☆聖書箇所 創世記45:1〜15
1ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。 2しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。 3ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。 4ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。 5今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。 6この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。 7それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。 8だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。 9それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください。 10あなたはゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。 11ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが、困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう』と。 12さあ、あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたに話しているのは、この私の口です。 13あなたがたは、エジプトでの私のすべての栄誉とあなたがたが見たいっさいのこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」 14それから、彼は弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンも彼の首を抱いて泣いた。 15彼はまた、すべての兄弟に口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼と語り合った。
☆説教 すべてのことを働かせて
まず一番最初に新約聖書のロマ書をお開きいただけませんでしょうか? ロマ書の8章の28節をちょっとご一緒に読んでおこうと思います。これでもうロマ書は開きませんので、ロマ書の8章の28節を開いて下さい。 しばらくそこに目を留めておいていただきたいと思います。一緒に読んでいきます。
ロマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
元旦から数えますと4回目です。28節を見てください。
28神がすべてのことを働かせて益としてくださる――これがこの聖句の中心にあります。わずか三つの言葉しかないということを申し上げました。 「すべてのこと」「共に働く」そして「益となる」です。 これをどう訳するかによって様々な聖書訳が存在すると申し上げました。
▽元旦では――1/1 「すべてのこと共に働いて益としてくださる」その主語を神ではなく、聖霊としたらとても文脈にマッチするとお話ししました。 聖霊はそして私たちは良く知っています。今の時の苦労を。そして聖霊はそんな私たちを支え、助けてくださいます。 そのように、聖霊が助けてくださるということを知っているのですから、決してあきらめないように、私たちのうめきにご自身のうめきを重ねてくださる聖霊に助けられて、共に祈り続けるという話をいたしました。
▽次の聖日では――1/4 「共に働く」ということばに注目しました。 新改訳聖書では、「神」が主語になっていて、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ですから、「共に働く」という言葉が明確になっていません。 でも昔の文語訳聖書では、「すべてのこと」が主語になっていますので、すべてのことが共に働いて、つまり「相働きて益となる」となっていました。 でももし、「すべてのこと」がでなく、「神」が共に働くとしたら、一体誰と、何と、共に働くんだろうか?
そうしますと、口語訳聖書が非常にすぐれた訳を出してきます。 神は、――いちばん最初の――神を愛する者たちと共に働いて、益としてくださる。 「神は、神を愛する者たちと働いて、万事を益としてくださる」ことを私たちは知っているというのは、私(藤本牧師)は割とすぐれた訳だなぁと思います。
そのようにして、神さまが与えてくださる土地を自分のものにするために、アブラハムは東西南北に歩き回り、気持ちよく努力して、そして与えられた場所で神を礼拝する、その姿を見ました。 神から与えられた土地でありますけれども、その土地を自分のものにするために、神と共に働くアブラハム。
▽そして先週の日曜日には、――1/11 「神を愛する者たち」と呼ばれている、「神を愛する者たち」というのは、どういう者たちなのか、さらにアブラハムから見ました。 それは一言で言えば、神さまに絶対的な信頼を寄せる人です。 イサクを捧げるという厳しい試練の中にあっても、アブラハムは神さまに絶対的な信頼を寄せて、神さまのもとから離れませんでした。 共に働いてくださる神のもとを絶対に離れず、いつでも神さまが私たちの名前を呼んでくださり、アブラハムのように「はい」と返事をし、そして神さまと共に働くことができたらと願います。
