☆聖書箇所 ルカ2:8〜20
8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。 14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。 地の上に、平和が、 御心にかなう人々にあるように。」 15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」 16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。 17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。 18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。 19しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
☆説教 キリストは飼い葉桶に
ルカの福音書の2章を見ていただきました。イエス・キリストの誕生のシーンです。2章の1節に――
1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 2これは、クレニオがシリヤの総督であった時の最初の住民登録であった。 3それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 4ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 5身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 6ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
独特な記述だろうと思います。
旧約聖書と新約聖書の間には400年という隔たりがあります。 その400年の間、いつもユダヤの国はギリシャ帝国、ローマ帝国の下に入っていました。 いつも帝国の国際情勢に翻弄され、ギリシャの植民地となり、またローマの植民地に入って行きます。 その400年の間で、徐々にそして強烈に、救い主の誕生を待ち望むようになります。
ちょっとページをめくって(ルカ)3章の15節を見てください。こうありますね。
15民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて(――これはバプテスマのヨハネですがと説明――)、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、
何か強力な人物、非常にカリスマを持った人物、指導的な人物を見る度にいつも、この方がもしかしたら救い主かもしれない、という期待感を持っていました。 この時代に、ちょっと難しいものの言い方ですけれども、黙示文学というものが生まれて行きます。 終末のイメージ、英語ではapocalypse(アポカリプス・黙示)と言いますよね。 現代でも好まれる世界ですが、世界の終わりがやってくる。そして救い主が雲に乗って、天の軍勢を従えてやってくる(というイメージです)。 イスラエルの人々にとりましては、その救い主はローマの支配から私たちを解放して、ダビデの王国を再建し、世界地図を塗り替えてくれるという期待感をもって、救い主を待ち望みます。
ところが神は、普通の貧しい夫婦を選ばれました。 マリヤは自分をこう表現しますね。(ルカ)1章の53節、54節、先ほど(交読の箇所で)読みましたけれども(***マグニフィカト、マリヤの賛歌と呼ばれる詩)――
52権力ある者を王位から引き降ろされます。 低いものを高く引き上げ、 53飢えた者を良いもので満ち足らせ、 富む者を何も持たせないで追い返されました。
という神はマリヤを選ばれた。 (マリヤは)おおよそ救い主の到来に関わるような高貴な生れ、育ちではありません。 普通の、ごく普通の少女マリヤを(神は)お選びになりました。 いいなずけのヨセフは大工です。そしてヨセフとマリヤはごくごく普通のつましい家庭を築こうと思っていました。 神は救い主の誕生をこの夫婦に委ねられました。祝福を受けたのは、特別な高貴な人々ではありません。 言わば私たちのような、ごく普通の者たちを選んで、救い主の誕生の恵みにあずからせてくださいました。
そして場所は馬小屋ですね。 いま読みました2章の1節から7節、生まれたのはベツレヘムだと。ダビデの故郷ですね。 ヨセフはそこの出身で、人口登録をせよという命令に従って、ダビデの故郷で生まれるように神さまは計ってくださった。 しかし場所は自分の実家でもなく、なんと初子を産んで布にくるんだのは、馬小屋ですね。家畜小屋です。家畜小屋。7節に――
7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
今朝の話は2点、二つのポイントで話をします。いずれも聖句に目を留めていただきたいと思いますが、一つは――
1)宿屋には、彼らのいる場所がなかった(ルカ2:7)
皆さんが女性であるとちょっと引き合いに出すと申し訳ないんですが、KYさんの話を聞きますと、皆さんが女性であると、女性の発想でこの出来事をYさんに身を重ねて考えられますでしょう? 私(藤本牧師)は男性ですから、この出来事をご主人のKさん、そしておじいちゃんのTさんに身を重ねて考えますね。 女性の立場から言えば――手術の成功する確率は1%を切っていたような状況だそうです――ま、そこまでお母さんに負担をかける手術というのは、果たしてどうだったのだろうか。 男性の立場から言えば、何とかこの危機を乗り越えるために、力を結束して、そしてパキスタンの子どもの生活、パキスタンでの仕事、それから日本でのYさん、新しく生まれようとしている赤ちゃんのことを様々に気遣いながら走り回るでしょうね。
