イエスと出会った人びと(20)マリヤ ヨハネ20:11ー18
20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。 20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」 20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。 20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」 20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。 20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
英語の雑誌でおもしろい話を読みました。シカゴの春、まだ寒い中、ある男が休暇を南のフロリダで過ごすたびに旅立ちました。奥さんは、お仕事でまだ家にいなくてはならず、次の日にフロリダに発つ予定でした。男はホテルについて、奥さんに電子メールを送ろうとします。ホテルのパソコンですから、奥さんのメールアドレスが入っていない。彼は記憶をたどって、奥さんにメールを送りますが、奥さんのアドレスを一字間違えてしまいました。 彼が送った電子メールは、見ず知らずの婦人のところに到着します。前日にご主人の葬儀を終えたばかりの牧師婦人のところに。悲嘆に暮れたご婦人がコンピュータを立ち上げ、突如舞い込んできた電子メールを見て、仰天、叫び声を上げて卒倒してしまいます。急いで家族が彼女の部屋に駆けつけて、画面を見ました。 「愛する妻へ 今ついたところだ。 君が明日到着できるように、準備万端整えた。 愛する夫より」 それはそれは、卒倒するでしょう。電子メールには、追伸がありました。 「来たらびっくりするぞ。ここは、ひどい暑さだ」 死の向こう側から、どのようなメッセージが届くのでしょうか。それは大変気になることでしょう。私たちに届いているのは、復活をされたイエスさまからのメッセージです。イースターのメッセージです。
1)墓に閉じこめられた私たちの希望 主の復活の出来事は、紛れもなく、この墓で始まります。墓です。先週、私は、以前の教会員のご遺骨を、ご遺族の要望で他のお墓に移すために、教会墓地に入りました。ここのところ雨続きで、ようやく水曜日のお昼に晴れて中に入りました。むっとした湿気。中は真っ暗で、マンホールから日が差すあかりだけです。20数年前の骨壺をようやく見つけて、外に出ようとしたのですが、入ったは良いのですが、最近少し太ったのでしょう、肩が邪魔して、出られないんです。どうしても、痩せなければならないですね。 回りに誰もいなし、誰かいても変ですよね。墓の中から手だけが出て、叫んでいるんですよ。まあ、何とか出ることができましたが、墓の中というのは、暗く、狭く、湿気があり、そして中にあるのはご遺骨だけです。 マリヤは、墓に入ります。この墓には、マリヤの希望イエスさまがが収められました。そして大きな石でふたをされ、石で封印がされていたのです。マリヤの生き甲斐も、希望も、力も、将来も、すべてがこの中に封印されたのです。暗い、不毛の世界です。 マリヤは泣いています。11節、彼女は墓の外でたたずんで泣いています。そして、泣きながら、墓の中に入ります。全くの無力です。 しかし、そこで出会った御使いは、マリヤに問います。 「なぜ泣いているのですか」 しばらくしてマリヤと出会ってくださったイエスさまも問います。 「なぜ泣いているのですか?」 復活は、イエスさまのご生涯で最も重要な歴史的な出来事です。復活がなければ、救い主は十字架の上で死んだだけです。復活がなければ、イエスさまは昔の人です。偉大な、とてつもなく偉大な神の人にすぎません。復活があって初めて、キリスト教が成立するのです。しかし、復活というのは、その過去の出来事だけを意味しません。そこには、やがて私たちが死からよみがえる、私たちの復活があります。 でもそれだけでもないのです。この復活こそは、地上における、神との出会いのパターンを示しています。墓の前で、墓に希望を閉じこめた私たちはたたずんで泣いているだけです。それほど、恐れ、不安、疑い、混乱、絶望という墓は大きいです。しかし、主は現れておっしゃいます。 「泣かなくて良い」――「墓はからだよ」 「墓はからっぽだよ」というのは、天使がマリヤに示唆したサインでした。それが私たちがキリストの復活から読み取っていく、人生のサインでもあるのです。復活というのは、人間の限界をはるかに超える神の力、神の奇跡です。空っぽの墓を見て、その力をマリヤが悟るように、私たちは聖日ごとにイースターを祝いながら、神の可能性が人間の限界をはるかに超えていくのを信じるのです。 コロンブスは、1506年に、スペインのバラドリードでこの世を去ります。この町に、彼が新大陸を発見した祈念碑が建てられています。おそらく最も興味深いのは、何世紀もの間スペインの王家の紋章に刻まれていた言葉の一部を食べている、ライオンの像だと言われています。その言葉は、「ネ・プルス・ウルトラ」「我らに、その先はなし」。ライオンは、否定語の「ネ」を食べているのです。 当時、ジブラルタル海峡の先はなし、と考えられていた、その限界をコロンブスは打ち破って、「その先がある」、つまり「さらに向こうへ」という可能性を象徴しているのです。キリストの復活は、私たちの人生の限界をことごとく食べていくライオンのようです。・・・さらに向こうへ。
2)その可能性をもって、復活のキリストはひとりひとりに出会ってくださる。 マリヤだけではありません。この復活の記事を見ると、たいへん印象深い。20:16に「イエスは彼女に言われた。『マリヤ』… …」ですが、次に、27節「それからトマスに言われた……」。21:15「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン……』。マリヤは悲しみという暗闇の中にいましたです。(15節)。トマスは失望と疑いという暗闇の中にいました。ペテロは、主を裏切ったという挫折の中にうずくまっています。その一人一人に、復活の主は出会っておられます。わたしだ、わたしだよ、と出会ってくださいます。 そして出会ったと者たちは、16節「ラボニ」、28節「我が主、我が神」、ヨハネは21:7「主です」、と。それは訳の分からない神と出会ったのではないということです。温かい、やさしい、力強い、イエス・キリストに出会ったのです。しかも、非常に個人的な感情を込めて、応答しています。それは紛れもなく、彼らが知っていた、彼が慣れ親しんだ、彼らが慕ってきた主イエスさまだったということです。
3)しかし、決定的に違う点がありました。 それが、17節、おもわず「ラボニ」と叫んで、イエスさまにすがりつこうとしたマリヤに向かって、「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです」。霊なるキリストです。それは、19節では、閉められた戸をすり抜けてくる主です。26節でもそうです。 よみがえりの主は、いかなるところにも入ってこられます。肉体的な制限を越えたお方は、私たちのどんな境遇、どんな状況、どんな場所、それに制限されることなく。それを遍在といいます。同時に、世界のどこでも、だれにでも。あちらでも、こちらでも現れてくださいます。 それは、霊となったイエスという意味では必ずしもありません。肉体的な制限を越えたお方は、あなたのところにも来られる、という意味なのです。二千年前、マリヤに、トマスに、ペテロに出会って声をかけられた主は、あなたに声をかける、ということなのです。
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