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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/22 栄光(3)イエスの御顔の輝き マタイ17:1〜8
☆聖書箇所     マタイ17:1〜8

1それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
3しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
4すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。
6弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
7すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
8それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

☆説教       栄光(3)イエスの御顔の輝き

さて元旦礼拝で「起きよ。光を放て」(イザヤ60:1)というみことばをいただきまして、今日はその三回目で、「神の栄光」ということ、そして「神の栄光に照らされる私たち」ということで、マタイの福音書の17章を開いていただきました。

イエス・キリストが高い山に上り、弟子たちはペテロとヤコブ、ヨハネを連れて上っておられますが、そこで主の姿が変わって行かれたというこの2節を見ていただきたいと思います。

2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

教会の礼拝を皮肉ってこんな文章を紹介したことが、ず〜っと昔にあったと思います。
その文章というのは、「飛行機に乗ることと礼拝に出ることはよく似ている」と(いうものです)。
飛行機に乗る時、そして礼拝に来る時、皆さん何だかお行儀がいい(笑)。
そして洋服も少し整えられている。
飛行機の中も礼拝も、みんな真っ直ぐに座っている。狭い席でも、お行儀よく座っている。
言われた通りに行動して、常識人として振る舞う。
中にはしかめっ面して、腕組みしている人もいる。でもほとんどがフレンドリー。
ある人はうたた寝をして、ある人は窓の外を見て、
初めての時は緊張しても、慣れてくると心地が良い。
乱気流でなければ、フライトはナイス・フライト。普通の礼拝であれば、礼拝もナイス・サービス(笑)。
お帰りの時には、フライト・アテンダントの方が「またのお越しをお待ちしております」
礼拝が終われば、牧師が「また来週来てください」と。
飛行機と礼拝は似ているということですね。

私(藤本牧師)以前、ミシシッピの神学校で理事をしておりました時に、年に一回そこに行ったことがあります。
ここは、ダラスに飛ぶか、あるいはヒューストンに飛ぶか、そこから大体プロペラのジェット――小さなジェットかプロペラ機なんですけれども――これは本当に面白いですね。
20人ぐらいしか乗客がいないんですけれども、いつもスチュワーデスがいない。
で、飛行機は旅客機の場合一人で飛ばすことができませんから、副操縦士がスチュワーデスの代わりをします。
ですから、座って離陸前に、もうドリンクが配られるんです。
それからパッと見渡して、ちょっと大きめの人が左側に行きますと、「この飛行機が落ちますよ(大笑)、席替えをしますので、言われた通りに、皆さん席を移動してください」と、こうバランスを保つんですね。

私(藤本牧師)ある時、座っていましたら、小さな子どもがタラップからポ〜ンと駆け上がって来て、その後ろにお母さんですね。
子どもがそわそわ、そわそわして、
「ねぇ、お母さん。ほんとに見せてくれるって言ったの?」
「大丈夫。大丈夫。さっきタラップで、パイロットにお母さんお願いしたから」
「ええっ、ほんとなの?!」
乗客が座って、飛び立つ前に、コックピットの中から、ドアが内側から開いて、そしてパイロットが、
「坊や、お出で、お出で。見せてあげるから」
中を見せてもらっていました。私(藤本牧師)も身を乗り出して中を見ました(大笑)。
そしたら、とっても狭いんですけれども、上にも下にも横にもびっしりと計器、計測器が詰まっていまして、
そして男の子は見せてもらって、はしゃいで帰って来ました。
「お母さん、すごいよ。狭いよ。でもいっぱい色んなものがあったよ」

男の子は前々から見たかったんですね。そして一度でいいから、そのコックピットに座ってみたい。
パイロットはフライトカバンを下げて、白いワイシャツに、紺のネクタイをいつも締めている。
そして少年はパイロットの操縦席を一度でいいから見てみたい。中に入ってみたい。
この子にとってはナイス・フライトではなかった。一生忘れることのない、スリリングな目を見張るフライトでした。
そしてその男の子の顔は輝いていたんですね。