もうこの危機にY姉(***こちらはTさんの奥様)が一度お証しをしておられました。Kさん(***ご主人でありTさんとYさん夫妻の息子さん)に、「もう仕事を辞めたら、仕事を変えたら。神さまは新しく仕事を用意してくださる。今この時期にパキスタンに行かなくても、もう奥さんのすぐそばにいて頑張っていたら、神さまは必ずまた新しい仕事を……」と。 それは恐らく女性の気持ちだろうと思います。私(藤本牧師)がKさんだったら、やっぱり仕事に行きます。 そして何とか、この事態を乗り切る方法を考えます。神さまに相談して。みんなの協力を得て。 心が引き裂かれるような思いかもしれませんが、私ならやっぱりパキスタンに戻って行きます。
いったいヨセフという人物はマリヤを連れて、自分の出身地であるベツレヘムに向かうこの旅の途中で、どれ程マリヤに神経を使っただろうかと思いますね。 マリヤがナザレの出身だとすれば、ベツレヘムを知りません。 でも人口登録のためにどうしても一緒に行かなければいけない。マリヤの足元を気遣い、健康を気遣い、疲れたか?少し休もうか?という声を何度も何度もかける。 そして、人の流れが人口登録のためにベツレヘムに向かうとすれば、どんどんこの二人は先を越されて行く旅ですね。 飲み物のために、食事のために立ち寄ってもいつも列の最後に並んでいるのはヨセフです。ベツレヘムに着いた時には、既に宿はいっぱいでありました。 ヨセフは旅に疲れたマリヤを町のはずれに座らせて、自分一人が町の中を駆けずり回って、宿から民宿から全部当たります。 一時も早く宿を見つけていいなずけのマリヤを休ませてあげたい。しかしどこを訪ねてもいっぱいでした。ヨセフは懇願したに違いないです。 「いや、妻が臨月なもので、なんとかなりませんでしょうか?」 どこも答えは同じですね。 「申し訳ありません。いっぱいなものはいっぱい。空いてないものは空いてないんです」と。 ヨセフの額からは汗が流れ出ていたでしょう。彼はついつい小走りになって慌てている姿が、駆けずり回っている姿が手に取るようにわかります。
このクリスマスの情景は、宿屋そのものに彼らのいる場所がなかったということよりも、つまり宿がいっぱいであったということよりも、人々の心の中に彼らのいる場所がなかったということなんでしょうね。 私たちの姿です――自分の事だけで心がいっぱいで、そういう人ばかりが集まっている職場、自分の事だけで心がいっぱいで、そういう人々が集まっている教会だとすれば、とっても残念ですが。 自分の事だけで心がいっぱいで捕われて、それで同じ屋根の下に住んでいる家族、心に余裕のない人が互いにしのぎを削って自分を主張し、押しのけあって叩き合いをしている世界ですね。
いま日本中で一番混雑をしている電車は田園都市線だそうです。 田園都市線――マンションが建つばかりでどんどん人口増加で、朝8時台ですと、この電車に乗れるのかという程びっしり来ますね。ほとんど人は降りないです。でもホームで待っている人は全員乗ってしまいます。全員乗るんですね。 居場所がなくても居場所を作るというその技術ですね(大笑)。
どういう風にしたらこの満員電車に入り込めるか? 自分が満員電車に乗っていましたら、次の二子新地でまた乗って来ますね。すると、隣の人とか押されて嫌な顔をしていますよね。 私(藤本牧師)は人の顔を見ながら「おい、嫌な顔をするなよ」と「おまえもそうやって乗って来たんだから」(大笑)「平気な顔をしてニコニコして乗ってろよ」と思いますけれども、私もやっぱり嫌な顔をしている(大笑)と思いますね。
人のために居場所を作るって、なんで私たちはうまく行かないんだろうと思いますね。 ちょっと違う人が入って来たら、私たちはすぐ線を引っ張って、その人を押しのけますね。 パウロはピリピの教会の人々に言いました。ピリピの町の人々ではなくて、ピリピの教会の人に言いました。 「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」(***ピリピ2:21)と。 これを教会で言われたら、私たちはショックを受けなければいけないですね――「だれひとり自分自身のことを求めているだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」と、パウロはピリピの教会に言います。 心の中に人のために場所がないということイコールイエス・キリストのために場所がないということです。
私たちの心に、家庭にあって、職場にあって、人のために居場所がないということは当然イエス・キリストのために居場所がない、自分の事に捕われている自分の人生です。 しかし覚えていただきたいことは、主は、主イエス・キリストは差し出せば馬小屋にも入ってくださる。 ヨセフやマリヤは、「いえ、馬小屋なら結構です。ほかを当たってみます」とは言いませんでした。 馬小屋はさすがにふさわしくない。マリヤは天使の告げを聞いているわけですから、「この救い主の誕生に、馬小屋だけは勘弁してください」とは言いませんでした。
(キリストは)喜んでその場所に入って来てくださいます。 馬小屋でお生まれになった救い主は、私たちが招くなら、私たちのような馬小屋の世界にも入って来てくださいます。
2)飼葉おけに寝ている(ルカ2:7、12、16)
この表現は何度も出て来ます。2章の7節をちょっと見ていただきますか?
