☆聖書箇所 ヨナ1:1〜12
1アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。 2「立って、あの大きな町ニネべに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」 3しかしヨナは、【主】の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、【主】の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。 4さて、【主】は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。 5水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。 6船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして、起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちを心に留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」 7みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。 8そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」 9ヨナは彼らに言った。「私はへブル人です。私は海と陸を造られた天の神、【主】を恐れています。」 10それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が【主】の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。 11彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。 12ヨナは彼らに言った。「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」
☆説教 ヨナ(1)御霊を離れてどこへ?
今年はしばらくずっと新約聖書から学んでいきましたので、クリスマスのアドベントに入ります数回、旧約聖書のヨナ書からともに学んでみたいと思っています。 ヨナ書という書物の位置づけが、非常に探しにくいです。短〜い書物です。ですからヨナ書がすぐ開くように、何かを挟んでおいていただきたいと思います。
1節〜2節をちょっと読んでいきます。
1アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。 2「立って、あの大きな町ニネべに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」 3しかしヨナは、【主】の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。……
と物語が始まって行きます。 神さまは預言者ヨナに「ニネべに行って、彼らの罪を預言せよ」という命令を下されました。
ニネべというのは、当時強大な力を誇っていたアッシリア帝国の首都です。 紀元前722年にアッシリアは北のイスラエルを滅ぼします。 いわばイスラエルにとっては敵国。しかも強大な国です。 そんな国に行って、悔い改めのメッセージを説くということは、ヨナのいのちが狙われるということに等しいでしょう。 いやヨナにしてみれば、神さまの怒りがその国に及ぶなら、アッシリアごと滅んで欲しいと思っているのが現実だろうだと思います。
ヨナは神さまの召しに逆らいます。そして3節に――
3しかしヨナは、【主】の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。
タルシシュというのは、ニネべとは全く反対の西の果てです。
今日からしばらくヨナ書から学んでみたいと導かれています。 これは神さまとアッシリア帝国の話ではないです。 神さまとヨナの話です。 そしてヨナは預言者ですから、神さまの召しに逆らうという意味で、ま、言わば、なかなか献身せずに遠回りをしてとうとう牧師になった、という先生方の証しによく引用されます。 幼い頃からクリスチャンの家庭に育ち、子どもの頃は神さまに仕えるように志を与えられ、やがて青年になりますと、牧師だけにはなりたくないといって、その現実に直面して、西へ西へと逃げていきます。 しかし、最後は神さまに捕えられて、とうとう牧師になった、という証しを皆さんよく聞かれると思います。
でも聖書を読んでいきますと、私たち人間は皆ヨナのようだと考えさせられます。 そう考えながら、じっくり見ていただきたいと思います。 今日は3つのポイントでお話しますが、先ず何回も出て来ます――
1)主の御顔を避けて
ちょっと3節を見てください。
3しかしヨナは、【主】の御顔を避けてタルシシュへ……
この言葉(「【主】の御顔を避けて」)はもう一回出て来ます。 3節の3行目に――
3……船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ……
あるいは10節に出て来ます。
10それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が【主】の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。……
この「主の御顔を避けて」――これこそは、人間のテーマです。 主の御顔を避けて、主の視線を恐れて、という人間が背負っている負い目は、私(藤本牧師)はよく引用します。 創世記の3章の8節をちょっと見てください。週報でヨナ書を挟んで、聖書の一番最初の書物の、創世記の3章を開いてください。 創世記3章の3節から、ちょっと途中でありますが、8節までを交替に読んでいくことによって、ここの物語を理解してみようではありませんか。
