2/17 選ばれた人生を行く 創世記13:1〜18
☆お知らせ
●今日の午後は、エバーグリーン・クワイア・チャペルコンサートです。是非午後もお残りいただきたいと思います。入場料は500円かかりますけれども、これは子どもたちのいろんな必要がありますので、ご理解いただきたいと思います。CDの販売もあります。
●週報の中に、小柳姉とシンバルのコンサートのチラシが入っているのと、入ってないのがあります。これは午前の私たちのためだけでなく、午後の(コンサートにいらっしゃる)方々のためなので、あえて半分ぐらい抜いてしまいました。 実はこれが私たちの教会の春の伝道コンサートです。この日は、3月31日イースターですから、是非改めてこのチラシを作りますけれども、この日も覚えていただきたいと思います。
●今週一週間、この会堂内に足場が組まれて、白い壁を全部塗ってくださいました。高橋兄と(「栄光塗装」高橋)光明兄と武井兄で、あっという間に塗ってくださいました。実は全然違うんですよ。ですから一面塗らずに残しておいて(大笑)と言ったぐらい。ある意味壁のところは新品の会堂で今日は礼拝をしている、感謝。 また吉田兄が準備室の天井ライトの交換をしてくださいました。そのようにして、エアコンの室外機や床暖房のボイラーやいろんなものを定期的に変えている教会であって、年数は経っていますけれども、気持ちよく使う努力をしていることは感謝だと思います。
●来週から聖歌隊の練習が始まります。先週の水曜日が灰の水曜日でした。ですからレント、受難の期間に入っています。3月に入りましたら受難週。そして一番最後にイースターが来ますけれども、是非イースター礼拝にともに聖歌隊にご参加いただきたいと思います。聖歌隊は繰り返し申しますが、オーディションはありません。歌いたいなぁと思ったら歌いますので(笑)、そういう指導もありますので是非ご参加いただきたいと思います。
●お祈りに覚えていただかなければいけない方々を(週報に)挙げております。4名の姉妹たちのご家庭に赤ちゃんが誕生されますので、是非健康が支えられますように、まだまだ大人の世界ではインフルエンザが大流行ですので、皆さん守られますようにお祈りいただきたいと思います。
●今日は浜田兄が来ておられますけれども、23日公演ですのでお祈りに覚えていただきますとともに、オペラに見に行きたいと思う方は是非声をかけていただきたいと思います。(***玄関ホールの掲示板に招待券があります。)
洗足学園音楽大学のオペラ公演。イタリアの作曲家、ジャーコモ・プッチーニが1896年に作曲した「ラ・ボエーム」(全4幕)。 23日の公演で、浜田広志兄がSchaunard 役を歌います。 日時:22日(金)開場17:30 開演18:00 23日(土)開場13:30 開演14:00
☆始めのお祈り
粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように、自分を造った者に抗議する者。(9節後半、前半の順で) イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。(15節) (この日の交読イザヤ45:9~15より)
恵み深い天の父なる神さま、二月の第3の聖日に愛する兄弟姉妹方とともに、また今日初めて高津教会にいらっしゃった方々とともに、礼拝をささげる恵みを心から感謝いたします。
確実に春が来ようとしています。あなたがそのようにして、私たちを助け導き、一年の巡り、人生の様々な巡りの中で、私たちを導き助けていてくださいます。辛いことも、しんどいこともあるに違いありません。でもあなたは一羽の雀に目を留めておられるように、(***説教前の讃美「こころくじけて」より)だとしたら、どれほど温かい眼差しをもって私たちをご覧になり、また私たちを養っていてくださるかと少しは考え知ることができます。
どうか、春の訪れがやって来れば来るほどに、私たちの心の内側によみがえりのいのちを注いでくださるあなたの温かい恵みを、心いっぱい、人生いっぱいに受け取ることができるように信仰を増し加えてください。
先週横田姉がインフルエンザにかかり、大変な思いをされました。大分力が回復して来たと伺いましたが、94歳の姉妹の上に、あなたが助けて癒しを与えてくださり、また一生懸命介護をしておられる渡辺兄姉を助けてくださり、無事に春を迎えることができますように、よろしくお願いいたします。
受験生お一人お一人の上に、まだ行く道が明確に定まってない方、まだ受験が終わっていない方々もおられます。変わらずに力を与えて、最後まで走り切ることができるように。そして、あなたが行かせてくださる道を心から喜ぶことができますように、あなたが納得を与えてください。
しばらく聖書のことばに耳を傾けます。私たちの心を砕いて、柔らかく吸収することができますように。そして、午後のキッズのクワイアの上に、あなたが恵みを注いでくださり、その元気と、エネルギー、信仰の力を私たちにいただくことができるように励ましてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
☆聖書個所 創世記13:1〜18
1それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。 2アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。 3彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。 4そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。 5アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。 6その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。 7そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。 8そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。 9全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」 10ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。 11それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東の方に移動した。こうして彼らは互いに別れた。 12アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。 13ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。 14ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 15わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 16わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 17立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」 18そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。
☆説教 選ばれた人生を行く
アブラハムとロトの生涯、少し13章から考えたことがありますので、「モーセの生涯」にもう一回戻りましたけれども、一度ここに目を留めていただきたいと思いまして、創世記の13章を開いていただきました。 私は13章から何回か説教しておりますので、あ、また似たような話だなと思われるかもしれませんが、ちょっと新鮮な思いで聴いていただきたいと思います。
創世記の13章にはアブラハムとロトという二人の人物が出てまいります。アブラハムはまだこの時はアブラムと呼ばれていました。この二人はおじさんと甥の関係です。おじさんのアブラムが神さまから声をかけられて、「あなたの家、あなたの故郷を出て、わたしが示す地に行きなさい」と神さまの召しを受けて、独特な信仰生涯の道を辿るようになります。そして彼は今で言うイランの辺りからパレスチナまで旅をしました。そのチャレンジに甥のロトがついて来たのですね。共に旅をして来た。
しかし、ここ13章で二者は別々の道を行きます。この二人はそれぞれ羊の群れを飼っていましたが、その牧者たちの間で争いが起こり、おじさんでありましたアブラムの方から提案がある。それが8節(〜9節)です。
8そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。 9全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
と、人生の分岐点を迎えるわけです。 ロトはロトなりに選択して、ヨルダンの低地を選びます。
10ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
彼はそっちを選びます。選んだ理由は単純に10節の後半にありますように、隅々までどこもよく潤っていた(から)。彼はそこを選ぶのです。
11それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東の方に移動した。
アブラムはロトに対して、「君が左に行けば僕は右に行く。君が右に行けば僕は左に行く」と言った手前、ロトがそっちを選んだ以上、彼は選べなかったわけです。 ロトが選ばなかった、残された選択地カナンの地に住むことになるわけです。むしろ彼は選べなかった。ロトは選び取った。
相手が捨てた地を選ばざるを得ない状況もある。それは必ずしも満足のいく土地ではなかった。ロトが選ばなかった土地にはそれなりの理由があるのですね。 それは12章の10節を見たら出て来ますけれども、一度一行はカナンの地に入っている。ところが激しいききんがあって、その場所から離れなければいけなかった。 ということは、ロトは一度カナンという土地で、激しいききんを体験しているから選ばなかった。この苦い体験があったから、ロトは潤っている、この全然違う、ヨルダンの低地全体を選んだわけです。その結果として、アブラムは相手が捨てた土地を行かざるを得ない。そういう場面が描かれているわけです。
