☆聖書箇所 ヨナ書1:11〜2:7
11彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。 12ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」 13その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。 14そこで彼らは【主】に願って言った。「ああ、【主】よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。【主】よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」 15こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。 16人々は非常に【主】を恐れ、【主】にいけにえをささげ、誓願を立てた。 17【主】は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。 1ヨナは魚の腹の中から、彼の神、【主】に祈って、 2 言った。 「私が苦しみの中から【主】にお願いすると、 主は答えてくださいました。 私がよみの腹の中から叫ぶと、 あなたは私の声を聞いてくださいました。 3 あなたは私を海の真ん中の深みに 投げ込まれました。 潮の流れが私を囲み、 あなたの波と大波がみな、 私の上を越えて行きました。 4 私は言った。 『私はあなたの目の前から追われました。 しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を 仰ぎ見たいのです』と。 5 水は、私ののどを締めつけ、 深淵は私を取り囲み、 海草は私の頭にからみつきました。 6 私は山々の根元まで下り、 地のかんぬきが、 いつまでも私の上にありました。
しかし、私の神、【主】よ。 あなたは私のいのちを 穴から引き上げてくださいました。 7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、 私は【主】を思い出しました。 私の祈りはあなたに、 あなたの聖なる宮に届きました。
☆説教 ヨナ(2)私は主を思い出した
ヨナ書を読んでいただきました。実はヨナ書に手をつけたのは、10月の半ばでありました。それで私の目標としては「ヨナ書を4回に分けて、そして今年の中で」と、いい計画だなぁと思ったんですが、読みが甘かった(大笑)ですね。10月の半ばが一回目で、たった一回でその後ずっと飛んでしまいまして、きょうが2回目になってしまいました。ちょっと思い出していただきたいのですが――
ヨナという預言者は、神さまに「ニネべの町に行け」と言われて、全く反対の方向に走ります。「そんなところには行きたくない」。 それを聖書は「御顔を避ける」という表現で、ヨナの行動を言い表していますけれども、この「御顔を避ける」という表現はなんと最初に3回も出て来ます。 ヨナ書はヨナが預言しに行くニネべの人々の話ではないです。 ヨナ書というのはヨナという一人の人間の物語で、それが実は私たちを描いているという話をしました。
人はエデンの園でアダムとエバが罪を犯して以来、ずっと神の御顔を避ける傾向をいつも私たちは内側に持っています。 しかし神の御顔を避けて、神のもとから逃げていくヨナを、神さまは追いかけていく。 (神さまは)ヨナを見捨てずに追いかけていく。
1章の3節で――ヨナが「ヨッパに下った」と出て来ますね。 1章の5節で――「しかし、ヨナは船底に降りて行った」とありますね。 ヨッパに下り、船底に降り、そして15節で――「こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ」とありますので、また下に行きます。 そしてきょう読んでいただいた2章の6節で――「私は山々の根元まで下り」ですから、 ヨナの人生が神さまの御顔を避けて下って行くさまが、最後は山々の根本まで下って行く。 「地のかんぬきがいつまでも私の上にある」ということは、海の底まで下って行ったということです。 それでも神さまはヨナを追いかけ、海の底で魚を備えてヨナをのみこませ、ヨナをお救いになります。
