☆説教 救い主はどこにおられるのか? マタイ2:1〜12
クリスマスの場面には、いま聖書を読んでいただきました、幼子キリストを礼拝するためにやって来た「東方の三人の博士」というのは、必ずやってまいります。 東方というのは、当時のバビロンの地方だと言われていて、それは今のイラクにあたります。 博士というのは、星の研究をしていた人々だと考えられています。
クリスマスの劇をやりますと、必ず東方の博士は三人です。 聖書は複数形で書いてあるだけであって、三人とは記されていません。 でも彼らが携えて来た贈り物が三つです。 それが11節にありますように、「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」――この三つの贈り物のゆえに、博士の数は三人と、もう1800年ぐらい前から、実はそういう風になっています。
そして当時の文献を見ますと、その三人というのは老人であり、壮年であり、青年であったという風に、あるいはアフリカであり、アジアであり、またヨーロッパであり、という風に世界を表すように描かれています。
これが、最初のクリスマスに出て来るプレゼントです。 クリスマスの一つのイメージはプレゼントです。 そのおおもとのプレゼントは、天の使いがクリスマスイブの夜、野原で羊の番をしていた羊飼いたちに告げます。 「今日、ベツレヘムで、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」(***ルカ2:11)。 ここに最初のプレゼントのイメージが記されています。 キリストは神からの、私たちに対する最大のプレゼントでありました。 ですから「救い主があなたがたのために生まれる」と「あなたがたのために」が入っています。
そして東方の博士は恐らくそういう思いがわかっていたのだと思います。 この幼子を礼拝するために、2000キロの旅をして、そしてこの日、精一杯の贈り物を贈って、礼拝をいたします。
今年のクリスマスイブは、この聖書の記事から神の声を聞いてみたいと思います。 二つのことに絞って、短くお話をします。
先ず(マタイ2章)1節から読みますね。 1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。……」
1)救い主キリストは、どこにおいでになりますか?
この質問は彼らにとっての人生の問いであったように思います。 エルサレムに入ってから、彼らは周囲の人々に「メシヤの誕生はいったいどこなんだ?」「どこに行ったら、会うことができるのか?」「いったい救い主はどこにおられるのか?」(と尋ねて回ったのでしょう)。 誰も答えることができませんでした。それで、博士たちは最後は王さまの所にやって来て、「どこにおられるのですか?」と問うわけです この問いを真っ直ぐに問い続けて来た博士たちは、ある意味で本当の博士だったんだろうと思います。
私たちの人生の様々な問題に答えてくださる方は、どこにおられるんだろうか? どう考えても理不尽としか思えないこの世界にあって、生きて行く意味を与えてくださる方はどこにおられるんだろうか? 迷ってばかりいる私の人生に、辿るべき道を示してくださる方は、どこにおられるんだろうか? そういう風に人間は問うようにできているんだろうと思います。
しかし、この問いを嫌う人々もいました。当時の王さまのヘロデがそうです。 東方の博士はキリストのことを、「ユダヤ人の王」はどこにお生まれになるのか?――こういう尋ね方をします。 これを聞いた時に、ヘロデは動揺しました――「ユダヤ人の王」とは自分のことではないかと。 東方の博士の問いかけ、つまり自分の人生の王さま、自分の人生の王、自分にとっての救い主を、自分以外のどこかに求めることを嫌う傾向が私たちにあります。 自分の人生の主導権は自分で握っていたい。自分の人生の王は自分である。私の上に王は要らない。私の人生に救い主は要らない。
聖書を見ますと、ヘロデ王だけではありませんでした。 3節には、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」。同じように、「エルサレム中の人々も王と同様であった」(とあります)。 現実を見ると、この時代のエルサレムはローマ帝国の支配下にあります。 それは確かに、ユダヤの人々にしてみれば屈辱的なことでありました。 しかしながらローマ帝国は平和な時代に入りますので、世情は安定していました。 ですからここで救い主が誕生して、この世界がひっくり返るようなことになったら、それは大変なことになるという不安です――これもまた私たちの姿です。 自分の人生はあまりひっくり返されたくないという思いがあります。 ですから、東方の博士のように、あえて「私たちのためにお生まれになった救い主はどこにおられるのでしょう?」という、厄介な質問は私たちはあまり問いたくない。 当面の間はこのままでいい、と私たちは思います。
しかしクリスマスイブに教会に集まりました私たちの心は、ヘロデの心とは違います。 同時にエルサレムの人々の心とも違います。 私たちの心の中には、東方の博士の問いかけがどこかにあります。 「私のために、私を導くために、私を守るために、私を救うためにお生まれになった方はどこにおられるのか?」 東方の博士のように、この問いを突き詰めて2000キロの旅をしたわけではないかもしれません。 私たちはもっと気軽に教会に来たのでありましょう。 しかし、その問いかけをすることを恐れることはない――そう自分に言い聞かせましょう。
仮に人生の行き詰まりを感じ、自分の弱さを、罪深さを、足りなさを感じていたら、仮に人生の重荷に潰されそうになっていたら、これほど重要な質問は実はない。 「救い主はいったいどこにおられるんだろうか?」
2)彼らの問いはどのように応えられたのか?