私たちも人生のあらゆるところで選択という要素が出て来ますね。選べる時もあれば、選べない時もあります。人が病んだがゆえに自分は選べなかったということもありましょうし、自分が希望しなかった道に行くということもあるでしょうし、それが自分の職業であったり、進学であったり、時に結婚であったり、試練であったり、戦いであったり(します)。 でも気がついてみますと、そもそもこの人生は自分が選んだのではない。神さまが私にこの人生を行けと選んでくださった、という風に感じます。 短く3つのポイントでお話しします。
1)自分で選んだ道が必ずしも最善とは言えない。
先日――いつも賛美をリードしてくださいます伊藤兄が、大学を卒業するのですね。伊藤君は○○の高校の英語の先生になられますが、今まで**大学の寮に住んでおりましたので、アパート暮らしを始める――祈祷会に来て、どこに住むの、教会に近い方がいいんじゃないとみんなは言うし、でも本人は職場に近い方がいいと言うし、結局は職場に近い方に。どの駅にするの、どんなマンションに住むの、みんな関心があるのです(笑)。大変ですよ。日当たりはあった方がいいよ(笑)。家賃はどれぐらい。そばに食事するところがないと、一人で食事はしんどいよね……。
もう山のような選択肢があるので、私は伊藤くんにポロっと言ったんです。 「難しいよね。いろいろ見て回って、最高の物件だと思って探して来ても、実際に住んでみないと、自分の隣がどういう人か、自分の上がどういう人か解らないものね。もしかしたらものすごいうるさい奴だったり、全然生活の時間帯の違ったりしてね。どうやって選ぶんだろう?」 すると、伊藤くんがこう言ったんです。 「だから先生、ぼくは一発で決めたいんです(大笑)。いろいろ悩んでいろいろこうしてそしてこうなったんだけど、やっぱりだめだったと言うのでなくして、もう神さまが指さして、納得を与えてくださって、もう一発で決めたい」と。
ある意味で、ぜいたくな願いだなぁと思いますが、潔いとも思う。 というのは、私たちどんなに情報を得て、自分で選択してもそれが最善とは限らないということをよく知っているからですね。
ロトは10節に目を上げてヨルダンの低地全体を見渡しました。それは単に見渡しただけではないと思いますね。彼は短い時間かもしれませんけれども、自分に許されているすべての情報を集約して、結論を出して選んだのです。 まぁ、強いて言うならば、ロトは祈ってから、熟慮して、神さまと相談して選んだとは書いてないのです。 人間的な直感であったかもしれないしフィーリングだったのかもしれません。
しかしこの時点では彼に気がつかないこともあった。それは10節にありますが、「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼす以前であったので」ということは、この町にあの悪名高きソドムとゴモラという町があったのですね。やがてロトは、12節(〜13節)を見てください。
12アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。 13ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
ということは、実はロトは知る由もありませんでした。私たちはロトを非難することはできないと思います。 祈りが足りなかったとか、神さまの導きを仰がなかったからこんな結果になったとか、そういう立場に私たちはいません。 私たちでも「選べ」と言われれば、きっとよく潤った土地を選んだに違いない。敢えて困難な道は選ばないです。 ですから、ここで言えることは、少なくとも自分が選んだ道が必ずしも最善とはならないということです。自分の人生、自分で選べないという現実もある。そのあたりのことは、私たちは心に留めておかなくてはいけないと思います。
2)アブラムはそもそも選べませんでした。
ロトに選ぶ機会を先に上げたということは、自分は選ばずに余った方を取るということを決心しました。 でも14節、14節はご一緒に読んでみましょう。
14ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
さぁ、目を上げてあなたの立っているその所から、全部見渡してご覧と。アブラムにしてみれば不本意な場所だったのかもしれない。彼にしてみれば、残された土地が自分にあてがわれたと思ったのかもしれない。 そして、かつてききんがあった土地で、試練があった土地で、しかしそこは神さまがアブラムのために選ばれた土地であった。 自分では選んでなかったかもしれない。でも神さまはアブラムのためにその土地を選んでおられた。
人生この世界も、損得で考えれば、どの大学に行くのか、どの会社に就職するのか、どういう所に住むのか、あらゆる所に私たちはある程度の損得を見ることができます。 でも振り返って考えてみると、いつも自分の人生というのは、どこかで自分は選んでいない。神さまがもしかしたら自分のために選んでくださっているのだろうか、そう考えます。 人と人との出会いもそうですし、結婚という現実もそうかもしれませんし、「そもそも自分はこの身体を選んで生れて来ていない」と、そう言う人もいるかもしれませんし、私たちは神さまによって選ばれた人生という道のりを行ってるのかなぁと、納得しなければいけないことも多々あります。
14節で、神さまがアブラムに「さあ、目を上げて見渡してみなさい」と仰った時に、いったい何が見えたのか? パレスチナ全体は割と荒涼とした土地ですから、殺伐とした平原が見えたのか? でもそこには、神さまの祝福が約束されていました。15節(から続けて、16節も読まれて)――
15わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 16わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
信仰をもって、神さまが与えてくださる土地を見渡す時、たとえそれが自分では選ばなかった土地でも、祝福はぎっしりと詰まっている。ぎっしりと。 でも人の心の中では、自分では選べなかったというその不平不満がくすぶる。するとだんだん、ぎっしりと詰まっているその土地にある神さまの祝福が、見えなくなってしまう。
いま大学の受験シーズンですけれどもねぇ、まぁ私たちはよく言いますよね、『第一志望の滑りどめ』と。これはもう一般的な言葉使いですけれども。でも正直、滑り止めの学校の方がいいかもしれない(笑)。 だって第一志望の学校というのは、見に行っただけで、その学校で教育を受けたこともない。学校の雰囲気がとてもよかった――それはそういう風に、オープンキャンパスの時は雰囲気はいいでしょう。皆そういう風に言われています(笑)。「今日はお客様にみんなで挨拶をして、いい雰囲気を作ろうね」と、学校はそう言いますもの。 入って見たら殺伐としていたということだって、十分にあることですから。
私は、月曜日の建国記念日に滋賀県で開かれた、世界福音伝道会の聖会で奉仕をして来ました。出かける前に家内とこんな話をしていました。 「あなた一体どこの聖会に行くの?」 「ぼくもよくわからないんだけど」(大笑)。 実際よくわからなかったのですが、世界福音伝道会ですね。(そう聞いて)家内が、 「なんだか、名前は大きいわね」(笑)。
私は伺ってみて自分の無知を恥じました。世界福音伝道会というのは、私がもう心から尊敬している宣教師の中の宣教師、あの有名な、C・T・スタッド(1862〜1931)という人が始めた宣教団です。 今年百年を記念し、今現在世界に60カ国、1800人を超える宣教師を送っています。 すごいですね。日本だけでも40名の宣教師が様々な国から来ています。イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、C・T・スタッドはイギリスですから、イギリス系が多いのですが、カナダ、韓国。
C・T・スタッドというのは、「ケンブリッジ・セブン」と呼ばれていた宣教師の一人で、ケンブリッジ大学の学生の頃に宣教師になる決意をするのですね。でも伝説的な人物で、彼がイエス・キリストの前で、十字架の前でひざまずいて祈った時に、彼は召命の声を聞くのですね。――「わたしはあなたのためにいのちを捨てた。あなたはわたしのために何を捨てるのか」――あのことばを聞くのです。それが讃美歌(讃美歌332番)になり、私たちはそのことばを何度も聞いて来ました。
彼は、当時中国の奥地にキリスト教を宣教していた、ハドソン・テイラーの影響を受けます。彼が中国に数年宣教師として仕えた時、父親がかなりの財産を残して死ぬのです。かなりの大富豪でした。その多額の財産を彼は5等分ぐらいにします。それでアメリカのムーディーの聖書学校に、イギリスのジョージ・ミューラーの孤児院に、それからインドの救世軍にと、全部を捧げてしまいます。
宣教師に財産は要らないと、彼は自分自身中国宣教に行き、それからインドの教会にも行き、インドの宣教にも携わり、最終的にはアフリカのコンゴで宣教し、アフリカのコンゴに、プロテスタントの福音が一番最初に入る記念碑が、今でもC・T・スタッドの名前で残っています。そこで彼は世界福音伝道会を創設するわけですけれども……。
世界全体の中で、この1900年の初頭、1890年の終わりから1910年のこの20年、30年が、一番世界宣教が展開された時代です。その中心にいたC・T・スタッドにとって、宣教地を選ぶということはありませんでした。
神さまが「目を上げて見なさい」という所に彼はどこでも飛び込んで行く。 それが中国であれ、インドであれ、あるいはおおよそイギリスの教会が入った事がないコンゴであれ、彼は選んで生きるというよりは、門が閉ざされれば引き下がり、門が開かれれば主に信頼して進んで行くという、何とも言えない大胆さが彼の特色でした。
献身することも大胆であれば、親から譲り受けた財産を全部放棄してしまうことも大胆ですし、そして当時の社会にあって中国の奥に行ったり、インドの奥地に行ったり、またアフリカに下ったり、彼は実に自由に、神さまが行けと言われる所には、神さまが閉ざされた門ならすぐに彼は引きさがり、そして行けという所には気持ちよく出ていく大胆さを持っていました。
世界福音伝道会というのは、私が関東の人間だから知らない。主に日本で教会が展開されているのは、滋賀県、京都府、奈良県、その3県で17の教会です。どこも伝道は難しい。物価が高い。そして人はみな町、村ぐるみで固まっているので、なかなかそこから人々が救われない。
でも宣教師の先生方は実に大らかに労しておられて、「今年はそもそも団体が100周年ですから、何とか日本の教会の方々が100人、海外の宣教地で奉仕することができれば」というプロジェクトがメインだという話をしておられました。
「さあ、目を上げて、あなたのいる所から北と南、東と西を見渡しなさい(創世13:14)。そこには神さまの恵みがぎっしり詰まっているよ」と、アブラムは言われたのです。 (***三番目に行く前に、ここまで話されたことの復習をなさって、) 一番目に話したことは、私たちはよく知っているのです。――自分で選んだことが最善とはならないよ。 二番目は自分で選べなかったものでも、神さまが選んでおられるということが私たちの人生では往々にしてある。
