☆聖書箇所 ローマ8:26〜30
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。 28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。30神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
☆説教 神は益としてくださる
ロマ書の8章の28節を、今日で最後です。5回目になります。元旦聖日から数えて5回目になりますが、もう一回8章の28節をご一緒に読んでみたいと思います。
28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
毎回毎回、前回の復習していますので、今日は4回分を復習します。 これは復讐しないと、私(藤本牧師)自身も何を話したのかよくわからないくらい、複雑な側面を持っています。 一番この聖句の真ん中にあることばは、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということばです。
◇元旦礼拝で、実際に原文には主語がないという話をしました。 ですから「神は」と必ずしも訳すことはできません。 それで、「すべてのことが相働きて益となる」という、文語訳あるいは新共同訳も十分に可能な訳だという話をしました。 元旦礼拝では、「神が」と言わないで、ローマ人への手紙の8章に何度も出てくるように、「聖霊が」とすると、一番味わいがある。 聖霊こそが、今の私たちの苦労を知っていてくださり、聖霊こそが私たちのうめきを、私たちに代わって、私たちのために荷って祈っていてくださる。 その方がすべてのことを益としてくださるというのが一番いいのではないかという話をしました。
◇2回目に「共に働く」ということばに注目をいたしました。 文語訳聖書では、「様々な出来事」がぶつかり合いながら共に働くという概念になっていますが、新改訳聖書では「神」が主語になっていますので、神が私たちの人生に起こる出来事を、こう様々に合わせて共に働くという風になっていますが、新改訳聖書では、「共に」ということばが訳出されていません。 では神が共に働くとしたら、誰と、何と、共に働くのだろうかという話をしました。 そうして口語訳聖書に注目しました。口語訳聖書では、 「神は、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となす」――私(藤本牧師)は、この訳語ですと十分に力があると思います。
◇そして3回目では、では「神を愛する人たち」ってどういう人たちなんだろう? それでアブラハムを考えました。自分に課せられた試練にどのような意味があるのかもわからず、イサクを捧げるという試練にどんな意味があるのかもわからず、しかしアブラハムは神に絶対的な信頼を寄せて、神さまからのもとから離れませんでした。 「アブラハム、アブラハム」と呼ばれるその声に彼はいつでも「はい」と応答しながら、神さまの腕の中にいた、ということを私たちは心に留めました。
◇第4回目、前回の聖日では、「すべてのこと」ということばに注目をいたしました。 すべてのことというのは、文字通り、それは人の為した悪だけでなく、私たちの失敗や欠けも、時に私たちの過ちさえも、私たちの汚点さえも、栄光のじゅうたんに編み上げてくださる神さまの力を学びました。
◇そして今日は最後、一つ残しました「益としてくださる」というこのことばに注目をしたいと思います。 単純にギリシャ語ではアガソス。 アガソスというのは、良いとか、善とか、あるいは役に立つとか、益になるという意味です。特別なことばではないです。英語ではgoodです。
しかしパウロはこの「益」ということばを、丁寧に説明しています。 29節から見てください、これが「益」ですね。
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。……
この「御子のかたちと同じ姿になる」というのが、私たちの益です。30節では、
30神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
ここで書かれているように、「最終的な益」は「栄光を与えられる」ということです。 勿論、私たちの人生に起こる小さな一連の出来事が最終的につじつまが合って、あ、よかったね、という場合もあるでしょう。 しかしパウロが考えている「最終的な益」というのは、私たちの日常の小さな出来事の一連ではなくして、何十年というこの一生、生涯の中で、聖霊は私たちを神さまのもとに引き寄せ、私たちの罪を赦し、私たちをきよめ、私たちをその栄光にふさわしい者と変えてくださる。 つまり、私たちは皆、神さまのご計画の中を生きている、生かされているということですね。