▽今日(1/18)は4回目で、「すべてのこと」です。これに注目します。 すべてのことを共に働かせて益としてくださる――おそらくこの「すべてのことが働いてあなたの益になる」ということを聖書の場面で探って行くならば、ま、創世記45章のヨセフになろうかと思います。 創世記45章を開いていただきましたけれど、先にその前段階の42章を見ていただきませんしょうか? 42章の36節に、ヨセフの父ヤコブがこんなことを言います。ちょっとご一緒に読んでみましょう。
創世記42章36節 36父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
前後関係は結構です。この聖句の一番最後の言葉――「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」 恐らく、私たちが失敗や別れを経験し、病や事故に遭うたびに、同じ言葉をつぶやくんですね。 「ああ、こんなことがみんな、私にふりかかってくるのだ、何の因果で、こんなことばかりが……」 一つや二つではない、だからヤコブは「こんなことがみな」と言っているんです。 望んでもいないことが、次から次へと私の上にふりかかって来る。
ヤコブがこんなことを言った状況を簡単に説明しますとね―― 彼には12人の息子がいました。その中で、11番目のヨセフを特別に愛しました。 でもその偏った愛のゆえに、逆にヨセフは兄弟たちのねたみを買うようになります。 そして殺されかけて、何とかいのちだけは免れて、エジプトに奴隷として売られます。 兄弟たちはヨセフの衣を剥いで、そこに動物の血を塗って、父ヤコブのところにヨセフが死んだ証拠としてその着物を持っていきます。
しかし、実はヨセフはエジプトで生き延びていたんですね。 主はいつも彼とともにおられました。 様々な試練を通して練り上げられ、神さまは彼に独特な地位を与えて、彼はやがてエジプトの総理大臣になって行きます。
十数年後、ヤコブと他の息子たちが住んでいるパレスチナは飢饉に襲われ、食糧を買いに息子たちはエジプトに出かけて行ったときに、なんとそのエジプトの総理大臣ヨセフと会うわけですね。 ヨセフには、すぐに、それが兄弟だとわかりました。 しかし兄弟たちは、あそこで奴隷として売りとばしたヨセフが、まだこういう形で生きているとは思いもよりませんでした。 そして再会の場面が45章でやってきます。 45章は読んでいただいたので、そこにもう一度目を留めていただきたいと思います。 1節に――(説明を加えながら読んでいかれる藤本牧師)
1ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、(***私はヨセフだと明かしたときに)彼のそばに立っている者はだれもいなかった。(***エジプト人はいなかった)。 2しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。 3ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。
という風に話が始まって行きます。4節にヨセフは兄弟たちに言います。「どうか私に近寄ってください。」私の顔をよく見てください。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」 次にやって来る兄弟たちの反応を予想して、つまり、あの時の復讐をするに違いないという、その反応を予想して、兄弟たちにヨセフは言います。5節――
5今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神は(全家の)いのちを救うために、あなたがたより先に、私を(エジプトに)遣わしてくださったのです。
事実は、兄弟たちがヨセフを殺そうとし、ヨセフをエジプトに売り飛ばしたのです。 でも神さまはそれを益に変えてくださった。 ですから、8節を見てください。
8だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。……
「実に、神なのです」と、ヨセフは確信します。
さて簡単に短く三つのポイントで話しますが、第一番目は既にお話しました。 見えるところでは、あるいは事実としては、自分はおおよそ神さまのご計画とは関係のないパーツを握りしめ、その世界を走っている。 でも目に見える世界と目に見えない世界というのがあって、
1)目に見えないところで、自分が体験してきた様々な断片を神さまはつぎ合わせてくださるという場面ですね。
二番目に、これは単純に(神さまは)すべてのことを働かせて益としてくださるだけではないですね。 この(45章の再会の)場面で明確に出てきます。
2)神さまは人がした悪を、あなたの益と変えてくださる。
ヨセフの兄弟たちはヨセフを殺そうとし、いや、殺すぐらいなら、もったいないからという気持ちもあって、エジプトに売り飛ばした方がいいんじゃないかという、ヨセフに対する嫉妬、憎悪、それを一身に受けて、(ヨセフは)父のもとから離れ、兄弟から裏切られエジプトに売り飛ばされたという、人がした悪を神さまは益に変えてくださったんです。
ヨセフの人生は人がした悪に象徴されています。 兄弟たちの嫉妬ばかりではないですね。 エジプトに売られたヨセフは、ポテパルという人物のもとで、執事として仕えます。 大変よくやりました。よくやりましたから、主人は彼に財産をまかせます。執事となります。 しかしある時、ポテパルの妻がヨセフに言い寄りヨセフを誘惑しようとしたときに、ヨセフはポテパルの妻を振り切ります。 怒ったポテパルの妻は、逆に自分は強姦されそうになったと声を上げて、ヨセフは結果的に牢獄に入れられて、二年経過するんです。二年ですよ、冤罪で。