このようにして、私たち人間というのは皆、神の御顔を避けて生きる傾向があり、 でも神さまは追いかけて、最後私たちを捕えてくださるというお話を第一回目にいたしました。 そして今日は第二回目です。3つのポイントで短くお話しますけれども――
1)彼はずっと魚の腹の中にいたということです。
もちろん真っ暗でありましょう。 じっとしていたのか、相変わらず泳ぎでいなければいけなかったのか、魚の消化酵素をどうかわしたのか、三日間魚が食べた魚を食べていたのか? そういうことは詳しくはわかりませんが、辛さは記されています。 5節に「水は、私ののどを締め付け(という海水の水ですねと説明)、深淵は私を取り囲み(真っ暗だということでしょうね)、海草は私の頭にからみつきました」といこの体験を彼は詩にしています。
私(藤本牧師)はよく牧師として病院をお訪ねしますが、病院というのは特別な世界ですよね。 病院の見舞いは実に奇妙だなぁと思います。 外の世界は元気な人であふれています。そして最近都会の病院に行きますと、〜ホテルの食堂というのが最上階に入っていたり、あるいは二階ぐらいに入っていたり。 でも果たして病院に来る人は、この食堂でご飯を食べるんだろうか?いや、おそらく見舞いの家族であったり、友人なんだろうなぁと思います。 本当に病気で苦しんでいる人は、周囲の人々がお腹を空かし、おいしい食物で満足している中(つまり周囲は日常の真っただ中でいるのに)、ひたすらその人は病室で別世界にいるんですね。
病室っていうのは、魚の腹の中、そしてそれは実はどこにでもある。 私たちも簡単に魚に飲まれて行く。それが病気でないかもしれない。仕事の失敗かもしれないし、人生の失敗かもしれないし、でもどちらかというと私たちは転げ落ちるように下へ下へと人生を下って行って、最後は山々の根元まで行き着く――そういう試練に私たちは互いに遭うんですね。
2)ヨナの心の動き
その時のヨナの心の動きを見ていただきたいのですが、ちょっと2章の7節をご一緒にお読みしましょう。
7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、 私は【主】を思い出しました。 私の祈りはあなたに、 あなたの聖なる宮に届きました。
「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は【主】を思い出した」――主を思い出した、というのは、「苦しい時の神頼み」とは違います。 アメリカの言い回しで“Flat tire Christianというのがあります。日本語では、日曜クリスチャンという言い方もありますけれども。 フラットタイヤというのは、パンクですね。車がパンクした。車がパンクしますとみんな慌てます。走っているときにパ〜ンって言ってパンクしますと、ハンドルを取られますのでみんな慌てますし、あるいは駐車場でタイヤがパンクしてもみんな焦りますね。 でもそんなときに祈ることを知っている人は必ずお祈りします。「神さま、どうか助けてください」――これが苦しい時の神頼みです。 それが悪いと言っているのではないです。しかし、魚の腹の中で、ヨナが主を思い出したというのは、ちょっと性質を異にしています。
ヨナが主を思い出したというのは、御顔を避けて、背を向けていた彼が、主の御顔を求める人物へと変えられた――これを人生の方向転換と言ってもいいです。 まだ本当の意味で神のもとに帰っているわけではないのかもしれない。 しかし、あのグラハム大会で初めて神さまの御前に出た人はいったい何をしたかというと――背を向けていた人物が神の前に出るということは――人生の方向転換の中で最大の転換をしたということです。
ヨナはおおもとの問題を解決したくて、神に祈りました。 「神さま、私はあなたから離れていました。御顔を避けてみこころに逆らって、私は勝手な生き方をしていました。神さま、どうか私をゆるしてください」と。 ちょっと4節を見ていただきたいと思うのですが、2章の4節に――
4 私は言った。 『私はあなたの目の前から追われました。 しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を 仰ぎ見たいのです』と。