3)三番目に17節と18節――気持ちよく努力する。
私が17を読みますので、皆さんで18を読んでください。
17立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」 18そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。
その地を、「立って」というのは、ある意味「勇気を奮い起して」という意味です。「縦と横に歩き回りなさい、わたしはあなたにその土地を与える」。 選んだ土地ではないし、貧乏くじを引いた土地かもしれない。でも信仰をもってその土地を行く、顔を上げて見渡し、実際にその土地が自分のものとなるように、縦と横に歩き回る、その努力をしろ。 ボーッと立って見渡しても、その土地はあなたのものにはならないのだ。縦と横に歩き回って初めてあなたのものになる(と神さまはアブラムに言われたのです)。
そして彼はその記念として、その土地――ヘブロンのど真ん中と言ってもよいでしょう――そこに神のための祭壇を造り、神に祈るのです。 そのことをアブラムは信じて、神さまの摂理の内を自分の人生は行くのだ。気に入らないところかもしれない。考えもしなかった展開かもしれない。 でもこれが自分の人生で、神さまはその人生を行けとおっしゃるなら、私はあなたを信頼してその道を行きますと。 それはある意味、自分の足りなさをはるかに凌駕(りょうが)する神さまの真実を信頼して、彼は気持ちよくその土地を歩いて行けるようにしたのです。
まぁキリスト教とは関係ないですが、下村湖人(しもむらこじん1884〜1955)の(長編小説)「次郎物語」(1941年〜1954年刊行)ってありますでしょう。今の人はあまり関心ないですが。
疎開した次郎と兄さんが、高校の教師をしている徹太郎おじさんのところに身を寄せるのですね。次郎は疎開して来ましたので、何かにつけて不平不満が多い。
ある日、兄弟二人とおじさんと一緒に山に登った。山の中腹でお弁当を開いて、おにぎりを頬張っていますと、自分たちが腰掛けたちょうど前に大きな岩があって、その真ん中から松の木が生えていた。次郎はそれを見てびっくりして、 「おじさん、あれ、松の木が岩を割ったんじゃないですかねぇ?」 よ〜く見ますと、 「確かにそんな感じだね。松の木は強いねぇ」
恐らく松の木の種が風でふわふわ流されて、岩の裂け目に落ちた。松の種が生える境遇としては最悪の境遇です。でも時間が経てば――一日二日でどうなるものでもないですが――やがて二つの岩を割るほどの力がいのちにはある。
徹太郎おじさんは、次郎をちらっと見て、 「いのちはそれほど力強い。でも卑怯ないのちは役に立たんぞ」
卑怯ないのちというのは、次郎のことを言っているのです。それは自分の落ちた境遇に不平不満ばかりを言って、それを心から喜ぶことができない。 ということはどういうことかというと――その土地の真ん中に祭壇を築いて、神さまが仰ったように、縦と横に歩き回りながら気持ちよく努力して、自分が置かれた境遇、神さまが導かれた境遇に自分のベストを注ごうとしない――そういうのは卑怯ないのちです。
私たちは、そういう意味でみな卑怯ないのちです。 でもどこかで、この大変な土地の真ん中に、主のために祭壇を築く(と心を新たにしたい)。
星野富弘さんの詩で、『愛されている』という詩があります。
どんな時にも神さまに愛されている 私はそう思う 手を伸ばせば届くところに 呼べば聞こえるところに神さまはおられる 眠れない夜は枕の中にあなたはいる
星野さんは首から下が不随ですよ。どんな時にも神さまに愛されている。私はそう思っている。手を伸ばせば届くところに、呼べば聞こえるところに神さまはおられる。眠れない夜は枕の中にあなたはいる――というのはアブラムの信仰です。
だからアブラムは、ヘブロンのマムレの樫の木のそばで、主のために祭壇を築いた。そしてその連れて行かれた、運ばれたその土地を気持ちよく自分のものにする努力を神さまに捧げる。
3月4月で年度替わりになりますと、教会の皆さんの中にも様々な展開があるのかもしれない。受験において、もしかしたら第一志望でなくて第二志望という時もあるのかもしれない。 でもそれはそれとして、私たちが選んでも所詮最善とは限らない。 むしろ神さまに選んでいただいたその場所が、私のためにびっしりと祝福が詰まっている場所だと信じて、そこに祭壇を築いて気持ちよく努力する者でありたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、振り返ってみますと、自分の人生でどれほど自分で選んで来れたのか。選んだつもりが、選ばなければよかったということもあるでしょう。そもそも選べなかったという状況が沢山あるでしょうし……。 でも私たちは一匹の羊で、羊飼いである主の手に引かれて、どこへでもという気で今ここに立っています。今の境遇が不遇であるとすれば、それもまた主によって導かれた場所だと心から信じて、そこに祭壇を築き、主に感謝するお互いでありますように、信仰を導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2013.02.20 - 13:07 |
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