ヨハネに見るキリスト(5) わたしは世の光です。 ヨハネ8:1−12
場面は仮庵の祭りでした。7:2からそうです。7:3で、イエスさまは人々を招かれます。古いユダヤ教の文書を読みますと、仮庵の祭りには、神殿の庭に巨大な油のランプが設置されて、夜になっても火が消えることがなかったようです。祭りに来た人々を、このランプが照らします。幻想的で、希望にあふれた光だったのでしょう。そして、イエスさまがおっしゃいます。「わたしは、世の光です」。
ちょっと難しいことを申しますと、この7:53−8:11の姦淫の現行犯で捕まえられた女性の物語は、本来ヨハネの福音書にはなかったと考えられています。実際、ヨハネの福音書の古代の写本にはありませんでした。いや、この話がルカの福音書に入っている写本もあります。昔から存在していた出来事の描写なのです。初代教会の人々は、よく知っていたでしょう。この出来事の信憑性を疑う人はほとんどいませんでした。そして、最終的には、ヨハネの福音書の、この箇所に挿入されることになります。わたしは、それもまた神さまの導きであったと思うのです。なぜなら、そこに描かれているのは、闇の世界だからです。
1)闇の世界 8:1−11 悪を暴こうとする人の好奇心。なぜ、姦淫の罪の現行犯――だとしたら、彼らはそこに張り込んでいたことになる、彼らは男性は見逃して、助背だけを引きずり出してきたことになります。女性を辱め、イエスをおとしめるためでした。
イエスさまは、6節「身をかがめて、指で地面に書いておられた。」――何かわかりません。7節をおっしゃったあと、また身をかがめて、地面に書いておられます。何だろう?と思います。少なくとも、イエスさまは見たくないのです。闇の世界を、つまり神のいない世界に目を背けられているように思えてなりません。
ある大学教授が、学生に質問しました。 「神は、この世界に存在するすべてのものを創造された と信じるか?」 学生が手を挙げて、「はい、ぼくは信じます」 「そうか。では、その神は、悪も創造されたというわけだな。確かに悪はこの世に存在するだろう。すると、悪は神から出たことにもなるるな。」 ――学生は答えることができませんでした。教室はしーんとなってしまいました。
すると、後ろから手が上がり、「教授、かならずしもそういう結論にはならないのではないでしょうか?」 「たとえばです、教授は、冷たさというものが存在するとお考えですか?」 「それは、そうだろう。私たちはだれでも冷たさを感じるだろう。」 学生は、続けます。 「いや、そういうことにはならないのです。物理学の法則に沿って考えると、冷たさは、熱の欠如です。どんな生物も物体も、エネルギーを持っているのなら、それは熱として換算することができます。それらが熱を持っているから、エネルギーを発するわけです。絶対零度とは、その熱が全くない状態です。その状態では、すべてものが動くことも反応することもできないのです。 先生、暗闇って、存在するとお考えですか? 「私はそう思うよ。少なくとも、暗闇を体験しているから」 学生は言います。 「いや、そう考える必要もないのです。暗闇とは光のない状態のことです。存在しているのは光で、それが存在しなのが暗闇です。光は研究することができます。ニュートンは、プリズムを使って、光が7つのスペクトルから成り立っていることを発見しました。しかし、闇は研究できません。闇をはかり知ることはできません。闇とは、人がそこにまったく光を感じない状態に対して、人がつけた名称に過ぎないのです。 「先生、それと同じことが悪にも言えます。確かに悪は、犯罪として行為として、私たちが日常的に体験するもので、この世界は悪に満ちています。しかし、悪は、悪それ自体として、それ自身のために存在しているのではありません。悪は神が存在しておられないところ、神の光が遮断した状態を言うのです。神の愛のない世界、それが闇です。
そう答えたのは、アインシュタインだと言われています。この手の話はよくありますから、まあ真偽のほどはわからずに、架空の話として聞いてください。しかし、神の光が遮断され、神の愛の存在しない世界、それが悪である、従って、神が悪を創造されたのではないと、悪を説明したのは、アウグスチヌスでした。 2)そういう世界に光となってこられたのがキリストです。 1:5「光は闇の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」。 光は、闇に負けることはないのです。キリストは、彼らに光の言葉を投げかけました。「まず、罪のない者から、この女に石を投げなさい」。この光の言葉に、彼らは自分の罪深さにも気がつかされたのです。石を置いて、一人、また一人、去っていきます。
この女性の人生にも、神の光は遮断されていました。どんな人生を歩んできたのかは記されていません。しかし、日陰の、神から隠れた人生だったのでしょう。この女性は、イエスさまを仰ぎます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。この女性を光の道へと押し出してゆかれるのです。光から隠れるのではなく、光に自分を向けていく、それが信仰です。
3)真の光であるキリストに従う私たちは、12節「闇の中を歩まず」、光の中を歩むのです。 パウロも言いました。私たちは光の子どもです。言うまでもないことですが、考えさせられる。 先日、アメリカのキリスト教雑誌に、こんな話が載っていました。車が二台、信号を待っていた。信号が青になったのですが、前の車はなかなか動かない。後ろの車に乗っていた女性は、軽くクラクションを鳴らします。それでも動かないんです。もっと、ぱー、って鳴らして、それでも動きません。ようやく信号が黄色になる頃に、あわてて前の車は発進して、なんとか渡りきりました。ところが彼女は出遅れて、結局、もう一度待たされるはめになりました。彼女は、窓を開けて、思いっきり、去っていく前の車に狂ったように怒鳴りました。車の中で、いきり立って、ハンドルをたたいて、体を揺らして、カンカンに怒っていました。
それを見ていたのが、彼女の車の後ろについたパトカーです。パトカーは、赤色灯を照らして、スピーカーで、女性に降りるように言います。これには、彼女はますますかっか来て、警官にくってかかります。あまりにの剣幕で、警官を侮辱して、侮辱罪で、手錠をかけられて、パトカーに乗せられて、警察署にぶち込まれてしまいます。
もちろん、しばらくして、釈放されます。カンカンに怒って疲れ切った女性に、警官は謝ります。 「いや、悪かったな。何も逮捕することはなかったと思う。調べさせてもらったけど、あんたは白だな」 「白に決まっているでしょう。あの交差点で、私は前の馬鹿な車にはめられただけじゃない」
すると、警官が言いました。 「そんなことはわかっているよ。俺が疑ったのは、そんなことじゃない。あんたの車のバンパーには、聖書の言葉のステッカーが2つも貼ってあったぞ。よく見たら、車のトランクのところには、キリスト教の魚のマークもあるじゃないか。俺は、単純に、あんたの様子を見て疑ったんだよ。こいつは、クリスチャンじゃない。この車は、盗難車だろうって、それで車から降りてもらっただけだよ。
光の子どもとステッカーを貼って生きているのですが、どこかで闇の子どものような生き方をする。それは、光を遮断していくからです。光に顔を向けるのが、礼拝です。心に光を当てられて罪を示され、 光の暖かさを、神の愛の暖かさを感じ、光を仰ぐことに喜びを覚えたい。
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