実に奇妙な表現が出てまいります。 『私はあなたの目の前から追われました』。(この表現は彼の心を読むにあたって注目に値します)。 ヨナは神さまのもとから追われたのではない。ヨナの心の決意で、神に背を向けて人生を歩み始めたのです。 でも「追われた」という表現の中には、「そんな私が主を思い出して、主のもとに帰ることができるのでしょうか?こんな私が」という思いが入っています。 自分から背を向けて出て行った。でもそんな私を神さまは追い払うようにして、下へ下へと追い込んだのだとしたら、そんな自分がもう一度神さまのもとに戻れるんだろうか? 確かに自分は神さまに追われているのではないかもしれない。自分の意志で神さまに反発して、意図的に神さまのところから逃げたんです。自分で逃げたんです。 しかし、それが今は「私は主の目の前から、主の御前から追われた」と。
私たちは自分の決断で様々に背を向けます。ところが自分の罪深さがわかった時に、こんなに神さまに背いて、これほどまで遠くに来てしまった自分を神さまは果たして再び受け入れてくださるんだろうか?(と不安に思うのではないでしょうか?)。
3)しかし、「私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」(7節)
しかし、真っ暗闇の中で、自分の罪に思いを馳せた時、「帰れない。戻れない」と思った自分でありますけれども、神さまはもう一度彼を受け入れてくださいます。 それが7節後半にあります、「私の祈りは、あなたの聖なる宮に届きました」です。 もう届かないと思っていた祈りが、もう一度神さまの所に届いたという実感を彼は得ます。
これが(とチラシを見せて)、先週の日曜日の彦根教会の特伝のチラシなんです。 (***これは先にHPに掲載していますのでそちらもお読みください。T・Y) 彦根教会は今年献堂式を迎えまして、そして特伝をオープンチャーチと題して、「あなたの街の あなたの教会」というチラシなんですが、その裏に、(きょう高津の礼拝に出席されている)宇野兄の証しが書いてあるんです。 これは近隣一般に配ったチラシですから、ここで私(藤本牧師)が皆さんに紹介しても問題ないと思いますが、宇野兄の証しはこうですね(と読んでいかれる)。
――宇野兄のお証し―― 私は平成元年、25歳の時、目の難病により失明し、人生に絶望しました。当時、福井県で小学校に勤務していました。もう、かわいい子ども達といっしょに勉強することができないと思うと、毎晩、涙が滝のように流れました。人生は不条理だと思いました。 そんな私の姿を見て、母もいっしょに涙を流してくれました。ある時、母が次のように言いました。 「繁博が、目が見えないためにどうしても生きていけないと思うなら、かあちゃんといっしょに死のうね」。 母ができることは私にお金を残すことだけだと考え、無理をして働きました。その結果、病に倒れ、55歳の若さで亡くなりました。父は私を近くのキリスト教会に連れて行ってくれましたが、神様を信じることはできませんでした。しかし、35歳の時人間関係の問題で、再度教会を訪ねました。牧師先生は次のようにお話しされました。 「人間関係で悩んでいる宇野さんは、自分を中心に物事を考えています。それがキリスト教でいう罪というものです。今日から、イエス・キリストを心の中心に迎えて人生を歩み始めませんか。豊かな人生が宇野さんに約束されていますよ」。 私は、それから教会へ通うようになり、キリスト信仰を持ちました。 ――ここまでで読み終わり――
そして、聖書のみことばの引用が始まるんですが―― 25歳の時目の難病により失明されたというのは、普通私たちが経験することのない「魚の腹の中」です。 それは私たちがなかなか経験することのない、転げ落ちてそして海の中へ、やがて海の底へという体験ですね。 そして、その体験は長〜いこと続きます。その体験の中でお母さんを亡くし、その体験の中でお父さんが教会に連れて行かれますけれども、でも神を信じることはできなかった。 その気持ちもよくわかりますね。 でもやがて人間関係で悩んだ時に、もう一度教会に行ってみよう、というのは、主を思い出したということです。
タイヤがパンクした時に思わず神さまに祈ったということとは、話が違う。 自分の人生は何度でも魚の腹の中に落ちるんだろうと思いますが、「その試練から、主よ、どうか、脱することができるように」ではない。 ヨナが思ったのは、そういう問題ではない。 ヨナは自分が神さまに背を向けて、御顔を避けて歩んでいたということを悔いて、そして彼はもう一度主の宮で礼拝をしたいという思いに駆られ、神さまの所に戻って行くんですね。 すると、神さまは、先程の2章の7節、「私の祈りはあなたの聖なる宮に届きました」。 「届かないかもしれない。もう無理かもしれない」という不安を覆して、主はヨナの祈りを聞かれました。