<創世記3:3〜8> 3しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」 4そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 6そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 7このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。 8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
聖書の中で、「主の御顔を避ける」という言葉は何百回と出て来ます。 でも一番最初に出て来るのは、この(創世記)3章の8節です。 エデンの園でアダムとエバは神さまの命令に逆らいました。 神さまは「この園のどんな木の実も食べて良い」と仰いました(***2:16)。 3章の3節に書いてあります。神さまは「この園の中央の木の実を食べてはならない」という一つの命令を与えてくださいます。 なぜなら、その木の実を食べるとあなたがたは死ぬと。 つまり、アダムとエバが生きていくことができるように、自由と豊かさを楽しむことができるように、神さまは「この園の中央の木の実だけは食べてはいけない、それを食べると死ぬよ」と仰いました。
ところが悪魔が誘惑をします。4(〜5)節に――
4そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、……
「だから神さまは、それを食べてはいけないと言った」という風に、うそを言ってそそのかします。 さあ、中央の木の実を食べてごらん。もっと人生は豊かになる。
食べた途端に、彼らは目が開かれます。5節を見てください。5節にサタンはこう言いますね。
5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、……
「目が開かれる」と。7節に――
7このようにして、(***彼らが食べた後)ふたりの目は開かれ……
不思議なものです。目が開かれて、彼らは神のように見ることができるようになったのか? いいえ、そうではありませんでした。 目が開かれて、彼らが見たものは、自分たちが罪深いことをしたという事実に目覚めました。
私たちはいろんなことを考えますが、いろんなことを考えながらサタンにそそのかされ、何かをしたときに、時々目が開かれます。 目が開かれて、時々私たちはそうすべきでなかったことに気がつかされます。 目が開かれて初めて、サタンのそそのかしに気がつくことがあります。 目が開かれて初めて、自分の罪深さがわかることがあります。
そして、目が開かれた二人は、神の視線を避けるようになります。 8節を見てください。
8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。……
かつて主の声は、彼らにとっては楽しみ、喜びでありました。しかし目の開かれた彼らは、今は――
8(終わりの行)神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
とあります。 でもどんなに身を隠したとしても、神さまが自分たちを見ておられることを彼らは知っています。
フランスの哲学者のサルトルは、視線というものの恐ろしさを知っていました。 サルトルは、「人は人に究めるような視線を向けてはいけない」と言いました。 じ〜っと見る、じろじろ見つめる――人間が昆虫に対してするような視線を人間は人に対して向けてはいけない。 虫メガネで観察するかのように、人間は人を見てはいけないと。
人はだれでもアダムとエバのように、弱い所、やましい所、恥ずかしい所を持っています。 人はだれでも自分でそれに気づけば、そのやましい所、弱い所、恥ずかしい所を私たちは隠そうとします。 でも視線は強力です。私たちは探るような視線、究めるような視線で人を見てはいけない。 なぜならそういう視線は私たちを裸にするからです。
私たちも気がつきますよね。そういう視線を。 この人、私の鼻ばかり見て話をしているな(笑)、とわかりますでしょう? 私(藤本牧師)も、最近髪の毛が薄くなりましたので、話していますと、「この人、私の頭ばかり見ている」(大笑)と解りますよ。 でも私はこういう髪形にして非常にスッキリしましたね。 顔を洗うように頭を洗う(大笑)ことができる。 人間ってそんなに簡単に頭が洗えるんだ。しかも洗った頭を、顔を拭くようにして一瞬にして拭けるのは、こんな楽な人生ないんだなと思うようになりましたね。 そして、隠さなくていい自由さというのは、いかに人を楽にさせるかということにも気がつきました。
ま、だれしもそうだと思いますけれども、自分の髪形にしろ、自分の顔の造りにしろ、自分の体形にしろ、それが自分の弱さだなぁと気づくと、人はそう思ってないかもしれません。でも自分でそう思った瞬間、それを隠すことに一生懸命になります。 でもサルトルが言うには、「視線というのは強力で、あなたの弱い部分、恥ずかしい部分を簡単に裸にすることができる。だから人は虫メガネでそれを見るように、人を見てはいけない」と。
でもサルトルも知っていました。どんなに隠しても神さまはそれを見通すことができる。(***ここで今日の交読詩篇139を引いて来て)
1【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 2あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。 3あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。 4ことばが私の舌にのぼる前に、なんと【主】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