「神さまのご計画」ということばは、28節にも出てきます。 それは人には計り知れないものです。 しかし神さまのご計画の中を生かされている私たちには、最終的にはそれが益となるように、神さまはことを計ってくださる。 これを信じるには大変な勇気が要ります。 でもそれを信じるように私たちは招かれているわけですね。
ちょっと5章の3節〜(5節を)見ていただきたいと思います。 試練が益に変わるというのは、どういう意味なのかというのがここに記されています。 同じローマ人への手紙の5章の3節〜5節を交替に読んでみたいと思います。
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
「患難さえも喜ぶ」という後に、患難がどうして益に変えられていくのかって記されています。 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、さらに練られた品性が希望を生み出す――必ずそうなるのか?いえいえ、そんなことはない。 患難が挫折となり、挫折が卑屈となり、卑屈が練られた品性どころではなく、いじけた人間にしてしまうということは十分にあり得ます。
しかし神を愛する者には、そうはならないとパウロは言っています。 それは、5節の最後に、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」限り、患難は挫折とはならない。患難は卑屈な人間を造らない。そして失望には終わらせない。――神の愛が私たちの心に注がれている限り。
すると、一連の人生の様々な出来事の中で、卑屈にならずに、失望に埋もれずに、最後まで走ることができるのは、神さまに愛されていることを聖霊が教えてくださるからです。 ですから8章の後半部分まで、私たちは今回扱うことをしませんけれども、後半部分には聖霊が教えてくださる圧倒的な神の愛がザーッと書いてありますよね。 どこまで行っても神の愛はあなたから離れることはないと。 そして勝ち得て余りある人生を送る事ができるのは、神の愛が私たちの心の中に注がれているからだと。
益となるためには――様々な出来事が、試練も含めて、私たちの罪深さも含めて――益となるためには二つのことが重要であり、最後にもう1点触れ、3点で話を締めくくってみたいと思います。
1)忍耐が必要です
忍耐というのは、「試練を受け入れる力」です。 それは、踏ん張る力でもありますけれども、これは、試練を素直に受け入れる力、と理解した方が、「忍耐」ということばにはふさわしいと私(藤本牧師)は思っています。
第二次世界大戦の始まる前に、1930年代、ドイツにヒットラー政権が誕生します。 その時に多くの知識人たちは海外に亡命することを余儀なくされ、その亡命の最大国がアメリカでした。アインシュタインもその時亡命しますね。 アメリカという国は、この時期、ヨーロッパの知的財産を全部吸収してしまう、ま、非常にずるい立場になります。
キリスト教神学の世界では、パウル・ティリヒ(1886〜1965)という人物がドイツからアメリカに渡って行きます。 もう数限りない人物がアメリカに渡って行くわけですけれども、ティリヒと同じようにドイツから亡命したウィルヘルム・パウクという人――この人もまた優秀な教会史の先生なんですけれども――こう証ししています。 パウクは先に亡命したんですね。で、ティリヒは最後の方に亡命してくるんですけれども、彼はティリヒについて、こう言っているんです。
「亡命してきた学者の中には、新しい環境によって混乱し、事故憐憫や憂鬱に陥った者もいた。(そうでしょうねと藤本牧師)。新しい課題に立ち向かおうとしても、特に英語の能力が十分であれば、それが可能な者もいた。 そうした中で、自分たちがドイツで放棄して来たのと同じレベルの職場を得ることができると考えていた者は多くいた。 しかし、1930年代も後半になると、大学などの採用の地位が既にふさがってしまい、学者たちの非現実的な期待が残酷にも裏切られることになった。 彼らの中には不平と不満でいっぱいで、新しい環境に全く順応する気配を見せない者、また絶望して自殺する者さえいた。それほど亡命先の生活は楽ではなかった。
他の多くの移住者たちと、ティリヒとの恐らく最も大きな違いは、それが不可能であるとわかった時に、彼らの運命を、自らの運命を受け入れようとする姿勢にあった。 ティリヒは自己憐憫に浸ったり、自分の状態について無益な不平を言ったりはしなかった。また彼は特別な扱いを受けようという期待もしなかった。 彼はアメリカでの経験を受け入れ、それをあるがままに肯定し、決して後ろを振り返りはしなかった。 こうした態度のゆえに、彼は人生に欺かれたという感情を持たずに、進んで仕事をする自由を得ることができたのである。」
という文章がある。 ティリヒは、文字通り、ドイツから入って来た神学者としては、「生え抜き」の貢献をアメリカのキリスト教会にします。 一番最後の方に入って来て、自分が期待していたポジションが全部埋まっている中、彼は現状をあるがままに受け入れ、いきなり移り住んだアメリカという国のその姿をありのままに受け入れ、決して後ろを振り返ろうとはしなかった。 それがゆえに、彼は人生に欺かれたという感情を持たずに、自由に仕事をすることができたというのは、考えさせられる言葉ですね。