まさに今日見ていただいたマタイの福音書の17章というのは、イエスさまの地上生涯の中で、もう二度とこういう日はない。
高い山に上られ、弟子たちの見ている「目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(2節)と。
イエスさまは地上で何度も何度も父なる神に礼拝し、父なる神の顔を仰いでおられました。
もちろんそれは神殿での礼拝もありました。神殿を、礼拝堂をご自分の父の家と呼んでいらっしゃいます。

しかし、その中でも、主イエス・キリストが真(まこと)の意味で、礼拝をしていらっしゃる場所があるとすれば、やはりここが上がってくると思います。
それは礼拝の後で、顔が変わりました。「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き」(2節)。

顔が輝くと考えますと、それは何もイエスさまだけのことではありません。
礼拝というのは、まさにこういうことが求められている。
礼拝の最後で、イスラエルの人々は祝福の祈りを受けました。
「主が御顔をあなたの上に照り輝かせ」(***民数記6:25)、主が私たちを輝かせてくださる――それが礼拝です。      
御顔の栄光をもって、私たちの顔が変わる――そんな礼拝でありたいと思います。
三つ、短くお話しします。

1)私たちの顔は、往々にして、暗く沈んで始まるものです。

イエスさまの変貌山の出来事の前に、何が記されているでしょうか?
同じマタイの福音書の16章の21節です。ご一緒にお読みいたしましょうか。

<マタイ16:21>
 21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

初めてです。キリストの受難ということを、イエスさまご自身の口から仰った初めての出来事が、この変貌山のすぐ前に出てまいります。
自分に待ち受けている十字架。それを初めてみんなに分かち合ったんです。
皆に分かち合うことによって、ことさら自分でも意識し始めたということでありましょう。
多くの苦しみを受ける、その宿命、やがて殺されるという宿命が自分を待ち受けている。

しかも、そのように予告したことを、弟子たちは全く理解しませんでした。
22節を見てください。

22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。(イエスを叱るんですね、と説明)「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

諫める(いさめる)というのは、叱るという意味です。
迫り来る苦悩、そして全くそれを理解していない自分の弟子たち。その孤独。

そしてその次の場面で、イエスさまは輝くんです。
もちろんそれは神の御前に立ち、父なる神の御声を聞いて輝くんですが。

顔は暗く沈んで始まる――そういう物語が聖書の中に何度も出て来ます。

◇例えば旧約聖書のネヘミヤ記は、ネヘミヤの顔で始まります。
ペルシャのアルタシャスタの側近であったネヘミヤ(***ネヘミヤ記1:11には王の献酌官であったと)。
彼の所に、故郷エルサレムに帰った人たちが訪ねてまいりました。そしてエルサレムの現状をつぶさに教えてくれました。
バビロンの捕囚から帰った今も、いまだに廃墟同然なエルサレムの様子を、アルタシャスタのもとにいたネヘミヤは聞いたんです。
そのニュースはネヘミヤの心に重くのしかかりました。彼の心は悲しい顔つきになります。
そしてアルタシャスタはネヘミヤに尋ねました。
「どうして、そんなに悲しい顔をしている?」(***同2:2)
という問いかけから、ネヘミヤ記は始まっていきます。

◇サムエル記の一番最初にハンナという女性が出て来ます。彼女は心悩める女性でありました。
子どもができない。主人にはもう一人女性がいる。そちらの方には子どもは沢山生まれる(***Tサムエル1:2)。
長く祈っているハンナを、祭司エリは酔っているのではないかと見間違えるほど(***同1:13)、彼女は泣いて取り乱して、そして苦しんでいました。
祭司エリはハンナに声をかけます。すると、ハンナは言いますね。
「私は酔っているのではありません。心に悩みのある女です」(***同1:15)と。

そしてハンナは神の御前に心を注ぎ出して、一つの納得を得た時に、聖書はどういう風に表現しているのか?(***同1:18に)こうあります。

18……それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。

礼拝の帰りに、私たちはどんな顔をするんだろうかと思いますね。
もちろん、礼拝が退屈であれば、礼拝から解放されて、「今日のお昼ご飯何かなぁ?」という(大笑)何とも言えない開放感で帰る場合もあります。
小さな子どもさんたちですと、どれほど我慢しているかと思いますね。
お父さんお母さんはぜひ心して、おいしいものを食べさせるという(大笑)、よく頑張ったね、というご褒美を子どもさんに差し上げてほしいと思います。