そもそも神さまはヨナをあきらめたことはなかったということですよね。 ヨナが預言者の仕事を放棄して、タルシシュへと逃げた時点で、神は他の預言者を用いることもできたはずです。 「あ、ヨナが嫌だったら、わたしは別にもうヨナを相手にしない。他の預言者を遣わそう」で十分よかったわけです。 その時点でヨナから離れて、ヨナを見捨てることができた主ですが――
ところが主は追いかけて来られます。どうしてもヨナでなければならないと言わんばかりに、しつこいばかりにヨナを追いかけて来て、嵐を起こし、海に投げ込ませ、1章の17節では「大きな魚を備えて」彼を追い込み、ヨナが主を思い出すようにされます。
ヨナはどん底に落ちる一歩手前で、いやどん底の状態で、もう一度神さまの御手へと帰って行きます。 この恵みがなければ、悔い改めはないでしょう。 (これを先行的恵みと言います)。私たちが悔い改める時に、神さまはいつでも私たちの先を行ってくださいます。 私たちが悔い改めたら、私たち(が神さま)の所へ帰って来ることができるように、神さまは魚を用意していてくださる。 その魚がグラハム大会かもしれないし、その魚が彦根のOPEN CHURCHかもしれないし、その魚が私たちの教会のクリスマスかもしれないし、でも神さまは必ずヨナを見捨てずヨナを追いかけ、そして再び戻って来る方法を、神さまはしっかりとその器を用意していてくださいます。
3章の1節にこうありますので、ちょっと見てください。
1再びヨナに次のような【主】のことばがあった。
神さまはヨナに再び、声をかけられます。 その前で、魚は、ヨナを陸地に向かって吐き出します(2:10) 陸地に吐き出されたヨナに再び、神さまの声がかけられた。 その声は「もう一度気を取り直してニネべに行きなさい」。 神さまの声はヨナを責めることもなく、ヨナをとがめることもなく、「あなたがそもそもわたしに逆らったから最終的には海の中に投げ込まれたのだ」という、そういう責めの言葉は一言も出て来ません。 ただ単純に「もう一度、ニネべに行きなさい」という、この再びは二回目という意味ではないでしょう。 それは二回目でも三回目でも四回目でも、何度でも神さまは、声をかけてくださいます。
先ほどの宇野兄の特伝のチラシの最後は――(チラシ最後の部分を読まれる藤本牧師) 「こんなことさえなかったら、あんなことさえなかったらと泣きたくなるようなことは、誰の人生にもあるものではないでしょうか。しかし、聖書は、私の絶望の人生に光り輝く希望を与えてくれました。生きる勇気と喜びが心にわき上がってきたのです。」
証しのタイトルは、「絶望の人生が、光り輝く人生に」。 兄弟はこの証しをもって、全国様々なところで、伝道講演をしておられます。 それは必ずしもキリスト教の講演でなくてもいいと思います。 「絶望の人生が輝く人生に」――神は私たちをあきらめずに追いかけてくださり、そして私たちが帰る道を、器を備えてくださり、私たちが背を向けて、「もう追われてしまった」「聖なる宮を追われてしまった私は、二度とそこに帰ることができない」という私に、再び声をかけてくださる。 その声に応えるかどうか、ですね。
以前のインマヌエルの讃美歌の536番に、「いのちの泉にましますイエスよ」という讃美歌がありました。 今の教会福音讃美歌を調べてみましたら、この曲は載っておりませんでした。 ロバート・ロビンソンという、ジョン・ウェスレーと同じ時代を生きた人物が作詞した讃美歌なんですね。 彼は1730年、40年代に活躍したイギリスの伝道者なんですが、 彼は幼い頃父親と死に別れ、お母さんと一緒にロンドンに住み、奴隷売買の暗〜い仕事に関わるようになります。 そしてある日、ウェスレーの後輩でありましたホイットフィールドの説教に触れて、彼は悔い改め、イエスを信じて救われ、まもなく神学校に行って牧師になります。
25歳でロバート・ロビンソンは、ケンブリッジにありますバプテスト教会の牧師に就任しました。 非常に人気のある牧師で、しかし人気に潰れたとでも言いましょうか、徐々に彼は初期の新鮮な信仰から離れていきます。