それは星に導かれて辿り着いた先でありました。 (マタイ2章の)9節をちょっと見ていただきたいと思いますが――
9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 11そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
星に導かれてたどり着いた先は、王宮に生まれた輝かしい救い主ではありませんでした。 非常に粗末な家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見ました。 クリスマスの劇では、これはもう一緒にしまして、そしてイブの晩に生まれた馬小屋、そして飼葉おけに寝かせられている幼子キリストを、羊飼いと共に東方の博士もまた一緒に礼拝しに行った、という風に私たちは考えます。 そう考えることもいいでしょう。しかしもしかしたら、東方の博士がイエスを礼拝しに行ったのは、もう少し後のことかもしれません。 どちらにしろ場所はベツレヘム、どちらにしろ場所は非常に質素な家、そして彼らが目の当たりにしたのは母マリヤとともにおられる幼子でありました。
それは2000キロの旅をして来た割には、ごくごく普通な光景でした。 それは光輝く世界とは違っていました。 東方の博士の頭の中には、ここで本当にいいのだろうか?という思いがあったに違いありません。 でも神さまが(私たちの)心を開かれると、神がおられること、神が圧倒的な愛をもって、私たちを罪から救い出してくださったことが不思議に解るものです。 ここでいいんだ。ここで自分たちの人生の宝箱を開けて、この方を礼拝する。ここでいいんだと。 この方の誕生が私のためであったこと、この方こそ私の救い主であり、世界の救い主であることを信じて、彼らは宝の箱を開けました。 星に導かれて王宮ではない。星に導かれて粗末な家に。そして皆さんは粗末な教会へ、です。 今日は特別な方が(***ビオラの首席奏者としてアメリカで活躍されている小笹文音さんが一時帰国されて、キャンドルサービスの前に30分間コンサートをしてくださり出席されました)いらっしゃいますので、少し豪華に私(藤本牧師)は感じますけれども(笑)、小さな高津の教会であります。
星に導かれて東方の博士たちは、神さまの贈り物を受け入れました。 名も記されていない、遠くから来た人々です。 でも彼らこそ、私たちであろうと思います。 「いったい私のための救い主はどこにおられるんだろうか?」「どこへ行けば、私の人生の解決が得られるんだろうか?」「どこに行けば、私を失望から救い出す神の力を味わうことができるんだろうか?」 そういう思いで、私たちは他所へは行かない。私たちは教会に来ます。 どうぞ、教会に来てください。
そして聖書の最後の箇所を見ていただきたいと思います。12節に――
12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
今度は夢に現れた神の御使いの戒めです。 一番最初、彼らを先導したのは星でありました。 でもここで彼らを先導するのは、夢に現れた天の御使いの言葉です。 すると、彼らの旅路の全体が見えてきます。 最初は星に導かれて神のもとへ。 次に、夢に現れた神の戒めに導かれて自分の国へ。 そしておそらく次は――想像することは難しくないと思います――彼らはエルサレムのヘロデの王宮で、宗教家たちが一生懸命、「救い主はいったいどこで生まれるか?」それを調べていた時に、彼らは聖書を調べていました。
あ、なるほど星だけ研究していても、救い主には行き着かないんだと。 彼らは恐らく母国バビロンに帰った時に、星の研究家から私(藤本牧師)は聖書の研究家に変わったのではないかと思います。 ここでの出会いは、わずか一晩だったかもしれない。 しかし彼らはこの旅を通して、自分が求めていた救い主とほんとの意味で出会うとしたら、それは星を研究することではない、聖書のみことばを読むことではないだろうかと思ったに違いないです。
私たちは今晩、教会のクリスマスイブの礼拝に足を運びました。 それはきっと星が導いてくれたんだとぜひ思っていただきたい。 どういう星かわかりません。友人かもしれない、家族かもしれない。ご自分がビオラが好きだという思いなのかもしれません。あるいは「教会のクリスマスイブに行ってみよう」と単純に、純粋に思った、その思いだったかもしれません。 今年の人生の出来事を振り返ってみて、「あんなこともこんなこともいろいろあった」というそういう思いで、「そうだ、今晩は教会に行ってみよう」と思った方もいれば、来年の人生の課題を考えて教会にいらっしゃった方もいらっしゃいます。 みんなそれらすべては星になります。 神さまは私たちの人生に数々の星を与えて、キリストのもとへと導いてくださいます。
そして東方の博士たちの何よりもすばらしいことは、この素朴な家に神の輝きを見た、この幼子に救い主の力を見た、ということです。 時に私たちの人生は、星に導かれてこういう顛末になってしまった、という残念な結果があるのかもしれない。 星に導かれて王宮ではなく、どこかの粗末な家であったという、そんな結果もあるのかもしれません。 でもこんな課題、こんな顛末の中でも、「神はおられる」ということを東方の博士は信じ、精一杯の礼拝をささげました。 のみならず、そのうちの難を逃れて国に戻り、聖書を探求し、キリストを信じて生きて行きます。
どういう事情があって、今日、イブの礼拝に来られたか? きっと心の中で思っていただきたい――私は星に導かれて来たんだと。 そして讃美歌に触れ、聖書を読み、もしかしたら自分の人生の本当の問い――私を死から救い出し、汚れた私を神の子としてくださる「イエス・キリストはいったいどこにおられるんだろうか?」――という思いをもって、私は人生を旅している。 家に帰ったら「もう一度聖書を読んでみよう。そしてキリストに出会おう」と思って、今年のクリスマス、年末を過ごしていただきたいと思います。
☆お祈り
見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。……」 (***マタイ2章1節後半〜2節前半)
どこに私の人生の解決がありますか?どこに失望から立ち上がる希望がありますか?どこにこんな混とんとした人生の中で生きて行く意味がありますでしょうか?どこに私の居場所がありますか?
あなたは星を用意して、私たちをイエス・キリストのもとへとお連れくださいましたことを感謝いたします。それがたとえ試練の中の一コマであったとしても、こんな人生の顛末と思わずに、神は星を用意して私たちを間違いなく救い主のもとへと連れて来てくださる――その信仰を大切にして新しい年へと踏み出す私たちでありますように、信仰を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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