ヨセフは牢獄で、王のもとにいた献酌官長を助けます。 献酌官長というのは、王さまにお酒を注ぐ人です。逆に言えば、簡単に王を毒殺できる立場にいる人です。 ですから王様という人は、自分の軍隊の将軍と、自分の料理を作る料理官長と、自分の酒を注ぐ献酌官長、この三人を王国のキーマンとしていっつも考えていました。 この三人だけは自分を裏切ることがないようにと。 でもなんと、ヨセフのいた牢獄に献酌官長が入れられることになる。 何があったかのかは聖書には詳しくは記されていません。
でもヨセフはこの献酌官長を助けます。そして彼が解放されて行くときに、一言彼に言います。 「どうか、私のことを覚えていてください。何かあった時に、私のことを覚えていてください」 ところが献酌官長はすっかり彼のことを忘れて、また時が経過していくわけです。
ヨセフという人物は父のもとにいた時には、兄弟たちから散々いじめられ、そしてエジプトに売られて、彼が誠実を尽くせば尽くすほど、妙な形で人の悪意を招くような人生をこれまで彼は送って来たんですね。 ヨセフは自分を特別に可愛がってくれた父親のことを思って、涙した日々を過ごしてまいりました。誠実を尽くしてポテパルの妻に裏切られ、牢獄で忘れられ――そのすべては兄弟たちの嫉妬によって、自分がエジプトに売られてしまった、という出来事から始まっているんです。
しかしこの45章で、ききんによって穀物をエジプトに買いに来た自分の兄弟たちに再会した時に、彼は実感するんですね。その実感が、8節にあります――
8(だから、)今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。……
という、この「実に」ですね。 神は人のした悪さえも、善に、あなたの益に変えることができると(実感しているのです)。
私(藤本牧師)はね、先ほどの(ロマ書8章)28節ですが、「万事が相働きて益となる」というのは、実はあまり賛成しない訳なのです。 物事がいろいろぶつかり合っているうちに、こう、きれ〜いに形に収まって、万事が働いて益となったのではない。 人のした悪に至るまで、それをあなたの益に変えていかれるとしたならば、それはやはり神が働いてくださらない限り、そのような事態にはいかない。 ものすごく厄介な頭を悩ました出来事、それが益となるというのは、人間を越えた業(わざ)ですね。
今日は浜田の教会で、山本剛(やまもと・つよし)先生が亡くなって、今日の夜、葬儀があります。 もうすでに家族で密葬を済まされて、そして今日の葬儀なんですけれども、山本剛先生の癌がわかったのは、昨年の前半ですね。ゴールデンウィーク辺りだったと思うんですが。 その時点で癌がかなり大きく全身に回っていて、余命6か月と言われたところを、山本先生は1年半、それからいのちを与えられて、その間に奥様に説教をお願いしたり、教会員に教会事務を様々に担当していただくことによって、自分が天国に帰っても、変わらずに奥さまと家族が教会を守ることができるような体制をお作りになりました。 でも山本剛先生は、年齢は私(藤本牧師)とほとんど変わらないです。私と変わらなかったと思います。
死が近づくにつれ、山本先生の頭を巡っていたみことばがありますが、 それが「神がなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道者の書(3:11)のみことばですね。 「神がなさることは、すべて時にかなって美しい」――そんなことって普通、納得がいかないですね。おおよそ、納得がいかないですよ。 もう、ほんとに介護に疲れ果てて、そして天に召されたら、いや、時にかなって美しかったなぁと(笑)、そりゃ、ま、誰もが納得するでしょうけれども、
しかし、まだまだやり残したことが沢山ある中で、いやまだ何にもしていない中で、しかも非常に不条理な方法で、病気だったらまだどこかに自分自身に原因があるわけですから、それはいいとして、そうではない方法で、不慮の事故によって、もしいのちが取られるとしたならば、それはどんな風にパズルを組み合わせたとしても、それは私たちの力で、万事の力では益にはならない。益にはならないですね。
でも神さまが働かれるときに、不思議に人のした悪も私たちの善に変えていただくことがあると、(***強調されて)信じることですよ。 パウロも言っていますよ。「私たちは知っています。だから諦めない。」 聖霊が助けて、すべてのことを相働かせて益としてくださることを知っているんだから、私たちは自分自身の信仰を止めないし、自分自身の働きも止めない。 なぜなら、神は私と共に働いて、悪を善に変えてくださるから、あなたの手が入らない限り、あなたの足が入らない限り、神さまの奇跡は巡って行かないですね。
土地を与えられたアブラハムは、「縦と横に歩き回れ」と言われた時にいい土地もあれば、ひどい土地もあったに違いない。 しかし、ひどい土地はとりあえず置いといて、ではなくして、荒れ地も、岩場も、全部神さまは私の益に変えてくださることを信じて、その土地を受け取るんですね。 私たちの人生に起こるそのつまらないこと、どうでもいいことだけでなくして、人のした悪、人によって傷ついた出来事、もうズタズタにされてしまうような経験、それもすべて神さまの手にかかるなら、神さまはそれを益としてくださるということを信じて、私たちは諦めないですね。
では三番目、人のした悪を神さまは善に変えてくださる――それはあり得るだろう。
3)では自分のした罪を(神さまは善に)変えてくださるのか?