なぜなら日曜日は喜びの日であって、苦痛の日であってはならないからですね。
聖書に「喜びの日である、日曜日は。主を喜ぶことは私たちの力になる」(***ネヘミヤ8:10)と書いてあるんですけれども、
ある年齢になりますと、礼拝が苦痛で苦痛で仕方がない(大笑)というのは、私(藤本牧師)自らの体験からお話ししているわけですけれども、これはもうやむを得ないですね。

◇エマオの途上の弟子たちもそうでした(***ルカ24:13)。
イエスの弟子で、きっとこの方こそ、ローマ帝国の圧政から救ってくださるに違いないと考えていた弟子たちが、なんとその救い主がエルサレムで十字架にかかる、その残虐な十字架の場面を目の当たりにしてしまった彼らは、失意のどん底でエルサレムからエマオに帰って行きます。
そこに復活のイエスさまが近づきました。それでも彼らの顔つきは暗かったと書いてあります。ルカの福音書の24章(15〜17)です。
それでも、暗い顔つきをしてるんですね。なぜですか?
それは、復活のイエスだとわからなかったからです。
イエスさまが近づいて「いったい何があったのですか?」と語りかけているのに、それが復活の主だとわからなければ、私たちは依然として沈んだ暗い顔をしている。

さあ主の神殿に行こう、さあ礼拝に行こうとみんな誘い合いながら、喜び勇んでいく場合もあれば、心に重〜いものを引きずりながら、暗い顔をして礼拝に来る場合もあるんですね。

2)礼拝に来て、私たちは祈り、賛美し、みことばによって励まされ、自分で自分の顔を変えるのではない。顔を変えるのは、神の働きです。

(マタイ)17章の2節、もう一回見てください。

2そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、……

これ、ギリシャ語では正確には、「御顔は太陽のように輝き」ではなく、「その御顔が輝きに変えられ」です。
自分で変わったのではない、受動態ですね。
どのようにして輝きが与えられたのか?どのようにして神さまがイエス・キリストを輝かされたのか?

聖書を見ますと、いくつか気がつきます。
例えば5節ですね。せっかくですから、5節を一緒に最後まで読んでみましょう。

5彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。

◇先ず一つ考えさせられるのは――彼がまだ話している間に、「見よ、光り輝く雲がその人々を包み」です――光り輝く雲が私たちを包む。

私たち夫婦がニュージャージーで行っていた教会がありまして、有名なアライアンスの教会――日本のアライアンスはそんなに大きくはないんですが、アライアンスという教団は世界中に宣教師を送ってまして――私たちが行っていたその教会はその教会一つで50名の宣教師を送っていました。
ニューヨークにナイアックという有名なアライアンスの神学校がありまして、ま、700名ぐらいの教会だったでしょうか、ま、そんなに大きな教会ではなかったと思いますが、それでも50名の宣教師を送っていました。

いま思い出しますと、牧師夫人がいつもおしゃれな帽子を被っていまして、そして礼拝の最後の後奏とともに、牧師夫妻が外に出て挨拶をしてくださるのですが、いつもその牧師夫人の変わった帽子が楽しみだったというか(大笑)、どうしてこんな帽子なんだろうと思うというんですかねぇ。
日曜日はやっぱり晴れの日なんですけれども、もう少し趣味がいいなぁと思いながら、一緒に帰って来たのを覚えています。

日本人教会に行った時、あるとき――毎回礼拝の後に愛さんがあるんですけれども、ま、外国に住む私たちですから、少し集まってお昼ごはんを食べるんですが――電気釜が、わずか20数名の礼拝なんですけれども、炊き込みご飯の五目御飯の電気釜が5つ、7つ並んでいる時がありましたね。
誰が何を作って来るかって打ち合わせしていませんから、その日は全部ご飯(大笑)で、おかずが一つもない。
炊き込みご飯を7種類盛ったところで、ひたすらご飯を食べる(大笑)、そんな時もありましたね。