7男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。……
12節は今度はご一緒に読んでいただけます?
12あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
もう一度16節――
16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
どうせだったら、ヨセフが抱っこしているみどりごを見つけたという方が、私(藤本牧師)余程いいと思いますね。 でもルカの福音書は、ま、記者がルカなんですが、ルカはなぜかこの表現にこだわりますね――救い主は飼葉おけに寝ている――救い主の誕生には飼葉おけが欠かすことができないかのように、さりげなくですけれども描写します。 そして今の私たちにとりましては、救い主がわらに包まれた飼葉おけの上に布にくるまれて寝ているというのは、とっても温かな描写として受け取ることができますが、でも本当のところはどうだったんだろうかと思います。
昨年のゴールデン・ウィークだったと思いますけれども、仙台から息子の家族がやって来まして、さてどこに連れて行こうという話になりました。 で、私たちは厚木の辺りにいちご狩りができる農園がいくつもあるので、そこに行くことにしました。 いちご狩りだけだとちょっと残念なので、そのついでに少し山の方に行きますと、牧場があるんですね。 決して大きな施設ではないんですけれども、山あいの平原、のんびりとした平原が厚木のあちら側に広がっていて、乳しぼりの体験ができるという、その乳しぼりの体験をさせるためにみんなで行きました。 毎時間、それができるわけですけれども、「さあ皆さん、乳しぼりをしましょう」と言った時に私たちびっくりしてしまったんですね。
それは乳しぼりが牛舎の中だったんです。普通は牛を外に出すだろうと。 「牛を外に出してみんなを集めて父を絞りましょう」はわかる。でも牛舎は勘弁してほしいですね。 こういうと畜産家の方に申し訳ないですね。で、勿論病気が発生しないように、牛舎はきれいに整っているんですが、でも中は真っ暗です。 そして飼料のほこりが舞っていて、何よりも思わず(手で口を抑える仕草を見せて)覆ってしまう程(大笑)、臭いがよくないですね。 働いておられる方々の労のゆえに、衛生は保たれていて、牛は気持ちよく並んでいるんですけれども、普段そういうことに接触したことのない私たちが乳しぼりの体験をしました。
で、上のSが、「やってご覧。やってご覧」って言われて、そして身体を引きながら引きながらですね(大笑)一生懸命手をこういう(大笑)その身体を引くというのがよくわかりますね。 で、私(藤本牧師)は一生懸命動画を撮って、後で圭子と見て大笑いしたんですけれども、5歳の子どもにしたら、嫌でしょうがないんですね――きれいじゃない、臭い、牛は大きい、鳴き声は異様だと。 そして真っ暗な牛舎の中で乳を搾っている姿を見まして、飼葉おけを私(藤本牧師)はちらっと見ました。 飼葉おけというより、えさの木の箱なんですけれども、ざっと並んでいるんですけれども、これは牛のよだれだろうなぁと(大笑)、それがもうべっとりついて、そしてまともな状況ではないですね。
2000年前のパレスチナの人々にとっては、私たち以上に家畜小屋というのは身近な光景だったに違いありません。 牛や羊の乳しぼりぐらい、子どもだったら誰だって普通にやっていたに違いないですね。しかし今の私たちにとっても、昔のユダヤの人々にとっても、少なくとも言えることは飼葉おけは生まれたての赤ちゃんを寝かせる場所ではなかった。 ということはルカもよくわかっていたと思うんです。 誕生された救い主が布に包まれて飼葉おけで寝かされているという、「飼葉おけで寝ているみどりご」が3回も出て来るんですよ。 これを記したルカは特別な思いをもって、この表現を使ったに違いありません。 光り輝く救い主が、雲に乗って天の軍勢とともにやって来たのではない。 神はマリヤというおとめを選び、大工のヨセフを選び、そして家畜小屋で出産、救い主が家畜小屋に寝かされているという方法を選ばれた。
やがて、このイエス・キリストはこんなことを仰います。 ルカの福音書の12章を開いてください。このイエス・キリストの言葉は私たちは大好きですね。12章の32節です。一緒に読もうではありませんか。
32小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