ま、大体どの注解書を見ても、ま、あいまいな答えですね。 「自分のした罪を」というのは、「神を愛する人々のためには」というこのことばに、妙にマッチしない。 「すべてのことを働かせて益としてくださる」というその前提として、「神を愛する人々のためには」とあるのだったならば、神を愛していながら罪を犯すということは矛盾するわけですから、やっぱり「万事が働いて益となる」とか、「神さまがすべてのことを働かせて益としてくださる」という約束は、「神を愛する人々のために」取ってあるんだ(――と思いがちですね)。
でも、私(藤本牧師)はそうは思わないですね。 少なくとも言えることは、「すべての」という言葉が入っているのだったら、私たちの弱さは絶対そこに入ります。私たちの病気も入りますね。私たちの失敗も入りますね。私たちの過ちも入りますね。私たちの罪も私は入ると思う。 勿論、どう入るのかもわからないし、その入った時に、また自分の人生という形が変わってしまう。それを入れてもらうことによって。
たとえばこうです。 旧約聖書を見ますと、イスラエルの一番最初の王さまはサウルという人物ですね。 その王さまの場合は、いろんな部族に出て来る部族リーダーが部族ごとに治めていた。 国に国として力はない。だから様々に攻め込まれるわけですよね。 そして士師と呼ばれる人物、さばきつかさと呼ばれる人物が、いろんな部族のいろんな時代を担いながら、イスラエルは何とか形を成していくわけです。
で、そのさばきつかさ、士師の一番最後に来るのはサムエルという預言者で、そしてサムエルが老いた時に、部族の長老たちがサムエルのところに相談しに来ます。 「私たちに他の国のように王を立ててください。預言者ではダメです。ましてあなたの息子さんではダメです」と。 あなたの息子さんではダメです(笑)と。私たちに王さまを立ててくださいと。
ある意味、それはサムエルをがっかりさせます。 でもそれ以上に、神さまをがっかりさせます。 「他の国のように」という言葉に、やっぱり神さまはがっかりされたんでしょう。 「今まではわたしが、預言者を通して直接にこの国を治めていた。でもあなたがたは、やっぱり他の国のように、王を立て、王に治めてもらいたいのか?」 そして神さまは、王というのはとんでもないことをするぞ、とイスラエルの民に伝えますよね。 王は、あなたがたの娘を取って飯炊き女にする。王は、あなたがたの息子を取って戦いの最前線に出す。王は、あなたがたのいいものを全部吸い取って王宮を建てる。 王政にするということが、必ずしもあなたがたのためにはならないぞ。 それでも民は「私たちに王を与えてください。王を与えてください」ですよね。(***Tサムエル8章)
その時神さまは「がっかりした。わたしはこの民から離れよう」とは仰らなかった。 神さまはイスラエルに王を与えてくださいます。 つまり神さまを大変失望させるような出来事であったにもかかわらず、神さまはプランを変えられる――だったら、それはそういう風に、あなたの人生の全体の形は変わるよと。
私たちの人生というのは、神が私たちと共に働いておられるのだったら、人生の全体像の設計図はしょっちゅう変わる――私(藤本牧師)はそういう風に思っています。 つまり、神さまが主権者として、すべてのことをあなたの人生に対して決めていて、「どうあがこうが神さまのご計画のようにあなたの人生は進んで行くよ」と言ったら、神さまはあなたと働く必要がない。ある意味。 でも「すべてのことを益とするために、神はあなたと共に働いて」と言ったときに、私がどう神さまに応じるのか、どう働くかによって、次の方向、次の曲がり角は変わって行きますよ。 そして時に私たちは神さまが願っておられたのとは、全然違う曲がり角に入っちゃうんです。 「おい、おい、おい、そこには行くなと言っていただろう」というところに私たちは入って行くんですよ。
その途端神さまは、私たちと歩くのを止めて、全然違う方向に行かれるのか? いや、そんなことはない。 聖書を見ますと、間違った曲がり角を曲がってしまったダビデのもとも、神さまは離れないです。 間違った曲がり角を曲がってしまう者と共に、ま、間違った曲がり角を曲がってしまう。あるいは罪を犯してしまう。
人のした悪ばかりでなく、私自身の内側から神さまの御心にかなわぬ部分が出て来てしまう、というのは確かに人の性質です。 100%神さまの御心の中を生きられる人なんてのは、私(藤本牧師)はいないと思う。 でも私たちが「神さま、すみません。あすこで曲がり角を間違えました。もう元に戻って同じ曲がり角を通ることはありません。でもどうか、この道に私と共について来て、以前の計画とは違うこの道でありますけれども、私を導いてください」と言ったときに、神さまはそこからまた、悪を、失敗を、欠陥を、過ちを益と変えてくださる人生を私たちに与えてくださると信じています。 ですから、時に私たちの弱さ、私たちの過ち、私たちの罪さえも、「すべてのことを働かせて益としてくださる」ということの中に、私(藤本牧師)は入ることができると信じています。