▼でも一緒に賛美するっていうのはすばらしいことですよ。
その日は自分にとって特別な日。そして一週間疲れた身体を引きずって来るかもしれませんけれども、その日は高らかに賛美できる。
そしてもし感謝なことがあるとすれば、自分の隣にとっても賛美の上手な人、とっても高らかに賛美を歌ってくださる方が自分の隣に座りますとですね、こう惹き込まれるように讃美歌の渦の中に入って行きますね。

▼朴訥(ぼくとつ)な祈り、ああ、あの兄弟だなぁと思う朴訥な祈りに、惹き込まれるようにして自分も祈る、という場合もありますね。

▼礼拝の司会者の姿勢に励まされる、奮い立つという場合もあります。

私たちは、この日、この時ばかりは――「光り輝く雲に包まれ」礼拝を捧げる――そういう思いで、私たち、受付に立つ方も、皆さん一人ひとりを温かく迎えるということに力を尽くしておられることを心から感謝いたします。
温かく迎えられ、温かく送り出し、そして光り輝く雲に包まれ、自分は高い山に上り、この顔にこの姿に輝きを与えてくださった、というのが一つですね。

◇もう一つ、同じ5節に、雲の中からこういう声をイエスさまご自身もまた弟子たちも聞きます。
「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」

「これは、わたしの愛する子」です。
実はイエスさまは、聖書の福音書によりますと、二回、そして二回だけ、天からこの声を聞いています。
「これは、わたしの愛する子」という父なる神の声を天から聞いているのは、実は二回しかない。

▼一回目は、バプテスマのヨハネによって洗礼を授けてもらった時ですね。
(***マタイ3:13〜17)
ヨハネは言いました。「私はあなたに洗礼を授ける気持ちはない。その資格はない」
ま、言うなれば「あなたには、洗礼を受けるだけの意味もない」。
しかし、イエスさまは身を低くして、罪人である私たちと同じように洗礼をお受けになりました。
しかも洗礼を受けるその瞬間、まだイエスさまは奇跡一つなさっていないです。教え一つ話してないです。
自分がこれから公の働きを行う前、恐らくイエスさまの気持ちにあったに違いない。
「果たして自分にこの使命を担うことができるんだろうか?果たして人々はどういう反応をするんだろうか?」
それが何にもわからない最初の時点で、父なる神はイエスさまに仰います。
「あなたは、わたしの愛する子だ。わたしはいつもあなたと共にいて、あなたを通して栄光を現そう」
これが一回目です。

▼そして二回目に、これから福音書は後半に入りますけれども、イエスさまはひたすら十字架に向かって行きます。
やがて人々から退けられ、ののしられ、殺されて行く自分。その自分を強く意識した時に(マタイ16:21〜28)、イエスさまは確かに父なる神の声を聞くんです。
「わたしはあなたを愛する」(マタイ17:5)と。

私たちはこの世界にあって、様々な声を聞きます。様々な声を聞きます。
一番大きな声は、自分を評価する声ですね。
一番気になるのは、自分がどのように評価されているかというその声。
それに一番耳を傾けます。

カトリックの司祭のヘンリー・ナウエンはこんなことを言いました。
――私たちは常に世界にあって、霊的な戦いの中にある。その霊的な戦いというのは、別に悪霊の惑わしではない。
その霊的な戦いというのは、この世界の声だと。
その世界の声が、一貫して私たちの人生、小さな時から何度も何度も私たちにささやかれる。
(私たちは、知らないうちにこの戦いに完全に敗北していると言うのです)。

「おまえなど大したことはない。自分をあの人と比べてみるがいい。おまえは本当に優秀なのか?いい人なのか?おまえに人気があるのか?
友だちや先生やお父さんやお母さんはおまえを本当にどう思っているんだ?おまえはお荷物か?厄介者か?」

ナウエンは言います――世の霊は、この声を私たちが幼い頃から私たちに刷り込んで来る。
教室で、家庭で、運動場で、部活で、社会で、神学校で、
「おまえは大したことはない。大した奴だと認めてもらいたければ証明してみろ。おまえにできるか?できたら認めてやろう」と。
そこにサタンの声が入り混じる。