小さな群れよと。「小さな高津教会よと。汚い飼葉おけよ。恐れることはない。あなたがたの父は喜んで、御子救い主イエス・キリストの救いをあなたにお与えるになる」です。 あなたが差し出すなら――私たちの心は汚れた小さな飼葉おけのようなものです。でも恐れることはない――神は憐れんで、煩い多き者の心の中に、このように汚れた愚かな者の心の中に、御子はご自身を委ねるように入って来てくださる。 「小さな者よ、汚れた者よ、恐れることはない。神の祝福はあなたのものだ」と言ってくださるのですね。 「あなたがその家畜小屋の扉を開けるなら、わたしがあなたの心の中に入る。あなたがもし、その飼葉おけのような心を差し出すなら、わたしはその心の中に入る」と仰るイエス・キリストを私たちは信じるのです。
以前話したことがあります。アーノルド・プラッターという牧師の書いた本に、彼の牧師としての回想録が書いてあります。ちょっと読んでいきますね
私が常連になっている床屋に行くと、いつも二番目の椅子に座っている男がいました。この二番目に座っている男は歳は65ぐらい。 これほど乱暴に神をけなすようなことばかり口にする男を、私は今まで見たことがありませんでした。 私が床屋に入るといつも声を二倍にして、牧師と知っていて嫌みな言葉ばかり選んで喋りまくります。
ある日私が床屋に行くと、彼が見当たりませんでした。 主人に「いつもの彼はどうしたのか」と聞くと、「ああ、彼はかなり病気で、何でも命が危ないとか」という返事でした。 それから6週間後、私は町の郵便局に行くと、後ろから私の名前を呼ぶ声がして振り向きました。 あの神の名前を汚してばかりいる男が、車に座って道行く人を眺めているのです。弱々しく衰えて、彼の顔色は死人そのものでした。 彼はその骨だらけの指を曲げて、私を呼び寄せました。声はしゃがれて、仕方なく身を乗り出して、この男の言う言葉を聞きました。
「先生、ちょっと聞いて下さい。俺は昏睡状態で病院に寝ていたよ。動くことも、見ることも、話すこともできない。でも聞くことはできてね。医者が俺の妻に言った『ご主人は臨終です』――その言葉を聞いたのが最後だった」 それから男は声を震わせてこう言いました。 「先生、俺はこの一生でお祈りをしたことなど一度もなかった。一度もなかった。でもその時だけは祈った。『神さま、もしあなたが本当におられるなら、私のところに来て私を助けてください』。そう祈った時、俺には、なんと表現したらいいかわからないが、神がそこにおられるという確信が与えられた」 その時、この男の目は涙でいっぱいになりました。それが茶色の頬を流れていました。
この男は最後に言いました。 「先生、考えてもみてくれ。俺はこの60年間、来る日も来る日も神さまの顔を蹴っ飛ばして生きてきた。それなのに、俺が初めて神さまの名を呼んだ時、来てくださった」
汚い馬小屋に、汚れた飼い葉おけの中に、私たちの遜った心の中に、神は来てくださる――それがクリスマスのメッセージであろうかと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、救い主が馬小屋で生れ、飼葉おけに寝かせられ、やがてその救い主が私たちに向かって仰いました。「小さな群れよ。恐れることはありません。父は喜んで神の国を、その救いを、あなたがたにお与えになります」と(***ルカ12:32)。
私たちは宿屋のような教会ではありません。むしろ宿屋の端にある飼葉おけのような教会です。私たちの心は王宮のゆりかごではありません。むしろ家畜小屋の餌箱のような心です。 しかしもし私たちがあなたをお招きするなら、喜んで救い主は私たちの心の中で身を横たえてくださり、「そんなに思い煩うな。そんなに焦るな。そんなにいらいらするな。そんなに心病むな。なぜなら、神の国はあなたのものだよ」と、私たちの身も、心も、私たちの働きもすべて、救いの恵みをもってくるんでくださることを心から信じています。
どうかクリスマスの恵みを私の心の内に与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
LAST UPDATE: 2015.12.14 - 21:54 |
175.133.12.55 - Mozilla/5.0 (Windows NT 6.3; Win64; x64; Trident/7.0; MALNJS; rv:11.0) like Gecko
|