先日、あの青山通り、青山学院からちょっと渋谷に下ったところに、ペルシャじゅうたんのお店がありまして、そして、ま、たまには、こういう店に入っても悪くないかなと思って(笑)、入ってみました。 昔はペルシャじゅうたんって、すごく高いって言われましたでしょう?ものすごく高いと。 今もものすごく高かったですね(笑)。こんな高いものが、車が買えちゃうぐらいのじゅうたんがあるんだみたいな、それ位の値段がついていました。 ごめんなさい。私(藤本牧師)は――皆さん使っておられる方もおられるかもしれませんが――使ったことがないんで、その良さがわからないというだけのことなんですけれども。
以前ですね、テレビを見ていてペルシャじゅうたんの特集をしていたのを思い出したんですね。 あるところに集められて、イラン、イラク、ま、イランの方ですかねぇ、じゅうたんを織っている女性が作業場に集まって、もう黙々としているわけですけれども、集中して織っているんですけれども、やっぱり子どもを連れて来るんですね。 そして子どもが、なんか布のゆりかごのようなものの中に入れられていて、そして食事の時間もあれば、お手洗いで席も立ちますよね。 そうしますと、その複雑なパターン、デザインに微妙な狂いが生じる。
で、微妙な狂いが生じた時に、糸を全部解くっていうことを、ペルシャじゅうたんの方はなさらない。 ベテランになればなるほど、その微妙な狂いをしてしまった箇所から、さらに良いじゅうたん、さらに良いデザインを紡ぐことが出来る。 それがゆえに、一つとして同じペルシャじゅうたんはない。であるがゆえにペルシャじゅうたんは高い。
今の技術であれば、精巧なコンピューターのグラフィックのデザインを機械に覚えさせて、人の手では考えられない程正確に絨毯を織り上げることはできるんですね。 でもそうじゃなくて、本当の味わいが生まれて来るところは、そこかしこにある汚点。 でもその汚点が上手に新しいデザインを作って、そして世界に一つしかない絨毯が作られていく時に、その絨毯の価値は何十倍にも上がっていく。 その見事な修正をするのが、職人の腕なんですね。
私たちの人生も、そこら中がほころびているのか、失敗だらけなのか、欠陥だらけなのか、時に罪深い出来事がそこかしこに散らばり、ああ、こんなものどうやって修復したらいいんだろう?と。 自分で自分を傷つけ、周囲に迷惑をかけ、情けない思いをしますね。 でも神さまは絶対的な信頼をご自身に寄せる者と共に、働いてくださる。 そして不思議にその過ちを修正して、またそこから、独特な味わいを醸し出した新しいデザインを織り込んでくださる。
いいですか、もしそのことが信じられないなら、失敗は失敗のままです。 「覆水(ふくすい)盆に返らず」――過ちは過ちのままです。私たちの欠陥も、過ちも、罪も、それは振り返ってみたら全部、「私の人生の汚点です」と言わざるを得ないじゃないですか?全部汚点ですと。 でも、私たちはそうは言わない。 汚点でさえも、ご自分の栄光のデザインの一部として変える力を神は持っておられる。 であるがゆえに、汚点なんですけれども、別に汚点を誇りはしないですが、汚点によって、気落ちして自分の人生をあきらめることはしない。 神さまは必ずそこから栄光のデザインを新しく作ってくださる、ということを私たちは知っています。 ですから、私たちは主に信頼して、祈り続け、主への信仰を決して捨てないんですね。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたはこんなに弱い者とともに働いて、こんな弱い者の人生に散りばめられた汚点を、様々な新しいデザインをもって、栄光の形に作り上げてくださるところに、望みが(***力強く)ある。 私たちはなるべく人のした悪を考えないようにしますが、次から次に厄介なことはふりかかりますし、ベストを尽くしていても、曲がってはいけない曲がり角を曲がってしまったと思うこともありますが、それらすべてを働かせて益としてくださるあなたがおられますので、私たちもまた諦めることなく、投げ捨ててしまうことなく、時に恥ずかしいと思う汚点でさえも、どこかでそれが主の栄光の役に立つことができるということを信じていますので、どうか私たちを憐れんでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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