と詩篇の139篇に記されています。
サルトルは考えました――そんな神なら要らないと。そんな神なら欲しくない。 そして彼は無神論者になって行きます。
どういうことでしょうか? それはヨナが神さまの御顔を避けて、ヨッパに下って行くのと同じです。 そのヨッパに下って行く人の流れは大きな流れです。 神さまの御顔を避けて、神から遠のく流れ、それが大河のように静かに、時に濁流のように激しく、圧倒的な力をもって多くの人を巻き込んで、神から逃げていきます。 C・S・ルイス(***1898〜1963 アイルランド系英学者・小説家)という人はこういう言葉を残しました。
「日常生活で出会う人、日常生活で出会う出来事がいつでも、私たちにとって、いつしか神となり得るような社会に私たちは生きています。 最初は全く無関心で些細なことが、いつしか私たちの神となり、私たちの心を支配し、人生の流れを変えてしまうのがこの世界です。 今は想像もしない、悪夢としか思えないような出来事であっても、いつしか私たちにとって偶像となって私たちの心を捕えてしまいます。 一日中私たちはだれかに影響され、だれかを影響し、人生の目的地に知らず知らずに近づいていくのです。」
というのは、その目的地というのはヨッパです。 神さまはヨナにニネべに行けと仰った。 でも私たちはニネべに足を運んでいる途中、様々な人物に出会い、様々な出来事に会い、いつしか知らぬ内にヨッパのことが気になり、ヨッパへと流れていく人の流れとともに、私たちはだれかを誘いながら、みんなヨッパに下って行く傾向の中にある。
つまり神から遠のく流れ、御顔を避けて、自分自身の思い通りに流れていく、そういう人生の流れに、私たちはささいなことから乗っかってしまう。 時に日常の忙しさがあるでしょう。時に思わしくない体調があるでしょう。時に人の誘いがあるでしょう。時に自分の趣味があるでしょう。自分の家族もあります。
最初はニネべに行くはずだった。実際ニネべの方向に私たちの足は向いていた。でも日常的な忙しさや、思わしくない出来事や、人の誘いや、自分の趣味や、自分の家族や、自分のやりたいことで、いつの間にかその足はヨッパに向かっていたということは、私たちにとって日常茶飯事と言っても過言ではないと思います。
最初は思うんです――別にその流れの中にあって、何も悪いことはない。 ヨッパに顔を向けているが、やがてニネべに足が向く時が来るに違いないと思いながら、しかし、どんどんどんどん下って行きます。
2)(御顔を避ける方向は、)下へ下へ下って行く
ちょっと見ていただきたいと思いますが、3節に――
3しかしヨナは、【主】の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。
「下って行った」。次に5節をちょっと一緒に読んでみたいと思います。5節――
5水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。
あえて言うなら、「しかし、ヨナは船底に降りて行って」です。 最初は「ヨッパに下っ」て行った。(***3節) 「下って行く」というのは、文字通り「下(降)りる」というヘブル語の動詞が使われていますが、最初はヨッパに足を向けかけた程度です。 しかし、やがて彼はタルシシュ行きの船に乗って「船底に降りて」いきます。 そして最後15節見てください。
15こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。……
とあります。そして彼は海の中に沈んでいきます。
イエスさまが放蕩息子のたとえ話をなさったのを、皆さん覚えていらっしゃいますでしょう? ルカの福音書の15章ですね。
放蕩息子は、何の不足もない満ち足りた父の家が面白くないんですね。 そこを出るために、財産の分け前を父に求めます(***ルカ15:13)。 それを強引に奪いますと、聖書に何て書いてあります?(***番号は物語の順番)。 @暫くして、彼はその財産を金に換え、遠い国に旅立って行った――というのは、物理的に父の家から離れます。 Aそして彼は湯水のように財産を使います(13節)。 それが父の財産だと思うと、余計に惜しげもなく浪費していきます。ありがたみも感謝もなく、自由にしかもふしだらに浪費していきます。 Bやがて彼は何もかも使い果たしますよね。(14節) Cするとその国にききんがやって来て、彼は食べるものにも困るようになります(14節)。 D彼は友人の所に助けを求めます。すると友人は彼を豚小屋に送って豚の世話をさせます(15節)。 ヨッパに下って行った。船底に降りて寝ていた。そして最終的に彼は海の深みに投げ込まれて行きます。 私(藤本牧師)はこれが人間なんだろうと思います。 ニネべに行くはずの自分の足がヨッパに踏み出していくのは、第一歩です。 でももしその足が止まらなければ、最終的には海の深みに投げ込まれて行くというのがヨナの人生でありました。
3)どんなに逃げても、どんなに下に下って行っても、神さまのもとからはのがれることはできません。
詩篇の139篇を開いてください。詩篇の139:7を一緒に読んでみようではありませんか。
<詩篇139:7> 7私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
で、(8節に)続くのは、たとい、天に上っても、たといよみに床を設けても、たとい海の果てに住んでも(9節)です。 7節は有名ですね。 特に、昔の文語訳聖書では言い方が独特です。
7我れ何処(いずこ)に行きて汝の聖霊(みたま)を離れんや。 我れ何処(いずこ)に往(ゆ)きて汝の聖前(みまえ)を遁(のが)れんや。