忍耐というのは、苦しみを耐え忍ぶ力である以上に、現状を、現実を受け入れる力ではないかと思います。 自分の肉体的なハンディ、自分の職場での様々な出来事、自分の人生に起こる様々な試練を、神がともにおられるなら、神は私を見捨てることはない、神の愛は私から離れることはない、という信仰のもとに現状を受け入れる。
2番目に大切なのは、すべてのことが益となるためには、神が私たちと共に働いて(益として)くださるために、とっても必要な要素は2番目に――
2)希望です。
忍耐と希望です。 でも、希望となりますと、皆さんは私(藤本牧師)がヘンリーナウエンの定義を使うことをわかっておられる(笑)。 私はもう希望と言いますと、ナウエンの定義に勝るものはないですね。 ナウエンはこう言います。
「希望とはとても特別なものです。 希望とは、何かが実現することを信頼することですが、それは神の約束に従って実現するのであり、単に私たちの願いにそって実現することを意味しません。 ですから希望をもっている人は、いつも開かれた態度をもっています。」
希望というのは、神さまの約束に従って何かが実現することであって、単に私たちの願いに沿って実現することを意味しない。 イエスさまは仰いました。「たたきなさい。そうすれば開かれます」(***マタイ7:7)と。 私たちは開かれると希望をもって、ひたすら同じ扉だけを叩きます。 そして「神さま、どうかこの扉が開かれることが私の願いです。この扉を開いてください」と(祈り続けます)。 ナウエンが言うんですね―― 「神さまは、あなたの後ろの扉を開かれることもあるよ。 私たちが「この扉」と言っておきながら、神さまは、もしかしたら私たちの右の扉を開かれる時もあるんだよ。 希望というのは、神さまの可能性に開かれた思いである」。
勿論、大胆に希望を告白すべきです。 私たちは思い切り自分の願いを神さまにぶつけるべきです。 しかし、すべてを益としてくださる神さまは、どの扉を開かれるのかわからない、という神さまの可能性に向けて開かれた心を持つということはものすごく大事ですね。
忍耐という時に何かをストイックに我慢している姿ではない。 自分に与えられた現状をあるがままに受け留めて、後ろを振り返らず、神さまは必ずそこから新しい可能性を創ってくださるということを信じること。 希望という時に「どうしてもこれを神さま、叶えてください」という意味ではなく、「神さまの約束に従って、神さまは新しい扉を必ず開いてくださる」ということを信じることですね。
この希望と忍耐があるならば、神さまは私たちと共に働いて、私たちを造り変えてくださる、キリストに似た者としてくださる、キリストの栄光を授けてくださるということが、先ほどのロマ書の8章に書いてあるわけです。 目先のことがうまくいくことが、必ずしも私たちの人生の益ではないです。 試練を受け入れ、神の可能性に心を開かれ、最後まで走り抜いていくときに、私たちの品性は練られて、そして、それが私たちの益となるということを、パウロは話しているわけです。
3)品性が練られるとはどういうことか?
信仰の苦労をした、様々な苦労を味わって来た、であるがゆえに、その人の品性が練られたというのは、正直、私(藤本牧師)は見たことがないです。 そう言うとがっかりするかもしれませんけれども、勿論苦労人というのは大切ですね。 苦労しますと、その人は優しくなります。そして強くなります。苦労人というのは大切なことだなぁと思います。 試練がその人を作るということも真実です。 でも、苦労と試練の連続の中で、なかなか私たちの品性は磨かれていくものではない。
では品性が磨かれていく、キリストのかたちに変えられる、キリストの姿に似た者とされるとは、いったいどういうことなのか? キリストの栄光を受けるにふさわしい人物として変えられていくということは、どういうことなのか、一つ話をして、終わりにいたいと思います。 キルトという話、こういう話です。
「最後の審判の日に、私は多くのクリスチャンと共に主に御前に立っていました。しばらくすると、私たちはみな、人生の断片を布きれのように積み重ねることになりました。
一人一人が天使の前に座り、布の断片を縫い合わせて、大きなキルトを作った。 私についた天使が、それらの布きれを一枚一枚取り上げた時、それがとても汚く、中には大きな穴が空いているのもありました。 それらの布は、私の試練の年々、誘惑に揺さぶれた年々が綴られていました。 私が耐えた試練が最も大きかった年は、布きれはぼろぼろで穴だらけでした。 周りの人を見回したのですが、それほどではありません。 中には、きれいな彩りで仕上がっているキルトもありました。 ぼろ切れを縫い合わせたような自分の人生を見た時に、私はがっかりしました。