かな〜り経ったある日、彼はロンドンに行くために馬車に乗りました。 隣に、老婦人が一冊の本を熱心に読んでいました。 その本の中で、あるページが好きで、その老婦人は何度もそのページに戻って戻って、繰り返し読んでいました。
おばあさんは、隣に座っていた見知らぬロビンソンに声をかけて、その本を開いて言いました。 「ねぇ、この詩を読んでご覧なさい。すばらしいでしょう。私は、この所が大好きなんです」
そう差し出されたページには、最初の部分にこう書かれていました。 「いのちの泉にましますイエスよ 豊かに流れて 潤したまえ まことのことばに渇きし我れも 糸をば整え 恵みを歌わん」 彼はそれ以上読むことができませんでした。おばあさんにすっとその本を差し返し、外の風景に目を向けて話をそらしました。
ところがおばあさんはまたその本に目をやって言います。 「私はこの讃美歌の歌詞を読むたびに、恵みが心の底から満ち溢れて来るんです。ねぇ、すばらしいと思いません?」
ロビンソンは答えるんですね。 「おばさん、私は哀れな不幸な男です。何年も前にこの讃美歌を書いたのは私なんです。この心に同じ気持ちが、同じ信仰が再び戻って来るなら、全財産を投げ打っても惜しくはない」 そう言って彼は本を戻しました。
彼の讃美歌の2節は、何とも実感がこもっています。 「さまよいがちなこの心、愛するあなたから離れそうになるこの心を、主よ、どうか握りしめて天の御国に封印してください」
【***参考のため、讃美歌の2節と3節の歌詞】 2 神より離れて 迷いし我れを イエスきみ 見い出だしたまいし日より 恵みに洩れたる 時はなかりき いざ打ち立てまし エベネゼルをば 3 誰かは断ち得る 恵みの糸を 更に結び付けん この身を神に か弱き我が身を 導きたまえ 天なる御国に 行き着く日まで
「さまよいがちなこの私の心を、神よ、どうか握りしめて天の御国に封印してください。 私たちの心はあなたの愛から再びさまよい出るかもしれない。こんな不確かな心を、主よ、あなたが握りしめて、天の御国に封印してください」
その後、ロビンソンは正統的なキリスト教から離れてしまいます。彼はユニタアンという異端の教会に走ってそっちの道を行きます。やっぱり残念だなぁと思います。 さまよいがちな私の心をしっかりと握りしめるために、主は何度も私たちの人生に魚の腹のような試練を用意してくださいます。 その時に本当に主を思い出すなら、本当に聖なる宮を仰ぎ見るなら、主は顧みて私の心を捕えてくださるのに、ロビンソンはその道を行きませんでした。
ヨナは魚の腹の中で、「私はあなたを仰ぎます。私は聖なる宮に何としてでも戻りたい」という思いが与えられました。 その時に確実に彼は戻っていきます。 主の御顔を何度も避けて、どんどん下に下って行ったその一番の底から、いとも簡単に神さまはヨナを連れ戻し、私たちを連れ戻し、私たちに新しい輝きと栄光を与えて歩ませてくださる。
(2章)9節の最後をちょっと見ていただきたいと思うんですが――
9 しかし、私は、感謝の声をあげて、 あなたにいけにえをささげ、 私の誓いを果たしましょう。(***その次ですと念を置いて) 救いは【主】のものです。」
これは「救いは主から来ます」という意味です。 救いは主から来ます。どんなときにも救いはあなたから来ます。どうか哀れな私たちを助けてください。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、今日は外からのお客様を礼拝に迎えてともにあなたの御名を賛美し、みことばに耳を傾け、礼拝の一つの家族として祝福を得る恵みを心から感謝いたします。
「さまよいがちなこの心を、主よ、どうか握りしめて天の御国に封印してください」――この思いを生き抜くことができなかったロビンソン。しかしこの詩に捕えられ、どんなことがあっても、あなたの伸ばされたその手を握っていただきたいと願っている私たち。
あなたは私たちを捕えようと、何度も何度も手を伸ばしてくださいます。すっと、私たちがその伸ばされた手に向かって、自分の小さな、愚かな、汚れた手を伸ばすなら、あなたは必ず私たちを捕えてくださる。必ず捕えてくださり、海の底からでも私たちを帰してくださる――このことを忘れることがありませんように。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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