イエスさまはまだ何一つやってない時に、無条件で父なる神の声を聞くんですね。「あなたは、わたしの愛する子だ」
イエスさまはこれから人々によって退けられ、罵られ、十字架にかかろうとする前に、同じように「あなたこそが、わたしの愛する子だ」という声を聞きます。
父なる神は、格別にイエスさまを光り輝かせてくださいました。
光り輝く雲に包み込み、そして「どれ程わたしがあなたを愛するか」という声をイエスさまに聞かせてくださり、それによってイエスさまの顔は光り輝きます。

私たちが教会に来る時に、ハンナやネヘミヤやそしてエマオの途上の弟子たちのように、苦悩や孤独や悲しみを味わって教会に来ます。
ハンナのようにやつれ、エマオの途上の弟子たちのように、まるでこの世界が終わってしまうかのような思いで、顔を垂れてやって来ます。
しかしここで光の雲に包まれ、主の声を聞く。
「あなたは、わたしの愛する子どもだ。わたしはあなたを格別に愛する」と。

3)「起きよ、光を放て」――そのために、一つ明確です。
(※イエスさまお一人だけにたましいを向けて礼拝にあずかる ことが大切)

三番目に、8節を見てください。

8それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

実は山の上で、3節をご覧いただいたらわかるように、「モーセとエリヤが現れて弟子たちと話し合っている」んですね。
山の上で、弟子たちは三人の神々しい姿をペテロたちは見たんです。
で、4節で、思わず「ペテロが口出ししてイエスに言い」ます。

4……「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

ペテロはまさか、モーセとエリヤに会うとは思っていませんでした。
モーセもエリヤも共通したポイントがあるんですけれども、それはお墓がないんですね。
モーセの場合は、神さまがモアブの平原でモーセを葬った、と聖書に書いてあって、その墓はないと書いてあります(***申命記34:5〜6)。
エリヤの場合は、火の車の戦車が天から降りて来て、生きているエリヤをそのまま天国に連れて行ったと書いてあります(***U列王記2:11)。

ですからイスラエルの人々は、後々ず〜っと考えるんです。
「終わりの日には、モーセとエリヤが天から降りて来る。必ず降りて来る」と。
そして事実ここで降りて来るんですね。いよいよ終わりの時が来た。
モーセとエリヤが登場したということで、弟子たちはその時、非常な驚きに包まれる。
でも最後、最後気がついて目を上げて見ると、イエスさまだけしかおられなかった。イエスさまだけですね。
だれもいなくて、ただ一人、イエスがおられるだけであった。

天幕は三つ要らない。幕屋は一つでいい。
モーセもエリヤもいたとしても、イエスさまだけを見ていればいい。イエスさまだけについて行けばいい。
私たちは山の上でさえ、神さまに近い所に置かれている時であったとしても、礼拝にやって来たとしても、多くのことを考えます。
そして人にも左右されます。様々なものに左右されて帰るとしたら、とっても残念です。

ただイエスお一人だけ、この方にだけ心を向けて礼拝にあずかり、私たちの周囲の人々の信仰が光の雲のように私たちを包み、そして礼拝を通して、祈りを通して、賛美を通して、神の格別な愛を私たちの心に受けて帰ることができたら、きっと私たちの顔つきも変わる。
そして、礼拝に来て良かったなぁと思う。
それ以外のことを考えたとしたならば、ああ、こんな所に来たことは無駄であった、と思わざるを得ないんじゃないですか?

私たちの顔の光を輝かせてください。イエスさまのように輝かせてください。
そして心の中にある嫌〜なことを、聖霊の水によって流して、私たちに清々しい思いを与えてください。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、御子イエス・キリストでさえ、あなたの愛の声を聞くことを望まれたはずです。そしてなんとその愛の声は、一番初めはまだ何一つ為してない無条件の世界の中で、そして二回目は、これから退けられ殺されるという、その宿命が始まるその頭にあなたの愛の声を聞かれました。それがどれほどイエスさまの顔を輝かせたことでございましょう。

主よ、どうか、私たちは礼拝に来る時に、きっと暗い顔をしている時もあるに違いありません。でも光の雲に包まれ、あなたの愛の声を聞くなら(アーメン)、私たちもまた変えられる――そのことを期待するのが礼拝であるということを心して、ただあなたにだけたましいを向ける事を許してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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