来た人々が、その平和を貫く方法を苦労しながら引き出して来ました。そして常に彼らの祈りをあなたは聞いて来られました。どうか私たちも祈りから始めることができますように。 そして祈り、祈り、祈りながら、いったい何があなたの義を実現されることであり、そしてどうしたら私の心が、悪をなす者への恨み辛みから解放されて、その人物を大らかに見ることが出来るか、いつも私たちはこの問題に直面していますので、あなたの語るところの現実というものを私たちに教えて下さい。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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