ヨハネの福音書で、イエスさまは十字架を前にしておっしゃいました。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せよう」。ヨハネの福音書で、「上げられる」というのは、いつも十字架を指しています。イエスさまは、おっしゃったのです。「わたしは、十字架の上から、あなたを引き寄せる」と。私たちが行くのではありません。十字架の血から、魅力に引き寄せられるのです。イエスさまが生きておられるときに、様々に教え、業をなし、奇跡を行い、多くの人が引き寄せられました。しかし、それにもまして、この無惨な十字架によって引き寄られるのです。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」 これは、十字架上で主が言われた4回目のことば、とい われています。主はこのことばを大声で叫ばれました。十字架の上で叫ばれたのは、ここだけです。独特な動詞で、ライオンがうなる時に使われます。子どもと財産を失い、自分も病に打たれた呼びますが、ヨブ記3:24で「私のうめき声は水のようにあふれ出る」と言っています。それと同じ動詞です。沈黙の中から、突如して、この叫びが水があふれ出るように出てきた、ということです。 しかも、このことばだけが、主が使っておられたアラム語、そのままで残されています。誰が聞いていたのか、ヨハネだとすれば、それは、アラム語で主のことばで頭にこびりついたにちがいありません。強烈な苦悩の叫びでした。福音書の記者たちは、みな、この独特な苦悩の叫びをそのまま残したかったのです。だからイエスさまが話されていたアラム語で、そのまま残っているのです。 イエスさまの口から、「わが神」という言葉がでてくるのは、非常に自然でした。わが父、とおっしゃっても同じでしょう。わが神、わが神。 しかし次ぎに来るのが「レマ」(なぜ?)です。こんな言葉を神さまに向かって叫ぶ主の姿を弟子たちは見たことがなかった。遺体となってしまったヤイロの12才の娘に「タリタクミ」と力強く命じられました。ガリラヤ湖の嵐に向かって「静まれ」と叫ぶ主。墓で眠っているラザロに向かって 「出てきなさい」と。弟子たちが聞いた主の叫び声は、いつも力強く、いつもその叫びには主権者としての威厳、力がこめられていました。あるいは天を仰いで何かおっしゃるとき、それはいつも平安に満たされた叫びです。それが、十字架の上で、世の矛盾を問うような「なぜ」「どうして」と叫ばれました。
1)罪を背負って この質問をされたときの、主の声の調子はどうだったのでしょうか。大きな叫びだったと記されています。それは、弟子たちにしても、兵士にしても、群衆にしても、想像を絶する苦悩の叫び、悲しみのトーンです。磔のまま動けない、無力な姿です。 ヨハネは、この十字架の現場にいました。そしてペテロはヨハネに尋ねたに違いありません。 「主は、十字架の上で何かおっしゃらなかったか」 「確かに、聞いたよ。七回、話された。そのうちの一つ、大変思い、詩編の言葉を引用されたよ。エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか―詩篇22からの引用だと思う。」 「なあ、ペテロ、主は、本当にそんなことをおっしゃったと思うか。ぼくは耳を疑ったよ」 ペテロはしばらく考えて言ったに違いありません。 「確かにおっしゃったのだ。主は、私の罪を背負われたのだ。その罪の重さに耐えておられたのだ」 詩篇の中に何度も出てくる祈りに、「主よ、御顔をわたしから隠さないでください」とあります。「御顔を遠ざけないでください」とあります。罪に対する神の裁き、それは神があなたにそっぽを向くこと:神があなたから御顔を隠すこと:神があなたに背を向けることです。それほど、恐ろしいことはありません。その恐ろしい孤独と絶望をイエスさまは味わっておられたのです。 先週の午後、いっしょにパッションを見ながら、あらためてあの映画が主の十字架の場面を見事に表現しているなと考えさせられました。それは、どう猛なまでも残酷なエルサレムでのシーンです。そして、殺伐としたゴルゴダの丘です。イエスさまはひとりです。殺伐とした情景の中でもがき苦しむ主イエス、神が御顔を背けられるとは、これほど厳しい情景なのか、と考えさせられました。イザヤ53:5−6 エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ――この叫びに込められているのは、主の愛です。私たちを愛するがあまりに、この絶望の苦悩を味わい、その痛みに耐えておられる主です。罪に対する裁きを耐え抜いておられる主。「私たちの背きの罪とために、私たちの咎のために」、キリストの全存在が一つの方向を向いているのです。それは、「あなたのために」なのです。
2)私たちに身を重ねて どうして、イエスさまが、この言葉を十字架の上から発せられたのか。それは、罪に対する神の裁きを身に負っておられたから。・・・いや、それだけではありません。私たちが、幾度となく体験する苦しみ、悲しみ、私たちの多くが悩む、孤独、不幸――それを味わうためです エリザベス・エリオットという、ベルギー生まれの宣教師がいます。宣教師として、南米に行き、そこで宣教師として結婚しました。インディアンの中でも、宣教師が接触したことのないアウカインディアン、その居住の跡地は確認できても、すんでいる村を確認したことがない、といわれる幻のインディアンがいます。ある日、夫のジム・エリオットの友人が、飛行機の上から確認しました。すぐに、5人のチームが行動を開始します。飛行機の上から、バケツを降ろして、贈り物を届け、自分たちは、敵ではない、友達だと、繰り返し、繰り返し、最後は、あちら側からバケツに入れた贈り物までいただきます。これだけの接触を持った後、5人は村に入りました。 しかし、そのまま消息を絶えてしまいます。捜索隊が見つけたのは、ぼろぼろの飛行機の残骸でした。やりで、何度も突き刺された遺体でした。このショッキングなニュースは、全世界のキリスト教会に伝わります。彼女の証しは、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」です。彼女の頭を駆けめぐった質問は、殺されている瞬間、あなたはどこに? どうして助けてくださらなかったのですか? 「我が神、我が神、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか」。これほど、多く聞かれる問いもないのかもしれません。 彼女は、この祈りをしているうちに、祈りが変わりました。「主よ、私を遣わしてください。彼らの中に、遣わしてください」。その後、再婚、結婚6年目にして、2番目の夫を天国に送ります。私が日本でお会いした時、いっしょに来ておられたのは、結婚して23年になるという、3番目のご主人でした。その姿は、主の恵みに満ちていて、その献身の深さが現れていました。 エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニと叫ばれた主は、わたしのジレンマ、わたしの苦悩、わたしの涙、わたしの無力さをわかっていてくださる。
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