とうとう、出来上がったキルトを並べる時がやって来ました。 一人一人が立ち上がってキルトを光にかざします。 私の番が来た時、あらためてそれを光にかざすと、汚れや穴がいっそう目立つのです。 恥ずかしくて、思わず顔を下に向けてしまいました。 私の人生は、苦労の連続でした。笑いも楽しみもありましたが、苦悩や病、愛する者の死、人からの誤解、非難、順調なものではありませんでした。 挫折から立ち直るのに、ものすごく時間がかかったこともあります。
でも、そんなぼろぼろの人生で、貧しくても、一生懸命主にすがり、祈って支えられて、ここまで来ることができました。 しかし人生のキルトをつなぎ合わせてみると、無惨でした。 それが、やはり本当の姿でした。 その本当の姿に直面しなければならなかったのです。
ゆっくりと、私はキリストの光の前に、自分の人生のキルトを差し上げました。 沢山の穴を通して、主の栄光の光がまぶしく私の目に飛び込んできました。 不思議なもので、それらの穴を総計して、そこからもれてくる光が、イエス・キリストの御顔のかたちになっていました。
私の前に、キリストが立って、微笑んで仰いました。 『あなたの挫折を捧げるとあなたが祈った時、その挫折は最早あなたのものではない、わたしのものとなった。 あなたがその失敗と恥を十字架にゆだねた時、それらも、わたしのものとなった。 あなたが自分で握りしめていた挫折や失敗や恥や苦悩を、わたしに明け渡した時、それらはみなわたしのものとなった。 だから繋ぎ合わせると、わたしの顔になっているのだ。 わたしは、あなたの弱さを通して、それらの挫折や恥や苦悩から、わたしの栄光を輝かせてきたのだ。 よかったね。それらをわたしに捧げて。』」
神さまが、神さまをどこまでも信頼する者たちと共に働いて、すべてのことを私たちに益としてくださる、すべてのことを通して、私たちを栄光にあずかるのにふさわしい者としてくださる時に、一番大切なことは、私たちの挫折や苦悩や恥や罪深さを、すべてイエス・キリストに明け渡してしまうことです。
聖霊は、私たちのつぶやき、私たちの言い知れぬ苦悩を知っていてくださる、という話を元旦礼拝でいたしました。 いや、知ってくださるだけでなく、聖霊は私たちのうめきを、私たちに代わって、私たちと共に荷ってくださる、という話をいたしました。 であるがゆえに、そのことを知っている私たちは決して祈ることを止めない。 どんなに難しい状況でも、聖霊は必ずすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っているのですから、私たちは祈ることを止めない。
結果的に、私たちの人生のある地点を振り返ってみた時に、いまだつじつまの合わない出来事は沢山あるに違いない。 でもやがて、天国に迎えられた時に、私たちの罪も汚れも、私たちの失敗も、私たちの不信仰も、もしそれが祈られて、キリストの御手に託されているならば、キリストは必ずそれをきれいに縫い合わせて、ご自身の栄光を私たちに授けてくださる。 たとえ私たちの品性が、依然として脆い者であったとしても、栄光の冠は私たちの上に載せられて行くのです。
であるがゆえに、私たちは忍耐をもって、自分の試練という現状を受け入れ、その中から善にして善をなしたもう神さまに向かって、「必ず神さまは――私たちの願い通りではないかもしれない、しかしご自身の約束通りに――どこかの扉を必ず開いてくださる」――そのことを信じて、私たちは今年、そしてこの一生、主の御前を歩んで行きたいと思います。
☆お祈り
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ローマ8:28)
恵み深い天の父なる神さま、昨年、私たちの小さき群れが「証し集」を出版しました時に、このみことばが一番沢山引用されていたことを、あなたは御存じでいらっしゃいます。このみことばこそが、地上を様々な労苦を背負いながら生きていく、私たちにとっての最大の励ましです。 時に人に裏切られ、時に愛する者を失い、時に綿密に練った自分の計画がひっくり返り、しかしそうであったとしても、「私たちの力をはるかに超えるあなたご自身が、私たちの人生の様々な出来事を相働かせて益としてくださることを、私たちは知っている」と告白するなら、あなたに対する希望を決して捨てることがありませんように。どこまでもあなたにしがみつくことができますように。 なぜならあなたは、私たちの罪深ささえも栄光のじゅうたんに編み上げてくださるのですから、私たちの失敗さえも益に変えてくださるのですから、とんでもない私たちに対する批判さえも私たちの益に変えてくださるのですから、祈り抜く私たちでありますように。 そして自分が置かれている現状に、無駄な抵抗をせずに素直にそれを受け取りながらも、あなたに様々なことをお託しする、一人ひとりであることができますように導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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