離れることができない。逃れることができない。 ヨナの場合、神さまの命令を受けて、そこから逃げて、どれくらいかかりましたでしょうか? ヨッパに下って行くために一週間でしょうか?一か月でしょうか? 私たちの場合、これが10年20年になります。神さまの御前を逃れて、離れて30年という場合もあるでしょう。 しかしそれでも神さまのところから逃げることはできない。離れることはできない。
いったいなぜなんだろうか? 一つは、神さまがこの世界を創られ、この世界を支配しておられる限り、私たちがどんなに御顔を避けても、神さまの視線は私たちを追いかけて来ます。 私たちの心の底まで、神さまの視線は届きます。
でもそれだけではないです。 我れ何処(いずこ)に行きて汝の聖霊(みたま)を離れんや 我れ何処(いずこ)に往(ゆ)きて汝の聖前(みまえ)を遁(のが)れんや。 (***文語訳詩篇139:7) それができないのは、神さまが私たちを捜しに来るからです。 神さまがこの世界を全部支配しているから、神さまから逃れられないだけではない。 私たちがどこへ逃げても、どこに逃れたとしても、私たちが逃げ切ることができないのは、神さまが私たちを捜しに来られるからです。
先ほどの創世記の3章で、神さまの御顔を避けていたアダムとエバに、エデンの園で、(神さまは)「あなたはどこにいるのか」(***創世記3:9)と捜しに来られます。 御子イエス・キリストは羊飼いとして、失われた羊を捜して、この世界に来られました(***ルカ19:10)。 しかもその捜し方は徹底的ですよね。 ルカの福音書の15章を見ますと、「見つけるまで探し歩かないでしょうか」(4節)です――見つかるまで捜し歩くという羊飼いの決意が表れています。
なぜ、捜し歩くのか?――それは大切な羊だからです。 私たちひとりひとりを創ってくださった神さまにとって、私たちは大切な銀貨、大切な羊以上に、大切な息子であり、大切な娘です。 神さまが全能なお方だから、逃れられないのではない。 神さまが私たちを愛しておられるから、逃れられない。 神さまがヨナを愛しておられるから、ヨナは逃れられないんです。
17節、ヨナ書の1章の17節をちょっと見てください。こうあります。
17【主】は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。
海に投げ込まれた(ヨナ)。放蕩息子で言えば、どん底のどん底で、豚小屋で豚の世話をしていた彼。 しかし神さまは大きな魚を備えて、ヨナを海の底でのみこませなさいました。 そのようにして、下の下に下って行ったこのヨナを、万策尽きて豚小屋で苦しんでいる私たちを、主は迎えてくださる。 これは言うまでもなく、「見つかるまで探し歩かないでしょうか」(***ルカ15:4,8)という神の愛です。
イギリスの詩人で有名な、フランシス・トンプソン(1859〜1907)という人物がいます。 彼は若い頃聖職に就くことを志し、途中で医学に転向し、しかし医学部を卒業できずに、病気と貧困に悩まされ、彼はアヘンに手を出したこともあります。 インターネットで見ていただくとわかりますが、彼の詩の中でもっとも有名なものが、「天の猟犬」(The Hound of Heaven)という詩です。 Houndというのは、hound dogという種類の犬にあるように、狩猟犬ですね。ま、イギリスではビーグルが一般的に狩猟犬ですけれども。 狩猟における役割は、藪の中を走り回り、草木の間を駆け巡って、獲物を追い出して来るのがhound dogです。
フランシス・トンプソンは、自分の人生は神に追いかけ回される人生だったと。この世を逃げて逃げて、どんなに逃げても、神さまは藪の中に狩猟犬を送り込み、私をあぶり出すような、そんな人生を私は送って来た(と言う)。 彼は最後、テムズ川に投身自殺を計ります。しかしそれが未遂に終わって、彼はいのちを助けられた時に、The Hound of Heavenという詩を書きます。
その時彼は再び神の足音を聞いた、と言います。 天から自分を捜し求める足音だった。しかしその足音は、自分が想像していた狩猟犬の足音ではありませんでした。 それは人から忘れ去られたような彼が、下へ下へと降りて行って、最後は海の中へ、川の中に投げ込まれた彼を、忘れずに覚えて、愛して、追いかけて、救い出してくださる温かな羊飼いの足音であった。
ヨナにもやがてわかります。詩篇139篇を記したダビデにもわかりました。そして私たちにも解る。 神は下へ下へと御顔を避けていく私を、必ず捕えてくださる。 その愛のゆえに、私たちを捕えて、神は救い出してくださる。 ともにヨナ書をこれから先、学んで行きたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、C・S・ルイスが言いました――「最初は全く無関心で些細なことが、いつしか私たちの心を支配し、人生の流れを変えてしまった」と。 そのようにしてかつては、ニネべに一心に向かっていたはずが、いつの間にかヨッパに下って行くような私たちであります。しかもその道のりは下へ下へと、あなたの御顔を避けるように、最後、海の中に放り込まれるような自分を意識します。 でもそんな中でも、あなたは愛をもって私を捜しに来てくださいました。もしその愛の御手が私たちに向かって差し伸ばされた時に、私たちは喜んで、安心して、心からあなたの御手を掴むことができますように。
今日そのようにして、ひとりの姉妹が洗礼をお受けになりました。どうか姉妹の人生を祝福してくださり、いつでもその御手の中に握りしめられ、あなたの右の手によって引っ張られて、今度は下へ下へではなく上へ上へと上げられる人生でありますように。 私たちの人生も、今日の洗礼式の日のように、もう一度あなたの血潮によって洗ってくださり、時に失望によって、時に自分の欲によって、時にささいなことによって、下に引っ張られてしまうような私たちを、もう一度引き上げてあなたのみもとへと戻してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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